sairo

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8/15/2025, 5:27:21 AM

一歩。燈里《あかり》は、前に出た。
男女の骸もまた、前に出る。少年の元へと近づかせぬように、警戒を露わに立ち塞がる。
それが悲しくて、燈里は口を開いた。だが形にならない思いは何一つ言葉として紡がれない。
ややあって声に出たのは、幼い子供のたった一つの不満だった。

「名前を教えてくれなかったの」

微かな言葉に、男女の骸が反応を見せる。
僅かに後退り、二体の間に隙間ができる。そこから垣間見える少年の目には警戒も拒絶も見えず、ただ呆然と燈里を見つめていた。

「名前を呼んでもくれなかった。寂しかったけど、会いに行くたびに仲良くなれたから我慢してた……いつか名前を呼んでくれる。教えてくれると思ってたから」

少年の肩が、小さく震えた。
震える唇を開き、けれど何も言わずに閉じて。
一瞬だけ、泣くように顔を歪めた。

言葉にならない少年の思いの代わりに、骸が静かに身を退けた。
燈里と少年との間に遮るものはない。
ひとつ息を吐いて、燈里は傍らの冬玄《かずとら》を見上げた。冬玄は言葉の代わりに微笑んで、繋いだ手にそっと力を込める。

「燈里」

楓《かえで》に呼ばれ、視線を向ける。

「返してあげるといいよ。その記憶は、燈里が持っていても意味がないものなのだから」

優しい笑みに、燈里は何も言わずに頷いた。
ゆっくりと足を踏み出す。隣を歩く冬玄の存在を感じながら、少年との距離を縮めていく。
そして穴の手前で立ち止まり、燈里は動かない少年を見つめた。

「行かないと。またね、って約束したんだから、絶対に待ってるはずなの。だから、早く元気になって……あの子の所に行かないと」

燈里の唇から溢れ落ちるいくつもの言葉。少年を思う最後の記憶に、少年は嘆くように小さく吐息を溢した。
燈里と少年を隔てる穴が、音もなく凍っていく。横目で冬玄に視線を向ければ、そっと手を離され背を軽く押された。
一歩、氷の上へと足を踏み出す。厚い氷は僅かにもひび割れず、燈里は少年へと向き直りもう一歩踏み出した。
そして、手を差し出す。

「――っ」

差し出された手に、少年が迷うように瞳を揺らす。
手を伸ばしかけて戸惑い、しかし意を決して燈里の手を取った。

刹那。
声が聞こえた。
怖ず怖ずと、それでも好奇心を隠しきれない少女の声音。

「私、小春《こはる》って言うの。あなたの名前は?」

目を瞬くと、少年の背後で二つの人影が揺れていた。
何も言わずに首を振る影に、もう一人の影は首を傾げ、手を取って軽く引く。

「遊ぼうよ。こんな所に一人でいるより、ずっと楽しいよ!」

手を引く影が薄れていき、次第に少女の姿を取る。
満面の笑みを湛えて、少女は影を誘う。

「行こう!近くに川が流れてるから、そこで水遊びをしようよ。お腹が空いたら木の実を採って、夕暮れまでは一緒に遊ぼう」

ね、と声をかけられて、影は手を引かれるままに歩き出す。
「早く、早く!」

少女に急かされて、影の歩みが速くなる。早足になり、駆け出して、少女と共に墓地の奥へと去って行く。
木々の向こうへ二人が去っていく一瞬。影が少年へと変わり、靄が晴れるように消えていった。

「――ごめんね」

微かな呟きに、はっとして燈里は少年に視線を向けた。
手を離した少年が腕に抱いた少女の頬を撫で、ごめんと繰り返す。

「教えなかったわけじゃないんだよ。君の名前だって、本当は呼びたかった」

俯く少年の表情は見えない。
ただ腕に抱いた少女の頬を、ぽたりと振る滴が濡らしていく。

「ごめん。ちゃんと言えば良かった」

声が震える。
少女の亡骸に向けて、少年は届かない後悔を吐き出した。

「僕には……名前がないんだ」

告げた瞬間に、男女の骸が土になり崩れ落ちた。
少年の腕に抱かれた少女は、髑髏だけを残して砂になり、その変化に燈里は思わず後退る。

「燈里」

冬玄に抱き寄せられ、そのまま少年から距離を取る。

「燈里、どうする?」

問われて、燈里は冬玄へと視線を向けた。
僅かに眉を下げ、真っ直ぐに燈里を見つめて冬玄は囁く。

「このまま帰っても、縁が切れてるから燈里に穢れの影響が現れることは二度とない」

燈里は反射的に首を振った。
視界の端では、墓地が静かに荒れ果てていく。周囲の木々は枯れて、僅かに残っていた供養塔婆さえ、すべて朽ちて黒い乾いた土だけが残る。

「いやだ」

言葉にならない思いが、燈里を苦しめる。
これ以上は関われない。何もできることがないと、燈里の思考は告げる。
同時に、後悔はしないのか、何かできることはないのかと心が問いかけ、帰りたくないと訴える。
それは少年に対する哀れみなのか。それとも少女の記憶の欠片の名残なのか。
自分でも分からない思いに翻弄され、帰りたくはないと燈里は首を振り続けた。

「いやだ、いや」

幼子のように嫌だと繰り返す燈里を、冬玄は窘めるでも宥めるでもなく、優しく見つめ頭を撫でた。
見上げる燈里の濡れた目と視線を合わせ、穏やかに告げる。
「だろうな……なら、選択肢はひとつだ」

ひとつ。
酷く幼い声が、冬玄の言葉を繰り返す。

「燈里、あれに名前を与えろ……そうしたら、後は俺が眠らせてやるから」

冬玄の言葉に、燈里は少年へと視線を向けた。
小さな髑髏を抱き、静かに泣き続けている少年の姿をしばらく見つめ。

「――やる」

燈里は冬玄へと向き直り、はっきりと頷いて見せた。



202508123 『言葉にならないもの』

8/14/2025, 6:57:16 AM

「さて、あれを何とかすればすべて解決するのだけど」

そう言って楓《かえで》は少年を一瞥する。

「あれは、人間だって言えるのかな」
「言えるんなら、俺だって人間の括りになるだろうな」
「どういうこと?」

楓と冬玄《かずとら》の意図が分からず、燈里《あかり》は少年へと視線を向ける。
少女を抱いたまま俯く少年に、変わった様子はない。二人の口調から、生者か死者かの違いは関係ないのだろう。

「あれはね、元は人間だったのだろうけど、今は違う存在に成ってしまったモノだよ」
「死穢を取り込んで、穢れそのものになっちまった……触れるものすべてを浸食する穢れだ。そう簡単に祓えねぇな」

嘆息して、冬玄は楓に視線を向ける。
何も言わずとも理解したのだろう。楓は少年を見据え、冬玄は燈里を伴い数歩下がる。
それを認めて、楓はゆっくりと少年へと近づいた。
一歩、二歩。
少年は俯いたまま。
三歩、四歩。
供養塔婆の残骸が、足下で乾いた音を立てた。
――五歩。
少年が、顔を上げた。
表情の抜け落ちた顔で、楓を見つめている。その虚ろな目を見返して、楓は低く告げた。

「燈里との縁を切らせてもらう」

六歩。
少年に近づいて、手を伸ばした。

「――下がれ!」

冬玄の声とほぼ同時。楓は後ろに飛び退った。
その刹那、楓のいた場所に黒い靄が現れる。
地面から立ち上る靄はゆらりと揺れて、少年を囲うように広がっていく。

「怒らせてしまったみたいだね」

険しい顔をして、それでも楓は戯けて呟いた。
靄の向こう側の少年は、目に怒りを湛えて、強く楓を睨み付けている。
近づけなくなったことで次の手を講じようと、楓の影が揺らめいた。
その時。

少年の背後、土の面が二つ盛り上がる。
重い黒土が音もなく割れ、その隙間から青白い指が突き出た。
細い指が宙を彷徨う。湿った土の匂いを濃くして手が上がり、腕が伸びた。纏わり付く土を落として、やがては頭が現れた。
その異様な光景に、燈里が小さく悲鳴を漏らす。繋いだ手に力が籠もり、冬玄は震える燈里の体を抱き寄せ視界を塞いだ。
眠りを妨げられた死者の体が、土の下から地上へと這い上がってくる。ゆらりと揺れながら立ち上がり、土を落としながら、ゆっくりと少年の前へと出て、三人の視界から少年を隠した。
二体の骸の白濁した目が、三人へ向けられる。

「血族の縁……両親ってわけか。でも死者の意思ではないね」
「穢れの影響だろうよ。親の屍を操るなんさ、酷いもんだな。人形遊びが趣味ってか」

侮蔑が滲む二人の声に、燈里は顔を上げた。
そんなはずはない。
何故か強く否定する思考に疑問を抱きながらも、背後を振り返る。

「燈里、見るな」

冬玄が止めるよりも前に。

「燈里!」

骸と、目が合った。



肌に纏わり付く熱気と、強い陽射しが降り注ぐ晴れた日。
男が一人、穴を掘っていた。
その近くでは幼い子供が、布を巻かれただけの簡素な亡骸に縋り、泣いている。
吹き出し汗を拭いながら、男は無心で穴を掘り続けた。それだけが男にできる唯一のことだった。
やがて男の手が止まり、静かに穴から上がる。いまだ泣きじゃくる子供に痛ましい目を向けながらも、亡骸を抱え穴へと寝かす。
追いすがる子供を引き留め首を振る。泣くことすらできず悲しみに崩れ落ちるその様を、唇を噛みしめて見つめた。
そして男は亡骸を寝かせた穴に土をかける。

静かに埋められていく母の姿を、少年は泣き腫らした紅い目で、見続けた。



日が暮れても、暑さが和らぐことのない、そんな夜更け。
男が一人、穴を掘っていた。
何度も傾ぐ体。覚束ない手つき。その目は殆ど焦点があっていなかった。
その姿を、子供は静かに泣きながら見つめていた。
男の手は止まらない。時折子供へと視線を向けるが、薄く微笑むのみで、何も言わずに穴を掘り続ける。
それが残される子供に対して、男にできる唯一のことだと信じていた。
やがて男の手が止まり、そのまま地に倒れ伏す。それきり僅かにも動かず、呼吸も鼓動さえも止まっていく。
ゆっくりと子供が穴に近づいていく。涙の止まらない目を乱暴に擦り、穴の傍らに膝をつき。

少年は父の亡骸に、そっと土をかけ埋めていった。



蜩が鳴く夕暮れ時。
白い子供用の棺が、穴の中へと下ろされていく。
棺を取り囲む黒い人影は沈黙を保ち、おざなりに土をかけて棺を埋めていく。
その様子を、離れた場所で少年は見つめていた。
烏の鳴き声に、いくつかの人影の肩が揺れる。棺が見えなくなると乱暴に道具を放り投げ、急いで集落の方へと帰っていく。
しばらくして、少年は棺が埋められた場所へと近づいた。
土を丁寧にならして、形を整えていく。そうして墓を綺麗に直した後も、少年はその場から動こうとはしなかった。
蜩が鳴く。蝉時雨が響き渡る。
動かない少年と陽とは異なり、周囲の景色は変わっていく。供養塔婆が増え、盛り上がっただけの土まんじゅうが増えた。
そして倒れ伏す人影が積み上がり、すべての音が消えた。
陽が落ちても、少年はその場を動かない。
棺が埋められた土を撫で、いつしかその指は土を掻いた。
土を掘る。少しずつ棺を掘り返していく。
土に濡れた指の爪が剥がれ、血が滲み出しても止まらない。
やがて土を掘り返し、朽ち始めた棺をこじ開けて。

「また、ね」

少女の亡骸を抱き上げて、少年は小さく呟いた。



「――夏は嫌いなんだって」

不意に呟かれた燈里の言葉に、冬玄や楓が振り向いた。
困惑に目を瞬くも、言葉は止まらない。

「お母さんもお父さんも、夏の暑い日に死んじゃったから。だから、夏は大嫌い」

呟く自身の言葉に、燈里はそっと目を伏せる。
こびりついて離れない、夏の死の記憶に胸が苦しかった。



20250811 『真夏の記憶』

8/13/2025, 8:44:17 AM

鳥の囀り。風に揺れる木々の騒めき。
煌めく陽と、爽やかな青の空が眩しい、そんな穏やかな午後のこと。
木々の合間をすり抜けて、少女が一人駆けていく。
その手には小さな風呂敷の包み。煌めく目をして笑い、ふわりとスカートを翻しながら、奥へと向かっていく。

やがて木々を抜けて、開けた場所に出た。
木々を切り倒して作られたその場所は、おそらくは墓地なのだろう。供養塔婆がいくつも立ち並び、その静けさがかえって空しさを際立たせていた。
墓地の脇、粗末で小さな家から少年が現れる。少女を認め、僅かに眉が下げて呟いた。

「また来たの」
「だって、皆意地悪なんだもの」

困惑する少年を気にも留めず、少女は笑顔で駆け寄る。
手にした風呂敷を半ば押しつけるように渡して、遊ぼう、と声をかけた。

「川に行こうよ。ご飯食べるなら、こんな臭い場所よりずっといいよ」
「でも……」
「大丈夫だよ。皆ここに来たがらないもん。少し離れても誰も気づかないだろうから、怒られたりしないよ」

手を軽く引く少女に、少年は一度迷うように墓地を見渡す。
けれども控えめに腹が鳴り、軽く頬を染めながら少年は無言で頷いた。



小川に足を浸して座り、少年は風呂敷をゆっくりと広げた。
中には笹に包まれた、小さな塩むすびと干し魚。野菜や漬物が少々と、飴玉が一つ。

「怒られない?」

川遊びをする少女に、少年は問う。不安そうな少年とは対照的に、満面の笑みを浮かべて少女は首を振った。

「どうせ誰も気づかないから大丈夫……それより、食べたら一緒に遊ぼうよ!」

手を振る少女に少年はそれ以上何も言えず、一つ溜息を吐くと塩むすびを手に取り齧り付いた。



楽しげな笑い声が響く。
水の跳ねる音。きゃあ、とはしゃぐ少女の声に、控えめながら笑う少年の声が混じる。
陽の光を反射して、水面が煌めく。その合間に小魚の姿が見えて、夢中でそれを追いかけた。

川遊びが終わっても、二人の遊びは続く。
鬼事や虫取り。疲れれば木陰で休み、また遊ぶ。
そうして緩やかに日が暮れ、空が赤く辺りに影が差した頃。

「またね」

見送る少年に手を振って、少女は家へと帰っていく。
小さくなっていくその背を少年は何も言わずに見つめ、しばらくしてからゆっくりと手を上げた。

「――またね」

恥ずかしそうに小さな声で、それでも嬉しさを隠し切れない。そんな柔らかな声だった。
聞こえるはずのない微かな声に、けれど少女は立ち止まる。
振り返る少女は笑顔を浮かべて、大きく手を振り返した。

「またねっ!」

笑顔で別れる二人。
けれど少女の姿が見えなくなって、少年の笑みが陰る。
何かを言いかけて口を閉ざし、俯いて家の中へと入っていく。

その背を追いかけようとして、しかし手を引かれて体が傾いだ。
誰かに手を繋がれている。
それが誰なのか、確かめるために振り返り――。

視界が暗転する。



「燈里《あかり》」

冬玄《かずとら》に呼ばれ、燈里は目を瞬き視線を向ける。

「冬玄……?」

安堵の表情を浮かべる冬玄に、燈里は申し訳なさそうに眉を下げた。

「もう大丈夫……ごめんね」

小さく謝罪すれば、冬玄は軽く笑って首を振る。気にするなと頭を撫でられて、燈里もまた力なく笑みを浮かべた。
不意に、かたりと音がした。
視線を向ければ、楓《かえで》が壊れた竹柵の一部に触れて、何かを確認している。不思議そうな燈里の視線に気づいたのか、楓は振り返り肩を竦めてみせる。

「元々、この一部が扉の役目をして、向こうに行ける作りになってたみたいだね。ただ厳重に閉じられていたから、ここに来た誰かは無理矢理こじ開けて奥に進んだみたいだけど」

軽蔑した顔をして、楓は散乱するゴミに視線を向ける。その視線を追って燈里もゴミへと視線を向け、表情を曇らせた。

「酷い……」
「まぁ、その代償は受けているんだろうけどね」

薄く嗤い、楓は言う。ゴミから柵の奥へと視線を移しながら、燈里に問いかけた。

「たぶん、目的地はこの奥だね……どうする?」

問われて燈里は柵の奥へと視線を向け、そして冬玄を見た。
眉を下げながらも強い目をする燈里に、冬玄は仕方がないと笑う。
それに笑みを返して、燈里は再び柵の先に視線を移し、告げる。

「行かないと……あの子が待ってる」

燈里自身の意思を伴った言葉。
冬玄と楓は頷き、静かに歩き出した。



細い道には、所々にゴミとは違う何かが落ちていた。
鞄か何かについていただろう、ストラップ。鈍く光る小さな鍵。
踏まれ汚れた財布を見て、燈里は怪訝に眉を潜めた。

「これって……」

不意に風が吹き抜け、木々を揺する。
ざわざわと、葉が擦れる音。次第に歪み、それは焦りを含んだ複数の若者の声に成り代わる。

――おい、早くっ。
――なんだよ。何なんだよ、あれ。
――いやだ。死にたくない。

何かから逃げ惑う声が、風と共に三人の横をすり抜けていく。

「馬鹿な奴ら。まぁでも、怖い思いはできたんだからよかったのかもね」
「そうだな。恐怖を求めて、こんな所まで来たんだろうから、本望だろうさ」

楓の言葉に、冬玄が同意する。
燈里は何も言わずに、ただこの先で待っているだろう少年を思い、目を伏せた。

冬玄と楓はそれ以上は何も言わず、誰もが口を閉ざして細道を歩いていく。
そして長い細道の終わり。鬱蒼と茂る木々の先に、墓地はあった。
雑訴すら生えない、枯れた大地。朽ちた供養塔婆の残骸が、辺りに散らばっている。
墓地の入口に、菓子や飲み物の缶が落ちていた。
袋からはみ出したスナック菓子。落ちて中身が零れた缶。
溢れたアイスクリームのカップが、それがゴミとして捨てられたのではないことを示していた。

「思わず落としたのかな?……それにしても、まるでたった今落としたばかりのようだね」
「ここに来る時にすれ違った奴らが落としたんだろうさ」

軽口を言い合いながら、二人の視線は奥へと注がれている。燈里も奥へと視線を向け、座り込む少年の姿に唇を噛みしめた。
足下の菓子の甘い匂いに混じり、土の匂いがする。
少年の前の穴は、掘られたばかりなのだろう。周囲の乾いた固い土とは異なり、黒く湿り気を帯びている。
少年の腕には、少女が抱かれていた。俯き髪を撫で続ける少年とは異なり、少女は僅かにも動かない。

「また、ね……」

風に乗って、微かな声が聞こえた。
泣くのを耐えて感情を押し殺したような。
そんな悲しい声だった。



20250811 『こぼれたアイスクリーム』

8/12/2025, 9:30:34 AM

荒れた未舗装の道は、それでも人が通れる程には整えられていた。
その不自然さに、楓《かえで》は眉を寄せる。歩きながらも警戒を強め、周囲に視線を巡らせた。

「随分と静かだけど、歓迎されているってことかな」
「だろうな。じゃなきゃ、百年も前に廃れた土地に続く道が、こんなにも綺麗な訳がない」

楓のことばに、冬玄《かずとら》は不快だと言わんばかりに吐き捨てる。無言で歩き続ける燈里《あかり》を横目で見ながら、忌々しげに舌打ちをする。
集落へ続く道を歩き始めてからしばらくして、燈里は再び意識を何かに呑まれた。冬玄や楓の言葉に反応を見せず、ただ道の先を見据えて歩き続けている。
冬玄と繋いだ手は振り解かれることはなく、無理に先へ進む様子はない。それ故に様子を見ていたが、やはり引き戻すべきかと冬玄が燈里に声をかけようとした時だった。

「――あの子の両親はね。元々は麓に住んでいたんですって。けれど何かの事件に巻き込まれて、ここまで逃げてきたみたいなの」

不意に燈里が口を開く。

「皆ね、我が儘だったのよ。優しい振りをして受け入れて……皆がやりたがらなかった嫌なことを、全部押しつけた。それでいて、使えなくなったら、簡単に冷たくしたの」
「燈里?」

訝しげに冬玄が声をかけるが、燈里は止まらない。
虚ろな目が前を見据え、足を止めずに言葉を――誰かの過去を語り続ける。

「夜、皆がこっそり話していたのを聞いたの。ハカモリの子供は使えない。麓に棄てて新しいハカモリを連れてこないと、って。でも、棄てるにしても誰も触りたくなくて、近づきたくもなくて、そのまま死んでしまえば、って皆が口を揃えて言ってた……本当に酷いの。子供なんだから、大人の仕事ができなくて当たり前なのに」

少し先を行っていた楓が振り返り、燈里の元まで戻ると、そっと燈里と手を繋ぐ。
その表情に険しさはない。ただ静かに燈里の口から紡がれる誰かの過去を聞き、燈里のすべてが呑み込まれないように寄り添った。

「優しさなんてね、結局は皆にとって取引にようなものだった。特になるなら優しくして、ならないなら冷たくする……皆、自分勝手」

歌うように囁いて、燈里はくすくすと笑い声を上げた。

「――なら、私も自分勝手でいいよね。遊んじゃいけない。話しちゃいけない……そんな言いつけ。いい子で守る必要なんてどこにもないよね」

燈里の言葉に、冬玄も楓も何も言わなかった。
肯定や否定をした所で、燈里には届かない。
遠く過ぎていった過去にはどんな言葉も意味はないと、言葉の代わりに二人はそれぞれ燈里の手を強く握った。

不意に道が揺らめき、先の光景を歪ませる。
背後から冷えた風が強く吹き抜け、楓は思わず鼻で笑った。

「早く来いってさ……どうする?」
「行くしかないだろう。燈里を疲れさせずにすんだと思えばいい」

無感情に呟いて、冬玄は燈里へ視線を向ける。変わらず前だけを見て進む燈里に僅かに表情を曇らせ、名を呼ぶ代わりに寄り添った。

「――行かないと」

道の先に視線を向けて、燈里はぽつりと呟いた。

「冬玄」
「あぁ、分かってる」

冬玄と楓は互いに目配せし、頷き合う。
進む燈里を庇うように、歪む道の先へと足を踏み入れた。

ぐにゃり、と地面が揺らぐ感覚。
景色が歪み、音が消えた。
冷えた風が辺りの熱を奪っていく。陽を陰らせて、沈めていく。
一呼吸の後、道の先の景色は一変した。

暗い道の先に、朽ちた家々がいくつもその屍を晒している。
草木は枯れ、命あるものの気配は何一つ感じられない。
進み続けようとする燈里の手を、冬玄と楓はそれぞれ引いて止めた。

「これ以上は駄目だよ、燈里」

低く呟く楓の表情は、険しく鋭い。
目を凝らせば、集落には暗がりに紛れて黒い靄が立ち込めていた。
逆らうことなく立ち止まった燈里は、集落の奥へと視線を向けた。

「――あの子がいる」

燈里の言葉に、冬玄と楓は集落の奥へと視線を向けた。

「柵?」

集落とその奥とを隔てるように、長く竹柵が張り巡らされている。
その向こう側に、小さな人影があった。
髑髏を抱いた少年が、人の絶えた集落を無言で見つめている。しばらく立ち尽くしていたが、やがて音もなく踵を返し、木々の向こう側へと去って行った。

「あの子はね。お墓から動かないの」

少年が去っても視線を向けたままで、燈里は呟いた。
集落に立ち込めていた黒い靄が、少しずつ薄れ消えていく。
吹き抜ける風が木々を揺らし、遠くで微かに虫の声が聞こえ出す。
完全に靄が消えたのを見て、燈里はゆっくりと集落の奥へと向かい歩き出した。
冬玄と楓は、今度は引き留めることなくそれに続く。
崩れ落ちた家。草木に埋もれた田畑。
誰かが踏み荒らした道を辿るように、柵へと近づいて行く。

「柵はね。あの子や、あの子の家族がこちら側に来ないように作られたんだって」

柵は年月で朽ちかけていた。だがそれより目を引いたのは、無慈悲に壊された一部。
辺りに散らばるゴミの数々が、最近になって柵が壊されたことを物語っていた。

「行かないと。あの子が待ってる」

静かに繰り返されるその言葉が、風に乗って奥へと消えていく。
それは淡々としながらもどこか寂しさを含んで、木々をざわりと揺らめかせた。



20250810 『やさしさなんて』

8/11/2025, 5:03:43 AM

杉林の中に、その石塔はひっそりと立っていた。

――疫痢病歿者供養之塔《えきりびょうぼつしゃくようのとう》

苔むした石に刻まれた文字と、裏の数多の名。
かつて、この先にあった小さな集落。そこに住んでいた人々の供養塔が、集落から離れた麓に建てられている。
その事実が、集落の末路を静かに物語っていた。

無言で石塔を見つめ、冬玄《かずとら》は思案する。
一度戻るべきなのだろう。穢れはこの先の集落から流れている。
だがそれを知った燈里《あかり》は、集落に行くことを望むはずだ。自身の身に起きたことだからと、危険な場所でも迷わず進んでいく。
それが冬玄は怖ろしかった。
燈里を思い、冬玄は力なく笑う。
燈里の怒りに触れることを覚悟の上で、石塔の先。未舗装の道へと足を踏み出そうとした。

「――っ!?」

近づく気配に、冬玄の動きが止まる。
弾かれたように振り返り、二人の姿を認めて目を見張った。

「お前ら……なんでここに」
「状況が思っていたよりも、良くなかったんだよ」

肩を竦めて、楓《かえで》は燈里と強く手を繋いだままに言葉を返す。軽い口調ながらも、その表情はとても険しい。

「燈里……?」

側に歩み寄ってきた二人を見て、冬玄は違和感に気づく。
燈里と視線が合わない。冬玄に気づいていないかのように、その目は集落へ続く道へと向けられていた。
不意に風が吹き抜けた。
道の奥から吹く風はどこか生暖かく、得体の知れない不気味さを孕みながら街の方へと流れていった。

「――行かないと」

流れた風に目を細め、燈里が小さく呟いた。
風に逆らうように、ゆっくりと歩き出す。楓に手を繋がれているためにすぐにその足は止まるが、燈里は手を引き先へと進もうと踠く。

「駄目だよ、燈里」
「いやだ。だって……だって呼んでる。あの子がずっと待っている。この風はお墓の風だもの」

燈里の声に呼応するように、風向きが変わった。
生暖かさは消え、冷たく凍てついた風が道の先へと誘うように強く吹き抜ける。
風に揺すられ、道の奥から木々の騒めく音がする。ざわりざわりと低く響く音は、まるで人々の囁く声にも聞こえた。

「ほら、お墓の風だ。私が来たことを感じて、呼んでいるんだ」
「燈里っ!」

強く名を呼び、楓は手を引くが燈里は嫌だと声を首を振る。
行かないと、と繰り返す燈里に、冬玄は怪訝に眉を潜めた。

「どういうことだ。何が起こってる?」
「燈里の中に入り込んだ穢れの欠片が戻りたがっているんだよ。断片過ぎて分からないけど、約束に引かれている」

振り解かれないように燈里の手を強く掴みながら、楓は冬玄に短く告げた。

「燈里の名を呼べ。冬玄」

楓の言葉が終わらないうちに、冬玄は燈里と向き合い頬を包む。
目を合わせて、強く思いを込めて燈里を呼んだ。

「燈里」
「――ぁ」

冬玄に名を呼ばれ、燈里の目が瞬いた。
楓がそっと手を離す。
自由になった手が道の先へと延ばされる。けれど何かを迷い彷徨って、その手はやがて力なく垂れ下がった。

「戻ってこい、燈里」

再び呼ばれ、燈里の肩が小さく震える。
風が止んだ。木々の騒めきも消え、静寂が訪れる。

無音。
燈里の目が揺らぐ。一筋滴を溢して、どこか虚ろだった目に光が灯る。
目の前の冬玄を認識し、燈里は困惑しながらもふわりと微笑んだ。

「冬玄」

頬を包む冬玄の手に触れ、眉を下げる。
触れる手を掴み、冬玄は燈里を引き寄せた。

「もう、大丈夫だな?」

泣きそうな呟きに、燈里は微笑んだまま小さく首を傾げて見せる。

「多分?まだよく分かってないけど」

そう言いながら、燈里は視線を巡らせる。
鬱蒼と生い茂る杉林。未舗装の道。石塔。
そこに書かれた文字に、僅かに燈里の表情が暗くなった。

「随分と古い供養塔だ。何人も死んだらしいし、もしかしたら最後の方は野ざらしだったのかもしれないね」

石塔を確認していた楓が、無感情に呟いた。

「だろうな。集落は大分離れてるのに、穢れがはっきりと感じられる……無遠慮に踏み荒らした人間共は自業自得だが、巻き添えを食らったこっちはたまったもんじゃない」

嘆息して、冬玄は改めて燈里を見た。
光を宿す目。その輝きに密かに安堵しながら、冬玄は楓へと視線を移した。

「燈里にぶつかった人間が通う学校は、今は無人だった。原因不明の病が広がっているらしい。そこで穢れが出た分けでもないってのに、伝播の勢いが強いな。だが時期に落ち着くだろう」
「じゃあ、やっぱり大元を絶たないとか」

石塔から離れ、楓は道の前に立つ。険を帯びた目を道の先へ向け、低く唸りにも似た声を上げる。

「僕としては、燈里にはこれ以上踏み入れてほしくないんだけどな」
「俺だってそうだ……でも燈里は行くんだろう?」

答えを知りながら、冬玄は燈里を見据えた。
その目を見返して、燈里は強く頷く。

「冬玄も楓も止めるだろうけど、私は一緒に行くよ。自分のことだもの……それに、もう置いていかれたくない」
「――仕方ないな」

意志を曲げない燈里に、冬玄は苦笑する。
軽く頭を撫でて、手を繋ぎ直した。

「俺や楓から絶対に離れるなよ」
「分かってる」

繋いだ手に力を込めて、燈里は道の先へと足を向ける。
冬玄もまた、燈里に寄り添うようにして、ゆっくりと歩き出した。

二人の少し先を、楓が先行する。
ふわり、と風が吹いた。
道の先から吹く柔らかな風。甘ったるい匂いを漂わせ、手招くように静かに吹いている。

「嫌な風だ。死の匂いがこびりついて、酷く不快な感じ」

顔を顰め、楓が吐き捨てる。
墓地から吹く死の風。集落を絶えさせた疫痢。
長い時を経ても消えない、死の穢れ。

――またね。

風に乗って、声が届く。
そんな気がして、燈里は小さく身を震わせた。



20250809 『風を感じて』

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