深く、どこまでも落ちていく。
目を開けているのか、それとも閉じているのか分からない暗闇。冷たく重い何かが全身に絡みつき、指先ひとつ動かすことができない。
湿った土の匂いがした。それならば、この絡みつく何かは土か、あるいは水なのか。
不意に、甘く焦げた香のような匂いがした。酷く懐かしく、それでいて切ない思いが胸を焦がす。
遠くで笛の音が聞こえた。誰かが鉦を叩く音が、笛の音と重なり響き合う。
暗闇の中、微かに何かが見えた。いくつもの影が揺らいで、過ぎていく。
気づけば、どこかの葬式の列に立っていた。
白い布に包まれた顔。棺の蓋を釘で打ち付ける音。
深く暗い穴に、棺が下ろされていく。
視界の端で小さな影が揺らいだ。視線を向ければ、そこには背の低い、まだあどけなさが残る少年の姿があった。
誰からも視線を向けられず、誰にも視線を向けることなく。ただ静かに、無感情に棺が埋められていくのを見つめていた。
大人達に気づかれぬよう、こっそりと少年に近づいた。けれどもそれを察してか、少年はこちらに背を向け去ってしまう。
諦めきれなくて、少年を追いかけた。辺りは次第に色をなくし、やがては少年以外何も見えなくなる。
甘く苦い、香の匂いが漂う。伸ばした手の異様な小ささに、ようやく気づく。
それでも足は止まらない。少年の背を追い続ける。
――またね。
どこからか、声が聞こえた。
恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうに。言葉を噛みしめるような、そんな小さな声。
思わず足を止めた。去って行く少年の背を、呆然と見つめる。
――いかないで。
耳元で、声が囁いた。
小さく、微かに。伝えられない思いが、耐えきれずに零れ落ちてしまったかのような声だった。
不意に少年が立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
表情の抜け落ちた顔。痩せて土にまみれた手足。
その腕に抱かれているものを認めて、息を呑んだ。
それは小さな髑髏だった。少年と同じ年頃の、あるいは少年よりも幼い小さな骨。
ぽっかりと開いた眼窩から、黒い煙が溢れ出している。重く澱んだその煙は地面を漂い、足下に絡みつく。冷たい痛みを伴って、足から腰、腕と全身が絡め取られていく。
呼吸が苦しい。息を吸えば煙が体の内側に入り込み、肺を喉を灼き、臓腑を腐らせていくかのようだ。
意識が揺らぐ。いつの間にか少年の姿はなく、また何も見えない暗闇が、どこまでも広がっていた。
――燈里《あかり》。
名を呼ばれて、僅かに意識が鮮明になる。
自分を導く、北の星。彼が呼んでいる。
見上げた空から、いくつもの白い結晶が降り注ぐ。頭に四肢に降り積もり、絡みついた澱みを連れて、雪は儚く溶けていく。
呼吸が楽になり、体は自由を取り戻す。改めて見た腕は小さな子供のものではなく、自分のそれだった。
――おいで。
彼が呼んでいる。
暗闇の中でも、どこへ行けばいいのか迷うことはない。
北の星は動かない。自分の心にある羅針盤の針は、常に彼を指し示している。
一歩、足を踏み出した。足下の暗闇が溶けて消え、土と骨に塗れた大地が露わになる。
地面を見ないように、顔を上げて歩き出す。寂れた墓標が立つだけの墓地を抜けて、声が聞こえる光の方へと向かっていく。
――またねっ!
背後で声がした。先ほど聞こえた声とは違う、楽しげな子供の声。
――燈里。
思わず振り返りそうになる自分を、彼の声が止める。
前に向き直り、ただ彼の声だけを求めて歩き出した。
光が強くなる。思わず目を閉じて立ち止まり。
強く、腕を引かれて目が覚めた。
「燈里」
冬玄《かずとら》の呼ぶ声に反応し、燈里はゆっくりと目を覚ました。
まだ完全に覚醒してはいないのだろう。焦点の定まらない目が、不安に揺れて冬玄を探していた。
「冬玄?」
「大丈夫だ。ここにいる」
縋るものを求めて伸ばされた手を取り、冬玄はここにいると示すかのようにゆっくりと繋ぐ。大丈夫だと繰り返せば、強張っていた燈里の体から次第に力が抜けていく。
「もう一度眠るといい。今度は余計な夢も見ないだろう」
「――うん」
優しく囁けば燈里はふわりと微笑んで、そっと瞼が落ちていく。しばらくすれば規則正しい寝息が聞こえ、冬玄は小さく息を吐いた。
「穢れはすべて祓われたみたいだね」
ベッドサイドで香を焚いていた楓《かえで》の表情が幾分か和らぐ。香炉の火を落として、それにしても、と呟いた。
「燈里にぶつかったっていうその生徒。どこでこんな穢れを貰ってきたんだか」
呆れたような口調でありながら、その目は鋭さを孕んでいる。
「冬玄」
「なんだ、楓」
名を呼ばれて、冬玄は楓へと向き直った。
楓もまた真っ直ぐに冬玄を見つめ、口を開く。
「燈里が縁《えにし》を結ばれた。原因を何とかしないと、また同じことの繰り返しだよ。いくら禊ぎや祓いをしても、切りがない」
「――そうか」
低く呟いて冬玄は燈里へと視線を移す。慈しむように頬を撫でて、静かに立ち上がった。
「どこに行くんだい?」
「あの生徒は触穢だろうから、本人に接触しても意味がない。なら、学校の方を探す」
そう言って、冬玄は部屋の外へと向かう。
楓は何も言わない。それをありがたく思いながら、冬玄は楓に頭を下げた。
「ある程度情報が集まったら戻ってくる……それまで、燈里を頼む」
「言われなくても分かっているよ」
冬玄の頼みを、楓は当然だと笑う。
それに笑みを返して、冬玄は部屋を出て行った。
20250807 『心の羅針盤』
無音。
耳が痛くなるほどの静寂。虫の声や、風の音。身動ぐ時の衣擦れの音すら聞こえない。
ここはどこなのだろうか。
白く霞む景色は、すべての輪郭を曖昧にさせている。
ふっと、息を吐いた。その微かな音すら耳には届かない。
ゆっくりを視線を巡らせる。
何も分からない。白以外が見えない。
不意に、目の前の景色が揺らいだ。
白以外の色が揺らぎ、浮かび上がる。
遠くに、小さな影。こちらに背を向け去って行く。
思わずその背を追いかけた。
やはり足音はしなかった。静寂が支配する白の空間で、唯一色のある影を必死で追った。
けれども、思うように進めない。影との距離が縮まらない。
何故だろうかと考えて、何気なく視線を落とす。
小さな赤い靴を履いた細い足。歩く度にふわりと広がる桃色のスカート。
地面が近い。子供の目線だと、ようやく気づいた。
影が立ち止まる。
こちらを振り返るあの子の表情は、乏しいながらも柔らかだ。
少しだけ眉を下げて笑う。
「また来たの」
無音の空間で、その声はやけにはっきりと聞こえた。
待っていてくれることに嬉しくなって、あの子の元まで駆け出した。
白の空間で、二人並んで歩き出す。
手は繋がない。触れることは駄目なことなのだと言っていた。
その理由は教えられなかった。それでもいいかと、あまり気にも留めなかった。
白が染まっていく。
青に染まって、次第に赤へと色を変えていく。
帰る時間がきてしまった。
振り返り、歩いてきた道を引き返す。
何かを言いかけ止めるあの子に、手を振った。
「またねっ!」
また、明日。
一方的な言葉は、あの子のくしゃりとした笑みで、約束になった。
「――またね」
小さな呟き。
満たされた思いで、跳ねるように駆け出した。
次の瞬間、世界が真っ黒に染まった。
目を閉じていても、開いていても変わらない黒。
そもそも目を開けているのかすら分からないほど、感覚が曖昧だった。
手足が動かない。動いているという感覚がない。
黒の世界の中。木と土の匂いがして、そのあまりの強さにくらりと世界が揺れた。
遠くで何か音がした。
声ではない。土を掘る音。
かたん、と何かの音が聞こえ、黒の世界に一筋白が紛れ込む。
その白を遮るように、誰かの影がかかった。
何かを言っている。だがそれは、言葉として耳には届かない。
ゆっくりと影の手が伸ばされる。
頬に触れ、そのまま後ろに手を滑らせて――。
そこで、燈里《あかり》は目が覚めた。
薄暗い部屋。甘く苦い、香の匂い。
それに混じり土と木の匂いがする気がして、燈里は深く息を吸い込んだ。
ゆっくりと吐き出す。それを何度か繰り返して、次第に意識は覚醒してきたのだろう。まだ虚ろだった燈里の目が、焦点を結ぶ。
「起きたの?」
「楓《かえで》……?」
燈里が目覚めたことに気づいた楓が、テーブルライトをつける。
仄かな光が、周囲をぼんやりと浮かび上がらせる。
見慣れた室内の光景に、燈里は目を瞬き楓を見た。
「楓」
「駄目だよ」
燈里が何かを言う前に、楓は静かに首を振る。
「あれは、夢じゃない……行かないと」
「行かせられない。駄目だよ、燈里」
起き上がろうとする燈里を押し止め、楓は険しい表情で駄目だと繰り返す。
嫌々と首を振り泣く燈里の頭を撫でながら、言い聞かせるように囁いた。
「燈里が見ていたのは、ただの夢だよ。もう一度寝てしまえばすぐに忘れてしまうような、そんな些細な夢さ」
「違うっ!夢じゃない。あの子は本当にいたの。またねって、約束をしたのに……なんで皆、駄目だって言うの?会っちゃ駄目なんて、どうしてそんな酷いことを言うのっ!?」
「燈里!」
楓を振り払い、燈里はベッドから転がり落ちるようにして抜け出した。すぐに立ち上がろうとするが、穢れに中てられ衰弱していた体はふらつき、すぐに膝をつく。
「燈里」
それでも、這ってでも外へと向かおうとする燈里を見て、楓は小さく息を吐き、その背に抱きついた。
「会いたいの?」
「会わなきゃ。またねって、約束したんだから……あの子が待ってる」
床に爪を立てて前へ進もうとする燈里の手を取り、軽く引く。振り返る燈里と目を合わせ、楓は悲しく笑った。
「分かった……でもその前に、冬玄《かずとら》の所に行こうか」
「かずとら……?」
涙に濡れる目を瞬いて、燈里が小さく呟いた。
幼い子供のようなたどたどしさで、冬玄の名を呼ぶ。何度も繰り返して、燈里の目がはっきりと楓を見つめた。
「――楓?」
「そうだよ。おはよう、燈里」
「おはよう……?」
燈里の目が楓を見て、部屋を見渡す。見慣れた自室を認めて、困惑したように眉を寄せた。
「冬玄は?それにあの子……あぁ、いや。そうじゃない」
頭を抑えて首を振る。
現実の記憶と夢の中の記憶が混ざり合い、燈里は呻くように声を上げた。
「大丈夫だよ。まぁ、ちょっと困ったことにはなってるけどね」
燈里の背を撫でながら、楓は密かに安堵の息を吐いた。しかし燈里の様子に油断はできないと、真剣な眼差しで、燈里に告げた。
「二日前、燈里にぶつかった人間がいたことを覚えているかい?その人間が少々厄介な穢れを燈里に移してね……つまり、触穢に接したんだよ」
楓の言葉に、燈里は記憶を辿る。
一瞬だけすれ違った人影を思い出し、夢の記憶と照らし合わせて顔を顰めた。
「学生は夏休みだもんね。肝試しにでも行ったのかな」
「その人間か、別の誰かから穢れが伝播したのかは分からない。でも誰かが墓地に足を踏み入れた。それも、かなり古い……おそらくは土葬されていた墓地に入ったのは確実だ」
墓地の言葉に、燈里は思わず目を伏せた。
夢で見た少年が抱いていた小さな髑髏。その眼窩から漏れ出す黒の煙を思い出す。
触れたものすべてを浸食するかのようなあの黒が、穢れなのだろう。
「穢れ……死穢、か」
「そうだよ。しかも、さらに厄介なことに、その死穢と縁が結ばれている」
「縁?」
意味が分からず、燈里は困惑する。
穢れと縁が結ばれる。それではまるで、死穢が人ではないか。
あり得ないと否定しながらも、燈里の脳裏に髑髏を抱いた少年が浮かぶ。少年ならばあるいは、と思いながら夢で聞いた声を思い出した。
――またね。
些細な約束に、行かなければという衝動が沸き上がる。
理由の分からないその衝動に戸惑い楓を見れば、悲しい笑みを返された。
「縁を結ばれている限り、また燈里は穢れに晒される。今、冬玄が情報を集めてくれてはいるけれど、燈里の方が保たないだろうね」
「どういうこと?」
燈里の疑問に楓は敢えて答えず、代わりに手を差し出す。
「冬玄の所へ行こうか。燈里がまた引かれて、重なってしまう前に、こちらから動いた方がいい」
燈里の脳裏を少年が過ぎていく。
思い出せないもう一人を感じながら、それでもまずは動かなければと、燈里は楓の手を取った。
20250808 『夢じゃない』
夕暮れの校舎内は、ひっそりと静まりかえっている。
耳を澄ませば、遠く蝉の声に混じり、蜩の鳴き声が聞こえた。
青から赤へと色を変えていく空。陽が陰っていても、肌に纏わり付くような暑さは少しも和らぐ様子がない。
かたん、と引いた椅子が音を立てる。普段ならば気にもならない音が、教室内に響いて小さく息を呑んだ。
部活で残っていたはずの他の生徒達も皆帰ってしまったのだろう。この時期活動が盛んな運動部は、屋内以外の活動を禁じられている。屋内活動だとしても、大分前に下校時間が来てしまっていた。
熱中症対策。先生達はそう言うものの、本当は別の理由があることは殆どの生徒が知っていた。
――校舎内に一人でいる時に、後ろから知らない誰かに声をかけられても振り返ってはいけない。
夏休みが始まってしばらくして、広がり始めた暗黙のルール。
誰が言い出したのかは分からない。最初は誰しもがそのルールを笑い、気にも留めなかった。
机の中から置き忘れたノートを取り出す。取りに戻ることを迷って、結局取りに来たノートがあったことに安堵の溜息が出た。
少し乱暴に椅子を戻して、ちらりと窓の外を見る。
赤く染まり沈んでいく陽が、とても怖ろしいもののように思えて、慌てて視線を逸らす。
――振り返ってしまえば、憑かれてしまう。
誰も気にしないルールが、守らなければいけないものに変わったのは、噂が流れ出してからだ。
何に憑かれるのかは分からない。ただ、噂が広がり始めてから、明らかに部活に参加する生徒の数が減っていた。
憑かれてしまうと、数日以内に原因不明の高熱が出る。実際に何人も病院に運ばれたらしいと、友人達から話を聞いた。
――校舎内に一人でいると……。
ふるりと肩を震わせて、手にしたノートを急いで鞄に詰める。
忘れ物をしなければ、と何度も後悔しながら、鞄を手にして足早に教室を出た。
窓から夕陽が差し込んで、廊下を赤く染めている。今にも何かが現れそうな雰囲気に足が竦みそうになった。
――後ろから声をかけられても……。
噂を思い出す。このまま校舎にいれば、声をかけられるかもしれないと思うと、止まっていた足がゆっくりと動き出した。
とても静かだ。
先生達は残っているはずなのに、音も声も聞こえない。
自分の歩く音だけが廊下に反射して、心細さに泣きたくなった。
微かに聞こえていた蝉や蜩の声が止んだ。少しの沈黙の後に、先ほどよりも大きく泣き出した。
自然と足が速くなる。後ろを気にしないようにするほど、後ろが気になって仕方がない。
そんなことを思いながら、昇降口で靴を履き替え、外に出ようとした時だった。
「――またね」
小さく、誰かの声が聞こえた。
後ろから。知らない子供の声が。
「――っ!?」
体が強張る。
今すぐにここから逃げ出したいのに、足が少しも動かない。
声変わりのまだの、幼い少年のような声だった。
恥ずかしそうで、それでいて嬉しさをかくしきれない。
そんな柔らかい響きに、怖さと同時に切なくなった。
誰が誰に伝えようとしているのだろう。体が動かないことに、少しだけ安堵する。
今体が動いてしまったのなら、後ろを振り返って誰かを確認したくなるのだろうから。
じとりと、熱気が肌に纏わり付く。
唯一動かせる視線で辺りを見た。何も変わらない、いつもの昇降口。誰かが置き忘れた傘。夕陽を反射して煌めく埃。
視線を落とせば後ろの窓から差し込んだ赤い陽の光が、影を伸ばしていることに気づく。
自分の影が、昇降口から外へと伸びている。
その隣。重なるように伸びた小さな影があった。
すぐ後ろにいる。何かをするでもなく、ただ立っている。
僅かに視線を動かせば、土に濡れた裸足の足が見えた気がした。
咄嗟に目を閉じる。何も見ていないと、呪文のように心の中で繰り返して、動かない足に力をいれた。
「また、ね……」
ぽつりと声がした。
すぐ後ろ。耳元で。
泣くのを耐えているかのような、静かな声。感情を押し殺して、無機質に響く。
けれど僅かに震えているのがはっきりと感じられて、声にならない悲鳴が漏れた。
その瞬間。あれだけ動かなかった体が、動いた。
逃げなければ。その思いで目を開ける。必死で足を動かして、昇降口を抜けて校庭へと飛び出した。
校門まで一気に駆け抜ける。今にも影が追いついてきそうで、下は見れなかった。
「っ、はぁ……」
校門を抜け、荒い息を吐く。呼吸を整えながら、ふと先ほどの声を思い出して。
気づけば、校舎へと視線を向けていた。
「――ぁ」
昇降口の前。
無表情に佇む、小さな少年と目が合った。
ぼろぼろのサイズの合っていない服。無造作に伸びた髪。
その手足は細く白く。土にまみれて汚れている。
距離があるのに、はっきりと見える。
感情が抜け落ちたかのような表情。その腕に――。
ひっと、短く悲鳴が漏れる。
大切そうに抱え持つ、土に汚れた白は。
少年と同じくらいの、小さな髑髏だった。
脇目も振らず、一人の生徒が暗くなった道を駆け抜けていた。
「――痛っ」
「大丈夫か?」
途中、道を行く女にぶつかるが、気にする余裕もなく走り去る。女の側にいた男が心配そうに声をかけるが、その表情はすぐに険しいものへと変わる。
生徒が去って行った方向へと視線を向けるものの、既にその姿はない。
「あの野郎っ!」
「大丈夫。別に怪我もしてないし、きっと急いでたんだよ」
男の腕に触れながら女は微笑むものの、先ほどまでとは明らかに様子が異なっていた。
浅い呼吸。顔色は悪く、足下もふらついている。
力が入らなくなったのだろう。崩れ落ちそうになる女の体を男は抱き留める。
「あ、あれ?おかしいな、別に調子は悪くないはずなんだけど」
「穢れに中てられたんだから当然だ」
女を抱き上げて、男は険しい顔のまま踵を返した。
「え、冬玄《かずとら》?」
「帰るぞ……早く、禊ぎをしないと」
そう告げて、男――冬玄は小さく舌打ちをする。
――またね。
微かに、子供の声が聞こえた気がした。
20250806 『またね』
「風になりたい」
ごろりと横になりながら、吹き抜ける風を羨んで言葉が出る。
「今度は風か。その前は魚だっけ」
くすくすと笑いながら、声がする。寝転がったまま視線を向ければ、彼女が苦笑しながらこちらを見下ろしていた。
「最近、暑くなってきたからねぇ」
そう言って、彼女は手にしていた瓶をこちらに手渡す。
既に栓の抜かれた、サイダーの瓶。起き上がって受け取って、冷えた瓶をしばらく眺めた。
いくつもの小さな気泡が上がって、そして弾けて消えていく。その儚さに、小さく吐息が零れた。
「泡になりたい」
思わず呟いた声は、自分でも驚くほどに覇気がなかった。
「どうしたの?何かあった」
彼女の笑みが消えて、心配そうに眉を下げる。
それに何でもないと首を振って、誤魔化すようにサイダーに口を付けた。
口の中で気泡が弾ける感覚に、再び泡になりたいと呟きそうになり、溜息を吐く。益々心配そうにこちらを見つめる彼女に力なく笑って、小さく呟いた。
「ちょっとね。ここに来る前の夢を見ていたの」
まだ何も知らない子供だった時の夢。
幼馴染みと、無邪気に将来の夢を語っていたあの時。柔らかく微笑む幼馴染みに、懐かしさと切なさが込み上げた。
「ここに来たこと、後悔してるの?」
そう問われて、首を振る。
後悔はしていない。技術が認められたこと、自分で選択したことに後悔はない。
ただ、幼馴染みに対しては、ひとつだけ小さな後悔に似た思いはあった。
「さよならくらい、言えばよかったかなって……戻りたいなんて思わないし、明日になれば忘れることもできるけど」
幼馴染みとは、また明日と別れてそれきりだった。
ちゃんと別れを告げていれば、きっとこんなにも切ない思いを抱えることはなかっただろう。
「大丈夫。すぐに忘れられる……私の織る布のように、色をなくして輪郭さえも分からなくなる」
サイダーを飲み干して、立ち上がる。
そろそろ戻らなければ。ちょうど玄関から鈴の音が聞こえて、座敷へと向かう。
来訪者。織物を求めて訪れる者達にどこか申し訳なさを感じて、足取りが重くなる。
「貴女のせいじゃないわ」
隣を歩く彼女が言う。
「貴女の織物の技術は素晴らしいもの。私の紡いだ糸を、最高の形で仕上げてくれる……ただ染め手がいないから、完成しないの」
「うん、分かってる。大丈夫だよ」
大丈夫と、自分に言い聞かせるように繰り返し、座敷に入る。
すでに面布を着けた来訪者が待っているのを一瞥して、奥から一枚の織物を取り出した。
真っ白な絹織物。それに織り込まれた模様など、誰にも分かりはしないのだろう。
「――こちらをどうぞ」
嘆息しそうになるのを堪えながら、織物を来訪者へと手渡す。
恭しく受け取って、来訪者は織物を広げ――。
白く透明な、泡沫の夢の中へと消えていった。
「貴女のせいじゃないわ」
彼女が宥めるように背を撫でる。
それに何度目かの大丈夫を返して、笑ってみせた。
「ありがとう……そろそろ戻らないとね」
呟いて座敷を出る。
幼馴染みとの記憶の切なさと、白の糸だけで織った布のもどかしさと。
飲み干したサイダーの気泡のように弾けて消えればいいのにと、密かに唇を噛みしめた。
その日訪れた来訪者は、他の者達とどこか何かが異なっているように感じた。
「こちらをどうぞ」
違和感を感じながらも、いつものように織物を手渡す。
こちらから目を逸らさず受け取った来訪者は、織物を一瞥し、再びこちらに向き直った。
「白いな」
初めて指摘され、思わず手を握りしめる。
来訪者は変わらず真っ直ぐにこちらを見つめ、視線を逸らすことを許さない。面布越しでありながらはっきりと感じられる強い視線に、そっと息を呑んだ。
「これでは求める夢を見せることなどできないだろう」
静かな声が容赦のない言葉を紡ぐ。
そんなこと、自分がいつも感じていたことだ。
どんなに良質な糸だろうと、白糸だけでは模様が織れない。だからといって安易に染めてしまえば、糸自体を駄目にしてしまう。
夢を――それも予知夢と言われる類いの夢を織る自分には、それは致命的だった。けれども、どうしようもできないことでもあった。
「それはっ――」
隣にいた彼女が何かを言いかける。けれどそれを手で制して、来訪者は織物へと視線を落とし軽く撫でる。
「絹糸も、織り方も申し分ない。ただ色だけが足りない」
そう告げて、来訪者は顔を上げる。
ゆっくりと面布に手を伸ばして、それを取った。
「――ぁ」
隠されていた顔が露わになる。
知らない男の人。けれどもどこか懐かしい面影に、胸が苦しくなった。
「俺が糸を染める。ここに来る前は、ずっとそうだったように、お前の織る糸はすべて」
強い眼差しに、いつか見た夢を思い出した。
幼馴染みが染めた糸はどれも色鮮やかで、思い描いたものをそのままに織ることができた。
けれど幼馴染みは常に色に飢えていた。表現できる色の限界を求めて、努力を怠らない人だった。
「ここまで至るのに、思ったよりも時間がかかってしまった。だがこれでお前の求める色は、寸分違わず染め上げることができる」
微笑む幼馴染みの手の中の織物が、じわりと色を持ち始める。色鮮やかに煌めくそれは、一部だけでも何を表しているのかがよく分かる。
故郷の夜祭の風景だ。花火と提灯の灯り、そして神楽。
あの頃求めて、再現できなかった織物の柄がようやく完成したのだ。
「素敵ね……懐かしいな。故郷のお祭も、こんな感じだった」
織物を覗き込んで、彼女が切なげに目を細める。
声をかけるべきかを悩んでいると、こちらを見た彼女が眼を輝かせて微笑んだ。
「染め手がようやく来てくれた。これでようやくお役目を全うできるね」
「そうだね……やっと、求めるものが織れるんだ」
彼女の言葉に、幼馴染みを見る。強く頷く幼馴染みに、遅れて染め手という意味を理解して、鼓動が速くなっていく。
夜祭を再現した織物が、静かに空中に溶けていく。
泡沫の夢は弾けて消えず、ただひとつの現実を残して去っていった。
一人縁側に座り、空を見上げていた。
「今度は何になりたいの?」
サイダーの瓶を手にした彼女がこちらに歩み寄り、楽しそうに問いかける。二つある内の一つの瓶を手渡して、隣に座ってサイダーを飲んだ。
「また、泡にでもなりたい?」
笑って首を振る。
「泡になって弾けて消えるより、泡沫の夢を皆に見せたいな」
今はそれができるのだから。
鮮やかに染め上がった絹糸を思い出して、笑みが浮かぶ。
ふわふわとした気持ちで、サイダーに口を付けた。
「そうね。私も、糸の紡ぎ甲斐があってとても嬉しいわ。彼には感謝しないとね」
彼女が笑う。
サイダーを飲みながら、確かにと強く同意した。
りん、と鈴の音が聞こえた。どうやらまた来訪者が現れたらしい。
「行かなきゃ」
急いでサイダーを飲み干して、立ち上がる。
「いってらっしゃい」
軽く手を振る彼女に別れを告げて、歩き出す。以前と違って座敷に向かう足は軽やかだ。
座敷に入り、待っていた来訪者へと、求める織物を差し出す。
「こちらをどうぞ」
緻密な模様の描かれた織物が来訪者の手に渡り、広げた瞬間。
極彩色の景色を纏いながら、来訪者は泡沫の夢へと誘われていった。
20250805 『泡になりたい』
人混みを掻き分け、吹き流しの下をいくつも潜り抜けていく。
高鳴る鼓動に、知らず口元が緩む。抑えきれない思いが、足を速めていく。
今年もまた、夏が来た。
笹に吊された七つ飾りが、ひしめく人々の目を楽しませている。長く受け継がれてきた願いを思うと、益々胸が高鳴った。
賑やかな商店街を抜けて、路地裏へと抜ける。いくつもの角を曲がれば、次第に賑やかさが遠ざかり、静寂が場を満たしていく。
香ばしい食べ物の匂いではない、澄み切った自然の香り。思わず立ち止まり、深く息を吸ってその香りを堪能した。
いつの間にか、辺りは街中とは思えぬ程に様相が変わっている。木と石畳の道が続く先に朱色の鳥居を認め、腕の中の包みを強く抱きしめた。
走り出す。鳥居に向かい、一気に駆け抜ける。
鳥居の先では、今年もきっと彼が待ってくれているだろう。
そう思うと、急く心を抑えられなかった。
「ただいまっ!」
鳥居を抜けて、その先で待っていた彼に飛びついた。
「おかえり。相変わらず、落ち着きのない娘だ」
呆れたように笑いながらも、彼は簡単に抱き留めてくれる。
その事すら嬉しくて、押しつけるように手にしていた包みを渡した。
「早く見て!今年は、本当に自信があるんだから!」
「去年も同じことを言っていたな」
軽く息を吐きながら、彼は包みを開く。
折りたたまれていた白の布を広げて、僅かに目を細めた。
布に刺繍された龍の模様。真剣な面持ちで彼は刺繍を見つめ、時に裏返して糸を確認する。
この瞬間はいつも緊張するが、一番好きな時間だった。
今年こそ、彼に認められるかもしれない。去年よりも時間をかけて刺繍を確認する彼の様子に、期待が高まる。
一年間、この日のために努力してきた。去年指摘されたことは改善して、さらに技術を磨いていた。
自分の技術を彼に認めてもらうために。
今まで彼に教えられたすべての結果を、その成果を認めて欲しかった。
「――そうだな。確かに、去年指摘した針目は揃ってきているが」
そう言って、彼は顔を上げる。
期待に笑みが浮かぶが、しかし、と続ける彼に小さく肩が震えた。
「まだ甘いな。鱗の部分、尾の部分の針目が歪んで、布地も僅かによれている。その部分の裏側も捻れているな。表ばかりを気にするからだ。それから――」
容赦のない彼の指摘に、笑みが消えて肩が下がる。
今年も駄目だった。完成には至らなかったのだと、悔しさで唇を噛みしめる。
それでも俯くことはせず、食い入るように彼の指摘する部分を見つめ、彼の言葉に聞き入った。
「まあ、こんな所か」
指が止まる。
視線を刺繍から彼に移すと、軽く笑いながら頭を撫でられた。
「そう落ち込むな。構図はしっかりしてきている。集中を切らさぬようにすれば、それだけで十分に改善する」
「――うん。分かった、ありがとう」
気恥ずかしくなって俯いた。
頭を撫でる手が一層優しくなって、居たたまれなくなる。
「もう七年になるか。出会った頃に見たものは、構図も糸目も見れたものではなかったから、随分と成長したな」
「っ、言わないでよ!」
「良いことだろうに……ほら」
頭を撫でる手が離れていく。
少しだけそれを寂しく思っていれば、その手に音もなく小さなハンカチが現れ、目を見開いた。
「まさか、それって……!」
「比べて見れば、よく分かるだろう」
幼い子供の描いた落書きのような、歪んだ構図。糸目はばらつき、所々でほつれてしまっている。色合いと輪郭から辛うじてひまわりの花だと分かるそれは、彼と初めて出会った時に作った刺繍だった。
「やめてよ。恥ずかしい」
慌てて手を伸ばすが、ハンカチには届かない。
「何を言う。振り返ることは、大切なことだ」
そうは言うものの、彼の目は明らかにこちらの様子を見て楽しんでいた。
きっ、と彼を睨み付ける。それを気にもかけずに、彼はハンカチを見つめて懐かしいなと呟いた。
「あれから努力を怠らなかったことは、褒められるべきことだ」
「だって、悔しかったし……あれだけ、酷いことを言われたんだもん」
上手になりますようにと短冊に願い、この場所に迷い込んだ時に手にしていたそれ。
偶然出会った彼はそれを見て、幼い子供に対しては辛辣な言葉を投げつけたのを思い出す。
構図が歪みすぎて、元の絵が分からないだとか。基本がなっていないだとか。
それと同時に、どうすれば上達できるのかを丁寧に教えてくれた。
布の張り方や糸の縫い付け方、構図の整え方など。泣く自分に根気強く、刺繍の基礎をたたき込んだ。
「一期一会だと思っていたが、あれから毎年欠かさず来るとは、正直思わなんだ」
ハンカチの刺繍を指でなぞりながら、彼は言う。
「技量は申し分ない。来年こそは完成するだろうが、それでもここに訪れるのか?」
「どういう意味?」
首を傾げて問えば、彼は真っ直ぐにこちらを見た。
手にしたハンカチや布を掲げ、静かに告げる。
「お前ごと、奉納されるということだ」
あぁ、と声を漏らし、頷いた。
母や、従姉妹と同じ役割が与えられるということだろう。棚機津女《たなばたつめ》のように、神のためにその身を捧げるのだ。
頷いて、でも眉を下げる。
認めてはもらいたい思いはあるものの、それだけで満たされはしないことは理解していた。
「私、刺繍が認められたら、和裁をしたいのだけれど。なんだったら、機織りから始めてみたいの」
「随分と欲張りなことだな」
目を細めて彼は笑う。
けれど欲張りだと言いながらも、彼の目はとても嬉しそうだ。
「来年、短冊にその願いを書くといい。また基礎からじっくり仕込んでやろう」
「ありがと……ねえ、私にできると思う?」
少しだけ不安になって問いかける。彼は不可解だといわんばかりの顔をして、逆に問い返してきた。
「お前は叶わない願いを短冊に書くのか?」
願うだけで努力をしないのか。
そう言外に問われて、苦笑した。
「書かない。願いを叶えるために短冊に書くのだから」
そう返せば、満足そうに彼は笑う。
「ならば、存分に励むといい……来年、お前の刺繍が完成することを楽しみにしている」
彼は信じてくれている。それだけで自信が出て、早く家に帰りたくなった。
姿勢を正して彼と向き合う。
深く礼をして、笑った。
「楽しみにしててね。じゃあ、いってきます」
「いっておいで」
彼に背を向けて走り出す。
鳥居を抜けてしばらくすれば、街の賑わいが戻ってきた。
心が弾む。来年はどんな構図にしようか考えながら、商店街の吹き流しを横目に家路を急いだ。
来年、彼にただいまと言うのが、今から待ち遠しくて堪らなかった。
20250804 『ただいま、夏』
鮮やかな青と白のコントラスト。
煩いくらいの蝉の鳴く声。時折混じる、涼やかな風鈴の音。
縁側で寝そべりながら、ぼんやりと空を見上げていた。
手探りでラムネの瓶を探る。
指先が濡れた瓶に触れ、その感覚に思わず眉が寄る。
いつの間にか随分と時間が経ってしまったらしい。手に取った瓶は、すっかりぬるくなってしまっていた。
小さく溜息を吐いて、のそのそと起き上がる。口をつけた瓶の中身はやはりぬるく、すっかり炭酸が抜けてベタつく甘ったるさしか感じられなかった。
ラムネだったものを飲みながら、ちらりと視線を隣に向ける。
細く青白い二本の足が見えて、どうしたものかとまた頭を悩ませた。
足が見え始めたのは、数日前の病院からの帰り道だったように思う。
日頃の不摂生が祟り、連日の暑さもあって気づけば病院に運ばれていた。
点滴を打たれた帰り道、背後からひたひたと裸足の足音がついてくるのに気づいた。
足を速めれば後ろの足音も速くなり、立ち止まれば足音も止まる。
意を決して振り返れば、すぐ後ろに足がいた。
子供の細い足。どこへ行っても追いかけてくる。
初めこそは怖がっていたが、ただついてくるだけの足に、いつからか興味の方が強くなった。
誰の足なのか。何故ついてくるのか。
側にいるだけで、何かを訴える様子もない。
監視するかのように側を離れない足との意思疎通を、本気で悩んでいた。
瓶の中身を飲み干して、再び横になる。
夏の陽射しは容赦なく周囲の温度を上げていくが、家の中に戻るのは億劫だった。
幸い、見上げた空に浮かぶ陽は傾き始めている。あと数時間後くらいには、陽は陰ってくれることだろう。
そんな楽天的な考えで空を見上げていれば、視界の端で隣にいたはずの足が寝転ぶ頭の上に移動するのが見えた。
相変わらず、細くて白い足だ。膝から上はどんなに目を細めても見えない。
どうすれば、側から離れない足の意図を知れるだろうか。
「――ねえ……っ!?」
無駄だと知りながら声をかけようとして、不意に額に感じた冷たい感覚に息を呑んだ。
熱を奪う冷たい何か。それが小さな手だと知って、途端に動けなくなる。
ぺたぺたと顔面を触られる。小さな手に頬を包まれ、首筋に触れられ。
そして最後に、頭を叩かれた。
「痛っ!?」
意味が分からず目を瞬いていれば、置いた瓶が倒れ、ごろりとひとりでに転がった。庭に落ちるのではなく、家の中へと転がる瓶を体を起こしてただ見つめ。
唐突に、すべてを理解した。
「――マジか」
思わず苦笑する。
ふらつきながらも立ち上がり、転がる瓶を追って家の中へと歩き出す。
向かう先は台所だろう。足早に瓶に追いついて回収し、そのまま台所へ向かった。
台所に入り、冷蔵庫を開ける。
中から作り置きの麦茶を取り出して、コップを出し注いだ。
一気に飲み干せば、体の内に籠もる熱が冷えていくような気がした。残っていた熱を吐き出すように息を吐いて、もう一杯、麦茶を注ぐ。
かたん、と不意に音がした。
振り向くと、テーブルの椅子が引かれている。椅子に座る幼い少女の下半身を見て、小さく笑った。
麦茶のボトルを冷蔵庫に戻し、代わりにラムネの瓶を取り出した。
テーブルに麦茶のコップと瓶を置いて、瓶の栓代わりのビー玉を落として蓋を開ける。
無言でこちらを見つめる半透明の少女の前に瓶を置き、その正面の椅子を引いて自分も座った。
「なんていうかさ……その……」
気恥ずかしさに、上手く言葉が出てこない。
誤魔化すように笑ってみせれば、瓶に口をつけた少女がじとり、とこちらを睨み付けた。
その目の強さに口籠もり、おとなしく黙って麦茶を飲んだ。
無言。だがその空間に少しも気まずさを感じないのは、少女の優しさを知っているからだ。
お節介だなとは思うが、それが自分の自堕落さ故のことだと思うと、申し訳なさが勝る。
こうして成長しても世話を焼かせている自分に呆れて、自然と言葉が出た。
「いっつも迷惑かけてごめん……でもありがとう、お姉ちゃん」
呆れた溜息。
かたん、と椅子を鳴らして立ち上がり、姉はこちらに近づくと容赦なく足を叩いた。
「痛っ!」
痛がる自分を見上げて笑い、姉は静かに消えていく。
残ったのは、半分残ったラムネの瓶。
「少しくらい手加減してくれてもいいのに」
ぼやきながら、瓶を手に取る。残ったラムネを口にして、口の中で弾ける感覚に笑みが溢れた。
縁側で飲んだぬるさはない。
きんと冷えた、少しだけ炭酸の抜けたラムネに、姉の優しさを感じてほんの少しだけ視界が滲む。
炭酸が苦手で、それでも興味のあった幼い頃。こうして姉が半分残してくれたラムネだけは、残さず飲み干せたのを思い出す。
思えば調子が悪いことに、いつも最初に気づくのは姉だった。寝込んでいる自分の世話を焼くのも、両親よりも姉の方が多かった。
「しっかりしないと」
何度目かの決意をしながら、ラムネを飲み干した。
からん、と中のビー玉が音を立てる。
今年の夏は暑くなるらしい。
空になった瓶とコップを片付けながら、縁側で見上げた青い空と強い陽射しを思い出す。
夏が来たのだと、今更ながらに実感した。
20250803 『ぬるい炭酸と無口な君』