人混みを掻き分け、吹き流しの下をいくつも潜り抜けていく。
高鳴る鼓動に、知らず口元が緩む。抑えきれない思いが、足を速めていく。
今年もまた、夏が来た。
笹に吊された七つ飾りが、ひしめく人々の目を楽しませている。長く受け継がれてきた願いを思うと、益々胸が高鳴った。
賑やかな商店街を抜けて、路地裏へと抜ける。いくつもの角を曲がれば、次第に賑やかさが遠ざかり、静寂が場を満たしていく。
香ばしい食べ物の匂いではない、澄み切った自然の香り。思わず立ち止まり、深く息を吸ってその香りを堪能した。
いつの間にか、辺りは街中とは思えぬ程に様相が変わっている。木と石畳の道が続く先に朱色の鳥居を認め、腕の中の包みを強く抱きしめた。
走り出す。鳥居に向かい、一気に駆け抜ける。
鳥居の先では、今年もきっと彼が待ってくれているだろう。
そう思うと、急く心を抑えられなかった。
「ただいまっ!」
鳥居を抜けて、その先で待っていた彼に飛びついた。
「おかえり。相変わらず、落ち着きのない娘だ」
呆れたように笑いながらも、彼は簡単に抱き留めてくれる。
その事すら嬉しくて、押しつけるように手にしていた包みを渡した。
「早く見て!今年は、本当に自信があるんだから!」
「去年も同じことを言っていたな」
軽く息を吐きながら、彼は包みを開く。
折りたたまれていた白の布を広げて、僅かに目を細めた。
布に刺繍された龍の模様。真剣な面持ちで彼は刺繍を見つめ、時に裏返して糸を確認する。
この瞬間はいつも緊張するが、一番好きな時間だった。
今年こそ、彼に認められるかもしれない。去年よりも時間をかけて刺繍を確認する彼の様子に、期待が高まる。
一年間、この日のために努力してきた。去年指摘されたことは改善して、さらに技術を磨いていた。
自分の技術を彼に認めてもらうために。
今まで彼に教えられたすべての結果を、その成果を認めて欲しかった。
「――そうだな。確かに、去年指摘した針目は揃ってきているが」
そう言って、彼は顔を上げる。
期待に笑みが浮かぶが、しかし、と続ける彼に小さく肩が震えた。
「まだ甘いな。鱗の部分、尾の部分の針目が歪んで、布地も僅かによれている。その部分の裏側も捻れているな。表ばかりを気にするからだ。それから――」
容赦のない彼の指摘に、笑みが消えて肩が下がる。
今年も駄目だった。完成には至らなかったのだと、悔しさで唇を噛みしめる。
それでも俯くことはせず、食い入るように彼の指摘する部分を見つめ、彼の言葉に聞き入った。
「まあ、こんな所か」
指が止まる。
視線を刺繍から彼に移すと、軽く笑いながら頭を撫でられた。
「そう落ち込むな。構図はしっかりしてきている。集中を切らさぬようにすれば、それだけで十分に改善する」
「――うん。分かった、ありがとう」
気恥ずかしくなって俯いた。
頭を撫でる手が一層優しくなって、居たたまれなくなる。
「もう七年になるか。出会った頃に見たものは、構図も糸目も見れたものではなかったから、随分と成長したな」
「っ、言わないでよ!」
「良いことだろうに……ほら」
頭を撫でる手が離れていく。
少しだけそれを寂しく思っていれば、その手に音もなく小さなハンカチが現れ、目を見開いた。
「まさか、それって……!」
「比べて見れば、よく分かるだろう」
幼い子供の描いた落書きのような、歪んだ構図。糸目はばらつき、所々でほつれてしまっている。色合いと輪郭から辛うじてひまわりの花だと分かるそれは、彼と初めて出会った時に作った刺繍だった。
「やめてよ。恥ずかしい」
慌てて手を伸ばすが、ハンカチには届かない。
「何を言う。振り返ることは、大切なことだ」
そうは言うものの、彼の目は明らかにこちらの様子を見て楽しんでいた。
きっ、と彼を睨み付ける。それを気にもかけずに、彼はハンカチを見つめて懐かしいなと呟いた。
「あれから努力を怠らなかったことは、褒められるべきことだ」
「だって、悔しかったし……あれだけ、酷いことを言われたんだもん」
上手になりますようにと短冊に願い、この場所に迷い込んだ時に手にしていたそれ。
偶然出会った彼はそれを見て、幼い子供に対しては辛辣な言葉を投げつけたのを思い出す。
構図が歪みすぎて、元の絵が分からないだとか。基本がなっていないだとか。
それと同時に、どうすれば上達できるのかを丁寧に教えてくれた。
布の張り方や糸の縫い付け方、構図の整え方など。泣く自分に根気強く、刺繍の基礎をたたき込んだ。
「一期一会だと思っていたが、あれから毎年欠かさず来るとは、正直思わなんだ」
ハンカチの刺繍を指でなぞりながら、彼は言う。
「技量は申し分ない。来年こそは完成するだろうが、それでもここに訪れるのか?」
「どういう意味?」
首を傾げて問えば、彼は真っ直ぐにこちらを見た。
手にしたハンカチや布を掲げ、静かに告げる。
「お前ごと、奉納されるということだ」
あぁ、と声を漏らし、頷いた。
母や、従姉妹と同じ役割が与えられるということだろう。棚機津女《たなばたつめ》のように、神のためにその身を捧げるのだ。
頷いて、でも眉を下げる。
認めてはもらいたい思いはあるものの、それだけで満たされはしないことは理解していた。
「私、刺繍が認められたら、和裁をしたいのだけれど。なんだったら、機織りから始めてみたいの」
「随分と欲張りなことだな」
目を細めて彼は笑う。
けれど欲張りだと言いながらも、彼の目はとても嬉しそうだ。
「来年、短冊にその願いを書くといい。また基礎からじっくり仕込んでやろう」
「ありがと……ねえ、私にできると思う?」
少しだけ不安になって問いかける。彼は不可解だといわんばかりの顔をして、逆に問い返してきた。
「お前は叶わない願いを短冊に書くのか?」
願うだけで努力をしないのか。
そう言外に問われて、苦笑した。
「書かない。願いを叶えるために短冊に書くのだから」
そう返せば、満足そうに彼は笑う。
「ならば、存分に励むといい……来年、お前の刺繍が完成することを楽しみにしている」
彼は信じてくれている。それだけで自信が出て、早く家に帰りたくなった。
姿勢を正して彼と向き合う。
深く礼をして、笑った。
「楽しみにしててね。じゃあ、いってきます」
「いっておいで」
彼に背を向けて走り出す。
鳥居を抜けてしばらくすれば、街の賑わいが戻ってきた。
心が弾む。来年はどんな構図にしようか考えながら、商店街の吹き流しを横目に家路を急いだ。
来年、彼にただいまと言うのが、今から待ち遠しくて堪らなかった。
20250804 『ただいま、夏』
8/6/2025, 9:44:04 AM