「さて、あれを何とかすればすべて解決するのだけど」
そう言って楓《かえで》は少年を一瞥する。
「あれは、人間だって言えるのかな」
「言えるんなら、俺だって人間の括りになるだろうな」
「どういうこと?」
楓と冬玄《かずとら》の意図が分からず、燈里《あかり》は少年へと視線を向ける。
少女を抱いたまま俯く少年に、変わった様子はない。二人の口調から、生者か死者かの違いは関係ないのだろう。
「あれはね、元は人間だったのだろうけど、今は違う存在に成ってしまったモノだよ」
「死穢を取り込んで、穢れそのものになっちまった……触れるものすべてを浸食する穢れだ。そう簡単に祓えねぇな」
嘆息して、冬玄は楓に視線を向ける。
何も言わずとも理解したのだろう。楓は少年を見据え、冬玄は燈里を伴い数歩下がる。
それを認めて、楓はゆっくりと少年へと近づいた。
一歩、二歩。
少年は俯いたまま。
三歩、四歩。
供養塔婆の残骸が、足下で乾いた音を立てた。
――五歩。
少年が、顔を上げた。
表情の抜け落ちた顔で、楓を見つめている。その虚ろな目を見返して、楓は低く告げた。
「燈里との縁を切らせてもらう」
六歩。
少年に近づいて、手を伸ばした。
「――下がれ!」
冬玄の声とほぼ同時。楓は後ろに飛び退った。
その刹那、楓のいた場所に黒い靄が現れる。
地面から立ち上る靄はゆらりと揺れて、少年を囲うように広がっていく。
「怒らせてしまったみたいだね」
険しい顔をして、それでも楓は戯けて呟いた。
靄の向こう側の少年は、目に怒りを湛えて、強く楓を睨み付けている。
近づけなくなったことで次の手を講じようと、楓の影が揺らめいた。
その時。
少年の背後、土の面が二つ盛り上がる。
重い黒土が音もなく割れ、その隙間から青白い指が突き出た。
細い指が宙を彷徨う。湿った土の匂いを濃くして手が上がり、腕が伸びた。纏わり付く土を落として、やがては頭が現れた。
その異様な光景に、燈里が小さく悲鳴を漏らす。繋いだ手に力が籠もり、冬玄は震える燈里の体を抱き寄せ視界を塞いだ。
眠りを妨げられた死者の体が、土の下から地上へと這い上がってくる。ゆらりと揺れながら立ち上がり、土を落としながら、ゆっくりと少年の前へと出て、三人の視界から少年を隠した。
二体の骸の白濁した目が、三人へ向けられる。
「血族の縁……両親ってわけか。でも死者の意思ではないね」
「穢れの影響だろうよ。親の屍を操るなんさ、酷いもんだな。人形遊びが趣味ってか」
侮蔑が滲む二人の声に、燈里は顔を上げた。
そんなはずはない。
何故か強く否定する思考に疑問を抱きながらも、背後を振り返る。
「燈里、見るな」
冬玄が止めるよりも前に。
「燈里!」
骸と、目が合った。
肌に纏わり付く熱気と、強い陽射しが降り注ぐ晴れた日。
男が一人、穴を掘っていた。
その近くでは幼い子供が、布を巻かれただけの簡素な亡骸に縋り、泣いている。
吹き出し汗を拭いながら、男は無心で穴を掘り続けた。それだけが男にできる唯一のことだった。
やがて男の手が止まり、静かに穴から上がる。いまだ泣きじゃくる子供に痛ましい目を向けながらも、亡骸を抱え穴へと寝かす。
追いすがる子供を引き留め首を振る。泣くことすらできず悲しみに崩れ落ちるその様を、唇を噛みしめて見つめた。
そして男は亡骸を寝かせた穴に土をかける。
静かに埋められていく母の姿を、少年は泣き腫らした紅い目で、見続けた。
日が暮れても、暑さが和らぐことのない、そんな夜更け。
男が一人、穴を掘っていた。
何度も傾ぐ体。覚束ない手つき。その目は殆ど焦点があっていなかった。
その姿を、子供は静かに泣きながら見つめていた。
男の手は止まらない。時折子供へと視線を向けるが、薄く微笑むのみで、何も言わずに穴を掘り続ける。
それが残される子供に対して、男にできる唯一のことだと信じていた。
やがて男の手が止まり、そのまま地に倒れ伏す。それきり僅かにも動かず、呼吸も鼓動さえも止まっていく。
ゆっくりと子供が穴に近づいていく。涙の止まらない目を乱暴に擦り、穴の傍らに膝をつき。
少年は父の亡骸に、そっと土をかけ埋めていった。
蜩が鳴く夕暮れ時。
白い子供用の棺が、穴の中へと下ろされていく。
棺を取り囲む黒い人影は沈黙を保ち、おざなりに土をかけて棺を埋めていく。
その様子を、離れた場所で少年は見つめていた。
烏の鳴き声に、いくつかの人影の肩が揺れる。棺が見えなくなると乱暴に道具を放り投げ、急いで集落の方へと帰っていく。
しばらくして、少年は棺が埋められた場所へと近づいた。
土を丁寧にならして、形を整えていく。そうして墓を綺麗に直した後も、少年はその場から動こうとはしなかった。
蜩が鳴く。蝉時雨が響き渡る。
動かない少年と陽とは異なり、周囲の景色は変わっていく。供養塔婆が増え、盛り上がっただけの土まんじゅうが増えた。
そして倒れ伏す人影が積み上がり、すべての音が消えた。
陽が落ちても、少年はその場を動かない。
棺が埋められた土を撫で、いつしかその指は土を掻いた。
土を掘る。少しずつ棺を掘り返していく。
土に濡れた指の爪が剥がれ、血が滲み出しても止まらない。
やがて土を掘り返し、朽ち始めた棺をこじ開けて。
「また、ね」
少女の亡骸を抱き上げて、少年は小さく呟いた。
「――夏は嫌いなんだって」
不意に呟かれた燈里の言葉に、冬玄や楓が振り向いた。
困惑に目を瞬くも、言葉は止まらない。
「お母さんもお父さんも、夏の暑い日に死んじゃったから。だから、夏は大嫌い」
呟く自身の言葉に、燈里はそっと目を伏せる。
こびりついて離れない、夏の死の記憶に胸が苦しかった。
20250811 『真夏の記憶』
鳥の囀り。風に揺れる木々の騒めき。
煌めく陽と、爽やかな青の空が眩しい、そんな穏やかな午後のこと。
木々の合間をすり抜けて、少女が一人駆けていく。
その手には小さな風呂敷の包み。煌めく目をして笑い、ふわりとスカートを翻しながら、奥へと向かっていく。
やがて木々を抜けて、開けた場所に出た。
木々を切り倒して作られたその場所は、おそらくは墓地なのだろう。供養塔婆がいくつも立ち並び、その静けさがかえって空しさを際立たせていた。
墓地の脇、粗末で小さな家から少年が現れる。少女を認め、僅かに眉が下げて呟いた。
「また来たの」
「だって、皆意地悪なんだもの」
困惑する少年を気にも留めず、少女は笑顔で駆け寄る。
手にした風呂敷を半ば押しつけるように渡して、遊ぼう、と声をかけた。
「川に行こうよ。ご飯食べるなら、こんな臭い場所よりずっといいよ」
「でも……」
「大丈夫だよ。皆ここに来たがらないもん。少し離れても誰も気づかないだろうから、怒られたりしないよ」
手を軽く引く少女に、少年は一度迷うように墓地を見渡す。
けれども控えめに腹が鳴り、軽く頬を染めながら少年は無言で頷いた。
小川に足を浸して座り、少年は風呂敷をゆっくりと広げた。
中には笹に包まれた、小さな塩むすびと干し魚。野菜や漬物が少々と、飴玉が一つ。
「怒られない?」
川遊びをする少女に、少年は問う。不安そうな少年とは対照的に、満面の笑みを浮かべて少女は首を振った。
「どうせ誰も気づかないから大丈夫……それより、食べたら一緒に遊ぼうよ!」
手を振る少女に少年はそれ以上何も言えず、一つ溜息を吐くと塩むすびを手に取り齧り付いた。
楽しげな笑い声が響く。
水の跳ねる音。きゃあ、とはしゃぐ少女の声に、控えめながら笑う少年の声が混じる。
陽の光を反射して、水面が煌めく。その合間に小魚の姿が見えて、夢中でそれを追いかけた。
川遊びが終わっても、二人の遊びは続く。
鬼事や虫取り。疲れれば木陰で休み、また遊ぶ。
そうして緩やかに日が暮れ、空が赤く辺りに影が差した頃。
「またね」
見送る少年に手を振って、少女は家へと帰っていく。
小さくなっていくその背を少年は何も言わずに見つめ、しばらくしてからゆっくりと手を上げた。
「――またね」
恥ずかしそうに小さな声で、それでも嬉しさを隠し切れない。そんな柔らかな声だった。
聞こえるはずのない微かな声に、けれど少女は立ち止まる。
振り返る少女は笑顔を浮かべて、大きく手を振り返した。
「またねっ!」
笑顔で別れる二人。
けれど少女の姿が見えなくなって、少年の笑みが陰る。
何かを言いかけて口を閉ざし、俯いて家の中へと入っていく。
その背を追いかけようとして、しかし手を引かれて体が傾いだ。
誰かに手を繋がれている。
それが誰なのか、確かめるために振り返り――。
視界が暗転する。
「燈里《あかり》」
冬玄《かずとら》に呼ばれ、燈里は目を瞬き視線を向ける。
「冬玄……?」
安堵の表情を浮かべる冬玄に、燈里は申し訳なさそうに眉を下げた。
「もう大丈夫……ごめんね」
小さく謝罪すれば、冬玄は軽く笑って首を振る。気にするなと頭を撫でられて、燈里もまた力なく笑みを浮かべた。
不意に、かたりと音がした。
視線を向ければ、楓《かえで》が壊れた竹柵の一部に触れて、何かを確認している。不思議そうな燈里の視線に気づいたのか、楓は振り返り肩を竦めてみせる。
「元々、この一部が扉の役目をして、向こうに行ける作りになってたみたいだね。ただ厳重に閉じられていたから、ここに来た誰かは無理矢理こじ開けて奥に進んだみたいだけど」
軽蔑した顔をして、楓は散乱するゴミに視線を向ける。その視線を追って燈里もゴミへと視線を向け、表情を曇らせた。
「酷い……」
「まぁ、その代償は受けているんだろうけどね」
薄く嗤い、楓は言う。ゴミから柵の奥へと視線を移しながら、燈里に問いかけた。
「たぶん、目的地はこの奥だね……どうする?」
問われて燈里は柵の奥へと視線を向け、そして冬玄を見た。
眉を下げながらも強い目をする燈里に、冬玄は仕方がないと笑う。
それに笑みを返して、燈里は再び柵の先に視線を移し、告げる。
「行かないと……あの子が待ってる」
燈里自身の意思を伴った言葉。
冬玄と楓は頷き、静かに歩き出した。
細い道には、所々にゴミとは違う何かが落ちていた。
鞄か何かについていただろう、ストラップ。鈍く光る小さな鍵。
踏まれ汚れた財布を見て、燈里は怪訝に眉を潜めた。
「これって……」
不意に風が吹き抜け、木々を揺する。
ざわざわと、葉が擦れる音。次第に歪み、それは焦りを含んだ複数の若者の声に成り代わる。
――おい、早くっ。
――なんだよ。何なんだよ、あれ。
――いやだ。死にたくない。
何かから逃げ惑う声が、風と共に三人の横をすり抜けていく。
「馬鹿な奴ら。まぁでも、怖い思いはできたんだからよかったのかもね」
「そうだな。恐怖を求めて、こんな所まで来たんだろうから、本望だろうさ」
楓の言葉に、冬玄が同意する。
燈里は何も言わずに、ただこの先で待っているだろう少年を思い、目を伏せた。
冬玄と楓はそれ以上は何も言わず、誰もが口を閉ざして細道を歩いていく。
そして長い細道の終わり。鬱蒼と茂る木々の先に、墓地はあった。
雑訴すら生えない、枯れた大地。朽ちた供養塔婆の残骸が、辺りに散らばっている。
墓地の入口に、菓子や飲み物の缶が落ちていた。
袋からはみ出したスナック菓子。落ちて中身が零れた缶。
溢れたアイスクリームのカップが、それがゴミとして捨てられたのではないことを示していた。
「思わず落としたのかな?……それにしても、まるでたった今落としたばかりのようだね」
「ここに来る時にすれ違った奴らが落としたんだろうさ」
軽口を言い合いながら、二人の視線は奥へと注がれている。燈里も奥へと視線を向け、座り込む少年の姿に唇を噛みしめた。
足下の菓子の甘い匂いに混じり、土の匂いがする。
少年の前の穴は、掘られたばかりなのだろう。周囲の乾いた固い土とは異なり、黒く湿り気を帯びている。
少年の腕には、少女が抱かれていた。俯き髪を撫で続ける少年とは異なり、少女は僅かにも動かない。
「また、ね……」
風に乗って、微かな声が聞こえた。
泣くのを耐えて感情を押し殺したような。
そんな悲しい声だった。
20250811 『こぼれたアイスクリーム』
荒れた未舗装の道は、それでも人が通れる程には整えられていた。
その不自然さに、楓《かえで》は眉を寄せる。歩きながらも警戒を強め、周囲に視線を巡らせた。
「随分と静かだけど、歓迎されているってことかな」
「だろうな。じゃなきゃ、百年も前に廃れた土地に続く道が、こんなにも綺麗な訳がない」
楓のことばに、冬玄《かずとら》は不快だと言わんばかりに吐き捨てる。無言で歩き続ける燈里《あかり》を横目で見ながら、忌々しげに舌打ちをする。
集落へ続く道を歩き始めてからしばらくして、燈里は再び意識を何かに呑まれた。冬玄や楓の言葉に反応を見せず、ただ道の先を見据えて歩き続けている。
冬玄と繋いだ手は振り解かれることはなく、無理に先へ進む様子はない。それ故に様子を見ていたが、やはり引き戻すべきかと冬玄が燈里に声をかけようとした時だった。
「――あの子の両親はね。元々は麓に住んでいたんですって。けれど何かの事件に巻き込まれて、ここまで逃げてきたみたいなの」
不意に燈里が口を開く。
「皆ね、我が儘だったのよ。優しい振りをして受け入れて……皆がやりたがらなかった嫌なことを、全部押しつけた。それでいて、使えなくなったら、簡単に冷たくしたの」
「燈里?」
訝しげに冬玄が声をかけるが、燈里は止まらない。
虚ろな目が前を見据え、足を止めずに言葉を――誰かの過去を語り続ける。
「夜、皆がこっそり話していたのを聞いたの。ハカモリの子供は使えない。麓に棄てて新しいハカモリを連れてこないと、って。でも、棄てるにしても誰も触りたくなくて、近づきたくもなくて、そのまま死んでしまえば、って皆が口を揃えて言ってた……本当に酷いの。子供なんだから、大人の仕事ができなくて当たり前なのに」
少し先を行っていた楓が振り返り、燈里の元まで戻ると、そっと燈里と手を繋ぐ。
その表情に険しさはない。ただ静かに燈里の口から紡がれる誰かの過去を聞き、燈里のすべてが呑み込まれないように寄り添った。
「優しさなんてね、結局は皆にとって取引にようなものだった。特になるなら優しくして、ならないなら冷たくする……皆、自分勝手」
歌うように囁いて、燈里はくすくすと笑い声を上げた。
「――なら、私も自分勝手でいいよね。遊んじゃいけない。話しちゃいけない……そんな言いつけ。いい子で守る必要なんてどこにもないよね」
燈里の言葉に、冬玄も楓も何も言わなかった。
肯定や否定をした所で、燈里には届かない。
遠く過ぎていった過去にはどんな言葉も意味はないと、言葉の代わりに二人はそれぞれ燈里の手を強く握った。
不意に道が揺らめき、先の光景を歪ませる。
背後から冷えた風が強く吹き抜け、楓は思わず鼻で笑った。
「早く来いってさ……どうする?」
「行くしかないだろう。燈里を疲れさせずにすんだと思えばいい」
無感情に呟いて、冬玄は燈里へ視線を向ける。変わらず前だけを見て進む燈里に僅かに表情を曇らせ、名を呼ぶ代わりに寄り添った。
「――行かないと」
道の先に視線を向けて、燈里はぽつりと呟いた。
「冬玄」
「あぁ、分かってる」
冬玄と楓は互いに目配せし、頷き合う。
進む燈里を庇うように、歪む道の先へと足を踏み入れた。
ぐにゃり、と地面が揺らぐ感覚。
景色が歪み、音が消えた。
冷えた風が辺りの熱を奪っていく。陽を陰らせて、沈めていく。
一呼吸の後、道の先の景色は一変した。
暗い道の先に、朽ちた家々がいくつもその屍を晒している。
草木は枯れ、命あるものの気配は何一つ感じられない。
進み続けようとする燈里の手を、冬玄と楓はそれぞれ引いて止めた。
「これ以上は駄目だよ、燈里」
低く呟く楓の表情は、険しく鋭い。
目を凝らせば、集落には暗がりに紛れて黒い靄が立ち込めていた。
逆らうことなく立ち止まった燈里は、集落の奥へと視線を向けた。
「――あの子がいる」
燈里の言葉に、冬玄と楓は集落の奥へと視線を向けた。
「柵?」
集落とその奥とを隔てるように、長く竹柵が張り巡らされている。
その向こう側に、小さな人影があった。
髑髏を抱いた少年が、人の絶えた集落を無言で見つめている。しばらく立ち尽くしていたが、やがて音もなく踵を返し、木々の向こう側へと去って行った。
「あの子はね。お墓から動かないの」
少年が去っても視線を向けたままで、燈里は呟いた。
集落に立ち込めていた黒い靄が、少しずつ薄れ消えていく。
吹き抜ける風が木々を揺らし、遠くで微かに虫の声が聞こえ出す。
完全に靄が消えたのを見て、燈里はゆっくりと集落の奥へと向かい歩き出した。
冬玄と楓は、今度は引き留めることなくそれに続く。
崩れ落ちた家。草木に埋もれた田畑。
誰かが踏み荒らした道を辿るように、柵へと近づいて行く。
「柵はね。あの子や、あの子の家族がこちら側に来ないように作られたんだって」
柵は年月で朽ちかけていた。だがそれより目を引いたのは、無慈悲に壊された一部。
辺りに散らばるゴミの数々が、最近になって柵が壊されたことを物語っていた。
「行かないと。あの子が待ってる」
静かに繰り返されるその言葉が、風に乗って奥へと消えていく。
それは淡々としながらもどこか寂しさを含んで、木々をざわりと揺らめかせた。
20250810 『やさしさなんて』
杉林の中に、その石塔はひっそりと立っていた。
――疫痢病歿者供養之塔《えきりびょうぼつしゃくようのとう》
苔むした石に刻まれた文字と、裏の数多の名。
かつて、この先にあった小さな集落。そこに住んでいた人々の供養塔が、集落から離れた麓に建てられている。
その事実が、集落の末路を静かに物語っていた。
無言で石塔を見つめ、冬玄《かずとら》は思案する。
一度戻るべきなのだろう。穢れはこの先の集落から流れている。
だがそれを知った燈里《あかり》は、集落に行くことを望むはずだ。自身の身に起きたことだからと、危険な場所でも迷わず進んでいく。
それが冬玄は怖ろしかった。
燈里を思い、冬玄は力なく笑う。
燈里の怒りに触れることを覚悟の上で、石塔の先。未舗装の道へと足を踏み出そうとした。
「――っ!?」
近づく気配に、冬玄の動きが止まる。
弾かれたように振り返り、二人の姿を認めて目を見張った。
「お前ら……なんでここに」
「状況が思っていたよりも、良くなかったんだよ」
肩を竦めて、楓《かえで》は燈里と強く手を繋いだままに言葉を返す。軽い口調ながらも、その表情はとても険しい。
「燈里……?」
側に歩み寄ってきた二人を見て、冬玄は違和感に気づく。
燈里と視線が合わない。冬玄に気づいていないかのように、その目は集落へ続く道へと向けられていた。
不意に風が吹き抜けた。
道の奥から吹く風はどこか生暖かく、得体の知れない不気味さを孕みながら街の方へと流れていった。
「――行かないと」
流れた風に目を細め、燈里が小さく呟いた。
風に逆らうように、ゆっくりと歩き出す。楓に手を繋がれているためにすぐにその足は止まるが、燈里は手を引き先へと進もうと踠く。
「駄目だよ、燈里」
「いやだ。だって……だって呼んでる。あの子がずっと待っている。この風はお墓の風だもの」
燈里の声に呼応するように、風向きが変わった。
生暖かさは消え、冷たく凍てついた風が道の先へと誘うように強く吹き抜ける。
風に揺すられ、道の奥から木々の騒めく音がする。ざわりざわりと低く響く音は、まるで人々の囁く声にも聞こえた。
「ほら、お墓の風だ。私が来たことを感じて、呼んでいるんだ」
「燈里っ!」
強く名を呼び、楓は手を引くが燈里は嫌だと声を首を振る。
行かないと、と繰り返す燈里に、冬玄は怪訝に眉を潜めた。
「どういうことだ。何が起こってる?」
「燈里の中に入り込んだ穢れの欠片が戻りたがっているんだよ。断片過ぎて分からないけど、約束に引かれている」
振り解かれないように燈里の手を強く掴みながら、楓は冬玄に短く告げた。
「燈里の名を呼べ。冬玄」
楓の言葉が終わらないうちに、冬玄は燈里と向き合い頬を包む。
目を合わせて、強く思いを込めて燈里を呼んだ。
「燈里」
「――ぁ」
冬玄に名を呼ばれ、燈里の目が瞬いた。
楓がそっと手を離す。
自由になった手が道の先へと延ばされる。けれど何かを迷い彷徨って、その手はやがて力なく垂れ下がった。
「戻ってこい、燈里」
再び呼ばれ、燈里の肩が小さく震える。
風が止んだ。木々の騒めきも消え、静寂が訪れる。
無音。
燈里の目が揺らぐ。一筋滴を溢して、どこか虚ろだった目に光が灯る。
目の前の冬玄を認識し、燈里は困惑しながらもふわりと微笑んだ。
「冬玄」
頬を包む冬玄の手に触れ、眉を下げる。
触れる手を掴み、冬玄は燈里を引き寄せた。
「もう、大丈夫だな?」
泣きそうな呟きに、燈里は微笑んだまま小さく首を傾げて見せる。
「多分?まだよく分かってないけど」
そう言いながら、燈里は視線を巡らせる。
鬱蒼と生い茂る杉林。未舗装の道。石塔。
そこに書かれた文字に、僅かに燈里の表情が暗くなった。
「随分と古い供養塔だ。何人も死んだらしいし、もしかしたら最後の方は野ざらしだったのかもしれないね」
石塔を確認していた楓が、無感情に呟いた。
「だろうな。集落は大分離れてるのに、穢れがはっきりと感じられる……無遠慮に踏み荒らした人間共は自業自得だが、巻き添えを食らったこっちはたまったもんじゃない」
嘆息して、冬玄は改めて燈里を見た。
光を宿す目。その輝きに密かに安堵しながら、冬玄は楓へと視線を移した。
「燈里にぶつかった人間が通う学校は、今は無人だった。原因不明の病が広がっているらしい。そこで穢れが出た分けでもないってのに、伝播の勢いが強いな。だが時期に落ち着くだろう」
「じゃあ、やっぱり大元を絶たないとか」
石塔から離れ、楓は道の前に立つ。険を帯びた目を道の先へ向け、低く唸りにも似た声を上げる。
「僕としては、燈里にはこれ以上踏み入れてほしくないんだけどな」
「俺だってそうだ……でも燈里は行くんだろう?」
答えを知りながら、冬玄は燈里を見据えた。
その目を見返して、燈里は強く頷く。
「冬玄も楓も止めるだろうけど、私は一緒に行くよ。自分のことだもの……それに、もう置いていかれたくない」
「――仕方ないな」
意志を曲げない燈里に、冬玄は苦笑する。
軽く頭を撫でて、手を繋ぎ直した。
「俺や楓から絶対に離れるなよ」
「分かってる」
繋いだ手に力を込めて、燈里は道の先へと足を向ける。
冬玄もまた、燈里に寄り添うようにして、ゆっくりと歩き出した。
二人の少し先を、楓が先行する。
ふわり、と風が吹いた。
道の先から吹く柔らかな風。甘ったるい匂いを漂わせ、手招くように静かに吹いている。
「嫌な風だ。死の匂いがこびりついて、酷く不快な感じ」
顔を顰め、楓が吐き捨てる。
墓地から吹く死の風。集落を絶えさせた疫痢。
長い時を経ても消えない、死の穢れ。
――またね。
風に乗って、声が届く。
そんな気がして、燈里は小さく身を震わせた。
20250809 『風を感じて』
深く、どこまでも落ちていく。
目を開けているのか、それとも閉じているのか分からない暗闇。冷たく重い何かが全身に絡みつき、指先ひとつ動かすことができない。
湿った土の匂いがした。それならば、この絡みつく何かは土か、あるいは水なのか。
不意に、甘く焦げた香のような匂いがした。酷く懐かしく、それでいて切ない思いが胸を焦がす。
遠くで笛の音が聞こえた。誰かが鉦を叩く音が、笛の音と重なり響き合う。
暗闇の中、微かに何かが見えた。いくつもの影が揺らいで、過ぎていく。
気づけば、どこかの葬式の列に立っていた。
白い布に包まれた顔。棺の蓋を釘で打ち付ける音。
深く暗い穴に、棺が下ろされていく。
視界の端で小さな影が揺らいだ。視線を向ければ、そこには背の低い、まだあどけなさが残る少年の姿があった。
誰からも視線を向けられず、誰にも視線を向けることなく。ただ静かに、無感情に棺が埋められていくのを見つめていた。
大人達に気づかれぬよう、こっそりと少年に近づいた。けれどもそれを察してか、少年はこちらに背を向け去ってしまう。
諦めきれなくて、少年を追いかけた。辺りは次第に色をなくし、やがては少年以外何も見えなくなる。
甘く苦い、香の匂いが漂う。伸ばした手の異様な小ささに、ようやく気づく。
それでも足は止まらない。少年の背を追い続ける。
――またね。
どこからか、声が聞こえた。
恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうに。言葉を噛みしめるような、そんな小さな声。
思わず足を止めた。去って行く少年の背を、呆然と見つめる。
――いかないで。
耳元で、声が囁いた。
小さく、微かに。伝えられない思いが、耐えきれずに零れ落ちてしまったかのような声だった。
不意に少年が立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
表情の抜け落ちた顔。痩せて土にまみれた手足。
その腕に抱かれているものを認めて、息を呑んだ。
それは小さな髑髏だった。少年と同じ年頃の、あるいは少年よりも幼い小さな骨。
ぽっかりと開いた眼窩から、黒い煙が溢れ出している。重く澱んだその煙は地面を漂い、足下に絡みつく。冷たい痛みを伴って、足から腰、腕と全身が絡め取られていく。
呼吸が苦しい。息を吸えば煙が体の内側に入り込み、肺を喉を灼き、臓腑を腐らせていくかのようだ。
意識が揺らぐ。いつの間にか少年の姿はなく、また何も見えない暗闇が、どこまでも広がっていた。
――燈里《あかり》。
名を呼ばれて、僅かに意識が鮮明になる。
自分を導く、北の星。彼が呼んでいる。
見上げた空から、いくつもの白い結晶が降り注ぐ。頭に四肢に降り積もり、絡みついた澱みを連れて、雪は儚く溶けていく。
呼吸が楽になり、体は自由を取り戻す。改めて見た腕は小さな子供のものではなく、自分のそれだった。
――おいで。
彼が呼んでいる。
暗闇の中でも、どこへ行けばいいのか迷うことはない。
北の星は動かない。自分の心にある羅針盤の針は、常に彼を指し示している。
一歩、足を踏み出した。足下の暗闇が溶けて消え、土と骨に塗れた大地が露わになる。
地面を見ないように、顔を上げて歩き出す。寂れた墓標が立つだけの墓地を抜けて、声が聞こえる光の方へと向かっていく。
――またねっ!
背後で声がした。先ほど聞こえた声とは違う、楽しげな子供の声。
――燈里。
思わず振り返りそうになる自分を、彼の声が止める。
前に向き直り、ただ彼の声だけを求めて歩き出した。
光が強くなる。思わず目を閉じて立ち止まり。
強く、腕を引かれて目が覚めた。
「燈里」
冬玄《かずとら》の呼ぶ声に反応し、燈里はゆっくりと目を覚ました。
まだ完全に覚醒してはいないのだろう。焦点の定まらない目が、不安に揺れて冬玄を探していた。
「冬玄?」
「大丈夫だ。ここにいる」
縋るものを求めて伸ばされた手を取り、冬玄はここにいると示すかのようにゆっくりと繋ぐ。大丈夫だと繰り返せば、強張っていた燈里の体から次第に力が抜けていく。
「もう一度眠るといい。今度は余計な夢も見ないだろう」
「――うん」
優しく囁けば燈里はふわりと微笑んで、そっと瞼が落ちていく。しばらくすれば規則正しい寝息が聞こえ、冬玄は小さく息を吐いた。
「穢れはすべて祓われたみたいだね」
ベッドサイドで香を焚いていた楓《かえで》の表情が幾分か和らぐ。香炉の火を落として、それにしても、と呟いた。
「燈里にぶつかったっていうその生徒。どこでこんな穢れを貰ってきたんだか」
呆れたような口調でありながら、その目は鋭さを孕んでいる。
「冬玄」
「なんだ、楓」
名を呼ばれて、冬玄は楓へと向き直った。
楓もまた真っ直ぐに冬玄を見つめ、口を開く。
「燈里が縁《えにし》を結ばれた。原因を何とかしないと、また同じことの繰り返しだよ。いくら禊ぎや祓いをしても、切りがない」
「――そうか」
低く呟いて冬玄は燈里へと視線を移す。慈しむように頬を撫でて、静かに立ち上がった。
「どこに行くんだい?」
「あの生徒は触穢だろうから、本人に接触しても意味がない。なら、学校の方を探す」
そう言って、冬玄は部屋の外へと向かう。
楓は何も言わない。それをありがたく思いながら、冬玄は楓に頭を下げた。
「ある程度情報が集まったら戻ってくる……それまで、燈里を頼む」
「言われなくても分かっているよ」
冬玄の頼みを、楓は当然だと笑う。
それに笑みを返して、冬玄は部屋を出て行った。
20250807 『心の羅針盤』
無音。
耳が痛くなるほどの静寂。虫の声や、風の音。身動ぐ時の衣擦れの音すら聞こえない。
ここはどこなのだろうか。
白く霞む景色は、すべての輪郭を曖昧にさせている。
ふっと、息を吐いた。その微かな音すら耳には届かない。
ゆっくりを視線を巡らせる。
何も分からない。白以外が見えない。
不意に、目の前の景色が揺らいだ。
白以外の色が揺らぎ、浮かび上がる。
遠くに、小さな影。こちらに背を向け去って行く。
思わずその背を追いかけた。
やはり足音はしなかった。静寂が支配する白の空間で、唯一色のある影を必死で追った。
けれども、思うように進めない。影との距離が縮まらない。
何故だろうかと考えて、何気なく視線を落とす。
小さな赤い靴を履いた細い足。歩く度にふわりと広がる桃色のスカート。
地面が近い。子供の目線だと、ようやく気づいた。
影が立ち止まる。
こちらを振り返るあの子の表情は、乏しいながらも柔らかだ。
少しだけ眉を下げて笑う。
「また来たの」
無音の空間で、その声はやけにはっきりと聞こえた。
待っていてくれることに嬉しくなって、あの子の元まで駆け出した。
白の空間で、二人並んで歩き出す。
手は繋がない。触れることは駄目なことなのだと言っていた。
その理由は教えられなかった。それでもいいかと、あまり気にも留めなかった。
白が染まっていく。
青に染まって、次第に赤へと色を変えていく。
帰る時間がきてしまった。
振り返り、歩いてきた道を引き返す。
何かを言いかけ止めるあの子に、手を振った。
「またねっ!」
また、明日。
一方的な言葉は、あの子のくしゃりとした笑みで、約束になった。
「――またね」
小さな呟き。
満たされた思いで、跳ねるように駆け出した。
次の瞬間、世界が真っ黒に染まった。
目を閉じていても、開いていても変わらない黒。
そもそも目を開けているのかすら分からないほど、感覚が曖昧だった。
手足が動かない。動いているという感覚がない。
黒の世界の中。木と土の匂いがして、そのあまりの強さにくらりと世界が揺れた。
遠くで何か音がした。
声ではない。土を掘る音。
かたん、と何かの音が聞こえ、黒の世界に一筋白が紛れ込む。
その白を遮るように、誰かの影がかかった。
何かを言っている。だがそれは、言葉として耳には届かない。
ゆっくりと影の手が伸ばされる。
頬に触れ、そのまま後ろに手を滑らせて――。
そこで、燈里《あかり》は目が覚めた。
薄暗い部屋。甘く苦い、香の匂い。
それに混じり土と木の匂いがする気がして、燈里は深く息を吸い込んだ。
ゆっくりと吐き出す。それを何度か繰り返して、次第に意識は覚醒してきたのだろう。まだ虚ろだった燈里の目が、焦点を結ぶ。
「起きたの?」
「楓《かえで》……?」
燈里が目覚めたことに気づいた楓が、テーブルライトをつける。
仄かな光が、周囲をぼんやりと浮かび上がらせる。
見慣れた室内の光景に、燈里は目を瞬き楓を見た。
「楓」
「駄目だよ」
燈里が何かを言う前に、楓は静かに首を振る。
「あれは、夢じゃない……行かないと」
「行かせられない。駄目だよ、燈里」
起き上がろうとする燈里を押し止め、楓は険しい表情で駄目だと繰り返す。
嫌々と首を振り泣く燈里の頭を撫でながら、言い聞かせるように囁いた。
「燈里が見ていたのは、ただの夢だよ。もう一度寝てしまえばすぐに忘れてしまうような、そんな些細な夢さ」
「違うっ!夢じゃない。あの子は本当にいたの。またねって、約束をしたのに……なんで皆、駄目だって言うの?会っちゃ駄目なんて、どうしてそんな酷いことを言うのっ!?」
「燈里!」
楓を振り払い、燈里はベッドから転がり落ちるようにして抜け出した。すぐに立ち上がろうとするが、穢れに中てられ衰弱していた体はふらつき、すぐに膝をつく。
「燈里」
それでも、這ってでも外へと向かおうとする燈里を見て、楓は小さく息を吐き、その背に抱きついた。
「会いたいの?」
「会わなきゃ。またねって、約束したんだから……あの子が待ってる」
床に爪を立てて前へ進もうとする燈里の手を取り、軽く引く。振り返る燈里と目を合わせ、楓は悲しく笑った。
「分かった……でもその前に、冬玄《かずとら》の所に行こうか」
「かずとら……?」
涙に濡れる目を瞬いて、燈里が小さく呟いた。
幼い子供のようなたどたどしさで、冬玄の名を呼ぶ。何度も繰り返して、燈里の目がはっきりと楓を見つめた。
「――楓?」
「そうだよ。おはよう、燈里」
「おはよう……?」
燈里の目が楓を見て、部屋を見渡す。見慣れた自室を認めて、困惑したように眉を寄せた。
「冬玄は?それにあの子……あぁ、いや。そうじゃない」
頭を抑えて首を振る。
現実の記憶と夢の中の記憶が混ざり合い、燈里は呻くように声を上げた。
「大丈夫だよ。まぁ、ちょっと困ったことにはなってるけどね」
燈里の背を撫でながら、楓は密かに安堵の息を吐いた。しかし燈里の様子に油断はできないと、真剣な眼差しで、燈里に告げた。
「二日前、燈里にぶつかった人間がいたことを覚えているかい?その人間が少々厄介な穢れを燈里に移してね……つまり、触穢に接したんだよ」
楓の言葉に、燈里は記憶を辿る。
一瞬だけすれ違った人影を思い出し、夢の記憶と照らし合わせて顔を顰めた。
「学生は夏休みだもんね。肝試しにでも行ったのかな」
「その人間か、別の誰かから穢れが伝播したのかは分からない。でも誰かが墓地に足を踏み入れた。それも、かなり古い……おそらくは土葬されていた墓地に入ったのは確実だ」
墓地の言葉に、燈里は思わず目を伏せた。
夢で見た少年が抱いていた小さな髑髏。その眼窩から漏れ出す黒の煙を思い出す。
触れたものすべてを浸食するかのようなあの黒が、穢れなのだろう。
「穢れ……死穢、か」
「そうだよ。しかも、さらに厄介なことに、その死穢と縁が結ばれている」
「縁?」
意味が分からず、燈里は困惑する。
穢れと縁が結ばれる。それではまるで、死穢が人ではないか。
あり得ないと否定しながらも、燈里の脳裏に髑髏を抱いた少年が浮かぶ。少年ならばあるいは、と思いながら夢で聞いた声を思い出した。
――またね。
些細な約束に、行かなければという衝動が沸き上がる。
理由の分からないその衝動に戸惑い楓を見れば、悲しい笑みを返された。
「縁を結ばれている限り、また燈里は穢れに晒される。今、冬玄が情報を集めてくれてはいるけれど、燈里の方が保たないだろうね」
「どういうこと?」
燈里の疑問に楓は敢えて答えず、代わりに手を差し出す。
「冬玄の所へ行こうか。燈里がまた引かれて、重なってしまう前に、こちらから動いた方がいい」
燈里の脳裏を少年が過ぎていく。
思い出せないもう一人を感じながら、それでもまずは動かなければと、燈里は楓の手を取った。
20250808 『夢じゃない』