sairo

Open App
8/8/2025, 8:47:05 AM

夕暮れの校舎内は、ひっそりと静まりかえっている。
耳を澄ませば、遠く蝉の声に混じり、蜩の鳴き声が聞こえた。
青から赤へと色を変えていく空。陽が陰っていても、肌に纏わり付くような暑さは少しも和らぐ様子がない。
かたん、と引いた椅子が音を立てる。普段ならば気にもならない音が、教室内に響いて小さく息を呑んだ。
部活で残っていたはずの他の生徒達も皆帰ってしまったのだろう。この時期活動が盛んな運動部は、屋内以外の活動を禁じられている。屋内活動だとしても、大分前に下校時間が来てしまっていた。
熱中症対策。先生達はそう言うものの、本当は別の理由があることは殆どの生徒が知っていた。

――校舎内に一人でいる時に、後ろから知らない誰かに声をかけられても振り返ってはいけない。

夏休みが始まってしばらくして、広がり始めた暗黙のルール。
誰が言い出したのかは分からない。最初は誰しもがそのルールを笑い、気にも留めなかった。

机の中から置き忘れたノートを取り出す。取りに戻ることを迷って、結局取りに来たノートがあったことに安堵の溜息が出た。
少し乱暴に椅子を戻して、ちらりと窓の外を見る。
赤く染まり沈んでいく陽が、とても怖ろしいもののように思えて、慌てて視線を逸らす。

――振り返ってしまえば、憑かれてしまう。

誰も気にしないルールが、守らなければいけないものに変わったのは、噂が流れ出してからだ。
何に憑かれるのかは分からない。ただ、噂が広がり始めてから、明らかに部活に参加する生徒の数が減っていた。
憑かれてしまうと、数日以内に原因不明の高熱が出る。実際に何人も病院に運ばれたらしいと、友人達から話を聞いた。

――校舎内に一人でいると……。

ふるりと肩を震わせて、手にしたノートを急いで鞄に詰める。
忘れ物をしなければ、と何度も後悔しながら、鞄を手にして足早に教室を出た。
窓から夕陽が差し込んで、廊下を赤く染めている。今にも何かが現れそうな雰囲気に足が竦みそうになった。

――後ろから声をかけられても……。

噂を思い出す。このまま校舎にいれば、声をかけられるかもしれないと思うと、止まっていた足がゆっくりと動き出した。

とても静かだ。
先生達は残っているはずなのに、音も声も聞こえない。
自分の歩く音だけが廊下に反射して、心細さに泣きたくなった。
微かに聞こえていた蝉や蜩の声が止んだ。少しの沈黙の後に、先ほどよりも大きく泣き出した。
自然と足が速くなる。後ろを気にしないようにするほど、後ろが気になって仕方がない。
そんなことを思いながら、昇降口で靴を履き替え、外に出ようとした時だった。

「――またね」

小さく、誰かの声が聞こえた。
後ろから。知らない子供の声が。

「――っ!?」

体が強張る。
今すぐにここから逃げ出したいのに、足が少しも動かない。
声変わりのまだの、幼い少年のような声だった。
恥ずかしそうで、それでいて嬉しさをかくしきれない。
そんな柔らかい響きに、怖さと同時に切なくなった。
誰が誰に伝えようとしているのだろう。体が動かないことに、少しだけ安堵する。
今体が動いてしまったのなら、後ろを振り返って誰かを確認したくなるのだろうから。

じとりと、熱気が肌に纏わり付く。
唯一動かせる視線で辺りを見た。何も変わらない、いつもの昇降口。誰かが置き忘れた傘。夕陽を反射して煌めく埃。
視線を落とせば後ろの窓から差し込んだ赤い陽の光が、影を伸ばしていることに気づく。
自分の影が、昇降口から外へと伸びている。
その隣。重なるように伸びた小さな影があった。
すぐ後ろにいる。何かをするでもなく、ただ立っている。
僅かに視線を動かせば、土に濡れた裸足の足が見えた気がした。
咄嗟に目を閉じる。何も見ていないと、呪文のように心の中で繰り返して、動かない足に力をいれた。

「また、ね……」

ぽつりと声がした。
すぐ後ろ。耳元で。
泣くのを耐えているかのような、静かな声。感情を押し殺して、無機質に響く。
けれど僅かに震えているのがはっきりと感じられて、声にならない悲鳴が漏れた。
その瞬間。あれだけ動かなかった体が、動いた。
逃げなければ。その思いで目を開ける。必死で足を動かして、昇降口を抜けて校庭へと飛び出した。
校門まで一気に駆け抜ける。今にも影が追いついてきそうで、下は見れなかった。

「っ、はぁ……」

校門を抜け、荒い息を吐く。呼吸を整えながら、ふと先ほどの声を思い出して。
気づけば、校舎へと視線を向けていた。

「――ぁ」

昇降口の前。
無表情に佇む、小さな少年と目が合った。
ぼろぼろのサイズの合っていない服。無造作に伸びた髪。
その手足は細く白く。土にまみれて汚れている。
距離があるのに、はっきりと見える。
感情が抜け落ちたかのような表情。その腕に――。

ひっと、短く悲鳴が漏れる。
大切そうに抱え持つ、土に汚れた白は。

少年と同じくらいの、小さな髑髏だった。





脇目も振らず、一人の生徒が暗くなった道を駆け抜けていた。

「――痛っ」
「大丈夫か?」

途中、道を行く女にぶつかるが、気にする余裕もなく走り去る。女の側にいた男が心配そうに声をかけるが、その表情はすぐに険しいものへと変わる。
生徒が去って行った方向へと視線を向けるものの、既にその姿はない。

「あの野郎っ!」
「大丈夫。別に怪我もしてないし、きっと急いでたんだよ」

男の腕に触れながら女は微笑むものの、先ほどまでとは明らかに様子が異なっていた。
浅い呼吸。顔色は悪く、足下もふらついている。
力が入らなくなったのだろう。崩れ落ちそうになる女の体を男は抱き留める。

「あ、あれ?おかしいな、別に調子は悪くないはずなんだけど」
「穢れに中てられたんだから当然だ」

女を抱き上げて、男は険しい顔のまま踵を返した。

「え、冬玄《かずとら》?」
「帰るぞ……早く、禊ぎをしないと」

そう告げて、男――冬玄は小さく舌打ちをする。

――またね。

微かに、子供の声が聞こえた気がした。



20250806 『またね』

8/7/2025, 6:32:00 AM

「風になりたい」

ごろりと横になりながら、吹き抜ける風を羨んで言葉が出る。

「今度は風か。その前は魚だっけ」

くすくすと笑いながら、声がする。寝転がったまま視線を向ければ、彼女が苦笑しながらこちらを見下ろしていた。

「最近、暑くなってきたからねぇ」

そう言って、彼女は手にしていた瓶をこちらに手渡す。
既に栓の抜かれた、サイダーの瓶。起き上がって受け取って、冷えた瓶をしばらく眺めた。
いくつもの小さな気泡が上がって、そして弾けて消えていく。その儚さに、小さく吐息が零れた。

「泡になりたい」

思わず呟いた声は、自分でも驚くほどに覇気がなかった。

「どうしたの?何かあった」

彼女の笑みが消えて、心配そうに眉を下げる。
それに何でもないと首を振って、誤魔化すようにサイダーに口を付けた。
口の中で気泡が弾ける感覚に、再び泡になりたいと呟きそうになり、溜息を吐く。益々心配そうにこちらを見つめる彼女に力なく笑って、小さく呟いた。

「ちょっとね。ここに来る前の夢を見ていたの」

まだ何も知らない子供だった時の夢。
幼馴染みと、無邪気に将来の夢を語っていたあの時。柔らかく微笑む幼馴染みに、懐かしさと切なさが込み上げた。

「ここに来たこと、後悔してるの?」

そう問われて、首を振る。
後悔はしていない。技術が認められたこと、自分で選択したことに後悔はない。
ただ、幼馴染みに対しては、ひとつだけ小さな後悔に似た思いはあった。

「さよならくらい、言えばよかったかなって……戻りたいなんて思わないし、明日になれば忘れることもできるけど」

幼馴染みとは、また明日と別れてそれきりだった。
ちゃんと別れを告げていれば、きっとこんなにも切ない思いを抱えることはなかっただろう。

「大丈夫。すぐに忘れられる……私の織る布のように、色をなくして輪郭さえも分からなくなる」

サイダーを飲み干して、立ち上がる。
そろそろ戻らなければ。ちょうど玄関から鈴の音が聞こえて、座敷へと向かう。
来訪者。織物を求めて訪れる者達にどこか申し訳なさを感じて、足取りが重くなる。

「貴女のせいじゃないわ」

隣を歩く彼女が言う。

「貴女の織物の技術は素晴らしいもの。私の紡いだ糸を、最高の形で仕上げてくれる……ただ染め手がいないから、完成しないの」
「うん、分かってる。大丈夫だよ」

大丈夫と、自分に言い聞かせるように繰り返し、座敷に入る。
すでに面布を着けた来訪者が待っているのを一瞥して、奥から一枚の織物を取り出した。
真っ白な絹織物。それに織り込まれた模様など、誰にも分かりはしないのだろう。

「――こちらをどうぞ」

嘆息しそうになるのを堪えながら、織物を来訪者へと手渡す。
恭しく受け取って、来訪者は織物を広げ――。
白く透明な、泡沫の夢の中へと消えていった。

「貴女のせいじゃないわ」

彼女が宥めるように背を撫でる。
それに何度目かの大丈夫を返して、笑ってみせた。

「ありがとう……そろそろ戻らないとね」

呟いて座敷を出る。
幼馴染みとの記憶の切なさと、白の糸だけで織った布のもどかしさと。
飲み干したサイダーの気泡のように弾けて消えればいいのにと、密かに唇を噛みしめた。





その日訪れた来訪者は、他の者達とどこか何かが異なっているように感じた。

「こちらをどうぞ」

違和感を感じながらも、いつものように織物を手渡す。
こちらから目を逸らさず受け取った来訪者は、織物を一瞥し、再びこちらに向き直った。

「白いな」

初めて指摘され、思わず手を握りしめる。
来訪者は変わらず真っ直ぐにこちらを見つめ、視線を逸らすことを許さない。面布越しでありながらはっきりと感じられる強い視線に、そっと息を呑んだ。

「これでは求める夢を見せることなどできないだろう」

静かな声が容赦のない言葉を紡ぐ。
そんなこと、自分がいつも感じていたことだ。
どんなに良質な糸だろうと、白糸だけでは模様が織れない。だからといって安易に染めてしまえば、糸自体を駄目にしてしまう。
夢を――それも予知夢と言われる類いの夢を織る自分には、それは致命的だった。けれども、どうしようもできないことでもあった。

「それはっ――」

隣にいた彼女が何かを言いかける。けれどそれを手で制して、来訪者は織物へと視線を落とし軽く撫でる。

「絹糸も、織り方も申し分ない。ただ色だけが足りない」

そう告げて、来訪者は顔を上げる。
ゆっくりと面布に手を伸ばして、それを取った。

「――ぁ」

隠されていた顔が露わになる。
知らない男の人。けれどもどこか懐かしい面影に、胸が苦しくなった。

「俺が糸を染める。ここに来る前は、ずっとそうだったように、お前の織る糸はすべて」

強い眼差しに、いつか見た夢を思い出した。
幼馴染みが染めた糸はどれも色鮮やかで、思い描いたものをそのままに織ることができた。
けれど幼馴染みは常に色に飢えていた。表現できる色の限界を求めて、努力を怠らない人だった。

「ここまで至るのに、思ったよりも時間がかかってしまった。だがこれでお前の求める色は、寸分違わず染め上げることができる」

微笑む幼馴染みの手の中の織物が、じわりと色を持ち始める。色鮮やかに煌めくそれは、一部だけでも何を表しているのかがよく分かる。
故郷の夜祭の風景だ。花火と提灯の灯り、そして神楽。
あの頃求めて、再現できなかった織物の柄がようやく完成したのだ。

「素敵ね……懐かしいな。故郷のお祭も、こんな感じだった」

織物を覗き込んで、彼女が切なげに目を細める。
声をかけるべきかを悩んでいると、こちらを見た彼女が眼を輝かせて微笑んだ。

「染め手がようやく来てくれた。これでようやくお役目を全うできるね」
「そうだね……やっと、求めるものが織れるんだ」

彼女の言葉に、幼馴染みを見る。強く頷く幼馴染みに、遅れて染め手という意味を理解して、鼓動が速くなっていく。
夜祭を再現した織物が、静かに空中に溶けていく。
泡沫の夢は弾けて消えず、ただひとつの現実を残して去っていった。





一人縁側に座り、空を見上げていた。

「今度は何になりたいの?」

サイダーの瓶を手にした彼女がこちらに歩み寄り、楽しそうに問いかける。二つある内の一つの瓶を手渡して、隣に座ってサイダーを飲んだ。

「また、泡にでもなりたい?」

笑って首を振る。

「泡になって弾けて消えるより、泡沫の夢を皆に見せたいな」

今はそれができるのだから。
鮮やかに染め上がった絹糸を思い出して、笑みが浮かぶ。
ふわふわとした気持ちで、サイダーに口を付けた。

「そうね。私も、糸の紡ぎ甲斐があってとても嬉しいわ。彼には感謝しないとね」

彼女が笑う。
サイダーを飲みながら、確かにと強く同意した。
りん、と鈴の音が聞こえた。どうやらまた来訪者が現れたらしい。

「行かなきゃ」

急いでサイダーを飲み干して、立ち上がる。

「いってらっしゃい」

軽く手を振る彼女に別れを告げて、歩き出す。以前と違って座敷に向かう足は軽やかだ。

座敷に入り、待っていた来訪者へと、求める織物を差し出す。

「こちらをどうぞ」

緻密な模様の描かれた織物が来訪者の手に渡り、広げた瞬間。
極彩色の景色を纏いながら、来訪者は泡沫の夢へと誘われていった。



20250805 『泡になりたい』

8/6/2025, 9:44:04 AM

人混みを掻き分け、吹き流しの下をいくつも潜り抜けていく。
高鳴る鼓動に、知らず口元が緩む。抑えきれない思いが、足を速めていく。
今年もまた、夏が来た。
笹に吊された七つ飾りが、ひしめく人々の目を楽しませている。長く受け継がれてきた願いを思うと、益々胸が高鳴った。

賑やかな商店街を抜けて、路地裏へと抜ける。いくつもの角を曲がれば、次第に賑やかさが遠ざかり、静寂が場を満たしていく。
香ばしい食べ物の匂いではない、澄み切った自然の香り。思わず立ち止まり、深く息を吸ってその香りを堪能した。
いつの間にか、辺りは街中とは思えぬ程に様相が変わっている。木と石畳の道が続く先に朱色の鳥居を認め、腕の中の包みを強く抱きしめた。
走り出す。鳥居に向かい、一気に駆け抜ける。
鳥居の先では、今年もきっと彼が待ってくれているだろう。
そう思うと、急く心を抑えられなかった。



「ただいまっ!」

鳥居を抜けて、その先で待っていた彼に飛びついた。

「おかえり。相変わらず、落ち着きのない娘だ」

呆れたように笑いながらも、彼は簡単に抱き留めてくれる。
その事すら嬉しくて、押しつけるように手にしていた包みを渡した。

「早く見て!今年は、本当に自信があるんだから!」
「去年も同じことを言っていたな」

軽く息を吐きながら、彼は包みを開く。
折りたたまれていた白の布を広げて、僅かに目を細めた。
布に刺繍された龍の模様。真剣な面持ちで彼は刺繍を見つめ、時に裏返して糸を確認する。
この瞬間はいつも緊張するが、一番好きな時間だった。
今年こそ、彼に認められるかもしれない。去年よりも時間をかけて刺繍を確認する彼の様子に、期待が高まる。
一年間、この日のために努力してきた。去年指摘されたことは改善して、さらに技術を磨いていた。
自分の技術を彼に認めてもらうために。
今まで彼に教えられたすべての結果を、その成果を認めて欲しかった。

「――そうだな。確かに、去年指摘した針目は揃ってきているが」

そう言って、彼は顔を上げる。
期待に笑みが浮かぶが、しかし、と続ける彼に小さく肩が震えた。

「まだ甘いな。鱗の部分、尾の部分の針目が歪んで、布地も僅かによれている。その部分の裏側も捻れているな。表ばかりを気にするからだ。それから――」

容赦のない彼の指摘に、笑みが消えて肩が下がる。
今年も駄目だった。完成には至らなかったのだと、悔しさで唇を噛みしめる。
それでも俯くことはせず、食い入るように彼の指摘する部分を見つめ、彼の言葉に聞き入った。


「まあ、こんな所か」

指が止まる。
視線を刺繍から彼に移すと、軽く笑いながら頭を撫でられた。

「そう落ち込むな。構図はしっかりしてきている。集中を切らさぬようにすれば、それだけで十分に改善する」
「――うん。分かった、ありがとう」

気恥ずかしくなって俯いた。
頭を撫でる手が一層優しくなって、居たたまれなくなる。

「もう七年になるか。出会った頃に見たものは、構図も糸目も見れたものではなかったから、随分と成長したな」
「っ、言わないでよ!」
「良いことだろうに……ほら」

頭を撫でる手が離れていく。
少しだけそれを寂しく思っていれば、その手に音もなく小さなハンカチが現れ、目を見開いた。

「まさか、それって……!」
「比べて見れば、よく分かるだろう」

幼い子供の描いた落書きのような、歪んだ構図。糸目はばらつき、所々でほつれてしまっている。色合いと輪郭から辛うじてひまわりの花だと分かるそれは、彼と初めて出会った時に作った刺繍だった。

「やめてよ。恥ずかしい」

慌てて手を伸ばすが、ハンカチには届かない。

「何を言う。振り返ることは、大切なことだ」

そうは言うものの、彼の目は明らかにこちらの様子を見て楽しんでいた。
きっ、と彼を睨み付ける。それを気にもかけずに、彼はハンカチを見つめて懐かしいなと呟いた。

「あれから努力を怠らなかったことは、褒められるべきことだ」
「だって、悔しかったし……あれだけ、酷いことを言われたんだもん」

上手になりますようにと短冊に願い、この場所に迷い込んだ時に手にしていたそれ。
偶然出会った彼はそれを見て、幼い子供に対しては辛辣な言葉を投げつけたのを思い出す。
構図が歪みすぎて、元の絵が分からないだとか。基本がなっていないだとか。
それと同時に、どうすれば上達できるのかを丁寧に教えてくれた。
布の張り方や糸の縫い付け方、構図の整え方など。泣く自分に根気強く、刺繍の基礎をたたき込んだ。

「一期一会だと思っていたが、あれから毎年欠かさず来るとは、正直思わなんだ」

ハンカチの刺繍を指でなぞりながら、彼は言う。

「技量は申し分ない。来年こそは完成するだろうが、それでもここに訪れるのか?」
「どういう意味?」

首を傾げて問えば、彼は真っ直ぐにこちらを見た。
手にしたハンカチや布を掲げ、静かに告げる。

「お前ごと、奉納されるということだ」

あぁ、と声を漏らし、頷いた。
母や、従姉妹と同じ役割が与えられるということだろう。棚機津女《たなばたつめ》のように、神のためにその身を捧げるのだ。
頷いて、でも眉を下げる。
認めてはもらいたい思いはあるものの、それだけで満たされはしないことは理解していた。

「私、刺繍が認められたら、和裁をしたいのだけれど。なんだったら、機織りから始めてみたいの」
「随分と欲張りなことだな」

目を細めて彼は笑う。
けれど欲張りだと言いながらも、彼の目はとても嬉しそうだ。

「来年、短冊にその願いを書くといい。また基礎からじっくり仕込んでやろう」
「ありがと……ねえ、私にできると思う?」

少しだけ不安になって問いかける。彼は不可解だといわんばかりの顔をして、逆に問い返してきた。

「お前は叶わない願いを短冊に書くのか?」

願うだけで努力をしないのか。
そう言外に問われて、苦笑した。

「書かない。願いを叶えるために短冊に書くのだから」

そう返せば、満足そうに彼は笑う。

「ならば、存分に励むといい……来年、お前の刺繍が完成することを楽しみにしている」

彼は信じてくれている。それだけで自信が出て、早く家に帰りたくなった。
姿勢を正して彼と向き合う。
深く礼をして、笑った。

「楽しみにしててね。じゃあ、いってきます」
「いっておいで」

彼に背を向けて走り出す。
鳥居を抜けてしばらくすれば、街の賑わいが戻ってきた。

心が弾む。来年はどんな構図にしようか考えながら、商店街の吹き流しを横目に家路を急いだ。

来年、彼にただいまと言うのが、今から待ち遠しくて堪らなかった。



20250804 『ただいま、夏』

8/5/2025, 6:43:30 AM

鮮やかな青と白のコントラスト。
煩いくらいの蝉の鳴く声。時折混じる、涼やかな風鈴の音。
縁側で寝そべりながら、ぼんやりと空を見上げていた。
手探りでラムネの瓶を探る。
指先が濡れた瓶に触れ、その感覚に思わず眉が寄る。
いつの間にか随分と時間が経ってしまったらしい。手に取った瓶は、すっかりぬるくなってしまっていた。
小さく溜息を吐いて、のそのそと起き上がる。口をつけた瓶の中身はやはりぬるく、すっかり炭酸が抜けてベタつく甘ったるさしか感じられなかった。
ラムネだったものを飲みながら、ちらりと視線を隣に向ける。
細く青白い二本の足が見えて、どうしたものかとまた頭を悩ませた。



足が見え始めたのは、数日前の病院からの帰り道だったように思う。
日頃の不摂生が祟り、連日の暑さもあって気づけば病院に運ばれていた。
点滴を打たれた帰り道、背後からひたひたと裸足の足音がついてくるのに気づいた。
足を速めれば後ろの足音も速くなり、立ち止まれば足音も止まる。
意を決して振り返れば、すぐ後ろに足がいた。
子供の細い足。どこへ行っても追いかけてくる。
初めこそは怖がっていたが、ただついてくるだけの足に、いつからか興味の方が強くなった。
誰の足なのか。何故ついてくるのか。
側にいるだけで、何かを訴える様子もない。
監視するかのように側を離れない足との意思疎通を、本気で悩んでいた。



瓶の中身を飲み干して、再び横になる。
夏の陽射しは容赦なく周囲の温度を上げていくが、家の中に戻るのは億劫だった。
幸い、見上げた空に浮かぶ陽は傾き始めている。あと数時間後くらいには、陽は陰ってくれることだろう。
そんな楽天的な考えで空を見上げていれば、視界の端で隣にいたはずの足が寝転ぶ頭の上に移動するのが見えた。
相変わらず、細くて白い足だ。膝から上はどんなに目を細めても見えない。
どうすれば、側から離れない足の意図を知れるだろうか。

「――ねえ……っ!?」

無駄だと知りながら声をかけようとして、不意に額に感じた冷たい感覚に息を呑んだ。
熱を奪う冷たい何か。それが小さな手だと知って、途端に動けなくなる。
ぺたぺたと顔面を触られる。小さな手に頬を包まれ、首筋に触れられ。
そして最後に、頭を叩かれた。

「痛っ!?」

意味が分からず目を瞬いていれば、置いた瓶が倒れ、ごろりとひとりでに転がった。庭に落ちるのではなく、家の中へと転がる瓶を体を起こしてただ見つめ。
唐突に、すべてを理解した。

「――マジか」

思わず苦笑する。
ふらつきながらも立ち上がり、転がる瓶を追って家の中へと歩き出す。
向かう先は台所だろう。足早に瓶に追いついて回収し、そのまま台所へ向かった。



台所に入り、冷蔵庫を開ける。
中から作り置きの麦茶を取り出して、コップを出し注いだ。
一気に飲み干せば、体の内に籠もる熱が冷えていくような気がした。残っていた熱を吐き出すように息を吐いて、もう一杯、麦茶を注ぐ。
かたん、と不意に音がした。
振り向くと、テーブルの椅子が引かれている。椅子に座る幼い少女の下半身を見て、小さく笑った。
麦茶のボトルを冷蔵庫に戻し、代わりにラムネの瓶を取り出した。
テーブルに麦茶のコップと瓶を置いて、瓶の栓代わりのビー玉を落として蓋を開ける。
無言でこちらを見つめる半透明の少女の前に瓶を置き、その正面の椅子を引いて自分も座った。

「なんていうかさ……その……」

気恥ずかしさに、上手く言葉が出てこない。
誤魔化すように笑ってみせれば、瓶に口をつけた少女がじとり、とこちらを睨み付けた。
その目の強さに口籠もり、おとなしく黙って麦茶を飲んだ。
無言。だがその空間に少しも気まずさを感じないのは、少女の優しさを知っているからだ。
お節介だなとは思うが、それが自分の自堕落さ故のことだと思うと、申し訳なさが勝る。
こうして成長しても世話を焼かせている自分に呆れて、自然と言葉が出た。

「いっつも迷惑かけてごめん……でもありがとう、お姉ちゃん」

呆れた溜息。
かたん、と椅子を鳴らして立ち上がり、姉はこちらに近づくと容赦なく足を叩いた。

「痛っ!」

痛がる自分を見上げて笑い、姉は静かに消えていく。
残ったのは、半分残ったラムネの瓶。

「少しくらい手加減してくれてもいいのに」

ぼやきながら、瓶を手に取る。残ったラムネを口にして、口の中で弾ける感覚に笑みが溢れた。
縁側で飲んだぬるさはない。
きんと冷えた、少しだけ炭酸の抜けたラムネに、姉の優しさを感じてほんの少しだけ視界が滲む。
炭酸が苦手で、それでも興味のあった幼い頃。こうして姉が半分残してくれたラムネだけは、残さず飲み干せたのを思い出す。
思えば調子が悪いことに、いつも最初に気づくのは姉だった。寝込んでいる自分の世話を焼くのも、両親よりも姉の方が多かった。

「しっかりしないと」

何度目かの決意をしながら、ラムネを飲み干した。
からん、と中のビー玉が音を立てる。

今年の夏は暑くなるらしい。
空になった瓶とコップを片付けながら、縁側で見上げた青い空と強い陽射しを思い出す。
夏が来たのだと、今更ながらに実感した。



20250803 『ぬるい炭酸と無口な君』

8/4/2025, 9:37:51 AM

夕暮れの砂浜に座り、一人海を見つめていた。
穏やかな波の音。磯の匂い。
この海は、昔から何も変わらない。
夕陽を反射して、波が煌めいた。揺らぐ赤に、何故か胸が締め付けられる。

幼い頃。この海で誰かと遊んだ記憶がある。
その誰かを覚えていない。顔も名前も、何もかもを忘れてしまった。
ただ、その子と過ごした時間が、とても幸せだったことだけは覚えている。
時間を忘れて遊び、帰るのを泣いて嫌がることもあった。
はぁ、と小さく息を吐いた。思い出そうとしても、思い出せないことがもどかしい。
こうして何度も海に足を運んでも、一人という空しさばかりが込み上げる。

そっと、砂を掻いてみた。僅かに残る記憶の欠片を手繰り寄せるように、砂の城を築いていく。
大きくなったら、本物の城を築くのだと言っていた。それは自分だったのか、それとも相手だったのかまでは思い出せない。
大きくなったら。大人になったら、大きな城で二人一緒に――。

溜息を吐く。
記憶のそれより拙い城をしばらく見つめ、その側に指で文字を書いた。

――会いたい。

覚えていない誰かに向けた、たった一言だけの手紙。
宛先のないそれを一瞥して、静かに立ち上がる。
海へと視線を戻せば、夕陽はもう海へ沈みかけていた。
帰らなければ。緩く頭を振って、海に背を向けて歩き出す。

ふと、振り返る。
遠く視界の端で、砂の城が波に崩されていく。
ゆっくりと崩れ消えていくその城は、まるで自分の記憶のようも見えた。



中々寝付けずに、何度目かの寝返りを打つ。
夕方、海へ行ったせいだろうか。酷く心が騒ついていた。
浮かぶ海の景色に溜息を吐く。寝ることを諦めて、ベッドから抜け出した。

窓へと歩み寄り、カーテンを開ける。
満天の星空と、窓越しに微かに聞こえる波の音。
いつもと変わらない夜の光景。
ただ一つを除いては。

「何、あれ……?」

僅かに見える海に、淡い光が浮かんでいた。ひしめき合ったいくつもの光が、波に漂っている。

この時期、夜の海に行ってはいけないと言われていることを思い出した。
あの光は、禁止されている理由なのだろうか。
少しだけ悩み、それでも気になって部屋を抜け出した。



生暖かい風が、剥き出しの肌を撫でていく。
その不快さに眉を寄せながら、光の方へと向かった。

波間に漂い、ひしめく光。
ゆらゆらと揺れるそれが、近づくほどに形をはっきりさせ、思わず足を止めた。
囁く誰かの声が聞こえる。波の音と相俟って、辺りに響き渡る。
ふと、夕方に作った砂の城の側で、誰かが立ち尽くしているのが見えた。
こちらを向いて、大きく手を振っている。見覚えのないその人影に、ぞわりと背筋が寒くなった。
無意識に後退る。それに首を傾げて、人影は手を下ろすとゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

「手紙をありがとう」

知らない声が、礼を言う。
覚えのないそれに眉を寄せ、遅れてそれが砂に書いた文字だと気づく。
同時に理解した。
会いたい、と。ただ一言だけの、砂に書いた手紙。
それが波に攫われて、知らない誰かに届いてしまったのだ。
「会いに来たよ。一緒にいこう」

人影が笑う。
逃げなければと、思考は警鐘を鳴らす。けれども、体は少しも動かない。
瞬きすらできず、人影が近づき手を伸ばすのをただ見つめ――。

不意に、目を覆われて何も見えなくなる。
塞ぐそれは、誰かの手だ。びくりと肩を震わせるが、やはり体は動かない。
見えない代わりに鋭くなる聴覚が、波の音を拾う。だが、先ほどまで聞こえていた囁きも、近づく人影の声も聞こえない。
ざざ、と波が寄せ、引いていく。繰り返すその音に耳を澄ませる内に、次第に強張る体から力が抜けていく。
ほぅ、と息を吐いた。後ろにいる誰かが、崩れそうになる体を支え、そのまま後ろに体の向きを変えさせられた。
くすり、と耳元で密かに笑う声がした。どこか懐かしさを感じる声に、恐怖とは違う感情で肩が震える。

「――もう、大丈夫」

柔らかな声と共に、目を覆う手が外される。
代わりに手を繋がれて、海から離れるように歩き出した。



「あれだけ、夜の海に行ってはいけないと大人たちから言われたのに」

どこか呆れを滲ませた声に窘められる。

「ごめん」

軽く俯いて、小さく謝った。
少し先を行く、誰かの背中。知らないはずなのに、何故こんなにも懐かしいと思うのか分からず困惑する。
自分よりも高い背。大きな手。記憶にはないはずだというのに、懐かしい。
切なくて、苦しくて。名前を呼べないことが、ただ寂しかった。

「お城と手紙、ありがとう。忘れても、会いたいって思ってくれて、約束を僅かでも覚えてくれていて、嬉しかった」

振り返りも、立ち止まりもせずに、誰かは言う。

「だから会いに来た。一人残されて苦しいままで終わった君を、連れていくために」

思わず立ち止まる。
手を引く誰かも立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

「――ぁ」

懐かしい面影。
彼を知っていた。忘れていた記憶の底に、彼はいた。
一緒に遊んだ、海の記憶。一夏だけの、大切な思い出。

「お兄、ちゃん……」
「それにしても、随分と酷いことをする。この子は何も知らなかったのに。無知すら罪だとするなんて……なんて傲慢なんだろうか」

彼が悲しく笑う。
繋いでいた黒に染まった手を、慈しむように撫でられた。

「苦しかったね。でも、もう大丈夫だ」

彼が触れる黒が色をなくしていく。反対の手も取り黒をなくして、彼はまた手を繋いだ。

「行こうか」

そう言われて首を傾げた。
家に帰るのだろうか。そう思い辺りを見渡して、いつの間にか知らない場所を歩いていたことに気づく。
困惑して彼を見れば、優しく頭を撫でてからある一点を指差した。

「――お城?」
「約束したからね」

白い道の先に、黒の城が建っていた。陽炎のように揺らぐ城は、いつか二人で作った砂の城によく似ていた。

「あの擬きが馬鹿なことをしなければ、もっと時間をかけて作ってあげられたのだけど。足りない所は、二人で作っていこうか」
「作る?……ここに、一緒に住むの?」

問いかければ、彼は頷いて歩き出す。

「そう。人として終を迎えたら、一緒にいるって約束を交わしたから」

そういえばと、掠れた記憶を思い出した。
指切りをしたのだ。海を統べる兄と慕った彼と、遠い未来の約束を。
離れたくないと駄々をこねた自分に、僅かでも覚えていたのならと条件をつけて、優しい彼は約束をくれたのだ。
思い出して、笑みが浮かぶ。

「――ようやく、死ねたんだ」

呟いた言葉は、自分でも驚くほどに穏やかだ。

「報復を望むかい?人間に作られた存在でありながら、祟りを引き起こしたその愚行……巻き込まれた君には、裁く権利がある」

彼の言葉に首を振る。
これ以上、関わりたくはない。
どんな形であれ、縁《えにし》を結びたくなかった。

「忘れてしまいたいからいい。ただ、一緒にいてほしい」
「そうか。なら一緒にいよう。これからずっと……どちらにせよ、あれは朽ちる先しかない」

繋ぐ手に、力が籠もる。

「会いに来てくれて、ありがとう」
「どういたしまして。こちらこそ、書いてくれてありがとう。波がさらった手紙は、ちゃんと届いたよ」

微笑んでこちらを見る彼に、笑みを返す。

心は酷く穏やかだ。
苦痛に苛まれながら、一人置いて行かれた寂しさに耐える日々は終わったのだから。



20250802 『波にさらわれた手紙』

Next