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7/29/2025, 9:45:07 AM

荒れた獣道を掻き分けて進む。
長時間歩き続けたため、喉が渇く。暑さに喘ぎ、疲労に体が悲鳴を上げるが、それでも足は止まらない。
幼い頃に一度だけ迷い込んだ水辺。ただそれだけを求めていた。
過ぎ去っていく周りに、耐えきれなかった。原因不明の病で声を失って、自分の世界は一変した。
心配する周囲。誰もが自分を気にかけて、腫れ物のような扱いをされた。
けれど次第に、それもなくなり。時折自分がいないように扱われている気がして、苦しかった。
だから逃げ出すように、記憶の中の水辺を探し求め始めた。
優しい微笑みと声。口にした水は甘く、不安も悲しさも溶けてなくなった。
美しく、澄んだ水の匂いのするオアシス。疲れた体も心も癒やす憩いの場。
その一度きりを最後に、水辺に辿り着くことはなかった。
都合の良い、ただの夢だったのかもしれない。それでも、それ以外に今は縋るものがなかった。


朧気な記憶を辿り、足を進める。いっそ途中で倒れ、そのまま終わってしまっても構わないなと、自虐的なことすら考える。
声を失った自分は、いてもいなくても変わらない存在。声がなければ、意味がないのだから。


喉が渇く。
疲れで覚束ない意識の中、ただ前へと進む。
歪み出す世界。気づけば周囲から音が消えていた。
息苦しさは感じない。暑さもなく、逆に冷えた空気が火照った体を覚ましていくようだ。
どこからか、水音が聞こえた気がした。本物か幻聴か判断ができぬまま、音を目指して進み続けた。

そして薄暗い木々の中を抜け、開けた場所に出た。
水音がする。眩む視界で水音を辿れば、小さな滝が見えた。
澄んだ空気。記憶の中の光景と変わらないその水辺。
疲れた体を引き摺って、ゆっくりと歩き出す。
静かな水面に映る自分の姿に、崩れるように膝をつく。恐る恐る手を差し入れれば、疲れを癒やすような冷たさを感じて小さく息を吐いた。

「――どうしたの?」

不意に背後から声が聞こえて、ぎくりと身を強張らせた。
近づく足音。隣で屈む誰かの白の着物の端を見て、咄嗟に目を閉じた。
何故か、否定されることが怖かった。声が出ないことを詰られるかもしれないと思うと、体が震える。
あれだけ求めていた場所だというのに、今はただこの場から逃げ出したくて堪らなかった。

「大丈夫。ほら」

想像とは異なる、柔らかな声音。
手を取られ何かを持たせられた感覚に、そっと目を開けた。
小さな木の器。それを満たす水が、陽の光を反射してきらりと煌めいた。
喉が鳴る。器に口をつけて、一口水を飲み込んだ。
冷たく、どこか甘い味。体の中に広がって、不安や悲しみ、寂しさもすべて溶かしていく。
気づけば無心で水を飲み干していた。あれだけ乾いていた喉は潤い、夢見心地で隣に座る誰かへと視線を向けた。
自分よりもいくつか年上らしき少女。白い着物。長い黒髪。浮かべる微笑みも、どこか懐かしい。

「また、歌って」

促されて、喉が震えた。
声は出ない。そう思うけれど、求めるように口を開いた。
紡がれるのは、なくしたはずの旋律。驚き目を見張りながらも止まらない。
ざわりと空気が揺らめいた。複数の人の気配に応えるように、高らかに歌い上げる。
視界が滲む。溢れ出す涙を止めることも、歌を止めることもできず、泣きながら歌う。声が震える。もはや歌なのか泣き声なのかも分からないまま、ただ歌い上げた。


「上手。いい子」

歌い終えて、嗚咽を漏らす自分の頭を優しく撫でながら、少女は微笑む。そっと抱きしめられて、静かに目を閉じた。
また歌えた。嬉しくて、幸せで笑みが浮かぶ。

「ありがとうございます」

体を離し、少女に礼を言う。ゆっくりと立ち上がり、改めて深く頭を下げた。

「癒やしが欲しくなったら、またおいで」

少女に見送られながら、来た道を戻る。
軽い足取りで、跳ねるように家路に就いた。





しかし奇跡は長く続かなかった。
十日経ち、声が掠れた。二十日経ち、途切れた音しかでなくなり。
そして一月経って、また声は失われた。

記憶を辿り、獣道を掻き分け進む。
またあの水辺に行くために。癒やしを得て、声を戻すためにと、気が逸る。
早く行かなければ。早く声を取り戻さなければ、また誰もが自分を見なくなる。そんな脅迫めいた感情に突き動かされ、茂る葉が肌を裂いても止まることはなかった。

微かに水音が聞こえ、駆け出した。
木々を抜けて、開けた場所に出る。
滝の音。澄んだ空気。けれどそれを堪能し落ち着くよりも、早く水が飲みたかった。
喉が渇く。
水辺に駆け寄り、手を差し入れる。水を掬って口を付けた。
冷えた水。けれど満たされない。
何度も何度も、水を掬っては飲んだ。飲んだ先から乾きを覚え、最後には掬う手間すら惜しんで直接口を付けた。

「――どうしたの?」

後ろから声がして、弾かれたように振り返る。
白の着物を来た黒髪の少女。差し出された手に、泣きながら縋りついた。
酷く喉が渇いていた。声が出ない不安よりも、満たされない乾きが苦しくて、助けてほしかった。

「可哀想に……癒やしてあげる。だからまた歌って?」

微笑みと共にいつの間にか手にしていた白い器で、少女は水を汲む。それを手渡され、すぐに口を付けて水を飲み干した。
どこか甘さのある、不思議な水。体の内側に染み込み広がって、満たされていく。
乾きも不安も、何もかもが消えていく。ほぅと息を吐いて、少女の手に凭れるようにして目を閉じた。

「歌って」

小さく頷いて、目を閉じたまま旋律を奏でていく。
歌いながら、ふと幼い頃を思い出した。
初めてこの場所に迷い込んだ幼い頃。どんなに練習しても、上手く歌えないことに悩んでいた。
水辺に座り、ぼんやりと滝を見つめていた時、目の前の彼女に声をかけられたのだ。

――どうしたの?

優しく微笑まれて、涙が滲む。半ば縋る形で、歌が上手く歌えないことを打ち明けた。
友人にも、家族にも打ち明けられなかった本音を、何故初対面の彼女に話せたのかは分からない。彼女が終始優しかったからか、それとも人でなかったからなのか。
すべてを聞いて、彼女は白い器を取り出した。水を汲んで、器を差し出し。
その時に、ひとつだけ告げられたのを思い出す。

――この水は、不安や恐れ、負の感情を取り除いてくれる。でも飲み過ぎてしまえば、この水がなければ生きられなくなる。この水でなければ乾きは癒えず、呼吸すら侭ならなくなってしまうから気をつけて。

一筋涙が零れ落ちた。
歌い終えると、途端に喉が渇きを訴える。
息が苦しい。水が欲しくて器を持つ手に力が籠もる。
目を開いても、視界は暗く何も見えない。

「可哀想に」

囁きと共に、器が手から離れていく。怖くて、縋るものが欲しくて彷徨う手が冷たい手に取られ、唇に何かが触れた。
器の縁。理解すると共に流れ込んで来る水を、躊躇いもなく飲み込んだ。苦しさが次第に落ち着いて、暗い視界が色を取り戻していく。

「歌って」

請われるまま、再び歌う。
歌い終え、息苦しいほどの喉の渇きに水を求め。
与えられた水の対価に、また歌う。


「とても上手よ。昔から上手。皆そう思ってる」

優しく囁かれ、髪を撫でられる。
いつしか体は白く太い蛇の胴に巻き付かれ、少しずつ水の中へと引き込まれていく。
抵抗はできない。逆らえば水を与えられない恐怖から、ただ従順に歌を歌い続ける。

「本当に可哀想な子。あなたのその乾きは、あなたしか癒やせないのに……偽りに縋って逃げられなくなるなんて」

彼女は笑う。どこか悲しげに。
水の中へと引きずり込みながらも、哀れみを浮かべて呟いた。

「自分自身を認めてあげれば、大地の上で生きられたのに。愛してあげれば、太陽の下で笑えたのに……ここは楽園ではないわ。人間の欲でできた檻の中よ」

彼女の言葉を、声なく肯定する。
そうだ。ここは癒やしを与えるオアシスではない。欲を餌に獲物を捕らえる、大蛇の巣穴だ。
今更理解しても、もう遅い。
水に沈む。まやかしの癒やしを与えられ、再び歌うために息を吸い込んだ。



20250727 『オアシス』

7/27/2025, 11:07:55 PM

猫がいなくなった。
時々あること。猫は死期を悟ると姿を消してしまうのだという。
理解はできても、寂しいことには変わらない。冷たいベッドに触れて、唇を噛みしめた。

「――そうだ」

ふと思い立ち、外に出た。
せめて供養をしてあげたい。そう思い、近くの寺や神社へと足を運んだ。
この辺りは昔、養蚕で栄えていたという。そのため鼠を退治するための猫を飼う家庭が多く、猫を祀る神社も多いと聞いた。それならば、猫の供養塔があってもおかしくはないはずだ。
しかしどれだけ探しても、猫の供養塔は見つからない。それどころか、猫を祀ると言われる神社は、どれもが閑散としていて、社が朽ちている所もあった。

はぁ、と溜息を吐く。
目の前の社の惨状に、ただ悲しさだけが込み上げる。
誰もいない社。長い期間を風雨に晒され柱は腐り、一部屋根が崩れ落ちて閉まっている。
不意に、社の脇に何かが落ちているのが見えた。
近づいて拾い上げると、それは猫を描いた古ぼけた絵馬と、猫を模した木像だった。どちらも雨による浸食で変色し、顔の筋はまるで涙の跡のようにも見えた。
養蚕業が廃れ、信仰が薄れた結果の成れの果てに、遣る瀬なさが込み上げる。土を払い、一度社の脇に置くと、ハンカチを取り出した。
手水場は枯れてしまっていたが、裏に沢があったはずだ。
拭いた所で然程変わりはないだろうが、それでもこのままにはしておきたくなかった。



汚れを拭き取り、ほんの僅かに綺麗になった絵馬と木像を社の前に並べ、そっと指でなぞってみる。

「寂しいね」

涙の跡のような筋は消えない。慰めるように木像の頭を撫でた。

「奉納されたのに、大切にしてもらえないのは悲しいね」
「そうだね」

小さな声に、手が止まる。
息を呑んで木像を見つめていると、緩慢に木像の首が動き、こちらを見上げた。

「寂しいし、悲しいよ。昔はあんなにも大切にしてくれたのに。蚕がいなくなったら、途端に見向きもされない」

木像の虚ろな目と視線が交わる。
その視界の隅で、絵馬から白い猫がするりと抜け出すのが見えた。
甘い声で鳴きながら、止まったままの手に擦り寄る。

「あなたも寂しいのね。置いて行かれて、とても悲しいのね……なら、一緒に行きましょうか」

どこに、と小さな呟きに、答える声はない。
動く木像。絵馬から抜け出した猫。
恐怖のようで、違う思いに戸惑っていれば、背後から近づく誰かの足音が聞こえた。
振り返ろうとして、その前に目を塞がれる。大きな手。身を強張らせ、ひっと声を漏らせば、宥めるように頭を撫でられた。

「怖くない。猫は怖くないだろう」

低めの声。聞き覚えのないその声音に、何故か安心して体の力が抜けていく。

「良い子。じゃあ、今から十数えるよ。そうしたら、二度と寂しくはなくなるから」

優しく告げられて、誰かはゆっくりと数を数え始める。
一、二、とゆっくりと数が増えていく。
次第に意識が揺らいで、背後の誰かに凭れかかった。
懐かしい匂い。日向にいるような暖かな匂いに、目を閉じる。


「――九、十。ほら、もう寂しくない」

目を覆う手を離される。
ゆっくりと目を開けて、視界に入る光景に息を呑んだ。
そこはあの朽ちた社の前ではなかった。
大きな木。楠《くすのき》だろうか。その木の根元に、たくさんの猫が思い思いに休んでいた。
呼びかけようとして、けれど口から零れ落ちたのは嗚咽だけ。
視界が滲む。背中を押されて、よろめくように前に出た。
ふらふらと歩き出す。大切な猫たちの元へ。

「――皆、ここにいたの」

見間違えるはずなどない。ここにいるのは、私の大切な家族だ。
家から姿を消した子も、家で帰りを待っているはずの子も、一匹を除いて皆いた。いないのは、いなくなったばかりの子だけだった。
猫たちの側に寄る。途端に回りを囲われて、甘えるように足に擦り寄ってくる。
崩れ落ちるように膝をついた。膝に乗られ、背にじゃれつかれ、その温もりに涙が零れ落ちる。
何匹かの猫の姿が揺らぐ。猫から人の姿になって、強く抱きしめられた。
いなくなった猫たちだ。いなくなったのは、死期を悟ったのではなく、妖になったからだとようやく気づいた。

「これで寂しくないな」

すぐ後ろで声がした。目を塞ぎ、ここに連れてきた誰かの声。
聞き覚えのない、懐かしい声音にそっと顔を上げる。こちらを見下ろす青年と視線が交わり、あぁ、と小さく声を上げた。
これで全員だ。

「うん。寂しくない」

頭を撫でられる。
満たされていく思いに笑みを浮かべ。
涙を拭われて、静かに目を閉じた。





着飾られ、髪を梳かれながら、ぼんやりと遠くの木々を見つめていた。
楠を囲うように生い茂る桑《くわ》の木。まるで檻のようだと、僅かに残された思考が囁く。

「お腹が空いたの?」

膝の上で微睡んでいた猫が身を起こす。人の姿を取って、側に置かれた籠から木の実をひとつ摘まみ上げた。

「はい、どうぞ」

口を開き、差し出された桑の実を受け入れる。仄かな甘みが広がって、目を細めた。
ここに来てから、どれだけの時間が過ぎたのか。あれから猫たちに世話をされながら、過ごしていた。


「可愛いね。白の着物が似合っているよ」

私の猫たち以外の声に、ゆるゆると顔を上げる。楠の枝に座る木像の猫が、こちらを見下ろしゆらりと尾を揺らした。

「猫は祟ると怖いんだって、人間はすぐに忘れてしまうね。可哀想に……人間だって供養をしなければ祟るのに」

くすくすと笑い声が響く。

「元の世界が気になるかな。それとも、もうそれすら分からなくなっちゃったかな。せっかくだから教えて上げるけれど、皆いなくなっちゃったよ」

楽しそうな声音。少し遅れてその言葉の意味を理解して、小さく息を呑んだ。

「可愛い蚕さん。キミのようにボクたちを愛してくれる子はこうして助けてあげたけどね。他は鼠が運んだ病で倒れたり、逃げ出したりして、今あの町は空っぽだよ」

込み上げる恐怖は、けれど背や頭を撫でられて消えていく。
思い浮かんだ家族や友人の顔が掻き消えて、残るのは猫だけに戻る。
ふと、遠く楽しそうにはしゃぐ子供の声が聞こえた。ここと同じように、誰かも猫に愛されているのだろうか。

「それくらいにしてくれ。この子に余計なことをあまり吹き込むな」
「聞く権利くらいはあると思うけど……本当に過保護だね。そんなに執着されて可哀想に」

後ろから回された腕が耳を塞ぐ。それに何かを言いかけて、何も思いつかずに目を閉じた。
必要ないこと。私には猫がいればいい。
そう言えば、と。木像の猫の姿を思い出す。
最初に見た、風雨に朽ちた姿ではない綺麗な姿。あれが作られた当初の姿なのだろうか。
その顔に、涙の跡はなかった。寂しくも、悲しくもなくなったのだろうか。
ゆっくりと消えていく思いの中、そうであれと密かに願う。

いいなぁ。
誰かの声が聞こえた気がしたけれど、すぐに消えてなくなってしまう。

私には猫がいればいい。ここにいることが、何よりの幸せだ。
だからきっと、頬を伝い落ち跡を残すこの滴は、嬉しいからなのだろう。



20250726 『涙の跡』




※ おまけ


少女の華奢な体を引き寄せる。
籠の中から桑の実をひとつ摘んで、少女の唇に軽く触れさせる。
僅かに開く唇。実を差し入れれば、逆らうことなく実を喰み白い喉を鳴らして飲み込んだ。
本当に蚕のようだ。世話を焼かねば何もできなくなった少女を見て思う。
猫神の怒りに触れた町に住む、愛しい飼い主。元より隠すつもりで動いてはいたが、こうして猫神の神域の一部を与えられたのは僥倖だった。我ら猫のために心を砕く少女の優しさに、愛しさばかりが募っていく。
幸せだと、同胞が鳴く。少女の手に擦り寄れば、頭を撫でられ機嫌良く同胞の喉が鳴った。
同胞にするように少女の髪を撫でてみる。心地良さげに目を細める少女は、けれどもその目にかつての煌めきはない。
虚ろに開いた、ガラス玉のような目。それを少しだけ惜しく思う。
少女は我らの飼い主ではなくなり、我らの蚕となった。
故に、その目が自発的に我らを見ることはない。その唇で名を呼ぶことも失われてしまった。
だかそれでも。

「好きだよ」
「うん。私も好き。大好き」

蚕が糸を紡ぐように、少女は言葉を紡ぐ。
他の猫の所にいる人間のような、上辺だけの言葉ではない。
心から我らを思い紡がれる、極上の絹糸のような言葉。

「皆のことを愛してる」

ふわりと微笑む少女の体を抱いて、額に口付ける。
可愛い、愛しい飼い主。
猫神に目をつけられ、人間から逸脱した哀れな蚕。
我らの唯一。誰かに取られることも、死の別れを怖れることもない。

一筋零れ落ちる滴の跡を舐め取って、幸せだと囁いた。

7/27/2025, 6:47:22 AM

笑いながら道を駆けていく子供たちを横目に、伯父の家を目指す。
今年もまた、夏が来た。じっとりと張り付くような熱気に、立ち止まり汗を拭いながら空を睨む。
強い陽の煌めきに目を細める。どこまでも広がる空の青と白が、周囲に響く蝉時雨と混じり合って、暑さをより一層際立たせていた。
課題があると誤魔化して先延ばしにしていたが、結局今年も来てしまった。伯父たちや、先に待っているだろう弟を思うと気が重い。
幼い頃から夏の間過ごしてきたこの町を、どうしても好きにはなれなかった。だというのに、毎年必ず訪れるのは何故なのだろう。
何度も考え、答えの出ないそれに溜息を吐く。視線を下ろし、何気なく道路脇の小川に視線を向けた。

「――え?」

小さな人影を認めて、目を瞬く。
白の半袖と紺の短パン。
まだ幼い少年が、一人川辺で遊んでいた。
辺りを見渡しても、少年の他には誰もいない。いくら小さく浅い川だとはいっても、子供が一人で川遊びをするのは危険すぎる。
止めるべきだろうか。そう思い足を向けるが、不意に顔を上げた少年と目が合い足が止まった。
視線を逸らせない。目を瞬いて、そして破顔する少年に、何故か胸が苦しくなった。
離れたこの場所からでもはっきりと分かる。あどけない顔。白くほっそりとした手足。川の中にいるのに濡れている様子はない。

――気づいたことに、気づかれてはいけない。目を合わせてはいけない。

ふと、昔聞いた怪談話を思い出した。
この町には、気づいてはいけない誰かがいるらしい。夏の間だけ現れる、その誰か。目を合わせ、言葉を交わし、そして触れてしまえばその誰かと入れ替わってしまうという。
よくある子供だましの怪談だと思った。聞いた時には気にも留めなかった話が、少年と目を合わせたことで思い起こされる。
ゆっくりと目を瞬いた。知らず溜まっていた涙が目を閉じたことで零れ落ち、頬に跡を残していく。
瞬く度に少年の姿が揺らぐ。三度瞬いた後、その姿は霞のように消えてしまった。
詰めていた息を吐き出す。緩く頭を振って残っていた涙を拭い、もう一度だけ小川に視線を向ける。

「――お姉ちゃん」

か細い声が聞こえた。思わず振り返ろうとして、止める。

――目を合わせてはいけない。

今更なことを思いながら、振り返らずに歩き出す。
懐かしいなどと、そんな感情はきっと気のせいだろう。



「姉ちゃん。遅かったな」

こちらに歩み寄る彼に、曖昧に笑みを浮かべて誤魔化しながら玄関を抜けた。

「連絡くれれば、駅まで迎えに行ったのに」

さりげなく荷物を持つ彼に礼を言いながら、さりげなく視線を逸らす。
無邪気に好意を向けてくるこの弟のことを、いつからか苦手に思っていた。
苦手、というよりも違和感に近いその思い。込み上げる溜息を呑み込みながら、先を行くその背を、数歩遅れて追いかける。

「先に挨拶に行っちゃえよ。その間に荷物運んどくから」
「分かった。ありがとう」

彼と別れ、居間に足を向ける。
密かに溜息を吐く。これから一週間、伯父の家で伯父たちと彼と過ごすことを思うと、足が重くなる。

良くできた弟だとは思う。姉である自分に懐き、何かと助けてくれる。
自慢の弟。けれどそう思う度に、心のどこかで違うのだと否定する自分がいた。
いつからなのかは覚えてはいない。幼い頃は違ったようにも思うが、それがいつだったのか。何一つ思い出せるものはなかった。

――お姉ちゃん。

不意に、先ほど見た少年を思い出す。
あの子が弟であったならば。あり得ないもしもを想像して、自嘲した。



蝉時雨を聞きながら、弟と二人川で水遊びをしていた。
きゃあ、と笑いながら水飛沫を上げる。浸る水の冷たさは、火照った肌を冷やしてとても心地が良かった。
弟に水をかけ遊びながら、自分の中の冷静な部分がこれは夢だと告げている。改めて辺りを見渡し、そして弟を見て確かにと納得した。
隣ではしゃぐ弟は、違和感しかない彼ではなかった。昼間ここで見た少年。違和感などは感じず、少年こそが弟なのだと嬉しくなった。
ふと、弟の動きが止まった。河原の先を見つめて、首を傾げながら指を差す。

「お姉ちゃん、あそこに誰かがいるよ」

視線を向ける。だがそこには誰の姿もない。
途端に背筋を駆け上がる嫌な予感に、思わず弟へと手を伸ばした。

「だめ。誰もいないから」

けれどその手をすり抜けて、弟は河原へと歩み寄り。

「どうしたの?迷子になったの?」

そう言って、何もない場所に手を伸ばした。

「だめっ!」

止める間もなく、弟の姿が掻き消える。
その代わりと言わんばかりに現れたのは、見知らぬ子供。
長袖と長ズボンを履いた、弟とは似ても似つかない彼。

「おねえちゃん」

笑いながら、伸ばしたままだった手を繋がれる。
軽く揺すって、呆然とする自分に囁いた。

「お家に帰ろう?」

手を引かれ、川から出る。
入れ替わった彼の仄暗い笑みを見ながら、消えた弟を思い一筋涙が零れ落ちた。



「――っ!」

悲しみと苦しさに飛び起きた。
乱れた呼吸を整えながら、辺りを見渡す。
暗い部屋。少し遅れて、伯父の家に泊まりに来ていたことを思い出した。
深く息を吐く。怖い夢を見ていた。

――目を合わせ、言葉を交わし、そして触れてしまえば。

気づいてはいけない誰かの怪談が脳裏を過る。
今見ていた夢。弟が入れ替わる悪夢。
もしもそれが、本当に入れ替わりだったとしたら。
あの夢の中で、弟は誰かを見ていた。心配そうに声をかけて、手を伸ばして何かに触れようとしていた。
自分には見えない誰かと入れ替わった。ならば、今も弟はあの川にいるのだろうか。
あり得ないと否定しながらも、体は布団から出ていた。窓を開けて、身を乗り出す。
ただの夢。あるいは入れ替わりたいあの少年が、弟だと思い込ませているだけなのかもしれない。少年が弟だと思うのは、夢とこの衝動にも似た思いだけだ。
窓枠に手をかけながら、一度だけ考える。けれどすぐに意味がないと自嘲して、外へと飛び出した。
このまま違和感しかない彼と、気づかない両親と暮らしていくのは耐えられない。
おそらくすべてに気づいていながら、見て見ぬ振りを続ける伯父たちの側にはいられない。
自分を偽ってこれからも過ごすよりは、いっそ終わってしまった方が楽だった。



暗い河原に座って空を見上げる少年に、震える足に力を入れて駆け寄った。

「お姉ちゃん」

きょとりと目を瞬かせて、少年は笑う。しかしその笑みが悲しそうに見えて、苦しくなった。
荒い息を吐きながら、少年を見据える。

「ずっと、ここで遊んでたの?」

少年は何も答えない。言葉を交わすことを嫌がるように、背を向けて去って行こうとする。
咄嗟にその手を掴んで、引き寄せた。

「もう、一緒に遊んではくれないの?」
「――お姉ちゃん」

少年に姉と呼ばれるのに、泣きたい気持ちで目を閉じる。
離れたくない。置いていきたくない。一人は嫌だ。
込み上げる思いは、もう止まらない。
どうか、と祈る気持ちで呟いた。

「変わりたい。嘘ばかりの世界に、これ以上いたくない」

あ、と小さく声がした。
そっと小さな手が背に回る。背を撫でる手の温かさに、耐えきれず涙が零れ落ちた。

「お姉ちゃん」

弟が呼ぶ。返事の代わりに繋いだままの手をぎゅっと握る。
「一緒にいる?二人だけになっちゃうけど、それでもいいの?」

静かな声に、必死に頷いた。

「二人だけでいい。嘘ばかりの他は、いらないの」

泣きながら答えれば、繋いだ手に何かが巻き付く感触がした。
視線を向ければ、繋いだ手に幾重にも絡む赤い糸。離れないように、解けないように複雑にがんじがらめに繋がれる。
その自分の手が次第に小さくなっていく。
手だけではない。まるで時計の針を戻して行くかのように、あの日の姿に戻っていく。

「あの日の、続きをしよう。離れていた分、たくさん遊ぼう」
「うん。ずっと一緒に遊ぼうね、お姉ちゃん」

見下ろしていたはずの弟が近くなって、互いに泣きながら笑った。





その小さな田舎町では、夏になると子供の幽霊が出るらしい。
白の半袖と紺の短パン姿の少年。
白の袖のないワンピースを着た少女。
少年の右手と少女の左手は肘の辺りまで赤い紐で括られ、離れないように繋がれているという。
川や森、学校や神社の裏手など。不意に楽しそうな笑い声がすると、二人仲良く遊ぶ姿を見たと町の者は皆噂をしていた。
二人の姿を見たとしても、とくに害はない。
ただ、見ていることに気づいた二人が、笑顔で手を振ると。
手を振られた町の者は、後悔と罪の意識に泣き崩れてしまうらしい。
何を後悔しているのか。罪とは何なのか。
詳しくを皆語らない。
それでも慟哭しながらも手を伸ばし、姉を呼び続けたある青年は。
入れ替わりの後悔を綴った手紙を残し、姿を消してしまったといわれている。



20250725 『半袖』 

7/25/2025, 11:07:42 PM

ずっと、後悔していることがある。
幼い頃、大切な友人と喧嘩をした。
切っ掛けは覚えていない。いつ、どこで喧嘩をしていたのかさえも、はっきりしない。
ただそれを最後に、友人とは二度と会うことはなかった。

――大嫌いっ!

その時の友人は、悲しんでいただろうか。それとも怒っていたのだろうか。何故、喧嘩をしたきり会えなかったのか。
掠れた記憶では、友人の姿でさえ曖昧だった。



「もしも過去へ行けるなら……どうする?」

手にした不思議な色合いの羽根に唇を寄せて、少女は笑う。
見知らぬ少女。見知らぬ教室。
気づけば一番前の席に座り、教壇に立つ少女の話を聞いていた。

「短い人生の、どの選択に戻りたい?」

過去に戻る。選択をやり直す。
思いつくのは、ただひとつだ。
思い出せない過去の後悔を、やり直す。喧嘩をした友人と仲直りをするために。続く苦しさから解放されるために。

「――友達と喧嘩をした、その日に戻りたい」
「それでいいの?」

小首を傾げて、少女は問う。それに迷わず頷いた。
やり直したい。仲直りをして、もう一度。
いや、違う。過る思考に首を振った。

「なんで喧嘩をしたのか……どうして会えなくなったのかを、知りたい」

するりと零れ落ちた言葉に、納得した。
やり直したいのではない。後悔しか残らないこの記憶を、すべて思い出したいのだ。

「そう。分かった」

少女の笑みが優しくなった気がした。まるで提示した問題に正しく答えられた生徒を褒める教師のように、少女は頷いて教壇を降りる。
自分の目の前に立ち、手にしていた羽根を差し出した。

「あなたの望む答えが得られますように」

羽根を受け取った瞬間。

視界が暗転した。





「ねえ、聞いてる?」

幼い子供の声が聞こえて、はっとして顔を上げた。

「もう、ぼんやりしてないで、ちゃんと聞いてよ」

怒った顔をした幼い少女が、顔を近づけ囁いた。
どこか見覚えのあるその姿。懐かしいと込み上げる感情に、彼女は自分の大切な友人だと思い出す。

「わたし、山に入るわ」

線香の匂い。カーテンを閉めた暗い部屋に、立ち込める熱気。遠く聞こえる、大人たちの話し声。
掠れた記憶が、形を明確にしていく。友人との最後の夏の夜を、思い出す。

「大人の後をこっそり着いていって、お母さんを連れ戻すの」

友人と喧嘩をした日。
それは友人の母の葬式の夜のことだった。

この村の墓地は、山の奥にある。
その山に、子供は入れない。大人もまた、決まった時期以外に、足を踏み入れることは許されなかった。
盆と彼岸の時期。そして誰かがなくなり墓に入れる時。
身を清め、白装束を纏い、そして特別な提灯を手にして山に入る。山に入った後も、いくつかの決まりがあると言われている。
決まりを破ることはできない。破った者は、二度と山から出られない。
その山は死に近いからだと、教えて貰ったことを思い出した。

「シジュウクニチは、まだお母さんがここにいてくれるんだって。だからどこかに行く前に、お母さんに行かないでってお願いするの。良い子にするって約束したらきっと、起きてくれるはず」

まだ幼かった自分たちは、死の意味を正しく理解してはいなかった。
だから、その山の怖ろしさを知らなかった。

「ねえ、一緒に行こう?お願い。お母さんと離れたくないの」

声を震わせ、静かに泣いて頼み込む友人から、目を逸らしたくなる。
思い出す。喧嘩となった原因を。
その最初の言葉も、すべてを思い出してしまった。

「だめだよ。お山には、子供は入っちゃいけないんだよ」

同じ言葉を、選択を繰り返す。
例え友人と二度と会えなくなるとしても、この選択だけは違えてはいけないものだ。

「なんで!?なんでそんな酷いことを言うの。こんな時まで、なんで大人の言うことを聞かないといけないのよっ!」
「だめ。お山は危険なんだよ。子供が行ったら、戻って来れなくなるよ」

止められないことは知っている。
この後の友人の言葉は、ずっと心に残り続けている。

「もういい!友達だって思ってたのに。信じていたのに……大嫌い!」

泣きながら部屋を飛び出す友人の表情は、酷く傷ついた表情をしていた。



「この後も続ける?」

背後から聞こえた声に、振り返る。
羽根をくれた少女が、静かにこちらを見つめていた。

「続けない。すべて思い出したから、もう大丈夫。続けても、私は同じ選択肢かできないから」

笑って首を振る。
この後のことも、すべて思い出した。

友人を追いかけて、山へ入った。
そこで見たのは、恐怖で立ち尽くす友人の背と、近づく不気味な黒い人影。
咄嗟に友人と影との間に割り込んで、腕を掴んだ影を思い切り突き飛ばした。
幼い子供の力でも、簡単によろめき距離を取る影。その間に、友人の手を掴んで走り出した。

「何度繰り返しても、私は友達を止めるし、追いかける。その先で襲われそうになるなら、何度だって助けに入るよ」

その代償に、死に感染したとしても。
あの影は、死だった。
魂とか、亡者とも違う、純粋な死。
その死に掴まれた腕は熱を持ち、その熱は全身に回り苦しんだ。
七日、意識は夢と現を彷徨い。
そして七日の晩に、自分は死んだのだと思う。

「思い出させてくれてありがとう。それから……夏祭りに行く約束、破ってごめんね」

そう告げれば、少女はくしゃりと顔を歪めてばか、と小さく呟いた。

「全部わたしのせいなのに、なんでそんなことを言うの。どうして、見捨てる選択をしてくれなかったの」

どうして、と静かに泣く少女の姿が揺らいでいく。時計の針を巻き戻すようにその姿は幼くなり、やがてあの日の友人の姿になった。

「やり直して、お願い。わたしのことなんか見捨ててよ……死なないで」
「見捨てない。大切な友達なんだから」

手を伸ばし縋り付く友人の背を撫でながら、はっきりと告げる。
これだけは譲れない。ごめんねと呟けば、友人はとうとう声を上げて泣き出した。

「ずっと後悔してたの。山を出た後、倒れて、目を覚まさなくて……一週間、同じ部屋で、熱が引かなくて。それなのに、朝起きたら、急に体が冷たくて。息をしてなくて」

怖かったのだと友人は繰り返す。
ごめんねと謝ることしかできないでいれば、抱きしめる腕の力が一層強くなった。

「怖かった。寂しかった……後悔してたの。もしもやり直せたらって、いつも思って……そうしたら、過去に戻れる羽根を見つけて……それなのに、何度戻っても変わらなくて」

だから、自分に託すことにしたと友人は言った。けれど結果は変わらないことに、友人は泣きながらどうしてと涙に濡れる目で自分を睨み付けた。

「ごめんね。でもこれだけは譲れない。大好きな友達を守ることを諦めたくなんてないよ」
「ばか。わたしだって、大好きな友達を失いたくなかったのに」

周囲の景色が色を失っていく。
終わりが近いのだろう。別れを察して離れようとするが、友人の腕は離れない。
逆に痛いほどに抱きしめられる。離れないと睨む目が告げて、その強さに思わず息を呑んだ。

「わたしも一緒に行くから。結果が変わらなくても離れないつもりで、ここにいるの……今、あなたの墓の前にいるんだよ」

色を失い、音もなく崩れていく景色の向こう側に、鬱蒼と茂る木々が見えた。呆然と見つめる先にある墓標の前で倒れ伏す友人の姿に、呻きにも似た声が漏れる。

「山に入ったから、わたしも死に感染してたの。だから最期は一緒にいたいって……迷惑だった?」
「ばか」

どこか不安に表情を曇らせる友人に、仕方がないと笑いかける。

「迷惑なんて、一度も思ったことはないよ」
「よかった……じゃあ、行こうか」

途端に笑顔になる友人が、体を離して手を差し出す。戸惑いもなくその手を繋げば、一瞬で辺りは暗くなった。
何もない黒の空間。見えるのは手を繋いだ友人の姿と、遠く小さく見える星のような灯りだけ。
お互いに頷いて、灯りの方へと歩き出す。

「次も一緒にいられたらいいね」
「一緒にいる。絶対に手を離したりしないし、もう馬鹿なことを言ったりもしない」

真剣で必死な友人に、小さく笑みを浮かべた。

あの先にあるのは、後悔しで繰り返した過去ではない。
まだ見ぬ未来へ向けて、振り返らずに歩いていく。



20250724 『もしも過去へと行けるなら』

7/24/2025, 9:08:02 PM

誰もいない廃駅で、来ない汽車を待っていた。
針の止まった駅舎の時計。錆びつき、文字の読めなくなった看板。
アスファルトの割れ目からは、名も知らぬ草が茂っている。
小さい駅でありながらも、隅々まで手入れが施され、賑やかだった面影はどこにもない。
汽車が来る度に、はしゃいでいた幼い頃。幼馴染みと、よく未来について話していたことを思い出す。

夏休みになったら、何をしたいか。
大人になったら、何になりたいか。
あの汽車に乗って、どこへ行きたいか。

明日のことから、何年も先のことまで。
たくさんのことを話した。どんな些細なことでも、真剣に向き合ってくれた。
二つ年上の幼馴染み。彼は自分の憧れであり、唯一恋をした相手でもあった。


遠く、微かに警笛の音が聞こえた気がした。
ぼんやりと視線を向ける。電灯も潰えた暗いこの場所からは、闇に呑まれた線路の先に何も見ることはできない。
ほぅ、と吐息を溢した。光を求めて見上げる空もまた暗く、僅かに星々が瞬くのみ。
新月だ。だからこんなにもくらいのだと、今更なことを思い笑う。
汽車を待って、どれだけの時が過ぎたのだろう。時間の感覚さえ忘れてしまった。それほど長く、ここに留まっていた。
後悔しているのだ。あの日、素直になれなかったことを。


幼馴染みがこの駅から汽車に乗って旅立った日。
自分は幼馴染にただ一言だけ告げて、背を向けた。

――またいつか。

さよならの代わりの言葉。素直になれなかった自分の、精一杯の強がりだった。
何かを言いかけた幼馴染みから逃げるように、見送ることもなく駅を出た。
泣くのが怖かった。縋り付いて行かないでと言ってしまいそうで、それが怖ろしくて堪らなかった。
もう二度と幼馴染みは戻ることはないのだと。それを知りながら敢えて告げた言葉は、まるで呪いのようだ。
こうして長い間、自分を駅に縛り付けている。
幼馴染みを縛る呪いでなかったのだけは、唯一の救いだった。



遠く、警笛の音が聞こえた。
かたん、かたん、と線路の鳴る音。
はっとして立ち上がる。ふらふらと線路に近づいて、どこか祈るような気持ちで視線を向けた。

「――あぁ」

暗い線路の先で、光が見えた。
汽笛。静寂を切り裂くように響き渡る。
駅舎の屋根が眩い光に揺らいだ。光の向こうに煙が見える。
記憶と変わらないその姿。
呆然と立ち尽くす自分の前で、ゆっくりと汽車は止まった。

暗い車両の中では、いくつかの影が揺らいでいるのが見える。
何も変わらない。
あの日、幼馴染みを乗せて去って行った汽車が、長い時の果てに帰ってきていた。
ゆっくりと扉が開いていく。中の影が揺らぐのを見て、静かに扉の脇へと避けた。
影が下りる。迎えの火を目印に、家に帰っていくのだろう。
帰ってきた彼らを見送って、汽車へと向き直った。
夜よりも黒いその色。懐かしさに口元が綻んだ。

やがて汽笛を鳴らして、汽車は再び動き出す。次の駅に向かい、線路を鳴らして去って行く。
遠ざかる汽車を見つめ、小さく手を振った。幼い頃と同じように、一度も乗ることのなかった汽車に思いを馳せながら。
やがて汽車は見えなくなる。静寂が場を満たして、駅は再び眠りについていく。
笑みを浮かべたまま、静かに歩き出す。どこか満たされた充足感を抱きながら、また汽車を待つためベンチへと向かい。

不意に、腕を引かれた。
突然のことに抵抗ができぬまま体が傾ぐ。倒れる体を抱き留めて、腕を引いた誰かは声を震わせた。

「こんな所にいたのか」

びくりと肩が跳ねた。
耳に馴染むその低めの声を、忘れたことは一度もない。

「随分と遅くなった。すまない」

抱き留める腕の力が強くなる。声と同じく震えるその腕に、そっと触れた。

「――どうして?」

辛うじて紡ぐことのできた言葉は、消え入りそうなほど微かに震えて。
だが伝わったのだろう。腕に触れた手を取り指を絡め、誰か――幼馴染みは、耳元に唇を寄せた。

「迎えに来た……約束を果たさせてほしい」

約束。記憶にないそれに、顔を上げる。視線を向ければ、泣くように微笑む幼馴染みの顔が、暗闇の中でもはっきりと見えた。

「行こう」

肩を抱かれ、歩き出す。
駅舎を出て、自分と幼馴染みの家のある方向へと向かう。

「またいつか」

不意に幼馴染みが呟いた。
強がり、素直になれなかった言葉。自分を駅に留めた呪いの言葉に、僅かに眉が寄る。

「俺を待ってくれる。それが救いだった……家にいるのかと思っていたから、気づかなくて悪かった」
「――え?」

いつの間にか離れた幼馴染みの手の上には、精霊馬が乗せられていた。馬は手のひらの上で跳ね、宙を駆けて去って行く。

「今回は汽車に乗って正解だった。還る時も汽車に乗ろうか。今度は一緒に」

微笑む幼馴染みに、戸惑いながらも小さく頷いた。
何故だが気恥ずかしくなって、視線を前へ向けた。
向かう先に見える火は、自分の家のものだろうか。
火を前に、腕を組んで待つ懐かしい姿を認め、思わず息を呑んだ。

「お父さん」

幼馴染みと同じく帰ってこなかった父の姿に、僅かに涙が滲む。
父だけではない。母や弟たち、家族が家の前で待っていた。

「行こう。お前の来世を貰う挨拶をさせてくれ」

穏やかな声に、目を瞬いて幼馴染みを見る。穏やかな笑みに遅れてその言葉の意味を理解して、声にならない悲鳴が漏れた。
頬が熱い。視線の行き場に迷い、逃げるように再び繋がれた手に視線を落とした。

「左様ならなど、仕方がないと別れるのでなく。またいつかと、再会の約束をくれてありがとう」

縛り付ける呪いではなく、再会を約束する言葉。
優しく囁かれて、幼馴染みの胸に凭れ、一筋涙を流した。



20250722 『またいつか』






縁側に座り、少女はぼんやりと空を見上げていた。
夏休みに入り、初めて一人で泊まった祖父母宅。どこか落ち着かない気持ちに、少女は溜息を吐く。
学校の宿題は、絵日記と自由研究を残すのみ。初日に両親に連れられてから、三日目にはすでに殆どの宿題が終わってしまっていた。
田舎には娯楽が少ない。テレビは退屈な大人向けの番組ばかりで、子供用のゲームなどもありはしない。そも、少女はテレビやゲームよりも読書を好んでいた。
しかし、祖父母の家の書架には本があるものの、幼い少女にはまだ難しい内容のものばかり。故に現時点でできる宿題を終えた後は、こうして縁側の片隅で空を見上げている事が多かった。


「――ごめんください」

不意に、玄関から声がした。
子供特有の、高めの声音。少女は玄関の方へ顔を向けながら、意味もなくおろおろと視線を彷徨わせた。
今、この家にいるのは少女だけだ。祖父は畑仕事に出てしまったし、祖母は先ほど買い物に出たばかりだ。

「おじゃまします」

その言葉に、少女は益々狼狽える。
誰かが許可もなく家の中に入ってくる。都会暮らしの少女には理解できない田舎特有の感覚に、どうすればいいのか分からない。
近づく足音に、少女の目には次第に涙の膜が張る。縁側の先に小さな人影を認めて、耐えきれなくなった涙が一筋、少女の頬を伝い流れていた。

「あぁ、やっぱりいたんだ。返事がないから勝手に上がったけど」

影が少女に近づき、その姿を明確にする。
少女と然程変わらない年頃の少年。人好きの笑みを浮かべて、少女の側に歩み寄る。

「怖がらないで。大丈夫、君のお祖母ちゃんに言われて来たんだ。一緒に遊んで欲しいって」

小さく蹲る少女の頬に手を伸ばし、流れる涙を拭いながら少年は優しく告げる。祖母の名が出たことで、少女の警戒はいくらか緩くなった。
目を瞬いて涙を溢しながら、少年を見つめる。
少女よりも頭一つ高い背丈。笑顔を浮かべながらも、少しだけ下がった眉。優しく涙を拭う手つき。
恐怖とは違う鼓動の高鳴りを感じた。切なく胸を締め付ける知らない感情に、少女は戸惑うことしかできない。
懐かしい。
ふと込み上げた思いに、少女は何故だか無性に泣きたくなった。

「ここを案内してあげる……おいで」

差し出された手を取って、泣く代わりに少女は控えめに微笑んだ。



少年に手を引かれ訪れた場所は、まるで別世界のように少女を魅了した。
神社でのかくれんぼ。小川での水遊び。
蝉やザリガニを捕まえるのも、何もかもが初めての経験だった。

「ほら」

駄菓子屋で買ったアイスを、ぱきんと二つに割って、少年はその片方を少女に手渡した。

「――ありがとう」

軽く俯いて礼を言う少女の頬が赤い。誰かとこうして何かを分けるということすら、少女は初めてだった。
少年の隣に座り、少女はそっとアイスに口を付ける。
ほんのり甘く、冷たい氷の味。
初めての味に、しかし少女の胸を不思議な懐かしさが過る。
既視感、とでもいうのだろうか。少年と過ごし経験するすべてが懐かしく、そして愛おしくて堪らなかった。
横目でアイスを囓る少年を密かに覗う。
お互いに初対面であるはずだ。だというのに、何故こんなにも懐かしく思うのだろうか。
少女には分からない。痛みすら覚える、切ない感情の名を、幼さ故に少女は知らなかった。

「アイス、溶けるよ?」

少年の指摘に、少女は慌ててアイスを囓る。
きん、とした頭の痛みに、笑い合った誰かのいつかの記憶が過ぎた気がした。



「最後に、とっておきの場所に連れて行ってあげる」

そう言って笑う少年に手を引かれ、少女が最後に訪れたのは、小さな廃駅だった。

「ここ?」
「そうだよ。今日は特別なんだ」

困惑し立ち止まる少女に、少年は穏やかに告げる。
少年らしからぬ、何かを想う達観した大人のような目をして廃駅を見つめていた。
少女は少年と繋いでいた手に力を込めた。何かに縋っていなければ、今にも崩れてしまいそうだった。
懐かしい。
覚えのないその感情に、呼吸が乱れていく。泣き叫びたいような、笑いたいような、そんな不思議な感覚に目眩がした。
少年に手を引かれ、駅舎の中に入り込む。
廃駅となって幾分か傷みはあるものの、中は大分綺麗だ。
慣れた様子で改札に向かう少年に、少女は何かを言いかけ。結局何も言えずに、少年に手を引かれるままに改札を抜けた。


「――え?」

改札を抜けた瞬間に、すべてが変わった。
高く昇っていたはずの陽は何処にも見えない。
月のない夜空を、少女は呆然と見上げた。

「大丈夫、今日は特別だから」

少年に促され、歩き出す。
駅には、夜の闇よりも黒い汽車が静かに止まっていた。

「汽車……」

不思議と恐怖はなかった。
ただ込み上げる名前の知らない思いに、少女の目には涙の膜が張りだした。
一筋、頬を伝う。その涙を拭う少年の姿に、誰かが重なって見えた気がした。

「行こう」

そっと囁かれて、少女は小さく頷いた。
手を引かれるまま、車両に乗り込む。音もなく扉が閉まり、汽笛が鳴った。



少年と少女、二人だけを乗せて汽車は走り出す。

「この汽車、どこに向かっているの?」

少年の向かいに座り、少女は窓の外を見ながら呟いた。

「特別な場所……ほら、線路を越えて海に出るよ」

少年の言葉とほぼ同時、車両内が小さく揺れた。
ふわりと小さく浮かんだ汽車が、音もなく海の上に降り立った。線路のない、凪いだ水面を走り抜けていく。
星を映した水面が煌めいた。まるで夜空を走っているようだ。
どこかで、微かに鈴の音のような音が聞こえた。それは汽車の車輪が水面にさざめく音だったのかもしれない。
遠く、いくつも連なる灯が海に浮かんでいた。初めて見るはずのその火の名が、少女の唇から溢れ落ちる。

「――不知火」

本来ならば、夏の終わりと共に見られる現象。
海辺に座り、遠く連なり揺らぐ火を見た記憶が過ぎていく。
少女のものではない記憶。隣に座り、その火の名を教えてくれたのは、誰だっただろうか。

「渡したいものがあるんだ」

静かな声に、少女は少年へと視線を向ける。

「左手、出してくれる?」

真剣な面持ちの少年に、少女はゆっくりと左手を差し出した。
少女の前で膝をついた少年は、恭しくその手を取る。薬指に軽く唇を触れさせて、そっとその指に何かを嵌めた。

「――指輪?」

それは小さな赤い石のついた、玩具の指輪だった。

「本物じゃなくてごめん。でも、今の俺にはこれしか渡せないから」

眉を下げてはにかんで、少年は手を離す。
膝をついたままで少女を見上げ、強い目をして今日を忘れてもいいけれど、と静かに思いを口にする。

「覚えていなくても構わない。ただこれだけは知っていてほしい……お前がくれた約束を、俺は決して忘れはしない。前世も今世も、そして来世も。俺はお前だけを愛している。例え結ばれなくとも、俺の愛はお前だけのものだ」

ひゅっと、少女は息を呑んだ。
少年の姿に、学生服を着た青年の姿が重なる。
遠い過去、少女が少女となる前の記憶が弾けて、涙となって落ちていく。
少女は震える手を伸ばした。少年に引き寄せられるままにその胸に飛び込んで、強くしがみつく。

「ずっと、言えなかったことがあるの」

小さくしゃくり上げながら、必死で言葉を紡ぐ。背を撫でる少年の優しさに泣きながらも笑い、別れの日に言えなかった本当の思いを打ち明けた。

「行かないでほしかった。ずっと、側にいてほしかった……私のこと好きだって、お嫁さんにしてくれるって。子供の頃の約束を守ってほしかった」

少女の言葉に、少年は目を閉じ、あぁと声を溢した。
一度強く抱きしめてから、体を離す。額を合わせて、そっと囁いた。

「今度は必ず守る。結婚の約束も、俺の船で不知火を探しに行く約束も……前世でできなかったことをすべて、今世で叶えよう」


夜の海を、汽車が走っていく。
重なった二人の影を乗せて。
ただひとつの、永遠とも言える愛を内に抱いて。





少女が目覚めた時、そこは汽車の中ではなく、見慣れた祖父母の家だった。
体を起こし、部屋を見回す。少年の姿はどこにもない。
夢だったのだろうか。少女は小さく息を吐いて、何気なく左手に視線を落とした。

「――っ」

左薬指に嵌められた、赤い煌めき。
夢ではない確かな約束に、少女は泣くように微笑んだ。



20250723 『true love』

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