緩やかな流れに、手を浸す。
夜の小川。川上から止めどなく流れてくる星の欠片を、掬い上げては空へと還していく。
求める星は、まだ見つからない。
どれだけ掬い上げても、その煌めきは求めるものではなかった。
煌めく星は剥き出しの感情。還ることを忘れ漂う魂の一部。
死を前にした恐怖や悲嘆、絶望の塊だった。
「――っ」
掬い上げる度、触れる度に手に傷が増えていく。誰かの死を痛みごと垣間見て、苦痛に手が止まりかける。
それでも手を止める訳にはいかない。手を止めた間に流れ去る星が、求めるものであったとしたら。その懸念が、手を止めることを許さない。
そうしてまた、知らぬ誰かの死の痛みを掬い上げることを繰り返す。
求める星は、まだ見つからない。
「何をしているの?」
ふと、声が聞こえた。聞き馴染みのあるような、まったく聞き覚えのないような、不思議な声音。
答えず、手も止めずにいれば、そっと隣から両手を包まれ止められる。
細く、白い手。簡単に振り解けそうな小さな手を、けれども何故か離すことができなかった。
「何を探しているの?」
問われて、どう答えるべきかを迷う。
「――友達」
かつての関係を答えてみる。変わらぬはずだと思っていた言葉は、空しく滑稽に響いた。
自嘲して、傷だらけの手に視線を落とす。
「友達、だった人。勝手に疑って、手を離して。そして置き去りにして……星に攫われた、大切な人」
目を閉じる。
決して忘れることはない自分の罪は、今でもはっきりと思い出すことができる。
星の降り頻る夜。友人の手を引いて、丘の上へと向かった。
そこで、手を引かなければどこにも行けない友人の手を離した。星を追いかける振りをして、置き去りにした。
後悔してもしきれない自分の罪。姉が神隠しに遭い、その場に友人がいた。ただそれだけで神隠しの原因を、友人だと疑った。
「離れて、少し頭が冷えて……慌てて戻ったけど、間に合わなかった。手を取る前にあいつは星に貫かれて、そのまま消えてしまった」
痛みに泣く声。恐怖に流れる涙。助けを求めて伸ばされた手。
忘れたことなどなかった。何度も悪夢に見て、何度もその丘へと足を運んだ。
神隠しに遭った者は、七日を過ぎれば戻る。
姉は戻ってきた。心が壊れた状態で、山の中で見つかった。
友人も帰ってくるのだと信じていた。それだけが希望だった。
しかし、友人は最後まで帰ることはなかった。
「だから、あいつの星を探している。一人ではどこにも行けないあいつは、きっとここにいるはずだから」
「いないよ」
静かな否定の言葉に目を開ける。そうしてようやく声の方へと視線を向けた。
長い黒髪。白の病衣から除く痩せた手足。
見覚えのない、けれども懐かしい空気を纏う少女がいた。
「ここにはあなたの求める人はいない。朝陽を追いかけて、先に進んでしまったから」
「朝陽……?」
呟いて空を見上げた。月が傾き、遠くで微かに白み始めた空に、何故だか泣きたい気持ちになった。
「そういえば、陽の光はまだ微かに感じられるって言ってたっけ」
「うん。だからここで星を追いかけ掬い上げていても、あなたの傷が増えるだけだよ」
「そうか。一人でも行けるのか……ここに留まるだけの未練は、持ってくれなかったのか」
身勝手にも、それを寂しいと思った。
恨みでも何でも持ってくれれば、もう一度手を引けたのに。
友人の心など考えもしない、どこまでも浅ましい自分自身に吐き気がした。
「大丈夫」
優しい声が囁いた。
「朝陽の向こう側で待ってる。一人で、短い生を足掻いている……だから行って」
ふわりと微笑むその姿が、次第に揺らぎ形を失っていく。
そうして少女の姿は消え、手の中にはひとつの小さな星の欠片だけが残った。
小さな、弱い光を纏った星。川を流れて行くどの星とも違う、温かな光を纏う星。
伝わる思いもまた、とても温かだ。
目を閉じずとも、浮かぶ記憶。一夏の、まだその眼が星の光を捕らえることができていた頃の、友人の思い出。
その中に常に自分がいることに、妙な気恥ずかしさと切なさを覚えた。
「ばかな奴。恨んでくれれば良かったのに」
呟いて、今更ながらにそれはないなと笑った。
穏やかで怒ることを知らないような友人が、自分を恨む姿など想像ができない。
見上げる空は、暗い紺から淡い赤へと色を変え始めている。
東雲色。いつだったか、友人から教えてもらった言葉を思い出した。
「――行くか」
立ち上がり、ゆっくりと朝陽の方へと歩き出す。
いつの間にか手の傷はすっかり癒えて、知らない誰かの死の痛みなど欠片も残ってはいない。
本当に優しい友人だ。その友人に報いるために、自分ができることを考える。
病衣。痩せた手足。温かな記憶に僅かに混じっていた、無機質な病室。
間に合うかは分からない。けれどどうか、と祈りにも似た気持ちで朝陽を追いかけた。
朝の光に消えていく夜空に一筋、星が流れていく。
その煌めきに気づかずに、ただ朝陽だけを求めて駆け抜けた。
その星の煌めきが、優しい奇跡を起こしていたことを。
朝陽の向こう側。友人との出会いの場で知った。
20250721 『星を追いかけて』
朝は遠い。
カーテン越しの暗い空を思いながら、密かに息を吐いた。
「夢か」
夢を見ていた。目覚めた時にはその殆どが零れ落ち、夢を見ていたという感覚だけが残っている。
同じ夢だ。覚えてはいないが、ここ数日同じ夢を繰り返し見ている。そんな根拠のない確信に目を伏せた。
かちかちと、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
規則正しいその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
まだ朝は来ない。もう一眠りするべきだと、微睡み始めた意識に身を委ねていく。
時計の音。近くで、あるいは遠くから響く、無機質な音。
かち、かち。かち――。
――どぉん。
時計の音に、別の音が混じる。
低い音。時計のように一定の間隔で鳴らされ続ける音は、次第に時計の音を呑み込んで、成り代わる。
聞き覚えのある音だ。体の内側まで響くような音は、夜祭で聞いた、太鼓の音によく似ていた。
もっとも、自分は夜祭に行ったことはないのだが。
太鼓の音が響く。意識がゆっくりと沈んでいく。
そしてまた。
記憶に残らない、夢の中へと落ちていく。
太鼓の音。それに混じる笛の音。
目を開ければ、目の前には夜祭の光景が広がっていた。
たくさんの出店。甘く香ばしい、食欲をそそる匂いが辺りを満たす。
楽しげな談笑。はしゃぐ子供の声がする。自分の横を、子供たちが笑いながら駆け抜けて行く。
何気なく、子供たちが気になった。
駆け抜けるその背を追って、奥へと歩き出す。
辿り着いたのは、神社の社の前。
子供たちが、手にした食べ物やおもちゃを見せ合っている。
辺りには、大人の姿はない。いつの間にか、太鼓や笛の音も聞こえなくなっていた。
一人がこちらに気がつき、大きく手を振った。
「お前も早く来いよ!」
知らない子供。けれどよく知っている。
そんな違和感に、思わず目を閉じた。
水の流れる音がして、目を開けた。
陽の光を反射して煌めく水面に目が眩む。
いつの間にか、真昼の川縁に立っていた。
楽しげな声と水音が聞こえ、視線を向ける。川上で、子供たちが水遊びをしていた。
笑い声。跳ねる水しぶき。川のせせらぎと相俟って、とても涼しげだ。
ゆっくりと歩き出す。子供たちの側まで歩み寄り、立ち止まった。
川の流れは緩やかで、浅い。けれども川の中に入ることを躊躇していれば、目の前に小さな手が差し出された。
「怖くねぇよ。ほら、大丈夫だから」
笑みを浮かべる少年を、どこかで見た気がした。
思い出せない。欠けた記憶のもどかしさに、目を閉じた。
風鈴の音が聞こえた。
目を開ければ、知らない家の縁側に座っていた。
空を見上げる。眩いばかりの陽は、容赦なく辺りを照りつけ、それに負けじと蝉時雨が響き渡る。
時折吹く風が、風鈴を鳴らす。涼やかな音は、それでも完全に暑さを静めてはくれそうにはなかった。
不意に、隣に誰かが座る気配がした。
視線を下ろし、隣へ向ける。
スイカの乗った盆を置き、スイカを手にする友人。
大胆に齧り付くその姿を見ていれば、友人はこちらに視線を向けて、不思議そうに首を傾げた。
「食わねぇの?」
自分と友人の間に置かれた盆を指差す。そこには、もう一切れ、瑞々しいスイカが置かれていた。
手を伸ばす。しかしスイカに触れる前に手を止め、もう一度友人を見た。
静かにこちらを見つめる目と視線が交わる。何もかもを見透かすような、呑み込んでしまいそうなその眼。
くらりと、目眩にも似た感覚に、咄嗟に目を閉じた。
目を開ける。
黄昏に染まる空。影を落とした神社の社の前。
そこに友人と二人、立ち尽くしていた。
「なぁ、話があるんだけどさ。大事な話」
真剣な眼差しの友人に、静かに向き直る。
「俺さ。本当は――」
「ねぇ」
友人の言葉を遮って、一言告げる。
「戻るつもりはないよ」
その言葉に、友人は凪いだ声音で問いかけた。
「なぜ?」
「今を、生きたいから」
答えたその瞬間。
世界が、崩壊した。
一瞬の暗闇。
思わず閉じていた目を開ける。
暗がりに浮かぶ、見慣れた天井。ベッドで横たわっていることに、混乱する。
体を起こそうとして、胸の痛みに倒れ込んだ。息苦しさに、体を丸めて必死で呼吸を繰り返す。
この苦痛は現実のものか。ならば夢から覚めたのだろうか。
「可哀想に」
すぐ側で聞こえた声に、身を強張らせる。
「今を生きるとか、意地を張って……ただ逃げたいだけだろう?お前がお前である前の過去から」
冷たい指が髪を撫でる。頬に触れて、滲んだ涙を拭っていく。
これは現実なのか。それともまだ夢の中なのか。
痛みで朦朧とする意識の中、残酷なほどに優しい声が囁いた。
「大丈夫だ。あのまま、何も知らない子供のままを繰り返せば、何も怖くないだろう?余計なことを考えずにいれば、俺も今度は間違えない」
背に触れられる。無理矢理に体を起こされて、一瞬呼吸が止まった。
「――っ」
「意地を張るな。今を生きるといっても、こんな出来損ないで壊れかけた体じゃあ、何もできないだろうに。生きる前に、体が朽ちて死んでいく」
甘い誘惑に、必死で首を振る。
分かっている。自分はあと、数年しか生きられない。
それでも過去に、それも前世にしがみつくつもりはなかった。
前の自分は、とうの昔に終わってしまったのだ。ならば、短い生でも今を生きるしかない。
目を閉じ、耳を塞いで夢に逃げるのは、それこそ逃げでしかないのだから。
「強情だな。そんな所は前と何も変わらない」
小さな呟きに、痛みに顔を顰めながらも顔を上げる。
悲しげな微笑み。滲んだ視界でもはっきりと見えるのは、その微笑みを覚えているからだろうか。
ごめん、と声にならない呟きが、唇から溢れ落ちた。
自分のせいで過去に囚われたままの友人に、痛みとは違う涙が零れ落ちた。
「――仕方がない。もう少し待ってやるよ」
優しい声と共に、起こされていた体を横たえさせられる。
涙を拭われ、そのまま目を塞がれた。
「お前の終わる時に、また迎えに来る。それまで精々苦しみながら、今を生きることだ」
苦しみ生きろと言いながら、その声はどこまでも優しい。
素直でない友人の変わらない優しさに、過去の自分を少しだけ羨ましく思った。
「じゃあ、またな」
意識が落ちていく。
痛みも苦しさも感じない、夢も見ないほど深い眠りへ、沈んでいく。
明るい陽射しに目が覚めた。
気づけばカーテンは開けられて、晴れやかな青空が窓越しに見えた。
小さく息を吐き、ベッドを起こす。痛みは感じない。普段よりも呼吸が楽にできている気がした。
「おはようござます」
検温に来た、馴染みの看護師が声をかける。
それに答えながら、いつものように思い出せない夢を辿った。
「今日は調子がいいみたいですね。昨日からいらした先生の、新しい処方が効いているみたい」
首を傾げた。
そういえばと、新しく赴任した医師が挨拶に来たことを朧気に思い出す。
「朝食後には、先生が回診に来られますからね」
そう言って去って行く看護師の背を見送りながら、医師の姿を思い浮かべる。
ぼんやりとした輪郭が、一瞬だけ懐かしい誰かの姿を伴って消えていく。
緩く頭を振って、目を閉じた。無理に思い出そうとしなくても、すぐに会うことになる。
窓越しに、蝉の鳴く声がした。どこかで子供たちの笑う声が聞こえる。
今年の夏も暑くなりそうだ。
20250720 『今を生きる』
人の絶えた校舎の中を、一人の青年と一羽の青い鳥が歩いて行く。
「ここか?」
軽く翼を広げて鳥が示す棚の中に、青年は手を差し入れる。奥を探り、しばらくして青年は手を引いた。
その手の中には、錆び付いた小さなキーホルダー。埃を拭えば、龍が巻き付いた剣が鈍く光を反射した気がした。
「――また見つけたな」
小さく呟いて、青年は教室の窓に歩み寄る。差し込む月明かりにキーホルダーを晒すと、それは丸い光となって教室の中を漂いだした。
――見ろよ!この前旅行に行った時に、母ちゃんが買ってくれたんだぜ。
――すげぇ。格好いいじゃん!
――いいなぁ。俺も欲しかったけど、買ってくんなかったんだよなぁ。
楽しげな声が教室内に響き渡る。
在りし日の一場面。光が淡く照らす場所に、楽しげに話す子供たちの影が浮かび、消えていく。
漂う光もやがて消え、後には静寂だけが残った。
ふっと、青年は笑みを溢した。しかしその目はどこか寂しそうに、悲しそうに揺らいでいる。
そんな青年を見上げ、鳥は小さく鳴き声を上げた。
「あぁ、大丈夫だ……全部、見つけてやらないとな」
身を屈め、青年は鳥の頭をそっと撫でる。目を細める鳥に微笑んでから、教室内を一瞥した。
廃校になり、誰も訪れなくなった校舎。かつてここで、青年は教師として働いていた。
青年がいつからこの校舎で失せもの探しをし始めたのか、青年自身も覚えてはいない。気づけばここにいて、青年に懐く飛ばない鳥と共に失せもの探しを始めていた。
「そろそろ次に行くか」
呟いて、静かに立ち上がる。
鳥は小さく鳴いて、先導するように青年の前を歩き出した。
「まだ飛べないのか?……それとも飛ばないのか」
青年の言葉に鳥は振り返らない。教室を出る姿に苦笑して、青年もその後に続いて教室を出た。
使いかけの消しゴムを、月明かりに晒す。
ふわりと丸い光が教室を漂い、密かな声が聞こえてきた。
――皆には、内緒にしてよね。
――分かってるよ。おまじないの相手は、誰にも言わないから。
くすくすと笑い声がする。
――それにしても、先生かぁ。予想はしてたけどね。
――な、なんで。知って!?
――だって、分かりやすかったし?たぶん皆知ってるよ。
声にならない悲鳴。仄かに光が浮かばせる影が、顔を覆って机に伏した。
――頑張って。両思いになれるといいね。
――うぅ……がんばる。
慰めるように机に伏した影の頭を撫でる、もう一人の影。
密やかな日常が、光と共に消えていく。
「おまじない、か」
何もない手に視線を落とし、青年は小さく笑みを浮かべた。
「何かこそこそやっているとは思ってたが……本当に女子はそういうのが好きだな」
笑う青年に、咎めるように鳥が鳴く。嘴で足を突けば、痛がりながらも青年は楽しそうに鳥を見た。
「悪かった。じゃあ、次に行こうか」
いつものように、鳥に告げる。だが鳥は動かない。
澄んだ瞳が青年を見上げる。ややあって、すべてを理解した青年は静かに微笑んだ。
「そうか……これで、全部なのか」
鳥は鳴く。
それに頷いて、青年はそっと鳥を抱き上げた。
「屋上に行こうか。そこが一番空に近い」
鳥を撫で、青年は歩き出す。
その表情は、微笑みながらも泣いているように見えた。
柔らかな風が吹き抜ける。
「良い風だ。旅立ちに相応しい」
穏やかに呟いて、青年は鳥を抱いたままフェンスの側まで歩いていく。
屋上から見下ろす景色は、青年の知るものとまったく様子が異なっていた。
遠くで瞬くいくつもの灯り。夜だというのに昼と変わらぬ明るさに、青年は目を細める。
「全部探すのに、随分時間がかかっちまったな」
苦笑しながら、鳥を抱く腕を空へと伸ばす。青年を見つめる鳥に向けて、一言告げた。
「飛べ」
ぱちり、と鳥の目が瞬いた。
「後はお前だけだ。今まで、長く付き合わせて悪かったな。もう自由になっていいぞ」
鳥は鳴かない。翼を広げることも、青年に擦り寄ることもなく、ただ青年を見つめていた。
まるで、自分が飛び去った後の、青年のその後を尋ねるように。
「大丈夫だ。お前たちを全員送り出したら、先生もいくから」
だから、と続ける青年の言葉を、強く吹いた風が掻き消した。
――うそつき。
誰かの声がした。
――先生は、いつもうそつきだ。
囁く声と共に、いくつもの丸い光が辺りに浮かぶ。
「これは……?」
目を見張る青年と静かに見つめる鳥を囲うように、光が揺らぎ形を変えていく。
小さな子供たちの姿。青年のかつての教え子たちが、笑いながら囁いた。
――ここから動かないくせに。
――一人で残ろうとしてるの、ばればれだよ。
――先生、寂しがり屋なのに、素直じゃないんだから。
――一緒に行けばいいじゃん。
囁く声に合わせて、鳥が鳴く。
「先生。先生も一緒に卒業しようよ」
鳴き声が言葉になる。
青年の頬を一筋の涙が流れ落ちた。
「――いいのか?」
微かな呟きに、鳥は翼を広げ応える。青年の腕から肩へと移り、その頬に擦り寄った。
「先生が皆の忘れものに祈ってくれたから、皆帰ってこれた。だから、皆で還ろうよ」
鳥の言葉に目を伏せる。しかしその口元は緩く笑みを浮かべて。
「そうだな。先生も皆と一緒に行こうか」
きゃあ、とあちこちで歓声があがる。
子供たちに抱きつかれた青年の体が、少しずつ揺らぎ始めていく。
鳥が鳴く。翼を広げ飛び立ち、青年の周りをぐるりと旋回した。
その声に応えるように、青年が鳴き声を上げた。
低い鳥の声。揺らぐ姿もまた、鳥の姿となり。
「行こうか。途中で逸れないでくれよ?失せもの探しは先生、苦手なんだ」
戯ける黒の鳥が、いくつもの蛍のような光に囲まれ、傍の青の鳥と共に夜空を飛び去っていった。
その学校が何故廃校になったのか、今となって正しく知る者はいない。
とある教師が、自分のクラスの生徒を道連れに死んだ。
その当時流行ったおなじないが、生徒と教師を巻き込んで異界へと連れ去った。
裏山に封じられた祟り神に、生徒と教師が喰われてしまった。
様々な噂が流れた。それのどれが本当で、あるいはすべてが偽りなのかも、最早知りようがない。
やがて、時代に取り残された校舎は取り壊された。そこに学校があったことも、消えた生徒と教師がいたことも、すべて忘れ去られてしまった。
それでも――。
「ちょっと男子!もう少し離れなさいよ」
「なんでだよ。あいつだけ先生の側にいて狡くねぇ?」
「いいの!ちょっとだけでも恋人っぽいことさせないと……デートよ、デート」
「デートぉ!?先生とあいつ、付き合ってんの?マジで?」
「じゃあ、結婚式やろうぜ!誓いのちゅーしよう!ちゅー」
「さいてー。本当に男子ってデリカシーにかけるんだから」
番のように寄り添う二羽の鳥が、消えた生徒のために長い間彷徨っていたのを。
夜に吹き抜ける風だけは、忘れることなく覚えている。
20250719 『飛べ』
「あれ……?」
彼女と二人、映画を見た帰り道。知らない路地に迷い込んだ。
いつもは通らない道。好奇心に任せて、彼女と手を繋いだまま歩いていく。
ふと、彼女が立ち止まった。
「どうしたの?」
「ここ。甘い香りがする。木と、草と……知らない水と風の匂い」
「水と風?」
首を傾げながら視線を向ける。そこは雑貨屋ともカフェともつかない、小さな店のようだった。
看板には、不思議な文字で「Aisling」と書かれている。
「入ってみる?」
彼女が感じた香りは、自分には分からない。でも彼女の様子から、嫌なものではないと分かる。
声をかけると、彼女は少し迷ったようにしてから、小さく頷いて扉に手をかけた。
店の扉を開けると、ちりんと軽やかな鈴の音がした。
店の中は外からは想像できないほど広く、不思議な色をした木材の柱や棚が並んでいる。
色とりどりのドライフラワー、布細工や木彫りの雑貨、ハーブティーの香り。
「すごい……」
「雑貨屋さん、なのかな?」
棚に並べられた、手作りの小さな人形たちを見ながら首を傾げる。
不思議な店。見慣れないものしかないのにとても落ち着く空間に、肩の力が抜けていく。彼女の前では格好よくいたくて気を張っていたのがなくなって、どこか夢見心地で彼女に視線を向けた。
少し離れた場所で、彼女は店の柱を見ていた。そっと手を伸ばして、柱に触れる。
「すごく、きれい」
柱をなぞるその指の爪が、次第に鋭くなっていく。
慌てて彼女の側に寄ってその手を取るが、彼女は柱を見たまま、爪も鋭いままでいいなぁ、と小さく呟いた。
「その柱で爪を研ぐのは止めとくれね。猫のお嬢さん」
店の奥から声がした。びくりと肩を揺らして声のする方を見ると、奥から不思議な雰囲気を纏った女の人が現れた。
「その柱は、あたしの故郷のオークで作られてるんだ。店の匂いで酔っちまってるとこ悪いんだがね、ちっと奥においでな」
穏やかな笑みを浮かべる女の人に、焦りながら頭を下げる。
奥へと促されて、まだぼんやりしている彼女の手を引いた。
奥にはいくつかの机と椅子、そしてカウンターの席があった。どうやらここはカフェでもあったらしい。
カウンター席に座る。隣に座った彼女はおとなしく座ってはいるが、まだ視線は柱を向いたままだ。
「心配はいらないよ。猫は鼻がきくからねぇ。ハーブやアロマの匂いに酔っちまったんだよ。少し落ち着けば元に戻るさ」
女の人はそう言って、カウンターの向こうへ行く。店主なのだろうか。手際よく棚からガラスの瓶を選び、ハーブやドライフラワーを手早くブレンドしていく。不思議な模様の描かれたポットに入れて、お湯を注いだ。
ふわり、と湯気と共に甘い香りが立ちこめる。その香りに、彼女は柱からポットへと視線を移して、目を瞬いて首を傾げた。
「〝special day〟のブレンドをどうぞ。特別な日だけに振る舞われる、特別な一杯さ」
テーブルに置かれたカップの中には、色とりどりの花びらが浮かぶ琥珀色のお茶。
惹かれるように彼女の手がカップに伸びる。湯気を吸い込み、カップに口を付ける。
「――美味しい」
小さく呟いた彼女の爪は、元の綺麗に整えられた爪に戻っていた。
「よかった」
カップを両手で持つ彼女の指先を見て、小さく安堵の息を吐く。
初めてのことだ。祖先に猫がいたらしい彼女が、猫のように喉を鳴らしたり、動くものを追いかけることはよくある。
でもそれだけだ。彼女はちょっとだけ猫に近い人間の女の子で、猫ではない。そう考えていると安心した気持ちが萎んでいって、また不安が込み上げてくる。
「ごめん。迷惑かけて」
「だ、大丈夫だよ!迷惑じゃなくて、心配しただけだから。えっと、その……彼女が、いつもと違うって、ほら、心配になる、し……」
カップを手に肩を落とす彼女に、慌てて気にしないでと声をかけた。
迷惑なんてまったく思っていない。その気持ちが少しでも伝わればと、カップを持つ彼女の両手を包んで眼を合わせて告げる。
「迷惑なんかじゃない。僕は彼氏なんだから、彼女の心配はさせてよ」
「――うん」
頷いて俯く彼女の頬が赤い。つられて自分も顔が熱くなり、恥ずかしくなって同じように俯いた。
お互い何も言えず。でも手は離せずにいれば、カウンターの向こうから、くすくすと忍び笑いが聞こえた。
「仲睦まじいことは、とってもいいことさね。素直なのが一番だ」
視線を向ければ女の人が自分の前にカップを置きながら、楽しそうに囁いた。
「ようこそ、Aisling《アシュリン》へ。特別な日に訪れた、とても幸運なお客さん」
人差し指を口にあてる女の人――店主は、そう言って少女のようにも老婆のようにも見える目をして笑った。
「さて折角の〝special day〟だからね。魔法のフォーチュンクッキーでも如何かな?」
ことり、と小さな白のお皿が自分と彼女の間に置かれる。
「フォーチュンクッキー?」
「この国で言うところの、おみくじみたいなものさ。ひとつ取って割ってごらん?」
彼女と顔を合わせ、首を傾げる。彼女がカップを置くのをみて手を離し、代わりにクッキーに手を伸ばした。
鳥の形をしたクッキーを取り、力を入れて半分に割る。中から出てきた小さな紙片に目を瞬きながら、紙片を開いて中の文字を読んだ。
「――二人の恋は、前途多難……?」
思わず眉を寄せる。そんなこと、自分が誰より知っている。猫の祖先を持つ彼女と、雀の妖の自分。どんなに楽観的に見ても相性はとてもよろしくない。
小さく溜息を吐きながらクッキーをかじる。何だか悲しくなって彼女に視線を向けた。
彼女の指が猫の形をしたクッキーを手に取る。半分に割って中の紙片の文字を読んだ彼女が、そのまま動きを止めた。
「どうしたの?」
聞いても彼女は何も答えない。
ただ頬が先ほどよりも赤くなっていく。
「何が書いてあったの?」
気になって彼女の手元を見れば、小さな紙片には一言。
「――好きをキスで伝えれば、すべて大丈夫……?」
目を瞬く。
「キス……」
遅れて意味を理解して、顔が熱くなっていく。
「好きを……キス、で……」
彼女のクッキーから出てきた紙片。彼女の占いの結果。
つまりは、彼女が、自分に――。
ぽんっ、と情けない音を立てて、雀に戻る。忙しなく辺りを飛び回っていれば、店主に声を上げて笑われた。
「なんだい、なんだい。初々しいったらありゃしない」
笑いながらも、店主はカウンターの下から綺麗な青い缶を取り出す。
「キスが駄目なら、人間になれるチョコレートもあるが、どうするかい?」
「え?」
人間になれる。その言葉にカウンターに下りて、恐る恐る店主へと近づいた。
「まあ、これは別料金になるがね。雀の坊ちゃんが食べれば、猫の嬢ちゃんも安心だろう?」
どうする?と問われて、心が騒ついた。
もしも。もしも彼女と同じ人間になれたのならば。
彼女ともっと近く、隣にいられるのかもしれない。
「――やだ」
けれどそんな淡い期待で近づく足は、彼女の小さな呟きによって止まる。
「このままがいい。このままが好きなの。人の姿も、雀の姿も……全部が好きだから」
真っ赤になった彼女のその言葉に、急いで彼女の隣へと飛んだ。人の姿になって、泣きそうな彼女の背をそっとさする。
「僕も……僕も、そのままの君が好き。猫のような君が、大好き。ごめんね」
小さく謝ると、彼女は俯いたまま首を振る。顔を上げた彼女と目を合わせ、涙の膜が張ったその目を見て、力なく笑った。
彼女もまた眉を下げて笑い。その可愛い姿に惹かれて、自然とその頬に手を当てて、唇を寄せた。
「――っ!?」
「おやまあ」
店主のからかい混じりの声に、今更になって恥ずかしさが込み上げた。
力が抜けて席に座り、温くなったカップに口を付ける。仄かな甘みに息を吐いて、そっと横目で彼女を見た。
濡れた目と視線が合う。深い、森の奥にいるような緑色が真っ直ぐにこちらを見つめている。
その緑色が近づいて、見えなくなる。
代わりに頬に触れたのは、温かくて柔らかな――。
気づけば彼女の手の中で、雀の姿に戻っていた。
「どうやら心配はなさそうだ。なあに、どんな恋にだって、障害がつきものさ。それに悪い魔法を解くのはいつだって、好きな人のキスだって決まっているからねえ」
楽しげで穏やかな店主の声。
妖で在ることも、妖の衝動が残ることも、悪い魔法なんかではない。そう反論したいけれど何も言えず、力が入らず上手く動くこともできない。
「悪い魔法……」
小さく呟いて、彼女は目を瞬いた。指先で頭を撫でながら、彼女はひとつ頷いて。
「あ、戻った」
額に感じた熱。
人の姿を取り、額を抑えて後退った。
「分かった。頑張る」
「何を!?」
静かに何かを決意する彼女に、悲鳴混じりに問いかける。
色々なことがありすぎて、感情が追いつかない。思いが溢れて、じわりと視界がぼやけていく。
「さあさ、お二人とも席にお戻りな。〝special day〟はまだ始まったばかりだ。この魔女の隠れ家Aislingの、美味しい魔法をたあんと召し上がれ」
それでも、頬を染めて笑う彼女と、店主のにんまりとした笑みははっきりと見えた。
20250718 『special day』
森の中を彷徨い歩いて辿り着いたのは、一本の大きな木だった。
ひんやりとした風が吹いて、痛み疲れた体を冷やしてくれる。ふらふらと惹かれるようにして木の根元、揺らぐ木陰へ近づいた。
そこにはすでに誰かがいた。幹に凭れて、目を閉じている。
眠っているのだろうか。涙で滲む視界ではよく分からない。
乱暴に涙を拭って、恐る恐る近づいた。
誰かは目覚めない。黒く長い髪が地面に広がって、まるで昔のお姫様のようだった。
「――何用だ」
低い声がした。目の前の綺麗な誰かから。
びくり、と肩を揺らして一歩後退る。冷たささえ感じられる静かな眼差しに、止まりかけていた涙がまた溢れ出した。
男の人は苦手だ。特に年上の男の人はとても怖くて、痛い。
手がこちらに伸ばされるのを見て、反射的に目を閉じ身を竦めた。
しかし、痛みは来なかった。
優しく触れられる感触に、そろりと目を開ける。
頭を撫でられている。初めて知る優しく慈しむような撫で方に、恐怖とは違う涙が零れた。
「おいで」
呼ばれて、促されるまま男の人の隣に座る。頭をもう一度撫でる指は、そのまま黒い木の陰を差した。
指差す方を眺めていれば、風もないのに木が揺らめき、小さく影がいくつか別れた。
別れた影がずるりと地面から抜け出して、小さな生き物の形を取る。兎やリスなどの小動物になった影が辺りを駆け回り、小鳥になった影は自由に空を飛び、男の人の肩に留まる。
駆け回る小動物たちが膝に乗り、側に寄り添う。男の人の肩に留まっていた小鳥が、こちらに飛んで今度は私の肩に乗った。
不思議な感覚。温かいような、冷たいような。けれど少しも嫌な感じはしない。
思わず小さく笑みが溢れた、笑ってから、慌てて男の人の反応を覗う。感情の読めない目。少なくとも、気分を害してはいないようで安堵した。
「気に入ったか」
問われて、少し考える。
すべて初めてのこと。嬉しかった。そして楽しかった。
男の人の反応を覗いながら、小さく頷いた。
「そうか」
そう言って男の人は、また指を差す。今度は木の根元。ちょうど私の足下を指し示す。
「掘るといい」
静かにそう言われて、そっと地面に手を触れた。
土を掻く。直前に掘り起こしていたのか、あまり力を入れなくても簡単に掘ることができた。
そのまま掘ると、小さな箱が現れる。閉まりきっていない蓋がかたり、と音を立てた。
「開けてみろ」
男の人の指示で、そっと箱の蓋を持ち上げる。中を覗けば、そこには溢れんばかりのお菓子が入っていた。
それを見て、小さくお腹が鳴った。慌てて男の人を見るが、気分を害した様子はない。
「それはすべてお前のものだ」
私のもの。その意味を理解するとほぼ同時に、箱の中のお菓子に手が伸びた。
夢中で袋を破り、手当たり次第にお菓子を口に運ぶ。初めて知る甘さが、心まで満たしていくようだった。
久しぶりにお腹が満たされ、段々と眠気が訪れる。
頭が揺らぐ。それを見て男の人は手を伸ばして私の頭を引き寄せ、膝に乗せてくれた。
大きな手で目を塞がれる。一瞬だけ体が強張るが、すぐに力が抜けて、意識も遠くなる。
「おやすみ」
静かだけれど穏やかな声に、小さく頷いて目を閉じた。
ふと、目が覚めた。
まだぼんやりする意識で、ゆっくりと体を起こす。辺りはすっかり陽が落ちて、暗闇が森の姿を一層怖ろしいものに見せていた。
「起きたのか」
静かな声に視線を向けた。昼間と変わらない位置に、男の人は座っている。
暗闇の中でも、その姿は何故かはっきりと見えた。
男の人が指を差す。昼間、お菓子が出てきた場所だった。
「掘れ」
男の人の指示に従い、土を掘る。昼間とは違い、硬い土の感触。力を込めて土を掻いた。
そうして土の中から出てきたのは、昼間の箱よりも一回り小さな白い壺。しっかりと蓋が閉められて、中に何が入っているのか分からない。
壺を掘り出し、男の人へ差し出す。男の人は壺を受け取ると蓋を開き、中から小さな丸いものをひとつ取り出した。
「食べろ」
手渡されたそれは、透明な黄色い色をした飴のように見えた。少しだけ戸惑って、飴を手にしたまま男の人へ視線を向ける。
男の人は何も言わない。けれど長い黒髪がゆらりと蠢いた気がして、びくりと肩を震わせた。慌てて視線を飴へと戻し、覚悟を決めて飴を口に入れる。
甘くも、苦くもない味。口に入れた瞬間にとろりと溶け出して、小さく喉を鳴らして飲み込んだ。
「――ぁ」
最初に感じたのは、熱だった。体の内側からじわりと広がっていく。
次に感じたのは、知らない記憶。小さな木の根元に、複数の大人たちが何かを埋めていた。
知らない記憶が流れる度、私の記憶が消えていく。消費されるだけ、苦しいだけの日々の記憶が書き換えられていく。
小さな木が長い年月を経て、生長していく。木と埋められた何かが混じり合い、目の前の男の人になっていく。
「良い子だ」
記憶の書き換えに意識が揺らぎ、体が傾ぐ。それを抱き留めて、彼は優しく背を撫でる。
「眠れ……次に目覚めた時には、お前は私と同等になる」
そっと耳元で囁かれ、意識が深く沈んでいく。
落ちていく。どこまでも深く、静かな場所へ。
「苦しめ、傷をつけるだけの生ならば、いっそ書き換えて在り方すら変えてしまえ」
静かな声が聞こえ。
記憶が変わり、私は彼になった。
鳥の囀る声に、目が覚めた。
体を起こし、辺りを見る。
変わらず綺麗な森だ。ここにいるすべてが愛おしい。
ゆっくりと立ち上がる。木陰を抜けて、陽の光の下で振り返った。
榧《かや》の巨木。共に長く森を見届けてきた、半身ともいえる存在。
その木陰が揺らぐ。影が形を変え、長い黒髪の男の姿を取った。
柔らかく微笑んで、ゆるりと手を振られる。
「いっておいで」
その言葉に小さく頷いた。
榧から離れられない私の代わりに、森を見て回る。それが私の新しい役目だった。
「いってきます」
呟いて、私と榧に背を向け歩き出す。
新しい始まりに、知らず笑みが零れ落ちた。
20250717 『揺れる木陰』