sairo

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7/22/2025, 10:13:47 PM

緩やかな流れに、手を浸す。
夜の小川。川上から止めどなく流れてくる星の欠片を、掬い上げては空へと還していく。
求める星は、まだ見つからない。
どれだけ掬い上げても、その煌めきは求めるものではなかった。
煌めく星は剥き出しの感情。還ることを忘れ漂う魂の一部。
死を前にした恐怖や悲嘆、絶望の塊だった。

「――っ」

掬い上げる度、触れる度に手に傷が増えていく。誰かの死を痛みごと垣間見て、苦痛に手が止まりかける。
それでも手を止める訳にはいかない。手を止めた間に流れ去る星が、求めるものであったとしたら。その懸念が、手を止めることを許さない。
そうしてまた、知らぬ誰かの死の痛みを掬い上げることを繰り返す。

求める星は、まだ見つからない。



「何をしているの?」

ふと、声が聞こえた。聞き馴染みのあるような、まったく聞き覚えのないような、不思議な声音。
答えず、手も止めずにいれば、そっと隣から両手を包まれ止められる。
細く、白い手。簡単に振り解けそうな小さな手を、けれども何故か離すことができなかった。

「何を探しているの?」

問われて、どう答えるべきかを迷う。

「――友達」

かつての関係を答えてみる。変わらぬはずだと思っていた言葉は、空しく滑稽に響いた。
自嘲して、傷だらけの手に視線を落とす。

「友達、だった人。勝手に疑って、手を離して。そして置き去りにして……星に攫われた、大切な人」

目を閉じる。
決して忘れることはない自分の罪は、今でもはっきりと思い出すことができる。
星の降り頻る夜。友人の手を引いて、丘の上へと向かった。
そこで、手を引かなければどこにも行けない友人の手を離した。星を追いかける振りをして、置き去りにした。
後悔してもしきれない自分の罪。姉が神隠しに遭い、その場に友人がいた。ただそれだけで神隠しの原因を、友人だと疑った。

「離れて、少し頭が冷えて……慌てて戻ったけど、間に合わなかった。手を取る前にあいつは星に貫かれて、そのまま消えてしまった」

痛みに泣く声。恐怖に流れる涙。助けを求めて伸ばされた手。
忘れたことなどなかった。何度も悪夢に見て、何度もその丘へと足を運んだ。
神隠しに遭った者は、七日を過ぎれば戻る。
姉は戻ってきた。心が壊れた状態で、山の中で見つかった。
友人も帰ってくるのだと信じていた。それだけが希望だった。
しかし、友人は最後まで帰ることはなかった。

「だから、あいつの星を探している。一人ではどこにも行けないあいつは、きっとここにいるはずだから」
「いないよ」

静かな否定の言葉に目を開ける。そうしてようやく声の方へと視線を向けた。
長い黒髪。白の病衣から除く痩せた手足。
見覚えのない、けれども懐かしい空気を纏う少女がいた。

「ここにはあなたの求める人はいない。朝陽を追いかけて、先に進んでしまったから」
「朝陽……?」

呟いて空を見上げた。月が傾き、遠くで微かに白み始めた空に、何故だか泣きたい気持ちになった。

「そういえば、陽の光はまだ微かに感じられるって言ってたっけ」
「うん。だからここで星を追いかけ掬い上げていても、あなたの傷が増えるだけだよ」
「そうか。一人でも行けるのか……ここに留まるだけの未練は、持ってくれなかったのか」

身勝手にも、それを寂しいと思った。
恨みでも何でも持ってくれれば、もう一度手を引けたのに。
友人の心など考えもしない、どこまでも浅ましい自分自身に吐き気がした。

「大丈夫」

優しい声が囁いた。

「朝陽の向こう側で待ってる。一人で、短い生を足掻いている……だから行って」

ふわりと微笑むその姿が、次第に揺らぎ形を失っていく。
そうして少女の姿は消え、手の中にはひとつの小さな星の欠片だけが残った。
小さな、弱い光を纏った星。川を流れて行くどの星とも違う、温かな光を纏う星。
伝わる思いもまた、とても温かだ。
目を閉じずとも、浮かぶ記憶。一夏の、まだその眼が星の光を捕らえることができていた頃の、友人の思い出。
その中に常に自分がいることに、妙な気恥ずかしさと切なさを覚えた。

「ばかな奴。恨んでくれれば良かったのに」

呟いて、今更ながらにそれはないなと笑った。
穏やかで怒ることを知らないような友人が、自分を恨む姿など想像ができない。
見上げる空は、暗い紺から淡い赤へと色を変え始めている。
東雲色。いつだったか、友人から教えてもらった言葉を思い出した。

「――行くか」

立ち上がり、ゆっくりと朝陽の方へと歩き出す。
いつの間にか手の傷はすっかり癒えて、知らない誰かの死の痛みなど欠片も残ってはいない。
本当に優しい友人だ。その友人に報いるために、自分ができることを考える。
病衣。痩せた手足。温かな記憶に僅かに混じっていた、無機質な病室。
間に合うかは分からない。けれどどうか、と祈りにも似た気持ちで朝陽を追いかけた。



朝の光に消えていく夜空に一筋、星が流れていく。
その煌めきに気づかずに、ただ朝陽だけを求めて駆け抜けた。
その星の煌めきが、優しい奇跡を起こしていたことを。

朝陽の向こう側。友人との出会いの場で知った。



20250721 『星を追いかけて』

7/21/2025, 11:03:55 PM

朝は遠い。
カーテン越しの暗い空を思いながら、密かに息を吐いた。

「夢か」

夢を見ていた。目覚めた時にはその殆どが零れ落ち、夢を見ていたという感覚だけが残っている。
同じ夢だ。覚えてはいないが、ここ数日同じ夢を繰り返し見ている。そんな根拠のない確信に目を伏せた。

かちかちと、時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
規則正しいその音を聞きながら、静かに目を閉じた。
まだ朝は来ない。もう一眠りするべきだと、微睡み始めた意識に身を委ねていく。
時計の音。近くで、あるいは遠くから響く、無機質な音。
かち、かち。かち――。

――どぉん。

時計の音に、別の音が混じる。
低い音。時計のように一定の間隔で鳴らされ続ける音は、次第に時計の音を呑み込んで、成り代わる。
聞き覚えのある音だ。体の内側まで響くような音は、夜祭で聞いた、太鼓の音によく似ていた。
もっとも、自分は夜祭に行ったことはないのだが。

太鼓の音が響く。意識がゆっくりと沈んでいく。

そしてまた。
記憶に残らない、夢の中へと落ちていく。





太鼓の音。それに混じる笛の音。
目を開ければ、目の前には夜祭の光景が広がっていた。
たくさんの出店。甘く香ばしい、食欲をそそる匂いが辺りを満たす。
楽しげな談笑。はしゃぐ子供の声がする。自分の横を、子供たちが笑いながら駆け抜けて行く。
何気なく、子供たちが気になった。
駆け抜けるその背を追って、奥へと歩き出す。

辿り着いたのは、神社の社の前。
子供たちが、手にした食べ物やおもちゃを見せ合っている。
辺りには、大人の姿はない。いつの間にか、太鼓や笛の音も聞こえなくなっていた。
一人がこちらに気がつき、大きく手を振った。

「お前も早く来いよ!」

知らない子供。けれどよく知っている。
そんな違和感に、思わず目を閉じた。



水の流れる音がして、目を開けた。
陽の光を反射して煌めく水面に目が眩む。
いつの間にか、真昼の川縁に立っていた。
楽しげな声と水音が聞こえ、視線を向ける。川上で、子供たちが水遊びをしていた。
笑い声。跳ねる水しぶき。川のせせらぎと相俟って、とても涼しげだ。
ゆっくりと歩き出す。子供たちの側まで歩み寄り、立ち止まった。
川の流れは緩やかで、浅い。けれども川の中に入ることを躊躇していれば、目の前に小さな手が差し出された。

「怖くねぇよ。ほら、大丈夫だから」

笑みを浮かべる少年を、どこかで見た気がした。
思い出せない。欠けた記憶のもどかしさに、目を閉じた。



風鈴の音が聞こえた。
目を開ければ、知らない家の縁側に座っていた。
空を見上げる。眩いばかりの陽は、容赦なく辺りを照りつけ、それに負けじと蝉時雨が響き渡る。
時折吹く風が、風鈴を鳴らす。涼やかな音は、それでも完全に暑さを静めてはくれそうにはなかった。

不意に、隣に誰かが座る気配がした。
視線を下ろし、隣へ向ける。
スイカの乗った盆を置き、スイカを手にする友人。
大胆に齧り付くその姿を見ていれば、友人はこちらに視線を向けて、不思議そうに首を傾げた。

「食わねぇの?」

自分と友人の間に置かれた盆を指差す。そこには、もう一切れ、瑞々しいスイカが置かれていた。
手を伸ばす。しかしスイカに触れる前に手を止め、もう一度友人を見た。
静かにこちらを見つめる目と視線が交わる。何もかもを見透かすような、呑み込んでしまいそうなその眼。
くらりと、目眩にも似た感覚に、咄嗟に目を閉じた。



目を開ける。
黄昏に染まる空。影を落とした神社の社の前。
そこに友人と二人、立ち尽くしていた。

「なぁ、話があるんだけどさ。大事な話」

真剣な眼差しの友人に、静かに向き直る。

「俺さ。本当は――」
「ねぇ」

友人の言葉を遮って、一言告げる。

「戻るつもりはないよ」

その言葉に、友人は凪いだ声音で問いかけた。

「なぜ?」
「今を、生きたいから」

答えたその瞬間。
世界が、崩壊した。



一瞬の暗闇。
思わず閉じていた目を開ける。
暗がりに浮かぶ、見慣れた天井。ベッドで横たわっていることに、混乱する。
体を起こそうとして、胸の痛みに倒れ込んだ。息苦しさに、体を丸めて必死で呼吸を繰り返す。
この苦痛は現実のものか。ならば夢から覚めたのだろうか。

「可哀想に」

すぐ側で聞こえた声に、身を強張らせる。

「今を生きるとか、意地を張って……ただ逃げたいだけだろう?お前がお前である前の過去から」

冷たい指が髪を撫でる。頬に触れて、滲んだ涙を拭っていく。
これは現実なのか。それともまだ夢の中なのか。
痛みで朦朧とする意識の中、残酷なほどに優しい声が囁いた。

「大丈夫だ。あのまま、何も知らない子供のままを繰り返せば、何も怖くないだろう?余計なことを考えずにいれば、俺も今度は間違えない」

背に触れられる。無理矢理に体を起こされて、一瞬呼吸が止まった。

「――っ」
「意地を張るな。今を生きるといっても、こんな出来損ないで壊れかけた体じゃあ、何もできないだろうに。生きる前に、体が朽ちて死んでいく」

甘い誘惑に、必死で首を振る。
分かっている。自分はあと、数年しか生きられない。
それでも過去に、それも前世にしがみつくつもりはなかった。
前の自分は、とうの昔に終わってしまったのだ。ならば、短い生でも今を生きるしかない。
目を閉じ、耳を塞いで夢に逃げるのは、それこそ逃げでしかないのだから。

「強情だな。そんな所は前と何も変わらない」

小さな呟きに、痛みに顔を顰めながらも顔を上げる。
悲しげな微笑み。滲んだ視界でもはっきりと見えるのは、その微笑みを覚えているからだろうか。
ごめん、と声にならない呟きが、唇から溢れ落ちた。
自分のせいで過去に囚われたままの友人に、痛みとは違う涙が零れ落ちた。

「――仕方がない。もう少し待ってやるよ」

優しい声と共に、起こされていた体を横たえさせられる。
涙を拭われ、そのまま目を塞がれた。

「お前の終わる時に、また迎えに来る。それまで精々苦しみながら、今を生きることだ」

苦しみ生きろと言いながら、その声はどこまでも優しい。
素直でない友人の変わらない優しさに、過去の自分を少しだけ羨ましく思った。

「じゃあ、またな」

意識が落ちていく。
痛みも苦しさも感じない、夢も見ないほど深い眠りへ、沈んでいく。





明るい陽射しに目が覚めた。
気づけばカーテンは開けられて、晴れやかな青空が窓越しに見えた。
小さく息を吐き、ベッドを起こす。痛みは感じない。普段よりも呼吸が楽にできている気がした。

「おはようござます」

検温に来た、馴染みの看護師が声をかける。
それに答えながら、いつものように思い出せない夢を辿った。

「今日は調子がいいみたいですね。昨日からいらした先生の、新しい処方が効いているみたい」

首を傾げた。
そういえばと、新しく赴任した医師が挨拶に来たことを朧気に思い出す。

「朝食後には、先生が回診に来られますからね」

そう言って去って行く看護師の背を見送りながら、医師の姿を思い浮かべる。
ぼんやりとした輪郭が、一瞬だけ懐かしい誰かの姿を伴って消えていく。
緩く頭を振って、目を閉じた。無理に思い出そうとしなくても、すぐに会うことになる。
窓越しに、蝉の鳴く声がした。どこかで子供たちの笑う声が聞こえる。

今年の夏も暑くなりそうだ。



20250720 『今を生きる』

7/21/2025, 3:09:34 AM

人の絶えた校舎の中を、一人の青年と一羽の青い鳥が歩いて行く。

「ここか?」

軽く翼を広げて鳥が示す棚の中に、青年は手を差し入れる。奥を探り、しばらくして青年は手を引いた。
その手の中には、錆び付いた小さなキーホルダー。埃を拭えば、龍が巻き付いた剣が鈍く光を反射した気がした。

「――また見つけたな」

小さく呟いて、青年は教室の窓に歩み寄る。差し込む月明かりにキーホルダーを晒すと、それは丸い光となって教室の中を漂いだした。

――見ろよ!この前旅行に行った時に、母ちゃんが買ってくれたんだぜ。
――すげぇ。格好いいじゃん!
――いいなぁ。俺も欲しかったけど、買ってくんなかったんだよなぁ。

楽しげな声が教室内に響き渡る。
在りし日の一場面。光が淡く照らす場所に、楽しげに話す子供たちの影が浮かび、消えていく。
漂う光もやがて消え、後には静寂だけが残った。

ふっと、青年は笑みを溢した。しかしその目はどこか寂しそうに、悲しそうに揺らいでいる。
そんな青年を見上げ、鳥は小さく鳴き声を上げた。

「あぁ、大丈夫だ……全部、見つけてやらないとな」

身を屈め、青年は鳥の頭をそっと撫でる。目を細める鳥に微笑んでから、教室内を一瞥した。
廃校になり、誰も訪れなくなった校舎。かつてここで、青年は教師として働いていた。
青年がいつからこの校舎で失せもの探しをし始めたのか、青年自身も覚えてはいない。気づけばここにいて、青年に懐く飛ばない鳥と共に失せもの探しを始めていた。

「そろそろ次に行くか」

呟いて、静かに立ち上がる。
鳥は小さく鳴いて、先導するように青年の前を歩き出した。

「まだ飛べないのか?……それとも飛ばないのか」

青年の言葉に鳥は振り返らない。教室を出る姿に苦笑して、青年もその後に続いて教室を出た。



使いかけの消しゴムを、月明かりに晒す。
ふわりと丸い光が教室を漂い、密かな声が聞こえてきた。

――皆には、内緒にしてよね。
――分かってるよ。おまじないの相手は、誰にも言わないから。

くすくすと笑い声がする。

――それにしても、先生かぁ。予想はしてたけどね。
――な、なんで。知って!?
――だって、分かりやすかったし?たぶん皆知ってるよ。

声にならない悲鳴。仄かに光が浮かばせる影が、顔を覆って机に伏した。

――頑張って。両思いになれるといいね。
――うぅ……がんばる。

慰めるように机に伏した影の頭を撫でる、もう一人の影。
密やかな日常が、光と共に消えていく。

「おまじない、か」

何もない手に視線を落とし、青年は小さく笑みを浮かべた。

「何かこそこそやっているとは思ってたが……本当に女子はそういうのが好きだな」

笑う青年に、咎めるように鳥が鳴く。嘴で足を突けば、痛がりながらも青年は楽しそうに鳥を見た。

「悪かった。じゃあ、次に行こうか」

いつものように、鳥に告げる。だが鳥は動かない。
澄んだ瞳が青年を見上げる。ややあって、すべてを理解した青年は静かに微笑んだ。

「そうか……これで、全部なのか」

鳥は鳴く。
それに頷いて、青年はそっと鳥を抱き上げた。

「屋上に行こうか。そこが一番空に近い」

鳥を撫で、青年は歩き出す。
その表情は、微笑みながらも泣いているように見えた。



柔らかな風が吹き抜ける。

「良い風だ。旅立ちに相応しい」

穏やかに呟いて、青年は鳥を抱いたままフェンスの側まで歩いていく。
屋上から見下ろす景色は、青年の知るものとまったく様子が異なっていた。
遠くで瞬くいくつもの灯り。夜だというのに昼と変わらぬ明るさに、青年は目を細める。

「全部探すのに、随分時間がかかっちまったな」

苦笑しながら、鳥を抱く腕を空へと伸ばす。青年を見つめる鳥に向けて、一言告げた。

「飛べ」

ぱちり、と鳥の目が瞬いた。

「後はお前だけだ。今まで、長く付き合わせて悪かったな。もう自由になっていいぞ」

鳥は鳴かない。翼を広げることも、青年に擦り寄ることもなく、ただ青年を見つめていた。
まるで、自分が飛び去った後の、青年のその後を尋ねるように。

「大丈夫だ。お前たちを全員送り出したら、先生もいくから」

だから、と続ける青年の言葉を、強く吹いた風が掻き消した。

――うそつき。

誰かの声がした。

――先生は、いつもうそつきだ。

囁く声と共に、いくつもの丸い光が辺りに浮かぶ。

「これは……?」

目を見張る青年と静かに見つめる鳥を囲うように、光が揺らぎ形を変えていく。
小さな子供たちの姿。青年のかつての教え子たちが、笑いながら囁いた。

――ここから動かないくせに。
――一人で残ろうとしてるの、ばればれだよ。
――先生、寂しがり屋なのに、素直じゃないんだから。
――一緒に行けばいいじゃん。

囁く声に合わせて、鳥が鳴く。

「先生。先生も一緒に卒業しようよ」

鳴き声が言葉になる。
青年の頬を一筋の涙が流れ落ちた。

「――いいのか?」

微かな呟きに、鳥は翼を広げ応える。青年の腕から肩へと移り、その頬に擦り寄った。

「先生が皆の忘れものに祈ってくれたから、皆帰ってこれた。だから、皆で還ろうよ」

鳥の言葉に目を伏せる。しかしその口元は緩く笑みを浮かべて。

「そうだな。先生も皆と一緒に行こうか」

きゃあ、とあちこちで歓声があがる。
子供たちに抱きつかれた青年の体が、少しずつ揺らぎ始めていく。
鳥が鳴く。翼を広げ飛び立ち、青年の周りをぐるりと旋回した。
その声に応えるように、青年が鳴き声を上げた。
低い鳥の声。揺らぐ姿もまた、鳥の姿となり。

「行こうか。途中で逸れないでくれよ?失せもの探しは先生、苦手なんだ」

戯ける黒の鳥が、いくつもの蛍のような光に囲まれ、傍の青の鳥と共に夜空を飛び去っていった。



その学校が何故廃校になったのか、今となって正しく知る者はいない。

とある教師が、自分のクラスの生徒を道連れに死んだ。
その当時流行ったおなじないが、生徒と教師を巻き込んで異界へと連れ去った。
裏山に封じられた祟り神に、生徒と教師が喰われてしまった。

様々な噂が流れた。それのどれが本当で、あるいはすべてが偽りなのかも、最早知りようがない。
やがて、時代に取り残された校舎は取り壊された。そこに学校があったことも、消えた生徒と教師がいたことも、すべて忘れ去られてしまった。
それでも――。


「ちょっと男子!もう少し離れなさいよ」
「なんでだよ。あいつだけ先生の側にいて狡くねぇ?」
「いいの!ちょっとだけでも恋人っぽいことさせないと……デートよ、デート」
「デートぉ!?先生とあいつ、付き合ってんの?マジで?」
「じゃあ、結婚式やろうぜ!誓いのちゅーしよう!ちゅー」
「さいてー。本当に男子ってデリカシーにかけるんだから」

番のように寄り添う二羽の鳥が、消えた生徒のために長い間彷徨っていたのを。
夜に吹き抜ける風だけは、忘れることなく覚えている。



20250719 『飛べ』

7/20/2025, 6:54:13 AM

「あれ……?」

彼女と二人、映画を見た帰り道。知らない路地に迷い込んだ。
いつもは通らない道。好奇心に任せて、彼女と手を繋いだまま歩いていく。
ふと、彼女が立ち止まった。

「どうしたの?」
「ここ。甘い香りがする。木と、草と……知らない水と風の匂い」
「水と風?」

首を傾げながら視線を向ける。そこは雑貨屋ともカフェともつかない、小さな店のようだった。
看板には、不思議な文字で「Aisling」と書かれている。

「入ってみる?」

彼女が感じた香りは、自分には分からない。でも彼女の様子から、嫌なものではないと分かる。
声をかけると、彼女は少し迷ったようにしてから、小さく頷いて扉に手をかけた。



店の扉を開けると、ちりんと軽やかな鈴の音がした。
店の中は外からは想像できないほど広く、不思議な色をした木材の柱や棚が並んでいる。
色とりどりのドライフラワー、布細工や木彫りの雑貨、ハーブティーの香り。

「すごい……」
「雑貨屋さん、なのかな?」

棚に並べられた、手作りの小さな人形たちを見ながら首を傾げる。
不思議な店。見慣れないものしかないのにとても落ち着く空間に、肩の力が抜けていく。彼女の前では格好よくいたくて気を張っていたのがなくなって、どこか夢見心地で彼女に視線を向けた。
少し離れた場所で、彼女は店の柱を見ていた。そっと手を伸ばして、柱に触れる。

「すごく、きれい」

柱をなぞるその指の爪が、次第に鋭くなっていく。
慌てて彼女の側に寄ってその手を取るが、彼女は柱を見たまま、爪も鋭いままでいいなぁ、と小さく呟いた。

「その柱で爪を研ぐのは止めとくれね。猫のお嬢さん」

店の奥から声がした。びくりと肩を揺らして声のする方を見ると、奥から不思議な雰囲気を纏った女の人が現れた。

「その柱は、あたしの故郷のオークで作られてるんだ。店の匂いで酔っちまってるとこ悪いんだがね、ちっと奥においでな」

穏やかな笑みを浮かべる女の人に、焦りながら頭を下げる。
奥へと促されて、まだぼんやりしている彼女の手を引いた。


奥にはいくつかの机と椅子、そしてカウンターの席があった。どうやらここはカフェでもあったらしい。
カウンター席に座る。隣に座った彼女はおとなしく座ってはいるが、まだ視線は柱を向いたままだ。

「心配はいらないよ。猫は鼻がきくからねぇ。ハーブやアロマの匂いに酔っちまったんだよ。少し落ち着けば元に戻るさ」

女の人はそう言って、カウンターの向こうへ行く。店主なのだろうか。手際よく棚からガラスの瓶を選び、ハーブやドライフラワーを手早くブレンドしていく。不思議な模様の描かれたポットに入れて、お湯を注いだ。
ふわり、と湯気と共に甘い香りが立ちこめる。その香りに、彼女は柱からポットへと視線を移して、目を瞬いて首を傾げた。

「〝special day〟のブレンドをどうぞ。特別な日だけに振る舞われる、特別な一杯さ」

テーブルに置かれたカップの中には、色とりどりの花びらが浮かぶ琥珀色のお茶。
惹かれるように彼女の手がカップに伸びる。湯気を吸い込み、カップに口を付ける。

「――美味しい」

小さく呟いた彼女の爪は、元の綺麗に整えられた爪に戻っていた。

「よかった」

カップを両手で持つ彼女の指先を見て、小さく安堵の息を吐く。
初めてのことだ。祖先に猫がいたらしい彼女が、猫のように喉を鳴らしたり、動くものを追いかけることはよくある。
でもそれだけだ。彼女はちょっとだけ猫に近い人間の女の子で、猫ではない。そう考えていると安心した気持ちが萎んでいって、また不安が込み上げてくる。

「ごめん。迷惑かけて」
「だ、大丈夫だよ!迷惑じゃなくて、心配しただけだから。えっと、その……彼女が、いつもと違うって、ほら、心配になる、し……」

カップを手に肩を落とす彼女に、慌てて気にしないでと声をかけた。
迷惑なんてまったく思っていない。その気持ちが少しでも伝わればと、カップを持つ彼女の両手を包んで眼を合わせて告げる。

「迷惑なんかじゃない。僕は彼氏なんだから、彼女の心配はさせてよ」
「――うん」

頷いて俯く彼女の頬が赤い。つられて自分も顔が熱くなり、恥ずかしくなって同じように俯いた。
お互い何も言えず。でも手は離せずにいれば、カウンターの向こうから、くすくすと忍び笑いが聞こえた。

「仲睦まじいことは、とってもいいことさね。素直なのが一番だ」

視線を向ければ女の人が自分の前にカップを置きながら、楽しそうに囁いた。

「ようこそ、Aisling《アシュリン》へ。特別な日に訪れた、とても幸運なお客さん」

人差し指を口にあてる女の人――店主は、そう言って少女のようにも老婆のようにも見える目をして笑った。

「さて折角の〝special day〟だからね。魔法のフォーチュンクッキーでも如何かな?」

ことり、と小さな白のお皿が自分と彼女の間に置かれる。

「フォーチュンクッキー?」
「この国で言うところの、おみくじみたいなものさ。ひとつ取って割ってごらん?」

彼女と顔を合わせ、首を傾げる。彼女がカップを置くのをみて手を離し、代わりにクッキーに手を伸ばした。
鳥の形をしたクッキーを取り、力を入れて半分に割る。中から出てきた小さな紙片に目を瞬きながら、紙片を開いて中の文字を読んだ。

「――二人の恋は、前途多難……?」

思わず眉を寄せる。そんなこと、自分が誰より知っている。猫の祖先を持つ彼女と、雀の妖の自分。どんなに楽観的に見ても相性はとてもよろしくない。
小さく溜息を吐きながらクッキーをかじる。何だか悲しくなって彼女に視線を向けた。
彼女の指が猫の形をしたクッキーを手に取る。半分に割って中の紙片の文字を読んだ彼女が、そのまま動きを止めた。

「どうしたの?」

聞いても彼女は何も答えない。
ただ頬が先ほどよりも赤くなっていく。

「何が書いてあったの?」

気になって彼女の手元を見れば、小さな紙片には一言。

「――好きをキスで伝えれば、すべて大丈夫……?」

目を瞬く。

「キス……」

遅れて意味を理解して、顔が熱くなっていく。

「好きを……キス、で……」

彼女のクッキーから出てきた紙片。彼女の占いの結果。
つまりは、彼女が、自分に――。
ぽんっ、と情けない音を立てて、雀に戻る。忙しなく辺りを飛び回っていれば、店主に声を上げて笑われた。

「なんだい、なんだい。初々しいったらありゃしない」

笑いながらも、店主はカウンターの下から綺麗な青い缶を取り出す。

「キスが駄目なら、人間になれるチョコレートもあるが、どうするかい?」
「え?」

人間になれる。その言葉にカウンターに下りて、恐る恐る店主へと近づいた。

「まあ、これは別料金になるがね。雀の坊ちゃんが食べれば、猫の嬢ちゃんも安心だろう?」

どうする?と問われて、心が騒ついた。
もしも。もしも彼女と同じ人間になれたのならば。
彼女ともっと近く、隣にいられるのかもしれない。

「――やだ」

けれどそんな淡い期待で近づく足は、彼女の小さな呟きによって止まる。

「このままがいい。このままが好きなの。人の姿も、雀の姿も……全部が好きだから」

真っ赤になった彼女のその言葉に、急いで彼女の隣へと飛んだ。人の姿になって、泣きそうな彼女の背をそっとさする。

「僕も……僕も、そのままの君が好き。猫のような君が、大好き。ごめんね」

小さく謝ると、彼女は俯いたまま首を振る。顔を上げた彼女と目を合わせ、涙の膜が張ったその目を見て、力なく笑った。
彼女もまた眉を下げて笑い。その可愛い姿に惹かれて、自然とその頬に手を当てて、唇を寄せた。

「――っ!?」
「おやまあ」

店主のからかい混じりの声に、今更になって恥ずかしさが込み上げた。
力が抜けて席に座り、温くなったカップに口を付ける。仄かな甘みに息を吐いて、そっと横目で彼女を見た。
濡れた目と視線が合う。深い、森の奥にいるような緑色が真っ直ぐにこちらを見つめている。
その緑色が近づいて、見えなくなる。
代わりに頬に触れたのは、温かくて柔らかな――。

気づけば彼女の手の中で、雀の姿に戻っていた。


「どうやら心配はなさそうだ。なあに、どんな恋にだって、障害がつきものさ。それに悪い魔法を解くのはいつだって、好きな人のキスだって決まっているからねえ」

楽しげで穏やかな店主の声。
妖で在ることも、妖の衝動が残ることも、悪い魔法なんかではない。そう反論したいけれど何も言えず、力が入らず上手く動くこともできない。

「悪い魔法……」

小さく呟いて、彼女は目を瞬いた。指先で頭を撫でながら、彼女はひとつ頷いて。

「あ、戻った」

額に感じた熱。
人の姿を取り、額を抑えて後退った。

「分かった。頑張る」
「何を!?」

静かに何かを決意する彼女に、悲鳴混じりに問いかける。
色々なことがありすぎて、感情が追いつかない。思いが溢れて、じわりと視界がぼやけていく。

「さあさ、お二人とも席にお戻りな。〝special day〟はまだ始まったばかりだ。この魔女の隠れ家Aislingの、美味しい魔法をたあんと召し上がれ」

それでも、頬を染めて笑う彼女と、店主のにんまりとした笑みははっきりと見えた。



20250718 『special day』

7/18/2025, 9:51:22 PM

森の中を彷徨い歩いて辿り着いたのは、一本の大きな木だった。
ひんやりとした風が吹いて、痛み疲れた体を冷やしてくれる。ふらふらと惹かれるようにして木の根元、揺らぐ木陰へ近づいた。
そこにはすでに誰かがいた。幹に凭れて、目を閉じている。
眠っているのだろうか。涙で滲む視界ではよく分からない。
乱暴に涙を拭って、恐る恐る近づいた。
誰かは目覚めない。黒く長い髪が地面に広がって、まるで昔のお姫様のようだった。

「――何用だ」

低い声がした。目の前の綺麗な誰かから。
びくり、と肩を揺らして一歩後退る。冷たささえ感じられる静かな眼差しに、止まりかけていた涙がまた溢れ出した。
男の人は苦手だ。特に年上の男の人はとても怖くて、痛い。
手がこちらに伸ばされるのを見て、反射的に目を閉じ身を竦めた。
しかし、痛みは来なかった。
優しく触れられる感触に、そろりと目を開ける。
頭を撫でられている。初めて知る優しく慈しむような撫で方に、恐怖とは違う涙が零れた。

「おいで」

呼ばれて、促されるまま男の人の隣に座る。頭をもう一度撫でる指は、そのまま黒い木の陰を差した。
指差す方を眺めていれば、風もないのに木が揺らめき、小さく影がいくつか別れた。
別れた影がずるりと地面から抜け出して、小さな生き物の形を取る。兎やリスなどの小動物になった影が辺りを駆け回り、小鳥になった影は自由に空を飛び、男の人の肩に留まる。
駆け回る小動物たちが膝に乗り、側に寄り添う。男の人の肩に留まっていた小鳥が、こちらに飛んで今度は私の肩に乗った。
不思議な感覚。温かいような、冷たいような。けれど少しも嫌な感じはしない。
思わず小さく笑みが溢れた、笑ってから、慌てて男の人の反応を覗う。感情の読めない目。少なくとも、気分を害してはいないようで安堵した。

「気に入ったか」

問われて、少し考える。
すべて初めてのこと。嬉しかった。そして楽しかった。
男の人の反応を覗いながら、小さく頷いた。

「そうか」

そう言って男の人は、また指を差す。今度は木の根元。ちょうど私の足下を指し示す。

「掘るといい」

静かにそう言われて、そっと地面に手を触れた。
土を掻く。直前に掘り起こしていたのか、あまり力を入れなくても簡単に掘ることができた。
そのまま掘ると、小さな箱が現れる。閉まりきっていない蓋がかたり、と音を立てた。

「開けてみろ」

男の人の指示で、そっと箱の蓋を持ち上げる。中を覗けば、そこには溢れんばかりのお菓子が入っていた。
それを見て、小さくお腹が鳴った。慌てて男の人を見るが、気分を害した様子はない。

「それはすべてお前のものだ」

私のもの。その意味を理解するとほぼ同時に、箱の中のお菓子に手が伸びた。
夢中で袋を破り、手当たり次第にお菓子を口に運ぶ。初めて知る甘さが、心まで満たしていくようだった。


久しぶりにお腹が満たされ、段々と眠気が訪れる。
頭が揺らぐ。それを見て男の人は手を伸ばして私の頭を引き寄せ、膝に乗せてくれた。
大きな手で目を塞がれる。一瞬だけ体が強張るが、すぐに力が抜けて、意識も遠くなる。

「おやすみ」

静かだけれど穏やかな声に、小さく頷いて目を閉じた。



ふと、目が覚めた。
まだぼんやりする意識で、ゆっくりと体を起こす。辺りはすっかり陽が落ちて、暗闇が森の姿を一層怖ろしいものに見せていた。

「起きたのか」

静かな声に視線を向けた。昼間と変わらない位置に、男の人は座っている。
暗闇の中でも、その姿は何故かはっきりと見えた。
男の人が指を差す。昼間、お菓子が出てきた場所だった。

「掘れ」

男の人の指示に従い、土を掘る。昼間とは違い、硬い土の感触。力を込めて土を掻いた。
そうして土の中から出てきたのは、昼間の箱よりも一回り小さな白い壺。しっかりと蓋が閉められて、中に何が入っているのか分からない。
壺を掘り出し、男の人へ差し出す。男の人は壺を受け取ると蓋を開き、中から小さな丸いものをひとつ取り出した。

「食べろ」

手渡されたそれは、透明な黄色い色をした飴のように見えた。少しだけ戸惑って、飴を手にしたまま男の人へ視線を向ける。
男の人は何も言わない。けれど長い黒髪がゆらりと蠢いた気がして、びくりと肩を震わせた。慌てて視線を飴へと戻し、覚悟を決めて飴を口に入れる。
甘くも、苦くもない味。口に入れた瞬間にとろりと溶け出して、小さく喉を鳴らして飲み込んだ。

「――ぁ」

最初に感じたのは、熱だった。体の内側からじわりと広がっていく。
次に感じたのは、知らない記憶。小さな木の根元に、複数の大人たちが何かを埋めていた。
知らない記憶が流れる度、私の記憶が消えていく。消費されるだけ、苦しいだけの日々の記憶が書き換えられていく。
小さな木が長い年月を経て、生長していく。木と埋められた何かが混じり合い、目の前の男の人になっていく。

「良い子だ」

記憶の書き換えに意識が揺らぎ、体が傾ぐ。それを抱き留めて、彼は優しく背を撫でる。

「眠れ……次に目覚めた時には、お前は私と同等になる」

そっと耳元で囁かれ、意識が深く沈んでいく。
落ちていく。どこまでも深く、静かな場所へ。

「苦しめ、傷をつけるだけの生ならば、いっそ書き換えて在り方すら変えてしまえ」

静かな声が聞こえ。
記憶が変わり、私は彼になった。



鳥の囀る声に、目が覚めた。
体を起こし、辺りを見る。
変わらず綺麗な森だ。ここにいるすべてが愛おしい。
ゆっくりと立ち上がる。木陰を抜けて、陽の光の下で振り返った。
榧《かや》の巨木。共に長く森を見届けてきた、半身ともいえる存在。
その木陰が揺らぐ。影が形を変え、長い黒髪の男の姿を取った。
柔らかく微笑んで、ゆるりと手を振られる。

「いっておいで」

その言葉に小さく頷いた。
榧から離れられない私の代わりに、森を見て回る。それが私の新しい役目だった。

「いってきます」

呟いて、私と榧に背を向け歩き出す。
新しい始まりに、知らず笑みが零れ落ちた。



20250717 『揺れる木陰』

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