差すような強い陽射しの下、陽炎に揺らぐ道を歩いていく。軽率に買い物に出たことを後悔するが、今更戻るのわけにもいかない。
田んぼを横目に、ただ前を見て進む。
夏の陽射しに揺らめく空気の先で、近づく雑木林の木陰が滲んで見えた。
木陰に座り、額の汗を拭う。暑いことには変わりがないが、陽射しが遮られている分、吹き抜ける風が涼しく感じられた。
ぼんやりと陽炎に揺れる田んぼを見つめる。
蝉時雨が響き渡る。視界と相俟って、一段と暑くなったようだ。
思わず溜息を吐く。涼を求めても、これではあまり意味がない。
それならば少しでも早く買い物を終わらせて、部屋で涼んでいた方がいいだろう。もう一度溜息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。
見据える先もまた、陽炎に揺らいでいる。仕方がないと覚悟を決めて、一歩足を踏み出した。
「――っ!?」
纏わり付く熱気とは違う、冷たい何かが手に触れた。
反射的に足を止め、視線を落とす。何かに触れたと思った手には、しかし何もない。
ゆっくりと手を上げる。何かの名残を探すように目を凝らす。
一瞬だけ、揺らめきの中に誰かの手を見た気がした。
「……?」
見えない手に自分の手が繋がれる。ひやりとした感覚に、咄嗟に振り解こうとして。
その瞬間、音が消えた。
煩いと感じられる程の蝉時雨も、風に騒めく木々の音も、遠く微かに聞こえていた車の音さえも。何もかもが聞こえない。
いつの間にか、繋がれた手の感覚はなくなっていた。視線を巡らせ背後を振り返り、視界に映ったものに息を呑んだ。
雑木林の中に、細い道ができていた。その奥から、誰かがゆっくりと近づいてくる。
揺らぐ陽炎が、誰かの姿を曖昧にさせる。そこにいるようでいないような、そんな違和感に何故か胸が痛くなっていく。
ぴしゃん、と。どこからか、微かに水の落ちる音がした。
一定の間隔で落ちていく水音。誰かが近づく度に、まるで足音のように音が大きくなっていく。
ぱしゃん。
一際大きく水が跳ねる音を響かせ、誰かが目の前で止まる。
その顔はやはり揺らいで分からない。
ぼんやりと立ち尽くしている自分に、目の前の誰かは笑ったように見えた。
手を差し出される。大きく角張った手が、取られるのを静かに待っている。
「おいで」
低くもなく、高くもない声音。記憶にない声が痛みとして全身を巡り、一筋涙が頬を伝った。
ゆっくりと誰かの手に自分の手を重ねる。ひんやりと冷たい手に、優しく繋がれていく。
来た道に向き直り、誰かはこちらに視線を向ける。それに頷きを返して、足を踏み出し――。
雑木林の中で、蝉時雨が響き渡った。
はっとして顔を上げた。
「――っ?」
目の前は陽炎に揺らぐ道。
自分の他には誰もいない。ただ、煩いほどに辺りを蝉の鳴く声が満たしている。
直前の記憶が思い出せない。誰かと一緒だったと思っても、その誰かの姿が思い出せない。
はぁ、と溜息を吐く。意識を切り替えるために軽く頭を振って、何気なく背後を振り返る。。
誰もいない雑木林の中の道を一瞥して、前に向き直る。
早く帰ろうと覚悟を決めて、足を踏み出した。
手を繋ぎ、歩いて行く。
とても静かだ。誰の声も、何の音も聞こえない。
繋いだ手に視線を向ける。大きな手。冷たくて、とても心地が良い。
横目で見上げる彼は、やはり揺らいで顔が見えない。少しだけ寂しさを感じながら、視線を前に向ける。
遠く、誰かの影が見えた。こちらに向けて手を大きく振っている。
ばしゃん、と水の跳ねる音。誰かがこちらに駆け寄る度に、ばしゃばしゃと水音がした。
まるで浅い川の上を渡っているようだ。ふとそんなことを思い、近づく誰かの揺らぐ姿を見つめていた。
「おいで」
彼が囁く。駆け寄る誰かを待って立ち止まり、繋いでいた手を強く引いた。
倒れてしまう。傾ぐ体に、思わず目を閉じて。
蝉時雨が響き渡る。
びくり、と肩を揺らして目を開けた。
いつの間にか、雑木林の中の道の前に佇んでいた。
手には白い買い物袋。中の汗をかいたジュースの缶が、がさりと音を立てる。
酷く記憶が曖昧だ。いつ買い物を終えて、ここまで戻ってきたのか。今が現実なのか、それとも夢の中なのかがはっきりとしない。
白昼夢。陽炎の中に、誰かの幻を見ていたような気もする。あまりの暑さに、疲れが溜まっているのかもしれない。
軽く息を吐く。空を見上げれば陽が傾いて、空が青から赤へと色を変え始めていた。
帰らなければ。緩く首を振って、家の方へと歩き出す。
ばしゃりと、足下の水たまりが小さく音を立てた。
それからも夏の陽射しに陽炎が揺らぐと、時折あの夢を見た。
誰かに手を引かれ、雑木林の道を進む夢。夢を見る度に、人が増えていく。
最初に手を繋いだ誰かは手を離し、代わりに両手をそれぞれ違う誰かに繋がれていた。顔は揺らいで見えないが、同年代の同じ格好をした少年少女。もしかしたら双子なのかもしれない。
周りを小さな子供たちが駆け回り、気まぐれに腰に抱きついては離れていく。楽しそうな笑い声。ばしゃばしゃと跳ねる水音。
蝉の鳴く声を聞きながら、玄関を開ける。途端に入り込む熱気に眉を顰め、外に出ることを躊躇した。
玄関先から見える外は、今日も陽炎が揺らいでいる。周りの景色が揺らいで、水の底のように滲ませている。
あぁ、そういえば。ふと、思い出す。
白昼夢を見る時は、いつも陽炎が揺らいでいた。
不意に、音が消えた。
蝉の声も、車の音も、何もかもが聞こえなくなる。
また白昼夢を見ている。そう思いながら、玄関を出て外に出た。
彼が迎えに来る。手を繋いで、一緒に帰るために。
ふらふらと歩き出す道の先に、彼がいた。いつものように黒い着流しを来て、自分が来るのを待っている。
「おいで」
手を差し伸べられる。迷わずその手に自分の手を重ねた。
手を繋いで歩き出す。進む先には、皆が待っている。
こちらに向けて手を振る皆。駆け寄ってくる友人たちに、彼は小さく笑って手を離し、友人たちの方へと軽く背を押した。
するりと、それぞれ両手を繋がれる。同じように駆け寄ってきた子たちに囲まれながら、ゆっくりと歩き出す。
ばしゃり。水音がした。視線を落とすと、いつの間にか地面ではなく水の中を歩いていた。
足首までの深さの水を、ぱしゃぱしゃと跳ねながら歩いていく。顔を上げると、近所の景色ではなくいつもの雑木林の中にいた。
「待ってたよ」
誰かが囁く。
「早く帰ろう」
皆が笑い、友人たちが手を引いて急かす。
進む先が開けてきた。揺らぐ陽炎の向こう側に、記憶にない懐かしい景色が広がっている。
手を引かれ歩いて行く。水が跳ねて音を立てる。
雑木林を抜ける、その瞬間。
また、蝉時雨が――。
「――ぁ」
背後から耳を塞がれた。
冷たくて大きな手の感触。ゆっくりと顔を上げれば、耳を塞ぐ彼がいた。
目が、合った。
「おかえり」
耳を塞がれていても、彼の声ははっきりと聞こえた。今まで聞いていた声ではない、彼の声。
低い、落ち着いた声色。あぁ、と思わず声が漏れる。
両手を引かれ、耳を塞がれて、雑木林を抜ける。
ばしゃんと大きな水音がして、視界が黒く染まっていく。
「おかえり」
友人たちが、子供たちが笑う。
帰ったことを喜ぶ声に。
「ただいま」
低くもなく、高くもない。自分の声が静かに答えた。
「ねえ、聞いた?またあったらしいわよ、神隠し」
「またなの?本当に怖いわよねぇ。いくら数日経てば戻ってくるからといっても、親御さんは心配でしょうね」
ひそひそと、今日もまた噂話が囁かれる。
「それがね、今回はちょっと違うみたいなのよ。何年か前の夏祭りを覚えてる?兄妹が神隠しにあった時の事件」
「もちろんよ。踊りがとっても上手だった子たちでしょう?確かまだ、お兄さんの方は見つかってなかったって……もしかして」
「そう、そのもしかしてよ。また妹さん、いなくなったみたい。玄関から出てすぐいなくなったよううなの。家族の誰も気づかなかったんですって」
「確か、ショックであまり声が出なくなったって前に聞いたことがあるわ。助けを求めようにも、声が出ないんじゃあどうしようもないわよね」
「そうよね。でもショックで声が出なくなるくらい、仲が良かったみたいだし……もしかしたら、お兄さんが連れていってしまったのかもしれないわね」
「あらやだ。じゃあ、お兄さんと同じように戻ってこないかもしれないわね」
怖いわ、と言いながら、楽しそうな噂話は続いていく。
「祭の神様に攫われちゃったのかもしれないわね。本当に踊りの上手な子たちだったもの」
「本当の神隠しだってこと?それなら、もう神隠しは起きないのかしら。考えて見れば、今まで戻ってきた神隠しは、皆女の子だったし」
「そうね。親御さんは可哀想だけれど、気に入られてしまったのなら仕方がないわ」
「可哀想だけれど、これで神隠しが起こらなくなるなら、私たちにとってはありがたい話よね」
可哀想にと繰り返し、よかったと安堵する。そしてすぐに別の噂を話し始める。
一時の哀れみ。噂話など所詮は他人事でしかない。
蝉時雨が響き渡る。
陽炎が揺らぐ。
その揺らぎの先で、楽しそうに笑う子供たちの声が聞こえた。
20250716 『真昼の夢』
「あれ?」
ひらり、と落ちたそれを視線で追って、目を瞬いた。
手帳からこぼれ落ちたのは、一枚の写真。拾い上げながらも、見覚えのないそれに眉を寄せる。
写真に写っていたのは、一人の少年。田んぼの畦道を、こちらに背を向けて歩いている。水を張った田んぼに青々と育った苗が植えられていることから、どうやら夏の頃に撮った写真なのだろう。
何気なく裏返す。隅に小さく書かれていたのは、去年の日付だった。
「なんだろうなぁ、これ」
普段使っている手帳から、前触れもなく現れた写真。
怖い気持ちはない。ただどこか切なさを感じて、胸が苦しくなる。
この場所はどこで、写っている少年は誰なのだろう。
記憶を探れど、浮かんではこない。
――大丈夫、心配ないよ。
でも確かに覚えている。
手を引いて。迷わぬように、前を歩いて。
――まいごの、まいごの……。
戯けた歌。
初夏の、あの切り取られた場所。
思い出せない少年は、去年、確かに――。
迷い、帰れぬ自分の手を引いてくれた。
ぽたり、写真の上に涙が落ちる。
忘れてしまった悲しみが溢れ、止めようもなく写真に滲む。
乱暴に涙を拭い、シャツの裾で写真を拭う。
手がかりを求めて、写真を見つめる。
青空。田んぼの畦道。背を向けている少年の顔は、いくら目をこらしても見えない。
「でも、この姿……どこかで……」
妙な既視感がした。
細い肩。少しだけ丸まった背。小さな歩幅。
「――もしかして」
思いついた想像を、首を振って否定する。
あるはずのないことだ。この写真は去年に撮られたと書いてある。
この少年が、幼い頃の自分だなんて。
そんな不可思議なことが、あるはずなんてない。
――また来年。覚えていたら。
誰かの声を思い出す。
それはこの少年の声なのか。それとも自分の声なのか。
――大丈夫。ちゃんと帰ってくるから。
鍵のかかる音。離れていく寂しさに泣いたのは、誰だったのだろう。
ふっと息を吐く。
写真を見てから、何だか落ち着かない。手帳の適当なページを開いて写真を挟み、そっと閉じる。
気晴らしに、少し出かけてみようか。そう思い立って、手帳を机の上に置き、外へ歩き出した。
何気なくズボンのポケットに手を入れる。
「――え?」
左の指先に触れる、硬く冷たい感触。
細い何かを掴んで、ゆっくりと目の前に出す。
小さな真鍮の鍵。入れた覚えのないものだ。
手帳に視線を戻す。青空の下、先を行く少年の姿が、ふと脳裏をよぎる。
鍵をポケットにねじ込み、手帳を鞄に入れて部屋を出る。
行く当てはない。けれども、行かなければならない。
その想いだけで外に出る。
近くのバス停まで向かいながら、ポケット越しに鍵を握りしめた。
懐かしい、忘れてしまった記憶の扉を開けるための鍵。
何故か、そんな気がした。
バスと電車を乗り継いで辿り着いたのは、田んぼの広がる小さな村にある、褪せた鳥居の前だった。
背後を振り返る。広がる田んぼはあの写真の景色に似ている気もしたが、ここがそうなのかは分からない。
前へ向き直る。鳥居の先には石段が続いていて、上の様子は見えない。
ひとつ深呼吸をして、石段をゆっくりと上っていく。
この石段の先に、祠はあるはずだ。
――去年は君だった。だから今年は……。
根拠のない確信に目眩がする。記憶にない感情が渦を巻いて、今にも倒れそうだ。
――賭けに勝ったのは自分の方。早く行かなければ。
ゆっくりだった足が、次第に速くなっていく。最後には一段飛ばしに駆け上がっていった。
息を切らせながら辿り着いた、石段の終わり。視界に映り込む懐かしい光景に息を呑んだ。
思い出す。なぜ忘れていたのかも、すべて。
縺れる足を動かして、社の脇、小さな祠へと駆け出した。
ポケットから真鍮の鍵を取り出して、逸る気持ちを抑えながら錠に差し込む。かちり、と軽い音を立てて開いた錠をもぎ取るように外して投げ捨て。
震える手で、扉に手をかけた。
「――一年ぶり。ただいま」
小さな祠の中。その暗がりの中に、あの写真の少年が膝を抱えて蹲っていた。
閉じていた瞼が震えて、静かに開いていく。
虚ろな目が焦点を結び、自分の姿を捉えると、困ったような顔をして笑った。
「あのまま、忘れてくれればよかったのに」
「ばか。一年ずつの約束だろ」
手を伸ばし、少年の手を掴んで祠から連れ出す。
幼い自分と同じ顔。同じ姿。
元はひとつだった。それを切り離され、こうして二人になった。
同じ血と肉を分けた半身。
「今年は僕の番だから。ほら交代しよう」
「でも……」
「だめ。賭けだっただろ?僕はこうして思い出したんだから」
忘れていた記憶が、戻ってくる。
去年した賭け。すべてを忘れた状態で、一年過ぎる前までに思い出せるか、忘れたままか。
その賭けに、自分は勝ったのだ。
十年も前だっただろうか。神社と田んぼを守るため、村の大人たちは自分たちの片方を柱に据えた。
どちらかはもう覚えていない。
けれど、一人だけで生き続けるのは、お互いに望まなかった。
少年――半身の両手を包み、目を閉じる。
半身と自分。一年毎の交換。
僕が君になり、君が僕になる。大切な二人だけの儀式。
そうして一年を、中身を変えて生きてきた。
目を開ければ、さっきまでの自分が目の前に見えて、思わず笑う。
何度繰り返しても、この瞬間は不思議で可笑しくて堪らない。
「さ、現《うつつ》に戻るよ。今年は僕が手を引いてあげる」
半身の手を引く。去年とは逆の立ち位置。
けれど半身は動かない。迷うように、恐れるように視線を彷徨わせ、ねえ、と泣くような声を上げる。
「賭けは、しないよね?」
ぱちり、と目を瞬かせる。賭けをしようと持ちかけたのは自分ではなく半身であることを忘れてしまったのだろうか。
「僕だけは不公平じゃないか。ちゃんと君も忘れないと、賭けにならない」
頬を膨らませながらそう告げれば、引いていた手を逆に引かれ、強く抱きしめられた。
「じゃあ、戻らない。ずっとこのまま、きみとここにいる」
「それは……むりだよ。祠は小さいんだから、きっと二人だととっても狭いよ」
ちらり、と背後の祠を一瞥し、首を振る。子供の大きさに合わせて建てられた祠だ。特に成長してしまったその体では、一人でも入らないだろう。
「やだ。祠の外でもいい。置いていくくらいなら、よっぽどいい」
抱きしめる腕の力が強くなる。額を合わせて、距離がゼロになる。
目の前の半身の姿が揺らいで、時計の針を巻き戻す。二人同じ姿に戻って、泣きながらも笑った。
「ねえ、いいでしょう?ぎゅって、くっついていたら祠にも入れるよきっと。だからお願い」
距離はない。このまま溶け合って行きそうだ。
泣く半身へと、手を伸ばすべきかを迷う。
今年は自分が柱になる番だ。このまま半身を現まで送り届けて、祠で一人眠るのが役目だ。
けれども心は、魂は迷い続ける。
生まれた時のように、手が繋がっていたのなら。ひとつであったのならば、こんなにも迷うことはなかったのに。
もう一度ひとつになれたのならば。余分な体だけを置き去りに、共に生きていけるのに。
どうして。何度も繰り返し思う。
切り離した大人たちを、少しだけ恨む。
ひとつを切り離して、二人にして。その不完全な僕/君で、一柱を作ったのか。
「祠には、一人しか入れない」
静かに告げる。
見開かれた半身の目から涙が零れ落ちるのを見ながら、そっとその背に手を伸ばす。
「交代もしない。帰りもしない……ねえ、ひとつに戻ろう?一番最初の、正しい形になればいい」
驚く半身の表情が、幸せそうに綻んでいく。
どちらからともなく背に回した手を下ろし、一歩だけ下がる。自分は右手を、半身は左手を差し出し、離れないように強く繋いだ。
「うれしい。やっとひとつに戻れる」
「うん。僕も嬉しい。欠けていたのが、ようやく満たされる」
指の欠けた不完全な互いの手が、正しいひとつになっていく。
もう離れない。引き離す者は誰もいない。
笑い合いながら祠へ向き直る。
「おやすみ。良い夢を」
「おやすみ。ずっといっしょだよ」
寄り添い目を閉じる。
扉の閉まる音がして、それきり何も聞こえなくなった。
二人だけの儀式は、もうおしまい。
これからは、ひとつだけの揺り籠で眠り続けていく。
20250715 『二人だけの。』
夏になると、あの夜のことを思い出す。
茜色に染まる夕暮れの空の下。広がる田んぼには、もう誰の影も見えない。
蝉の声が遠ざかり、代わりに低い太鼓の音が風に乗って流れてくる。
やがて、村の奥から小さな影がいくつも現れる。
村の子供たち。松明の火を頼りに、細い畦道を一列に歩いていた。
――虫送り。
あの日。私は友人と一緒に、初めて列に加わったのだった。
「緊張してる?」
「うん。ちょっとだけ」
太鼓の音に身を竦める私を、友人は楽しそうに見ていたのを覚えている。
「虫よ、外へ出て行け」
そう皆で唱えながら、暗い畦道を歩いていく。
ふと田んぼを見れば、子供たちの影が水面に伸びて揺れている。
松明の炎が揺れるたび、影もまたゆらゆらと揺れて。それがまるで生きているように思えて、怖かった。
「ちゃんと前を見てね」
繋いだ手を揺らしながら、友人は忠告する。
「絶対に後ろを振り返っちゃだめだよ」
「どうして?」
「怖いモノが着いてきちゃうから」
怖いモノ。びくりと肩を揺らして、繋いだ手に力が籠もる。
後ろには今、何かがいる。振り返ってくれるのをずっと待っている。
そんな想像をして、余計に後ろが気になった。怖くて泣きそうになるのを、友人は笑って見ていた。
やがて、歩く先に小さな川が見えてくる。
田んぼの端。この行列のおしまいだ。
川の手前には、すでに大人たちが待っていた。
子供たちは皆立ち止まり、大人に促されるまま手にしていたものを川に流していく。
小さなわら人形。紙の船。虫の象徴に見立てたものたち。
太鼓の音が止んだ。
「さあ、虫を送ろう」
松明の炎を川に向けて掲げる。合図を送れば、皆が声を揃えて唱えだす。
「虫よ、遠くに流れていけ。村には戻ってくるな」
炎が揺れる。影が揺れて、流れていく虫の象徴を惜しんでいるように見えた。
誰かが松明の火を落とした。それに続いて、次々に火が落とされていく。
急な暗闇。思わず小さな声を漏らせば、友人が繋いだ手を引き、そっと側に寄り添った。
皆に続いて、友人に手を引かれ、ゆっくりと村へ帰る道を歩いて行く。
「暗いけど、月明かりがあるから大丈夫だよ……でも、絶対に後ろは振り向いちゃだめだからね」
念を押されて頷いた。
今になって思い返せば、友人の声はどこか固かったようにも思う。
暗がりを友人に導かれながら歩いていく。
皆の声が遠い。夜道に慣れていない私とは違い、皆の歩く速度は松明があった時と然程変わらない。
暗闇の中、二人きり。何の音も、声もしない。
不意に、友人の歩みが遅くなった。私に合わせているからではない。どこか落ち着かず、後ろを気にしているように思えた。
「どうしたの?」
「うん。ちょっとね」
言葉を濁しながらも、やはり後ろを気にしている。
後ろに何かいるのだろうか。何か得体の知れない、怖いモノ。
想像して怖くなり、足が止まってしまう。
「――あ」
するり、と。友人と繋いでいたはずの手が解けた。
数歩先で、友人も立ち止まる。慌てて追いかけようとして、けれど友人の様子がおかしい事に気づいた。
俯いている。何かに耐えるように、両手で耳を塞いで首を振る。
「いや……違う。だめ。振り返ったら……」
普段とは違う友人の姿。呆然と見ていることしかできない私の前で、だめだと泣きそうに声を震わせ否定する。
そして友人の動きが止まり。
嫌な予感に、友人の元へと駆け寄る前に。
ゆっくりと、振り返ってしまった。
「――あぁ」」
友人の見開かれた目から一筋涙が零れ、月明かりを反射して煌めいた。
手を伸ばす。縋るように抱きしめた友人は、私が見えていないかのように後ろだけを見て。
「ごめん、なさい」
たった一言。
小さく呟いて、その姿は黒い影になって消えてしまった。
「っ、やだ……!」
反射的に振り返った。
後ろにいる何かが、友人を連れて行ってしまう。
それが怖かった。怖いモノが着いてくるよりも余程。
「待って!」
川の手前に、友人と手を繋ぐ黒い影がいた。
こちらに背を向けて歩き出す二人を、必死になって追いかける。
けれどどれだけ走っても、二人には追いつけない。段々と離れて、その姿が暗闇に溶け込んでいってしまう。
「いやだ、待って。置いてかないで」
叫んでも手を伸ばしても、友人には届かない。
そのまま友人と黒い影は暗闇に溶け込んでいき。
その後のことを、私はほとんど覚えてはいない。
「さあ、戻るぞ。最後まで後ろは振り返るなよ」
誰かの声にはっとして顔を上げた。
気づけば虫の象徴は川を流れて、他の大人や子供たちは村へと帰っていく。
今年の虫送りも終わりを迎えた。
もう参加することはないと思っていた虫送り。友人の存在を消してしまった怖ろしい風習に、どうしてか、私は再び子供たちの列に加わっていた。
そっと溜息を吐く。辺りに誰の姿も見えなくなってから、村へと続く道に足を向けた。
あの後。友人の姿が見えなくなって、気づけば自室のベッドで朝を迎えていた。
どうやって戻ってきたのか、まったく覚えてはいなかった。それどころか、友人のことを誰一人覚えてはおらず、記録にも残っていなかった。
二人で撮ったはずの写真は、私一人だけが写っている。
俯きながら、ゆっくりと道を歩いていく。
友人と手を繋いで歩いていたはずの道。暗闇を怖がる私の手を引いてくれた友人は、どこにもいない。
時折、不安になる。友人は本当に存在していたのだろうかと。
もしかしたら、友人とは私の作り出した幻なのではないだろうか。
忘れられないあの夏の記憶がそれを否定するのに、どうしても考えてしまう。
私はもう、友人の顔も声も、名前すらも覚えていないのだから。
「――ねぇ」
不意に、後ろから声をかけられた。
ぎくりと体が強張る。虫送りに参加した子供たちも大人たちも、私より先に歩いていってしまっている。
後ろから声をかける誰かはいないはずだった。
「待って」
どこかで聞き覚えのある声。
そんなはずはないと、首を振る。
気のせいだ。もしくは誰かのいたずらだろう。
だから振り返ってはいけないと、歩く足を少しだけ速めた。
「行かないで。置いていかないでよ」
声は着いてくる。
一定の距離を保って、泣きそうに声を震わせて、私を呼び止める。
振り返ってはいけない。何度も繰り返し、自分自身に言い聞かせる。
「酷い。忘れてしまったの?」
思わず足を止めた。
忘れているものは、何もない。
ないはずだ。
「ずっと一緒だったのに。暗闇の中で、手を引いてあげたのに……本当に酷い」
「いや……違う。だめ。忘れてなんか……」
耳を塞ぎ、首を振る。
これ以上は聞きたくない。早く家に帰りたい。
それなのに、足は少しも動かない。声は手をすり抜けて、直接鼓膜を震わせる。
「酷い……ずっと待ってたのに。一年後、迎えに来てくれるって信じてたのに……友達だって、そう思ってたのに」
「あ……あぁ」
びくりと肩が震え、崩れ落ちた。
膝をついて項垂れる。涙が溢れて頬を伝い、地面を濡らす。
もう、誤魔化せない。
今、私の後ろにいるのは、あの日消えてしまった友人だ。
「待ってたの。あなたもあの日、振り返って私を追いかけてくれたから。禁忌を破って穢れを取り込んで、溜め込み続けていたから、来てくれるって思ってた」
するりと、後ろから伸びるのは白い腕。
左手は腰を抱いて、右手は顎に添えられる。
「私もね。あなたと参加する何年か前に、振り返ってしまったの。その時は兄さんと一緒で。兄さんは私を守るために振り返って……一年後、消えてしまった」
添えられていた右手が顎を掬い、強制的に上を向かされる。
抵抗はできない。
友人が言うように、私はあの日、振り返ってしまった。禁忌を破ってしまったのだから。
だから、きっともう逃げられない。
「あの日、ずっと兄さんの声が聞こえていた。責める声じゃなくて、心配する声。そして顔が見たいって、誘う声」
見上げる夜空が陰っていく。
長い黒髪が頬にかかり、滑り下りて。
「――おかえり。私の大切な人」
嬉しそうに笑う友人と、目が合った。
「兄さん!」
川の手前で待つ兄に、妹は笑顔で歩み寄る。
その右手は、彼女の友達である少女と硬く繋がれていた。
「ごめんね。この子、怖がりだから。振り返るまでに時間がかかっちゃった」
笑顔を浮かべる妹とは異なり、少女は何の表情も浮かんではいない。
ただ虚ろに開いた目で、ぼんやりと兄を見つめていた。
「嬉しいなぁ。大好きな兄さんと、大好きな友達と。これからずっと一緒なんだもの。兄さんもこの子のこと、気に入ってたものね。兄さんも嬉しい?」
兄は何も答えない。
そもそも、兄は人ですらなかった。
川面に映るその影の輪郭だけが、僅かに人の形を留めている。
その周囲を、時折、夏草を揺らす羽音と小さな緑の影が舞う。
近づくと、微かにイナゴの羽音が耳元を擽った。
「よかった。兄さんもこの子のことを好きになって、この子もきっと兄さんのことを好きになって……皆好きになるって、とっても幸せ」
それでも妹は聞こえる羽音に破顔して、左手を兄に差し出した。
兄はその手を取り繋ぐ。
「本当に嬉しい。二人がいてくれれば村に帰れなくてもいいし、他には誰も、何もいらない……ずっと、三人一緒にいようね」
妹は笑う。
兄も少女も、何一つ語らない。
ただ妹と手を繋ぎ、寄り添って。
そうして三人。
流れていった虫の象徴を追うように。
川の向こう。誰も知らない夜の中へ。
手を繋いで、ゆっくりと歩いて行く。
20250714 『夏』
「おや、久しぶりだねぇ。また大きくなって」
「お久しぶりです。おじさん」
畑仕事に精を出す男性に声をかけられ、軽く会釈をして通り過ぎる。
これで五人目。笑顔の裏で、密かに溜息を吐いた。
声をかけてくれるのは嬉しけれど、数日分の荷物の入ったキャリーが重い。何時間も電車とバスに揺られた疲れもあって、今は早く休みたかった。
夏休みの度に訪れる祖父母のいる村は、ずっと変わらない。
人も。風景も。まるで時が止まっているかのようだ。
祖父母の家へと向かいながら、ふと視線を村の奥にやる。
小さいながらも立派な、木造二階建ての学校。何年も前に廃校になってはいるが、くたびれた様子は見えない。
きっと村の人達が、今も手入れをしているのだろう。
あそこには、『ワラシ様』がいるのだろうから。
ふと、息苦しさに意識が浮上する。
体が重い。目を開けても、暗くて周りがよく見えない。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。何かに口を塞がれているみたいに。
手を伸ばして口に触れる。呼吸を妨げるもの何もはない。
苦しさに身を捩る。助けを求めて踠く指が床に爪を立て、違和感に気づく。
布団や畳の感覚ではなかった。霞み出した視界でもう一度辺りを見渡す。
暗い場所。端に寄った小さな机と椅子。
見覚えのない、けれどどこか懐かしい――。
息が出来ない。視界が霞み、やがて何も見えなくなっていく。
そのまま、すべてが真っ黒に染まっていった。
はっとして目が覚めた。
荒くなる呼吸を落ち着かせ、深く息を吸い込む。
息は吸える。吐く事も出来る。
その事に安堵して、ゆっくりと体を起こした。
辺りを見渡す。暗くてよく見えないが、祖父母の家ではないのはすぐ分かった。
ここは教室だ。机や椅子の大きさから、小学校だろうか。
「――っ!?」
何故、という疑問は、急に襲う激痛に掻き消された。
頭が痛い。何かで殴られたかのように。
そのまま床に倒れ込む。力の入らない体を動かし背後を見るが、誰もいない。
痛みに意識が霞み、視界がまた黒に塗り潰されていく。
「どうして」
落ちていく意識の中。
小さな呟きが、聞こえた気がした。
あれから何度も目を覚ましては、痛みや苦しさに意識を奪われる事を繰り返している。
その地獄のような時間の中、時々誰かの声を聞いた。
――いやだ。
――たすけて。
――おかあさん。
苦痛に踠くその傍らで、声は同じように苦しんで助けを求めていた。
自分よりも幼い子供の声。助けを求めながらも、すでに諦めてしまっている声音。
「おかあさん」
小さな声に、薄れる意識で理解した。
この苦痛は、誰かの記憶だ。たくさんの子供達の最後の記憶を、痛みごと体験しているのだ。
理解して、泣きたくなった。
理不尽に受ける痛みに対する怒りではない。説明のつかない恐怖でもない。
ただ、悲しかった。
助けを求める幼い声に、手を差し伸べる者が誰もいない事が、ひたすら悲しくて泣きたかった。
目が覚める。
息苦しさはない。襲い来る痛みに構えていても、何も起こらない。
ふと、気配を感じて顔を上げる。
教室の隅。何かの影がいくつも揺らいでいた。
「悲しんでくれるの?」
「わたしたちを見てくれるの?」
幼い子供の声が、幾重にも重なって教室に響く。
気づけば隅にいた影に囲まれて、手を繋がれていた。
「きて」
手を引かれて、ゆっくりと立ち上がる。自分の意思とは関係なく、体は影に手を引かれるままに歩き出す。
教室の扉が、きい、と軋んだ音を立てて開いた。
「とくべつに、ほんとうをぜんぶ見せてあげる」
開いた扉の先は廊下ではなかった。
代わりに、地下へと続く階段が、底の見えない闇を孕んで口を開けていた。
手を引かれるままに、ゆっくりと階段を下りていく。
下から冷たい風が吹き抜け、小さく体を震わせる。引き返せないような恐怖に立ち止まりたくなるが、足は止まらない。
「大丈夫」
後ろから声が聞こえた。他の子供達より、低く落ち着いた声。
「手を引いているから、転ぶ事はないよ」
囁く声はどこまでも淡々としている。
「それにほら」
下りる先に、微かな灯りが見えた。揺らめく灯りに導かれるように少しだけ手を強く引かれ、階段を下りる足を速める。
「ここだよ」
階段を下りて手を離された。
薄暗い地下の空間に、ぼんやりと蝋燭の明かりが灯っている。
「大人達の隠していた真実の場所。俺達の家」
湿った土の匂い。木で補強はされているものの、剥き出しの土が不安を掻き立てる。
小さな空間の手前には、祭壇があった。
水の入った器と、僅かな米が盛られた皿。
色あせた人形や飴玉、履き古した靴など、どれも子供のものばかり。
その奥。開けた空間には、不自然に土が盛り上がった場所があった。
転々と盛り上がる土。子供のものばかりが供えられた祭壇。そして学校。
嫌な予感に、背筋が寒くなるのを感じた。
「――ワラシ様?」
「そうだよ」
後ろの声がそう告げて、再び手を繋がれる。
祭壇を過ぎて奥へと引かれる。座らされ、影が回りを囲む。
不意に後ろから伸びた手に視界を塞がれ、知らない記憶が過ぎていく。
土を掘る誰か。その傍らには、麻袋に入った何か。
子供一人入れるほどの穴を掘り、穴から出た誰かは袋に手を伸ばす。
口を開け、中身を穴に落としていく。
中から出てきたのは、まだ幼い――。
「口減らし。生き残るためには必要な事なんだろうけどね。でも――」
場面が変わる。
――やめて!お願いだから。
泣きながら懇願する声。
薄暗い部屋。その奥で、揺らめく二つの影。
――俺が!俺が、もっと働くから!妹の分まで頑張るから、だから!
縋る影は振り払われ、薄い壁に叩きつけられる。
呆然と見つめる影の前で、振りかざす刃が鈍く光を反射していた。
「間引くくらいなら、何故産んだのか。産んで、殺して。捨てて。それでおざなりに祀られるのは納得がいかない。形だけの祀りで富を得ようなんて、そんな事認められる訳がない」
視界を覆う手が外される。
優しく背を撫でられて、耐えきれず嗚咽が溢れた。
胸が痛かった。苦しかった。
何故、どうして、という疑問が頭の中でぐるぐると渦を巻く。
「悲しんでくれる」
「見てくれる」
「ねぇ。あそぼ」
周りを囲う影が手を引いた。
「遊んで、優しい子」
誘う声は、どこまでも無邪気だ。
「今まで招いた子は、俺たちの記憶を見ただけで、すぐに壊れてしまった。誰一人悲しんでも、遊んでもくれなかった」
寂しい、と誰かが口にする。遊んで、と影達が強請る。
「俺たちが触れても、記憶が流れても壊れなかった、特別な子……ここで遊んでくれるなら、もう誰も招かない。ずっとここで、俺たちが与えられなかった愛を与えてほしい」
背中に抱きつく影の腕が、気まぐれに溢れる涙を拭い、耳元で囁く。
楽しそうに、嬉しそうに。あちらこちらで声が上がる。
逃げろ、とまだ冷静な自分が警鐘を鳴らす。けれどもそれは、縋る影の手から流れ込む記憶に、すぐに掻き消されてしまった。
「それに、もう戻れない。ほら、蝋燭が消えたら終わり……少し苦しいけど、きっと我慢出来る」
影が指差す先にある蝋燭が、その言葉と共に音もなく消えた。
「いたか?」
「いや、どこにもいない」
吹き出す汗を拭いながら、村の男達はどこか諦めの滲む顔で溜息を吐いた。
「ワラシ様んとこへも行けなくなっちまったからな……こりゃあ、隠されたかもしれねぇな」
「良い子だったからなぁ。俺んとこの息子の嫁にほしかったくらいだ」
話しながら、視線を学校の方へと向ける。
小さいながらも手入れの行き届いていたはずの学校は、一晩で様相が変わっていた。
校舎は無数の蔦に覆われ、窓や扉は硬く閉ざされ、入る事は叶わない。
「せめて、供え物だと思ってくださればいいんだが」
ぽつりと呟かれた言葉に、皆同意する。
この村は、代々ワラシ様の恵みを受けて生きてきた。今更、恵みを受けずに生きる事など出来るはずもない。
男達は皆、表情を曇らせる、だがそれは、少女が一人行方不明になった事への心配や悲しみではなく。
「本当に良い子だったからな」
自分達の今後を憂いての表情だった。
暗い廊下を、少女は無心で駆け抜ける。
背後からは楽しげな笑い声。きゃあ、と弾ける声が響き、少女のように駆け回っている。
少女の頬を涙が濡らす。止まらない涙は月明かりに照らされて、宝石のように煌めいた。
その涙は、はたして恐怖からくるものか。それとも二度と戻れない事への悲しみか。
あるいは、少女と遊び続ける影達の哀れみからくるものなのか。
少女にももう分からない。
ただ影達の望むままに遊び、寄り添うだけだ。
「捕まえた」
不意に腕を掴まれ、少女の体が傾ぐ。それを抱き留めて、少年は笑った。
「じゃあ、次は何して遊ぼうか?」
少女の頬を伝う涙を拭い、終わらない遊びの続きを囁いた。
20250713 『隠された真実』
とても静かな夜だった。
ひっそりと建つ廃屋の中。一人縁側に座り、ぼんやりと丸い月を見上げていた。
とても静かだ。
人や車、機械など、人の存在を示すような音は少しも聞こえない。
獣や虫の声、水や風といった自然の音すらしなかった。
視線を月から、軒に吊された風鈴へと移す。
風鈴は鳴らない。ただ静かに風を待っている。
今夜はもう風鈴は鳴らないのかもしれない。いつでも鳴る訳ではないのだろうか。
少しだけ落胆して立ち上がる。部屋の中へと入り、無意識にぼろぼろの障子戸を閉めた。
和室の畳は陽に焼けて変色しているが、廃屋にしては状態は良い。壁も所々にひび割れはあるものの、崩れ落ちている所はなかった。
部屋の隅に座り、壁に凭れる。風鈴が鳴るまで少し休もうと目を閉じた。
不意に破れた障子戸から風が吹き込んできた。
風が髪を揺すり、目を開ける。ぼんやりと暗い室内を見つめていれば、微かに風鈴が鳴る音がした。
障子戸へ視線を向ける。まだ微睡んでいる意識では、立ち上がり縁側へ出る考えは浮かばない。ただ一度だけ鳴った風鈴の音を待ち、そして訪れるはずの誰かを待った。
障子戸がゆっくりと開かれる。月に照らされ影になった誰かが静かに部屋に入り込み。
「久しぶり。相変わらずぼんやりしているな」
懐かしい声と共に、目の前に座り込んだ親友があの日と変わらない姿で笑った。
「変わらないね。もう何年も経っているのに、あの夏の日のままだ」
「当たり前だろ、死んでんだから。さすがにぼんやりしすぎだろうが」
「だって……本当にくるとは思わなかったから」
廃屋に吊された風鈴は、夏の間だけ鳴る事がある。
その音に呼ばれて訪れるのは、幽霊や物の怪の類いだと聞いた。
ただの噂だと思っていた。だが、親友は訪れた。
風鈴の音に呼ばれて、彼岸から此岸へと戻ってきた。
「さて、折角だ。時間は十分にある事だし、存分に楽しもうじゃないか。昔話に花を咲かせるもよし。子供時代を思い出して遊び回るもよし……どうする?」
問われて、苦笑する。
本当に親友は変わらない。大仰な身振りも、態とらしい言い回しも昔のままだ。
「昔話……何かあったっけ?」
「おいおい、勘弁してくれ。前から忘れやすいとは思っていたが、ここまでとは。もしかして、俺の事も忘れたわけじゃあないだろうな」
頭に手を当て、嘆く振りをされる。随分な物言いではあるが、少しも気分を害さないのは、親友の人柄故の事だろう。
「覚えているよ。昔、肝試しに連れて行かれて、そのまま置き去りにされた事も。盗み食いを、私のせいにされた事も。しっかりと覚えている」
「それは忘れてくれるのが友情というものだろう?酷い奴だな。もっと他にあるだろうが。迷子のお前を探して、手を繋いで帰った事とか。万年赤点のお前に、勉学を教えた事とか」
「酷くて結構。あと、そちらも案外酷い事を言っている事を自覚してほしい」
軽く眉を寄せれば、呵々と楽しげな笑い声が上がる。
「昔話はよろしくないな。態々古傷を抉るのは、実に無駄な行為だ……ならば、童心に返って存分に遊び倒そうではないか」
親友は立ち上がり、恭しく手を差し出す。いつまでも幼い子供のような親友に呆れと共に懐かしさが込み上げ、微笑んでその手を取った。
遊び倒す、とはいえ、部屋の中で出来る事は限られてくる。
「ねぇ。外には出ないの?」
「外は場が安定しないからな。ぼんやりしているお前は、一歩外に出ただけですぐに迷子になるだろう。迷子捜しは、遊びではない」
迷子になると決めつけられて密かに眉が寄る。だが記憶を辿る限り否定は出来ず。
では何をするかと視線だけで問えば、彼は笑って隠れ鬼と提案した。
「二人だけで、隠れ鬼?」
「案外楽しいぞ。外に出なければ、どこに隠れても構わない。ゆっくり五十数えてやるから、その間に隠れて見せろ」
そう言って、自分が了承する前に親友は数を数え始める。
慌てて部屋を出て、隠れられそうな場所を探して廊下を歩く。
「あれ?」
違和感を感じて立ち止まる。
外から見た時は、この廃屋はそれほど広くはなかったはずだ。暗さもあるが先の見えない廊下に、少しばかり不安を覚える。
「三十一、三十二……」
背後から聞こえる親友の声。我に返り苦笑した。
死者である親友と遊んでいるこの状況こそ異様だ。今更廃屋が広くなった所で、気にかけるほどではない。
恥ずかしくなり、早足で歩き出す。適当な部屋に入り、押し入れを開ける。何もないのを見て中に入ると、音を立てぬよう気をつけながら押し入れを閉めた。
楽しい時間というものは、得てして早く過ぎ去ってしまうものだ。
最初の部屋で二人、横になって何気なく天井を見上げる。古傷を抉ると言いながらも語り合ってしまったのは、親友の誘うままに存分に遊んだからだろうか。
隠れ鬼から始まり、鬼事をして相撲も取った。どこからか見つけてきた駒を回し、面子で争い、その他にも思いつく限りの遊びをした。
疲れて横になり、思い出すのは幼き日々の思い出。自然と語り出すのも仕方がない事かもしれない。
気づけば室内は大分明るくなり、破れた障子の隙間から仄かな光が差し込み始めている。
時期に日が昇り、朝が訪れるのだろう。それはつまり親友との別れが近い事も示していた。
誰かが訪れた後に鳴る風鈴は、帰りの合図。訪れたモノは、此岸から彼岸へと還っていく。
そろそろ風鈴が鳴るのだろう。そうすれば親友は彼岸に還っていく。
その時には、一緒に連れていってはくれないだろうか。
口に出せない願いを抱えながら、風鈴の音をただ待った。
「――風鈴、鳴らないね」
けれどいくら待てども風鈴は鳴らず。
部屋に陽射しが差し込み、朝が訪れても、外からは何の音も聞こえなかった。
横目で親友を見る。上の空で天井を見上げている親友の表情は初めて見るもので、訳もなく心細さを覚えてしまう。
手を伸ばす。そっと肩に触れれば、夢から覚めたように目を瞬き、視線を向けられた。
「どうした?」
優しい笑顔。それは、親友が何かを隠している時にする表情だった。
「何を隠しているの?」
問いかければ、虚を衝かれたような表情をして、それは次第に意地の悪い表情に変わる。
「知りたいか?」
肩に触れた手を取られ尋ねられる。知りたいと思う好奇心と、知ってはいけないという警鐘に、どうすれば良いのか分からず視線を逸らした。
明るい障子戸を見る。風鈴はまだ沈黙を保ったままだ。
「どんなに待っても、風鈴は鳴らないぞ」
「え?」
「ここに来た時に外してしまったからな」
世間話のように告げられ、驚きに親友へ視線を戻した。
何故。どうしてそんな事を。
疑問が巡る。親友の考えがまったく読めない。
聞きたい事はたくさんあるというのに、何を言えばいいのか分からない。
そんな困惑を察して、親友の笑みが優しくなる。何かを隠している時とも違う、幼い頃に泣き止まない自分を宥めている時の表情。
「俺が死んで、何年経ったか覚えているか?」
答えられず、体が硬直する。思い出してはいけない事を無理矢理思い出しているようで、頭の奥が鈍い痛みを持ち始める。
「ならば、俺が何処でどうやって死んだのか、思い出せるか?」
「それ、は……夏の……海で」
親友は夏の日に、海で死んだ。それは確かに覚えている。
そう言われた。知らされたはずだ。
「――あれ?」
それ以外を思い出せない。
「お前、本当にぼんやりしているんだな」
深く溜息を吐いて、親友は上体を起こす。
手を引かれて、同じように体を起こし向き合った。
頭が痛む。何故気にならなかったのだろうか。親友の事だけでなく、自分の事すら満足に思い出せない。
隙間だらけの自分の記憶が、今更になって何よりも怖ろしく感じた。
「仕方がないから、最初から説明してやろう……先ずはあの風鈴だが、あの音は彼岸と此処を繋げる事が出来る」
親友の目が理解出来ているかを問う。それには小さく頷いた。
「彼岸のモノが風鈴を鳴らす。そうすれば、彼岸からこの廃屋へ渡る事が出来る。実際俺も風鈴を鳴らし此処に来た……一度鳴らした風鈴は、時間が過ぎればひとりで鳴り出す。彼岸へ還すために」
親友の言葉に、縁側に続く障子戸を一瞥した。
外されたという風鈴。鳴らないのであれば、親友はこのまま彼岸に還る事は出来ない。
「どうして……?」
「最後まで話を聞け……風鈴の音は彼岸を繋ぐが、渡れるのは一人だけだ。そしてそれは、鳴らしたモノでなくとも構わない」
一人だけ。何故か腑に落ちて、同時に落胆した。
親友と共にいく事は出来ないのか。
だから親友は風鈴を外したのだろうか。置いていかれる自分を憐れんで。
親友を見る。真剣な眼差しに、酷く心が痛む。
自分の事は気にするなと無理に笑いかけ、親友は再び呆れた溜息を吐いた。
「――数年前に、偶然付近を彷徨う死者がいた。死者はふらふらとこの廃屋に近づき、その風が風鈴を鳴らした」
唐突に変わった話に、首を傾げる。
説明を求めて親友を見るが、気にもかけずに話を続けた。
「その時、ちょうど廃屋には生者がいた。死にたいと常に思っているような、軟弱な奴だ。そいつは廃屋に現れ、彷徨い出す死者から隠れて、風鈴の側で只管に待った――風鈴が再び鳴り出すのを」
「それ、は……」
「だから話を最後まで聞け……そして時間が過ぎ、風鈴が鳴る。彼岸への道が通じ、生者は迷わずその道を抜け、道は閉じた……廃屋に死者を残したまま」
残された死者。それが誰かを、親友は視線だけで告げる。
あぁ、と思わず声を漏らし、静かに目を閉じた。
「五年だ。五年もお前は此岸を彷徨った。自分が死者だと忘れるくらい彷徨って……ようやくこの廃屋に戻ってきた」
阿呆が。
そう悪態を吐く親友は、呆ける自分を見つめて告げる。
「風鈴の音は、一人しか彼岸に連れて行かない。俺が残っても良いが、お前はきっとすぐに風鈴を鳴らすだろうからな。だからいっそ外してしまう事にした……彼岸でも此岸でもないこの廃屋からは出られん。いつこの場が崩壊するかも分からんが、またお前を此岸に彷徨わせるよりかは余程良い」
手を引かれた。親友の肩口に頭を押し当て、顔を隠される。
その優しさに甘えて、静かに涙を流した。
頭の痛みは疾うになくなり、霞んでいた記憶が鮮明になっていく。
親友は死んだ。夏の海で。乗っていた艦《ふね》と共に、沈んでしまった。
そして自分もまた、その数日後には死んだ。親友とは違う海の上で、艦と共に沈んだ。
「ようやくお前も思い出した事だ。落ち着いたのならば、また存分に語り合おうか。語り、遊び、二人の時を共に楽しもう……いつかくる、終わりの時まで。閉じられた箱庭を堪能しようではないか」
相変わらずな親友に、泣きながら笑う。
そう言えば、迷子になった時に必ず迎えに来てくれていたのは親友だったと思い出す。
本当に変わらず、優しい男だ。止まらない涙はそのままに、顔を上げて親友を見つめ。
「生前も、死後も面倒を見てくれてありがとう。これからも末永くよろしく頼むよ」
そう言って笑えば、親友は呆れた顔をして、それでも嬉しそうに笑った。
20250712 『風鈴の音』