この島には夜が来ない。
私と彼女。二人だけの小さな島。
空は青く、どこまでも遠く。広がる青い海もまた、果てしない。
「何して遊ぼっか?」
問いかける声に、体を起こして視線を向ける。楽しげに笑う彼女はこちらに歩み寄ると、私の隣に座ってそのまま横になる。
「それとも、お昼寝にする?」
そう言ってこちらを見上げて手招く彼女に、仕方がないなと笑ってみせる。同じように横になり、目を閉じて深く息をした。
聞こえるのは波の音。どこか遠くで鳴く海猫の声に耳を澄ませ、潮の香りで肺を満たす。
穏やかな風が髪を揺らす。さりげなく繋がれた手の温もりに、小さく笑みが零れ落ちた。
小さな島。けれどここはとても穏やかだ。
海の向こうの憧れよりも、今はこの穏やかさに眠ってしまいたかった。
目を覚ましても。空の青が変わる事はない。
「次は散歩に行こっか」
先に起きて立ち上がった彼女が、こちらに向けて手を差し出す。その手を取って立ち上がり、バッグを背負って二人、砂浜へと歩き出す。
潮騒を聞きながら、海の向こうを想像する。広い海の先には、一体何があるのだろうか。
どんな街があって、どんな人が暮らしているのか。気づけば海を見つめたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「海の向こうに行きたいの?」
問われて、少し悩む。
海の向こうが気になる。けれどそれは、行ってみたい気持ちとは少しばかり違うような気がした。
首を傾げていれば、彼女はくすくすと笑い出す。
彼女はよく笑う。遊んで、はしゃいで、時には失敗をしても笑って、いつでも楽しそうだ。
「紙飛行機を飛ばそうよ」
紙飛行機。唐突な言葉に目を瞬いた。
「私達の代わりに、紙飛行機に見に行ってもらおうよ。海の先には何があるのか」
煌めく目をして語る彼女に頷いて、背負っていたバッグを地面に降ろした。
チャックを開けて、中を探る。ぼろぼろのバッグに詰め込まれたものを掻き分けて、奥から数枚の折り紙を取り出した。
赤い折り紙を手渡すと、彼女はお礼を言いながら紙飛行機を折っていく。集中する彼女の姿をどこか眩しく思いながら、同じように黒の折り紙で飛行機を折り始めた。
「飛ばないね」
風に乗せて飛ばしても、途中で失速して紙飛行機は海へと落ちていく。
飛ばない事の落胆と、やっぱりと思ってしまう諦めと。複雑な気持ちを抱えながら、不満げに頬を膨らませる彼女の背を撫でた。
「どうすれば飛ぶかなぁ」
悩む彼女の横で、残りの折り紙を確認する。
手元にある折り紙は、白が二枚。他にないかとバッグを漁るも、折り紙はもう見つけられず。
諦めてバッグを閉じ、溜息を吐く。彼女を見れば、まだ名残惜しげに海を見つめていた。
彼女の慰めに、何か別の遊びを考えなければ。彼女は今までどんな遊びでも楽しそうにはしていたが。
記憶を辿る。そういえば、バッグの中に画用紙と色鉛筆が入っていた。思い出して再びバッグを開けば、そうだ、と弾んだ声が隣から聞こえた。
「ねぇ!次の紙飛行機には絵を描こうよ。飛ばないのはきっと、何も乗ってないからなんだ。だから絵を描いて思いを乗せれば、次こそは遠くまで飛んでくれるはず!」
そんなものだろうか。疑問が過るが、彼女が笑顔になってくれたのだから、それでいい気もする。
我ながら単純だな、と思いながら、バッグの中から色鉛筆を取り出した。
「何を描こうかな?飛行機だし……鳥にしよう!」
水色の色鉛筆を取り、彼女は真剣な顔で出来たばかりの白い紙飛行機に絵を描いていく。
それを横目で見ながら、目の前の真っ白な紙飛行機を前に何を描くかを迷う。
彼女が鳥を描くならば、私は何がいいだろうか。彼女や海や空を見て、もう一度紙飛行機に向かう。
黒の色鉛筆を取って、猫の姿を描き出した。
自分の代わりに音を聞く耳、ものを見る目。願いながら描いていく。
「出来た!」
紙飛行機を持って嬉しそうに笑う彼女を見ながら、描き終わった猫の絵をそっと指でなぞった。
彼女の紙飛行機に描かれた青の鳥。本当にどこまでも自由に飛んでいけそう。
彼女の紙飛行機と共に、私の紙飛行機が海を渡って空を一緒に飛んでいく。そんな想像に、鼓動が軽やかに跳ねた。
「よし!じゃあ、一緒に飛ばそうか」
頷いて、彼女の隣に立つ。
もう一度描いた黒猫に触れ、海を見る。
穏やかな海。緩やかな風。紙飛行機が飛ぶのを。待っていてくれるかのようだ。
「行くよ。せーのっ!」
彼女のかけ声に合わせて、紙飛行機を飛ばす。途中で失速せず高く舞い上がる紙飛行機が、風に乗って海の向こうに飛んでいく。
「飛んだ!」
喜ぶ彼女と手を取って笑い合う。紙飛行機が見えなくなるまで、その姿を彼女と見送っていた。
「見えなくなっちゃった……これで自由だね」
小さく彼女が呟いた。
自由になれた。その一言に、急に不安が込み上げる。
本当に良かったのだろうか。自由になって、好きな所に行っても、本当に。
「大丈夫だよ」
彼女は笑う。私の不安をすべて消し去るような、煌めく目をして高らかに告げる。
「心くらいは逃げ出してもいい。自由に空を飛んで、海を渡って……そうしたら、明日も生きて行けるでしょう?」
だから、と繋いだままの手を揺らす。もう片方の手も繋いで、彼女と向き合った。
「そろそろ行こうか。余計なものは、ここに全部置いていこう。がらくたがなくたって、大丈夫だから」
いいのだろうか。ちらりと足下に置いたままのバッグに視線を落とした。
開いて中身の見えるバッグからは、彼女の言うがらくたが溢れんばかりに詰め込まれている。彼女と遊んで少しは量が減ったけれど、量が多すぎて重さは最初とそれほど変わらない。
本当に置いていってもいいのか不安で、彼女を見た。彼女は大丈夫と頷いて、そっと額を合わせて囁いた。
「怖くないよ。紙飛行機に乗った心は、海の向こうを目指して自由に飛んでいる。目を閉じれば、海と空の青が見える。音が聞こえる……それに」
繋いだ手を離して抱きしめられる。痛む体を撫でて、たくさんの傷ごと包み込まれた。
「私はずっと、側にいる。もうすぐちゃんと会えるからね」
包まれる優しさに目を閉じた。
彼女の囁きと波の音を聞きながら、意識がゆっくりと揺らぎ出す。
彼女がいてくれるのなら、まだ頑張れる気がした。
「またね」
約束の言葉を最後に、穏やかな夢は終わりを告げた。
次に目覚めた時、最初に目にしたのは知らない男の人の姿だった。
驚いたように目を見張り、涙を滲ませ何かを告げる。
でも声は聞こえない。聞こえるのは波の音と遠くで鳴く海猫の声。
この男の人は誰だろう。何故泣くのだろうか。
ぼんやりと考えながら、ゆっくりと口を開いた。
「誰?」
掠れた声。たった一言なのに、喉が痛む。体も重くて、鈍い痛みが続いている。
男の人の動きが止まった。聞こえなかっただろうかと思うが、もう一度声を上げる気にはならなかった。
男の人が何かを言う。無言でいれば、くしゃりと顔を歪めて崩れ落ちた。
それを見遣って、室内に視線を巡らせた。
随分と白く無機質な部屋だ。白のベッド。布団から出た腕に繋がれている、点滴のチューブ。何かの機械から伸びたコードは、体のあちこちに繋がれているらしい。
病院だ。けれど何故、ここにいるのか。
考えても思い出せない事に、諦めて目を閉じる。
瞼の裏に広がる青に、思いを馳せた。
心だけは、この現実から逃げられている。
そう思うと不安が溶けて、何もかもが些細な事に感じられた。
病院にいる事も。男の人の事も、何もかも。
――またね。
誰かの声が聞こえた気がした。誰なのかは覚えていないけれど、きっと今も泣いている男の人ではないだろう。
優しい声。再会の約束に、僅かに口元が緩む。
重い腕を動かして、そっと自分のお腹を撫でた。
20250711 『心だけ、逃避行』
「皆には内緒だよ」
それが彼の口癖だった。
不意に蛍を見たくなり、一人家を抜け出した。
誰もいない夜道を歩いて行く。
電灯がなく、街よりも暗いこの田舎の夜を怖がらなくなったのは、いつからだろうか。取り留めのない事を考え、思い出に浸る。
聞こえるのは虫の声や風に木々が靡く音。自然の音を聞きながら、額に滲む汗を拭う。
陽は落ちても、暑さは引く事を知らず。周囲は草木が生い茂り、かつての面影などどこにもない。
幼い頃の朧気な記憶との差異に、どこか落胆めいたものを感じて息を吐いた。
彼は不思議な人だった。
母の弟である彼は、いつでも自分の味方だった。
兄であり、教師であり、友人だった彼。
彼から物事の善悪を学び、様々な知識を学び。そして遊びを学んだ。
蛍が見える秘密の場所に連れていってくれたのも彼だ。
幼かった自分の初めての冒険。彼と手を繋いで、この道を歩いて行く。
「どこに行くの?」
尋ねても、彼は笑うばかりで教えてはくれず。
「皆には内緒だよ」
唇に人差し指を当て笑う彼は、自分よりも無邪気で幼く見えたのを覚えている。
「暑いな」
誰にでもなく呟いて、空を見上げた。
煌めく星々に目を細め、彼に教えられた通りに北極星を探す。星の見方を教えてくれたのも彼だった。
暗い夜の道標。
夜を怖がり動けない自分の手を取り、外へと連れ出して。
あの頃は、彼と手を繋いでいればどこへだって行けるような気がしていた。
「――叔父さん」
こんなにも感傷的な気分になるのは、この夏を最後にここに来る事がないからだろうか。
夏になれば、必ず訪れた祖父母の家。最後の住人だった祖母が亡くなり、昨日で葬儀も終わった。
明日にはここを出て、自分の家に帰る。無人の家は誰も継ぎたがらず、このままでは二束三文で売る事になるのだろう。
あの家で夏を過ごした思い出。祖父母や彼との温かな記憶と共に、ひっそりと消えていく。
「寂しい」
密かに吐息を溢し、前を見る。
気づけば踏切の前までやってきていた。
踏切も周囲と同じく草木に覆われ、沈黙を保っている。幼い頃、一日数本の電車が通っていた時には綺麗に整えられていた線路。廃線になってまだ数年だが、すでに自然に呑み込まれつつあるその姿に、空しさだけが込み上げる。
踏切の前で立ち止まる。
この先に、彼に教えてもらった蛍が見れる場所がある。
――皆には、内緒だよ。
彼の笑顔が思い浮かぶ。
手を繋ぎ、踏切を渡ったあの夜。怖くて足が竦むのを、彼は馬鹿になどしなかった。
いつものように、ふんわりと微笑んで。動けるようになるまで視線を合わせ、背をさすってくれた。
今は、怖くはない。怖かったあの時の理由が、もう分からない。
でも、何故だろう。
踏切の中へ足を踏み入れる瞬間。まるで別世界に渡ってしまったように思えて、少しだけ胸が騒ついた。
ふわり。
仄かな灯りが宙を舞う。
ふわり、ふわり。
ひとつ、ふたつと数を増やし、周囲を楽しげに漂っている。気づけば、騒がしかったはずの虫の声が聞こえない。肌に纏わり付く熱気がひんやりとした夜風に変わり、肌を優しく撫でていく。
空気が変わる。退廃的な澱みが、澄んだ水の匂いと共に流れていく。
残るのは、幼い頃を思い起こさせる懐かしい気配。
「皆には内緒だよ」
密かに笑う声がした。
「叔父さん?」
声のした方向へ、視線を向けた。
呼びかけに応える声はない。
気のせいだと思う心とは裏腹に、足は声の聞こえた方へと向かっていく。
「わぁっ!すごい、きれい……」
彼ではない、声がした。
幼い子供の声。無邪気に喜んで、はしゃいでいる。
思わず足を止める。
その声を、続くはずの言葉を。自分はよく知っていた。
「絶対……絶対に、ひみつにするからね。おじさんと、わたしだけのひみつ!」
そう言って小さな小指を差し出し、増えた秘密に笑うのだろう。
止まっていた足を動かす。星の海のように揺らぐ蛍に導かれ、奥へと進んでいく。
ゆっくりとした歩みが次第に速くなり、蛍を掻き分け走り出す。
前を漂う蛍が左右に割れる。開かれた道を駆け抜けて、生い茂る茂みを抜けた。
「――っ」
蛍が光が、辺りを淡く照らしている。
その光の中心で、二つの人影が指切りをしていた。
幼い子供と、細身の青年。子供に合わせて身を屈め、小さな小指に自らの小指を重ねている。
ひゅっと息を呑んだ。かけるはずだった言葉は喉奥に落ちていき、呆然と目の前の光景に見入ってしまう。
懐かしい光景。初めて夜の冒険に出た時の、自分と彼との大切な秘密の記憶。
愛しくて、切なくて。視界が滲み、涙が溢れ出す。
「そろそろ帰ろうか。あまり遅くなると、怒られてしまうからね」
「うん!また連れて来てね。約束だよ」
「分かってる。一人で夜を歩けるくらいに大きくなるまでは、一緒に蛍を見に来てあげるよ」
立ち上がった彼が、幼い自分に手を差し出す。その手を繋いで笑い合い、二人ゆっくりとこちらを見た。
「叔父、さん」
涙を拭い、彼を見た。
穏やかな眼差しは、記憶の中に残るものより色鮮やかだ。幼い自分は、こんなに無邪気に笑っていたのか。写真の中の、どこか硬い表情を思い出し笑みが浮かぶ。
声をかけようとして、けれどその前に、幼い自分が彼の手を解て走り出す。
真っ直ぐに迷いなくこちらに向かう姿に、思わず膝をついて手を広げる。受け止める体制になった自分の腕の中へと、幼い自分は勢いを殺さずに飛び込んで。
その姿が、無数の蛍へと変わる。
「――ぁ」
蛍が舞う。腕の中から抜け出して、星の海をさらに鮮やかに彩っていく。
幻想的な光景に見入っていれば、土を踏み締め近づく音がして。
「そろそろ帰ろうか」
優しく微笑む彼が、手を差し出した。
「大きくなったね」
二人手を繋ぎ、来た道を戻っていく。
気恥ずかしさと切なさに俯く視界で、繋いだ手が揺れている。
「叔父さん」
呼びかけて口籠もる。
何を言うべきなのか、伝えるべきかを迷い、悩みながら口を開く。
「お祖母ちゃんが、死んだよ」
「うん。知ってる」
「家も、誰も継がないから、このままなくなるみたいだ」
「仕方がない。都会と比べると、ここは不便でしかないからね」
眉が寄る。穏やかだが、最初から諦めている声に、続けるはずだった言葉を呑み込んだ。
彼は何も語らない。望まず、ただ受け入れる。
それが彼の元々の性格からくるものか、それともここにいる彼が幻だからなのか、自分には分からない。
不意に、隣を歩く彼が立ち止まる。
ひとつ遅れて立ち止まり、顔を上げる。いつの間にか踏切の前まで来ていたらしい。
彼が手を離し、数歩下がる。それを追って振り返れば、生前の姿と変わらない姿をした彼が、こちらに向けて軽く手を振った。
「またおいで。待ってるから」
静かな声。言葉を返そうとして、カンカンと背後から聞こえた音がそれを遮った。
踏切が鳴っている。廃線となって、二度と鳴らないはずの踏切が音を立てている。
ゆっくりと振り返る。赤い点滅とカンカンと鳴り続ける踏切が、電車が来る事を警告していた。
がたん、ごとん。
白い光と共に、電車が近づく。眩いばかりの光に、思わず目を細めた。
警笛。踏切の音。電車の音。
目の前を過ぎる電車の中で、微笑み手を振る祖父母の姿を見た気がした。
「――あれ?」
眩しさに閉じた目を開けば、電車の姿はどこにもない。
背後を振り返る。辺りを仄かに照らしていた蛍は見えず、彼の姿もなかった。
「ずるいなぁ」
彼の言葉を思い出し、小さく笑う。
またおいで、なんて。戻ってくるのが当然な言い方。
今更になって、彼はそういう狡い一面もあった事を思いだした。
溜息を吐いて、踏切へと足を向ける。
夜の冒険は終わり。後は家に帰るだけだ。
迷わず踏切を越えて、家路を急ぐ。
――皆には、内緒だよ。
そっと囁く彼の声に、ずるいなぁ、と呆れて笑った。
20250710 『冒険』
人の絶えた板張りの廊下を、月明かりと小さな懐中電灯の灯りを頼りに進んでいく。
歩く度に床が軋んだ音を立てる。舞い上がる埃が、ここが使われなくなってから長い時が過ぎている事を示していた。
町村合併により使われなくなった公民館。ここにはいつからか、ある噂が囁かれるようになっていた。
――真夜中に旧公民館の中から、誰かの泣く声と鈴の音が聞こえてくる。
噂を聞いて好奇心に駆られた何人もの人が、この旧公民館に忍び込んだ。
その殆どは何も起きなかったと鼻白んでいたが、何人かは悲しげに目を伏せ、一言だけ語った。
――いつか、届いてほしい。
誰に何が届いてほしいのか。誰もそれ以上を語らず、詳しい事は分からない。
だから直接確かめにきた。
この奥には、村の公民館としては珍しく、立派な舞台がある。子供達の劇の発表会から音楽会、そして祭の伝統舞踊の練習場所として、長く使われてきた。
思い出の場所。時と共に面影を失っていく村の中で、数少ない彼女との記憶を留めている場所だった。
不意に、風に乗って微かに鈴の音が聞こえた。
一定の間隔で聞こえる、澄んだ音。泣く声は聞こえない。
灯りを翳す。薄暗い廊下の先に、閉じた扉が静かに待っていた。
――行かなければ。
一度、深く呼吸をする。
少しの恐怖と、抑えきれない期待に逸る鼓動を落ち着かせながら、ゆっくりと足を踏み出した。
扉を押し開ける。
薄暗がりの中、広がる光景に息を呑み、動きを止めた。
澄んだ鈴の音が舞台に響く。
千早の袖がふわりと広がり、鈴に合わせて舞っている。
笛や太鼓の音は聞こえない。だが、はっきりと耳の奥で蘇る。
窓から差し込む月明かりに照らされて、舞台の上で一人舞う少女。
四肢に括られた鈴が、少女の動きに合わせて音を奏でていく。頬を濡らす涙が、月明かりを反射して煌めいた。
届いてほしいと、皆一様に目を伏せる答えがそこにあった。
「届かない……これじゃあ、まだ」
微かな呟き。
静かに泣きながら舞い続ける少女の姿を前に、何も言えずに立ち尽くした。
少女を知っている。見間違えるはずもない。
少女の姿は、いなくなってしまったあの時から何一つ変わらないままだ。
「もう少し。もっと、動いて……届いて」
少女は一人きりでずっと――おそらくはあの日から、同じ悪夢を見続けているのだ。
どうして。零れ落ちた言葉は、少女には届かない。
目を閉じる。記憶の中の姿と、今目の前にいる姿を重ねて、目を開いた。
懐中電灯を手放して、少女の元に歩み寄る。
少女は待っている。届かないと決めつけて、届いてほしいと願い続けている。
終わらせなければならない。それが少女のために自分に出来る、唯一の事なのだから。
舞台へ上がり、少女の側へ近づいた。
少女の舞は止まらない。その事に一抹の寂しさを感じながらも、ポケットに手を入れた。
中から古びた鈴と取り出す。それを手に、少女の動きに合わせて腕を振るい、足を踏み出した。
少女の舞と重ねるように、舞い踊る。長く踊る事を止めていたため、足が縺れ、腕の動きもぎこちない。
それでも動きは止めない。忘れかけていた、懐かしくて愛しい記憶が蘇り、このまま終わらせてしまいたくないとも思ってしまう。
いつも一緒だった。何をするにも、常に少女が側にいた。
夏祭りの踊りの練習。自分の舞に届かないと、少女は誰よりも練習していた。
あの日を思い出し、胸が苦しくなる。
踊る事を止めた切っ掛け。少女が姿を消した、あの日。
一人になって、何もかもを止めた。舞も、遊びも。少女と一緒に行ってきた事はすべて。
村中を彷徨い歩き、少女の姿を探し続けた。時間と共にそれすら空しくなって、進学を理由に逃げるように村を出た。
「届かない……届いて」
「届いてるよ。あの時から届いていた」
鈴の音の合間の呟きに、思いを込めて言葉を返す。
他の誰が何と言おうと、少女の舞は自分よりも美しかった。
「一番綺麗だったんだよ。見とれるくらいに美しかった。ねぇ、気づいて……届いて……」
届かないと知りながら、祈る思いで囁いた。
鈴が鳴る。飛ぶように舞い、優雅に踊る。
届いてほしいと、限界を訴える体に力を入れて、少女の動きに合わせて舞った。
「届かない」
「届いて」
くるりと回り、互いを向いて動きを止める。
舞の終わり。肩で息をしながら、少女を見つめた。
少女の腕が動く。また初めから繰り返されるその動き。
届かない。終わらせる事が出来ないと、唇を噛みしめ鈴が鳴るのを待った。
けれど腕は、それ以上動かず。
瞬く目がこちらを見上げ、小首を傾げた。
「――届いた?」
「届いてたよ。ばか」
不思議そうな呟きに、泣きながら笑い膝をついた。
「大丈夫?」
眉を下げて近づく少女の手を取り引き寄せる。
懐かしい温もり。幻ではない、何よりの証拠。
「逢いたかった……苦しくて逃げ出すくらい、寂しかった」
少女の肩を涙が濡らす。
そっと背中をさする手の優しさに、呼吸が乱れ嗚咽が零れ出す。
突然失った大切な存在。あの日までは、片時も離れる事のなかった双子の姉。
「――一緒に帰ろう。もう二度と、離れないで」
泣きながら懇願すれば、小さく笑う気配がする。
「泣き虫。勉強も運動も、踊りだって私より上手なのに」
答える代わりに、強くしがみついた。
姉に褒めてもらうための努力だと、いつになったら気づいてくれるのだろう。
小さな手が頭に触れる。慰めるように撫でられてゆっくりと顔を上げた。
「帰ろっか。一緒に」
微笑んで告げられた言葉に、眉を下げて頷く。
涙を拭って立ち上がり、差し出された手を握った。
小さな手。あの日のまま、変わらない姉の手。
込み上げる涙を堪えて、二人一緒に舞台を下りた。
窓から見える空は、うっすらと白み始めている。
夜が明ける。一人の悪夢がようやく終わるのだ。
「踊り。前より下手になった?」
「一人になってから、止めた。あれからずっと踊ってない」
「もったいない。皆の中で一番上手だったのに」
手を繋いだ帰り道。不意に問われて眉が下がる。
一人で踊る事に意味はない。それを分かって、敢えて告げられる。
「教えてあげようか?今度は私が、届くのを待っててあげる」
微笑む姉に、思わず足が止まる。
本当に何も気づいていないと、溜息を吐いた。
「届かないからいい。今だけじゃなくて、あの時からずっと届かなかった。皆の中で一番綺麗な踊りには、きっと届かない」
拗ねたように呟けば、姉は僅かに頬を染め。
「ばか」
小さく呟いた。
20250709 『届いて・・・・・」
突き刺すような強い陽射し。蝉時雨が響き渡る。
無人の集落の道を、少年は一人歩いて行く。
昨日、この集落の最後の住人だった男の葬儀が終わった。普段は寂れた集落も、その日ばかりは子や孫達で賑わい、何かと忙しなく行き交っていた。
だが葬儀が終わり皆集落を出れば、辺りはひっそりと静まりかえっている。
聞こえるのは風に木々が騒めく音と、虫や獣の声ばかりだ。
雑草の茂る道なき道を進んでいく。
目指す先、集落の中で唯一まともに形を留めている家があった。最後の住人の住んでいた家。その前に、人影があった。
腰の曲がった痩せ衰えた老人。ぼんやりと家を見つめる老人に、少年は破顔して声をかける。
「久しぶり。随分と年を取っちまって、立派な爺になったな」
ゆっくりと振り返る老人は、少年の言葉に顔を顰め。気に入らないとばかりに睨み付けた。
「来るのが遅い。また迷子になったな、お前」
「仕方ない。何もかも変わっちまって、ここまで辿り着けたのが奇跡のようなもんだぞ。むしろ褒めてくれたっていいくらいだ」
肩を竦めて少年は老人に歩み寄る。
手を差し出す。手を取ると疑わない目をする少年に、老人はひとつ溜息を吐き。
「――痛ぇっ!」
その手を強く叩いた。
「ひでぇ。ちっとは手加減しろよ」
「俺を待たせるお前が悪い」
鼻で笑う老人の姿が揺らぎ出す。陽炎の如く煌めいて、若き日の青年へと戻っていく。
「お前って、そんなに性格悪かったっけ?なんで俺に合わせてくれないんだよ」
「俺を待たせるお前が悪い」
同じ台詞を繰り返し、青年はにやりと笑う。
恨みがましげに、少年は青年を見つめ。やがて諦めたように息を吐いて、眉を下げ笑った。
「――少し見て回るか」
「そうだな。最後に見て回るのも悪くない」
どちらともなく頷いて、集落の奥へと歩き出す。
離れていた時間など二人には関係ない。在りし日のままの距離で、互いに語り出した。
「畑も田んぼも、全部山に呑み込まれたんだな。あそこに残ってんのはお前の畑?」
「まあな。だがここ数年、腰を痛めてから手を入れてないから、荒れ放題だ……時期に、すべて呑まれるさ」
和やかに語り合いながら、歩いて行く。
辺りは草木に覆われ、田畑の面影は欠片もない。少年が指し示す青年の畑も草が茂り、言われなければそれが畑だとは思えない様相であった。
「俺ん家の田んぼも山の中か……田植えから刈り入れまで、毎年お前が手伝ってくれたのにな」
「その分、米を貰ってたからな。働かざる者、食うべからずってやつだ」
過去に思いを馳せ、記憶の中の在りし日の光景と今を重ね合わせていく。
二人の視線の先で、陽炎が揺らぐ。踊るように揺れ動き、その煌めきの合間から、広大な田畑が見えた。
青々とした稲。瑞々しい夏野菜。畑仕事に精を出す誰かの影がこちらに向けて手を振った。
「おい、見ろよ」
「あぁ……懐かしいな」
陽炎が揺らぎ、田畑が消える。元の緑に呑まれ荒れた地は、過去など知らぬと言いたげに、沈黙を保っている。
刹那の邂逅。だが二人にはそれだけで十分だ。
「いいものが見られた。やっぱり日頃の行いが良かったせいだな」
「親不孝者が何を言ってる。お前のお袋さんが、どれだけ泣いていたと思っているんだ」
「止めてくれって。今ぐらいはそんな野暮を言わないでくれよ」
情けなく笑って、少年は息を吐いた。知ってるよ、と呟いて、足を進めていく。
それ以上青年は何も言わず。少年の背を見ながら、ゆっくりと歩き出した。
朽ちた家々を抜けていく。
「ここの家が、一番最初にいなくなったな。大学を卒業した息子の元へ、一家で向かったらしい」
「へぇ。ここの家の番犬。前を通っただけで吠えるから、苦手だったんだよな」
陽炎が揺らぐ。
その向こう側から犬の吠える声がして、合間から見える家の引き戸が開き誰かの影が顔を出す。
「村長の屋敷も崩れたんだ。大きくて立派だったのに」
「優秀な奴ほど外に出るもんさ。そして二度と帰ってこない。爺婆が死んで、それで終わりだ。いくら立派だろうと、人が住まない家が朽ちるのはあっという間だ」
大きな屋敷の門前を、誰かの影が箒で掃いている。
二人に気づき、手を止め会釈をして。
不意に吹き抜けた、気まぐれな風によって掻き消されていく。
「お前の家にも行くか?」
「なんでだよ。行ったとこで、何があるっていうんだ」
「お前の号泣する姿が見られる」
「お前……ほんっとうに、性格が悪くなったな」
時折ふざけ、楽しく語らいながら、二人は奥へと歩いて行く。
思い出話を語り、陽炎が刹那の幻を見せ。それを話題に、また話が盛り上がる。
「そういや、もうすぐ夏祭りの時期か」
「――あぁ。そんなものもあったか」
集落の奥で、二人は足を止めた。
緑に覆われた、かつては広間であっただろう場所。
「あの事件の後、どんどん規模が小さくなって……人がいなくなっていった事も影響して、数年後にはなくなったな」
「そっか……残念だな。皆、それを楽しみにしてたのに」
陽炎が揺らぎ風が過ぎて、祭り囃子の笛の音が聞こえた。
低い太鼓の音。笑う声。楽しげな騒めき。
いくつもの屋台と、複数の人影。
祭の陽気に惹かれるように、少年は足を踏み出した。
「なぁ。ちびすけは、あれからどうなった?」
少年の声に混じり、微かに水の流れる音がする。
「元気だったよ。病気や怪我ひとつしないで……ここを出て行った」
少年に続いて広間に足を踏み入れながら、青年は静かに答えた。
「母さんは?」
少年の問いに、青年は沈黙を返す。
祭の賑わいは消え、代わりに水の音と人々の騒めきが大きくなる。
誰かの悲鳴。叫び。焦りを含んだ声に、空気が変わる。
だがそれも、強く吹いた風に掻き消され。
聞こえるのは、蝉時雨と木々の擦れる音ばかり。
「――約束。守ってくれて、ありがとな」
微かな呟きに、青年は深く溜息を吐いた。
「夢の中の、しかも一方的な約束だったけれどな」
青年の悪態混じりの返答に、少年は苦笑する。
「うん。本当にありがと……そのせいで、長い事一人にさせてごめんな、親友」
「まったくだ。こんな辺鄙な所、約束がなかったらとっくに出て行ったのに……だが、約束通り迎えに来てくれてありがとよ、親友」
立ち止まる少年の背を叩き、青年は笑う。
子供のような笑い方。少しずつ、姿が揺らいでいく。
「お袋さんは、お前の事を誇りだと言っていたよ。自慢の息子だって……それでいて、どうしようもなく親不孝者だってさ」
「泳ぎには自信があったんだよ。だから何とかなるって、そう思ってた」
「お前のその無鉄砲なとこ、次からは直しておけよ。親をあんな風に泣かせるもんじゃない」
「分かってるって」
振り返り、少年は泣くように笑う。手を差し出せば、青年は優しく微笑んで。
「次も一緒にいられたらいいな、親友」
「絶対に一緒にいてやるから覚悟しとけよ、親友」
「あぁ。楽しみにしている」
差し出された手を、握る。
少年もまた、その姿が陽炎のように揺らぎ出す。笑い合いながら硬く握った手を掲げ。
不意に風が吹き抜けた。木々を揺らし、陽炎を掻き消す程に強い風。
駆け抜ける風が去った後には、もう何もない。
少年の姿も、青年の姿も。
最後の住人が亡くなり、集落もまた死んだ。
ここには誰もいない。あの日の景色が蘇る事もない。
僅かに残る人がいた痕跡も、すべて山は呑み込んでいく事だろう。
20250708 『あの日の景色』
青い短冊を抱きしめ、神社の石段を駆け上がる。
神社の奥。毎年七夕の季節になると、一本の立派な笹が飾られる。
そこに願い事を書いた短冊を吊すのが、毎年恒例の行事だった。
一番上に辿り着き、乱れた呼吸を整える。月明かりに照らされた境内の奥で、笹や短冊が風に揺れている音が聞こえた気がした。
慎重に、音を立てないように奥へと進む。やがてぼんやりと笹の影と、側で佇む人影を認めて立ち止まった。
向きを変えて、境内の脇へと足を踏み出す。彼に見つからないように、ひっそりと。
「無駄だと何回言えば分かるんだ。石段を上がっている時から気づいていたぞ」
呆れたような、笑いを含んだ声がして、ぎくりと体が固まった。動けないでいると、手の中の短冊が風もないのに震え出す。そしてそのままふわりと浮かび、奥の彼の方へと向かっていった。
「ちょっと!返してよ」
慌てて短冊を追いかけ、彼の方へと向かう。
短冊を手にした彼は笹に吊し、少しだけ眉を寄せたのが暗がりでもしっかりと見えた。
深い溜息。呆れるのも仕方ない。短冊には何も書かれていないのだから。
正しくは見えないように書かれている、だけれども。
「願いを叶えてもらいたいのに、読まれないようにする意味はあるのか?」
「目の前で読もうとする方が悪い」
「読まなきゃ、願いが分からないだろう」
確かに、と理解は出来るが、納得は出来ない。
初めて出会った時から繰り返してきたやり取りに、今更言い募るつもりはないのだろう。こちらを一瞥して短冊に向き直った彼は、そっと何も書かれていない表面を撫でた。
「まったく。無駄だと何度言えば理解するのか」
撫でた先から文字が浮き上がる。少し焦げたような文字。図書室に通い詰めた努力がすべて無駄になって、驚きから落胆に肩を落とした。
見られたくなかったのに。特に今年の短冊は。
俯いていれば、小さく息を呑む音がした。顔を上げて彼を見る。
初めて見る彼の驚いた表情。何をしても呆れるだけだった彼の貴重な顔を見て、少しだけ気分が向上する。
「意味が分からん」
眉を寄せてこちらを見る彼が、短冊の文字をなぞる。
――七夕に願いを叶えてくれる誰かの願いが叶いますように。
今年の願い事。最後くらい、いつも文句を言いながら願いを叶え続けてくれた彼のために願い事をしたかった。
私は来年、ここを出て海の向こうへ行く。私の意思ではない。家族が勝手に決めた事だ。
留学などと家族は周りに話しているが、まったくのでたらめだ。両親が作った借金。その返済に、娘である私を売った。
良くある話。どうする事も出来ない未来。
彼に二度と会えない事だけが、唯一の心残りだった。
「私、大人になるの。来年からは願い事なんてしないから、今までありがとうの気持ちを込めただけよ」
視線を少しだけ逸らして嘯いた。
彼にも、自分自身にも嘘を吐く。寂しさも怖さも、逃げ出したい気持ちも何もかもを誤魔化して、無理矢理笑ってみせた。
「――そうか」
彼は小さく呟いて、短冊を裏返した。
見えなくなった願い事。この願いは叶えないという意思表示。
予想はしていた。仕方がない事と言い聞かせて、くるりと彼に背を向けた。
「じゃあね。今までありがと」
挨拶は簡単に。顔を見てしっかりと別れを告げれば、きっと泣いてしまうだろうから。
歩き出そうとして、右手が何かに引かれた。視線を落として見つめれば、手首に巻き付く銀の糸。
「何これ?」
糸を引いても解けない。どこから、と視線で辿れば、どうやら彼の着物の裾から糸が伸びているらしい。
「ねぇ、これ」
「思いもしない事を願うな。すべては無駄だ。裏を見れば心の内が晒されるのだから……本当に、何度言っても覚える気がないのだから、困ったものだ」
疲れたように長い溜息を吐かれた。彼にはこの糸が見えていないのだろうか。
力任せに引いても千切れず、結び目も見当たらない。
助けを求めても、彼は欠片も気にする様子はなく。
「誤魔化しているのか、諦めているのか……どちらだとしても、本心を書かなければ意味がない」
「ねぇ、ちょっと」
「子供は子供らしく、素直に助けを求めれば良いだろうに」
困惑する私に見せつけるようにして、彼は短冊の裏を一撫でする。
浮かび上がる文字。
赤い震えた一言を見て思わず目を見張り、泣くのを耐えて俯いた。
――逃げたい
たった四文字。
誤魔化して、諦めた振りをしても、消えなかった事。
それは私の、本当の願いだった。
「な、んで……」
「何も考えず願いを叶えている訳ではないと、最初に言っただろうに。嘘偽りや欲に塗れた願いまで叶えてやるほど、俺は暇ではない」
糸が引かれた。今度は右足に絡みついた糸が彼の方へと強く引き、自然と足が前に出る。
意味が分からない。幼い頃の事なんて、ほんの僅かしか覚えていない。
「だが、せっかくの願い事だからな。叶えさせてもらおう……お前は子供のまま、俺と共に願いを叶える手伝いをする。家にも帰れず、ここを離れる事も出来ない」
新しく左足に絡みついた糸が、足を進ませる。
俯く視界が彼の足を認めて、ゆっくりと顔を上げていく。
「お前はこれから、俺に隠される。だが、逃げる先に死を選ぶのと、然程変わらんだろう。否、お前にとっては隠される方が本望か……最初の願い以降は、ずっと俺のために背を伸ばし、綺麗になりたいと願っていたのだからな」
意地悪く笑う彼が、頭を撫でる。ぐしゃぐしゃと、髪の毛を乱していく。
きっと私の顔は真っ赤になっている事だろう。恥ずかしくて逃げたいのに、体が動かない。
一緒にいたい。離れたくない。逃げたい気持ちと正反対な気持ちが、ぐるぐると回り出す。
「さて、仕事に精を出すか。主人のように、年に一度の逢瀬しか許されないのは耐えられん」
頭を撫でるのを止めた彼が、今度は私の右手を取った。巻き付く銀の糸を解いて、それに合わせて両足の糸も解けて彼の手に収まる。
目の前で糸が互いに絡み合い、編み込まれていく。やがて一枚の燦めく銀の衣になって、彼はそれを私に羽織わせた。
「行くぞ。仕事の内容は忘れてくれるなよ?」
「仕事……?」
「そうだ。この年に一度の願いを叶えにいく」
手を差し伸べられる。その手を取れば、ふわりと体が浮き上がった。
「今年は俺の側にいるだけでいい。手を離すなよ」
彼に手を引かれ、夜空を舞う。強い風が笹や短冊を揺らし、水の流れのような音を奏でていく。
繋いだ手を握り、彼の側に寄った。初めて空を飛んだ事に対する不安もあったが、それより今は彼の目から逃げたかった。
恥ずかしい。嬉しい。怖い。幸せ。たくさんの感情が溢れて、落ち着かない。彼の優しい眼差しが、さらに落ち着かなくさせる。
「願った事を、後悔しているのか」
問いかけられて彼を見上げた。
首を振る。初めて会った時から彼に恋をしていた私には、泣いてしまいそうなくらいに幸せな事だ。
笑顔を浮かべて、彼の手を引いた。近づく彼に抱きついて、そっと囁く。
「ありがとう――大好き」
伝えれば、彼も優しく微笑んで。
「俺もだ」
抱きつく私の額に、そっと口づけをくれた。
20250707 『願い事』