「皆には内緒だよ」
それが彼の口癖だった。
不意に蛍を見たくなり、一人家を抜け出した。
誰もいない夜道を歩いて行く。
電灯がなく、街よりも暗いこの田舎の夜を怖がらなくなったのは、いつからだろうか。取り留めのない事を考え、思い出に浸る。
聞こえるのは虫の声や風に木々が靡く音。自然の音を聞きながら、額に滲む汗を拭う。
陽は落ちても、暑さは引く事を知らず。周囲は草木が生い茂り、かつての面影などどこにもない。
幼い頃の朧気な記憶との差異に、どこか落胆めいたものを感じて息を吐いた。
彼は不思議な人だった。
母の弟である彼は、いつでも自分の味方だった。
兄であり、教師であり、友人だった彼。
彼から物事の善悪を学び、様々な知識を学び。そして遊びを学んだ。
蛍が見える秘密の場所に連れていってくれたのも彼だ。
幼かった自分の初めての冒険。彼と手を繋いで、この道を歩いて行く。
「どこに行くの?」
尋ねても、彼は笑うばかりで教えてはくれず。
「皆には内緒だよ」
唇に人差し指を当て笑う彼は、自分よりも無邪気で幼く見えたのを覚えている。
「暑いな」
誰にでもなく呟いて、空を見上げた。
煌めく星々に目を細め、彼に教えられた通りに北極星を探す。星の見方を教えてくれたのも彼だった。
暗い夜の道標。
夜を怖がり動けない自分の手を取り、外へと連れ出して。
あの頃は、彼と手を繋いでいればどこへだって行けるような気がしていた。
「――叔父さん」
こんなにも感傷的な気分になるのは、この夏を最後にここに来る事がないからだろうか。
夏になれば、必ず訪れた祖父母の家。最後の住人だった祖母が亡くなり、昨日で葬儀も終わった。
明日にはここを出て、自分の家に帰る。無人の家は誰も継ぎたがらず、このままでは二束三文で売る事になるのだろう。
あの家で夏を過ごした思い出。祖父母や彼との温かな記憶と共に、ひっそりと消えていく。
「寂しい」
密かに吐息を溢し、前を見る。
気づけば踏切の前までやってきていた。
踏切も周囲と同じく草木に覆われ、沈黙を保っている。幼い頃、一日数本の電車が通っていた時には綺麗に整えられていた線路。廃線になってまだ数年だが、すでに自然に呑み込まれつつあるその姿に、空しさだけが込み上げる。
踏切の前で立ち止まる。
この先に、彼に教えてもらった蛍が見れる場所がある。
――皆には、内緒だよ。
彼の笑顔が思い浮かぶ。
手を繋ぎ、踏切を渡ったあの夜。怖くて足が竦むのを、彼は馬鹿になどしなかった。
いつものように、ふんわりと微笑んで。動けるようになるまで視線を合わせ、背をさすってくれた。
今は、怖くはない。怖かったあの時の理由が、もう分からない。
でも、何故だろう。
踏切の中へ足を踏み入れる瞬間。まるで別世界に渡ってしまったように思えて、少しだけ胸が騒ついた。
ふわり。
仄かな灯りが宙を舞う。
ふわり、ふわり。
ひとつ、ふたつと数を増やし、周囲を楽しげに漂っている。気づけば、騒がしかったはずの虫の声が聞こえない。肌に纏わり付く熱気がひんやりとした夜風に変わり、肌を優しく撫でていく。
空気が変わる。退廃的な澱みが、澄んだ水の匂いと共に流れていく。
残るのは、幼い頃を思い起こさせる懐かしい気配。
「皆には内緒だよ」
密かに笑う声がした。
「叔父さん?」
声のした方向へ、視線を向けた。
呼びかけに応える声はない。
気のせいだと思う心とは裏腹に、足は声の聞こえた方へと向かっていく。
「わぁっ!すごい、きれい……」
彼ではない、声がした。
幼い子供の声。無邪気に喜んで、はしゃいでいる。
思わず足を止める。
その声を、続くはずの言葉を。自分はよく知っていた。
「絶対……絶対に、ひみつにするからね。おじさんと、わたしだけのひみつ!」
そう言って小さな小指を差し出し、増えた秘密に笑うのだろう。
止まっていた足を動かす。星の海のように揺らぐ蛍に導かれ、奥へと進んでいく。
ゆっくりとした歩みが次第に速くなり、蛍を掻き分け走り出す。
前を漂う蛍が左右に割れる。開かれた道を駆け抜けて、生い茂る茂みを抜けた。
「――っ」
蛍が光が、辺りを淡く照らしている。
その光の中心で、二つの人影が指切りをしていた。
幼い子供と、細身の青年。子供に合わせて身を屈め、小さな小指に自らの小指を重ねている。
ひゅっと息を呑んだ。かけるはずだった言葉は喉奥に落ちていき、呆然と目の前の光景に見入ってしまう。
懐かしい光景。初めて夜の冒険に出た時の、自分と彼との大切な秘密の記憶。
愛しくて、切なくて。視界が滲み、涙が溢れ出す。
「そろそろ帰ろうか。あまり遅くなると、怒られてしまうからね」
「うん!また連れて来てね。約束だよ」
「分かってる。一人で夜を歩けるくらいに大きくなるまでは、一緒に蛍を見に来てあげるよ」
立ち上がった彼が、幼い自分に手を差し出す。その手を繋いで笑い合い、二人ゆっくりとこちらを見た。
「叔父、さん」
涙を拭い、彼を見た。
穏やかな眼差しは、記憶の中に残るものより色鮮やかだ。幼い自分は、こんなに無邪気に笑っていたのか。写真の中の、どこか硬い表情を思い出し笑みが浮かぶ。
声をかけようとして、けれどその前に、幼い自分が彼の手を解て走り出す。
真っ直ぐに迷いなくこちらに向かう姿に、思わず膝をついて手を広げる。受け止める体制になった自分の腕の中へと、幼い自分は勢いを殺さずに飛び込んで。
その姿が、無数の蛍へと変わる。
「――ぁ」
蛍が舞う。腕の中から抜け出して、星の海をさらに鮮やかに彩っていく。
幻想的な光景に見入っていれば、土を踏み締め近づく音がして。
「そろそろ帰ろうか」
優しく微笑む彼が、手を差し出した。
「大きくなったね」
二人手を繋ぎ、来た道を戻っていく。
気恥ずかしさと切なさに俯く視界で、繋いだ手が揺れている。
「叔父さん」
呼びかけて口籠もる。
何を言うべきなのか、伝えるべきかを迷い、悩みながら口を開く。
「お祖母ちゃんが、死んだよ」
「うん。知ってる」
「家も、誰も継がないから、このままなくなるみたいだ」
「仕方がない。都会と比べると、ここは不便でしかないからね」
眉が寄る。穏やかだが、最初から諦めている声に、続けるはずだった言葉を呑み込んだ。
彼は何も語らない。望まず、ただ受け入れる。
それが彼の元々の性格からくるものか、それともここにいる彼が幻だからなのか、自分には分からない。
不意に、隣を歩く彼が立ち止まる。
ひとつ遅れて立ち止まり、顔を上げる。いつの間にか踏切の前まで来ていたらしい。
彼が手を離し、数歩下がる。それを追って振り返れば、生前の姿と変わらない姿をした彼が、こちらに向けて軽く手を振った。
「またおいで。待ってるから」
静かな声。言葉を返そうとして、カンカンと背後から聞こえた音がそれを遮った。
踏切が鳴っている。廃線となって、二度と鳴らないはずの踏切が音を立てている。
ゆっくりと振り返る。赤い点滅とカンカンと鳴り続ける踏切が、電車が来る事を警告していた。
がたん、ごとん。
白い光と共に、電車が近づく。眩いばかりの光に、思わず目を細めた。
警笛。踏切の音。電車の音。
目の前を過ぎる電車の中で、微笑み手を振る祖父母の姿を見た気がした。
「――あれ?」
眩しさに閉じた目を開けば、電車の姿はどこにもない。
背後を振り返る。辺りを仄かに照らしていた蛍は見えず、彼の姿もなかった。
「ずるいなぁ」
彼の言葉を思い出し、小さく笑う。
またおいで、なんて。戻ってくるのが当然な言い方。
今更になって、彼はそういう狡い一面もあった事を思いだした。
溜息を吐いて、踏切へと足を向ける。
夜の冒険は終わり。後は家に帰るだけだ。
迷わず踏切を越えて、家路を急ぐ。
――皆には、内緒だよ。
そっと囁く彼の声に、ずるいなぁ、と呆れて笑った。
20250710 『冒険』
7/11/2025, 12:36:01 PM