幼い頃。忘れられない夏の始まりの記憶。
陽射しが燦めく午後、大きくて綺麗な鳥に出会った。
夏の色をした不思議な鳥。見る角度や光の加減で、空のような深い青にも、陽射しのような金色にも見える翼。
気まぐれに羽ばたく度に、周りの空気さえ色を変えているように見えた。
鳥は何でも知っていた。時々意地悪だけど、どんな拙い質問にも笑って答えてくれた。
あまり外には出られない自分にとって、鳥の話が世界のすべてだった。
だからだろう。いつしか鳥に、憧れを持つようになったのは。
もしも自由に飛べたのなら。鳥と共に望む場所にいけたのならば。
一度思ってしまえば、憧れてしまえば止まらない。
だから、望んでしまったのだ。
「ねぇ。あなたの羽根を、一枚ちょうだい?」
鳥に近づきたかった。繋がりが欲しかった。
再び鳥が空へ飛び去って、一人になっても寂しくないような、そんな思い出が欲しかった。
「――羽根が欲しいのか?」
一瞬だけ目を見張り、鳥が尋ねる。
いつもとは違う、怒っている訳ではないけれど、何かを抑えているような声音。
怖くなって否定しようとする前に、鳥は翼を広げ一枚の羽根を毟り取った。
翼の中で、一番綺麗な羽根。
毟った羽根を鳥は器用に嘴で咥え、髪に挿す。小さく鳴き声を上げる鳥の声を聞きながら、そっとそれを手に取った。
「ありが、とう」
「どういたしまして」
冷たい声。冷たいのに、絡みついてくるような響きに思わず俯くと、鳥は顔を寄せた。
「大事にしてくれ。それはオレの風切羽なんだから」
耳元で囁かれた言葉に、驚いて顔を上げ鳥を見た。
陽のように燦めいていた金の目が、どろりと色を溶かして自分を見つめていた。
「これで、オレは飛べなくなった。空には帰れない」
冷たかったはずの声も、溶けていく。
怖ろしいほどに優しく、歌うように囁いた。
「嬉しいか?お前が望んだから、オレは空を捨てた……その責任を取ってくれ」
鳥が甘えるような鳴き声を上げる。
罪を突きつけられて動けない自分の頬に、擦り寄った。
「私……私、そんなつもりじゃ……」
否定の言葉は、途中から勢いをなくして消えていく。
「だがお前は望んだ。羽根が欲しいと言っただろう」
責め立てる声は、何故か優しい。甘く絡みつくような優しさ。
鎖のように巻き付いて、許さないと締め付ける。
「責任を取ってくれ。空から落ちたオレは、お前の側にいるしかない。だから一生をかけて、オレに尽くしてくれ」
大きな翼に囲われて、何も見えなくなる。
ここは牢屋。罪を犯した自分のいるべき場所。
「うん……ごめんなさい」
手の中の羽根を抱きしめて、小さく頷いた。
その時からずっと、鳥は側にいる。
自分にしか見えない、不思議な鳥。
意地悪で、優しくて。残酷な罪の色をした鳥が、鎖を繋いで離れない。
朝露を小皿に集め、鳥に差し出す。
「もういいの?」
「あぁ。もう十分だ」
朝露を一口。たったそれだけで、鳥の食事は終わる。
夏の色をした翼を鳥は広げ。それが意味する事を察して、小皿を片付け、代わりにタオルと洗面器を持ち鳥に近づく。
「冷たくない?」
「いや。これくらいがちょうど良い」
洗面器に張った水に浸したタオルを絞り、鳥の翼を拭いていく。深い青が、タオルで拭けば煌めく金色に色を変え、その美しさに目を細めた。
思わず触れてしまいそうになって、誤魔化すようにタオルを水に浸す。水の冷たさにそっと息を吐いて、自分自身に言い聞かせる。
――私が、この綺麗な鳥から空を奪った。
あの日鳥からもらった羽根は、紐を通して首から提げてある。あれからずっと、手放した事はない。
これ以上求めてはいけない。空を奪ってもまだ、欲しがるのは駄目な事だ。
こうして鳥の側で求められるままに世話を行うのは、それが自分の罰だからだ。
勘違いをしてはいけない。自分は許されてなどいない。
タオルを軽く絞って、顔を上げる。けれど鳥はもう翼をたたみ、窓の外を見つめていた。
金の瞳が、陽射しを反射して燦めいている。何も言わずに空を見つめているその表情に、胸が苦しくなって耐えられず目を逸らした。
「――片付けてくる」
洗面器や小皿を纏め、立ち上がる。
着いてくるだろうかと淡い期待をして、ゆっくりと扉へ向かった。
「そんなに嫌か」
部屋を出る直前、鳥が静かに呟いた。
冷たい声音。期待していたものをすべて否定する、低い声。
びくりと肩を震わせて、振り返り鳥を見た。
「お前が望んだのに。逃げだしたいほどに嫌なのか」
「待って。それって、どういう……?」
「嫌なんだろう?羽根は欲しがる程に好きでも、オレの事は嫌いなようだ」
何を言っているのだろう。言っている意味が少しも分からない。
夏の陽射しを反射した金の眼。鋭い視線を向けられて、胸が苦しくなる。
「そんな事、ない」
首を振る。そんな事、一度も思った事はなかったのに。
何故鳥は、そんな残酷な事を言うのだろうか。
しかしその否定は鼻で笑われる。怒りに濁る目をして、鳥は冷たく吐き捨てる。
「あるだろ。あれからお前は笑わなくなった。いつも俯いて、辛気くさい顔ばかりする」
息を呑んだ。
言われてみれば、鳥に羽根を貰ってからは笑った事がなかった気がする。心配する両親に作る笑いを浮かべる事はあっても、自然に笑う事はなかった。
でもそれは決して、鳥が嫌いだからではない。
「違う。違うの」
どう言えば伝わるのか。
引き返して、机に洗面器と小皿を置きながら考える。しかし何一つ答えは浮かばず、悩みながらも鳥に近づいた。
「だって、私……」
「もういい」
ただ一言。
無感情に呟いて、鳥は視線を逸らし大きく翼を広げた。
軽く羽ばたけば、部屋の中で風が舞う。鳥が外に向き直るのを見て、弾かれたように駆け寄った。
「待って……!」
「少しでも夢を見たオレが、間違ってた」
飛んでしまう。
このまま遠くへ。そして二度とここに戻る事はない。
それが怖くて、必死に鳥に縋りついた。
「やだ。お願い、行かないで」
鳥は何も言わない。広げた翼はたたまれず、でもそれ以上羽ばたく事もなく。
怖さと期待が胸の中で渦を巻いて、苦しくて涙が溢れ出す。
「行かないで。私、何でもする。側にいてくれるなら、何だってするから」
「――なら、落ちてみせろ」
ばさり、と大きな翼で包まれ、何も見えなくなる。
「落ちろ。オレと同じ所まで落ちてこい」
低い呟き。どうすればいいのか分からず、動けない。
「どうやって?」
どうすれば鳥と同じ所に落ちる事が出来るのか。
そう問いかければ、鳥は優しく鳴き声を上げた。
「オレを好きになればいい」
好き。
その言葉に、体を離し顔を上げた。
翼をたたんだ鳥が、顔を寄せる。金の目に映る自分の顔は真っ赤だ。恥ずかしくなって視線を逸らそうとするが、鳥はそれを許さない。
「オレは、お前に恋をして空から落ちた。お前がオレに空を捨てさせたんだ。責任を取って、オレを愛して側にいろ」
真剣な声に、思わず首から提げた羽根を抱きしめた。
上手く声が出ない。答えなければと焦るほど、何も言えなくなってしまう。
鳥は静かに待っている。あの日のように金の目がとろりと色を溶かし出す。
その色は、甘い恋の色だ。
「あ、私……私も」
羽根から手を離し、腕を伸ばす。
鳥の首に抱きついて、頬を寄せた。
「最初から私も……恋に落ちてる」
消え入りそうなほど小さな声で答えれば、鳥はまた甘い鳴き声を上げた。
昔々。ある所に、一人の少女がおりました。
体が弱く、滅多に外には出られない少女は、窓から見える空だけが世界のすべてでした。
ある日の事。いつものように少女が空を見上げていると、大きな鳥が現れて少女にたくさんの事を教えてくれました。
空の事。風の事。鳥が見てきた世界の事。
夏の色をした綺麗な翼を持つ鳥に、少女は次第に淡い恋心を抱きます。
幼さ故に恋を恋と自覚出来ぬまま、少女は鳥に言いました。
「あなたの羽根を、一枚ちょうだい?」
鳥は驚きましたが、すぐに自身の羽根を毟り少女に与えました。
鳥もまた純粋な少女に恋をしていたのです。
しかし、鳥は思いの伝え方を知りませんでした。求愛の鳴き声も、人である少女には伝わりません。人を知らない鳥は、ですから少女への言葉を誤ってしまったのです。
「責任を取ってくれ。空から落ちたオレは、お前の側にいるしかない。だから一生をかけて、オレに尽くしてくれ」
鳥の言葉は、精一杯の求愛の言葉でしたが、少女にとっては自身の罪を突きつけられた言葉でした。
そこから一人と一羽の思いはすれ違いながら、共に暮らし始めました。
すれ違いによる苦しさを抱き、それを告げられず。
すれ違いの果てに、少女と鳥はようやく思いを伝え合いました。
空に恋をした少女と、恋をして空から落ちた鳥。
それからの少女と鳥がどうなったのか。そもそも一人と一羽の関係を、誰も知りませんでしたから、知る術はありません。
ですが体が弱く、長く生きられなかった少女が亡くなった後の事。
少女の住んでいた街では、時折不思議な色をした番の鳥の姿が見られる事があるそうです。
青のようで、金色のような。あるいは白のような、夏の色を思わせる二羽の鳥。
仲睦まじく寄り添う鳥が落とした羽根は、その街では恋のお守りとして大切にされています。
20250706 『空恋』
寄せては返す波音を、時を忘れて聞いていた。
「かえらないの?」
無言で首を振る。
手の中の欠けた貝殻は、何も言わない。
耳に当てても、海の音はもう聞こえなかった。
「――寂しい」
小さく呟いた。
「うん。寂しいね」
静かな声が返る。その優しさが、胸に痛いほど響く。
背中越しに感じる温もりも、今はただ悲しいだけだった。
「どうして?」
誰にでもなく問いかける。
波音に耳を澄ませる。変わらない音。強くはなく、でも胸に響く音。
海を感じながら、そっと耳に貝殻を寄せた。
「どうして、今年は来てくれなかったの?」
何も聞こえない。どれだけ待っても返ってこない。
声を記憶する貝殻。唯一の繋がり。
波音さえ聞こえず、目を伏せた。
「寂しいね」
優しい声が、背中越しに囁く。
その声に、微かに胸が痛んだ。
不意に海風が吹き抜ける。
冷たい潮の匂いが残り、背中越しの温もりがそっと離れていく。
海風がその隙間を通り抜け、冷たさにふるりと肩を震わせた。
寂しさが増す。振り返ろうとして、けれどその前に背後から腕が回され抱きしめられた。
温かい。冷たい海風や貝殻とは正反対なその温もり。
「寂しいよ」
目を伏せたまま、少しだけ泣いた。
「――でもね。それは良い事だよ」
抱きしめる腕が、静かに強さを増す。
痛みはない。けれど、どこか厳しさのある強さ。
「立ち止まっていたのに、前を向けた。動けるようになるのは、とても喜ばしい事だ」
知っている。
声に出さず、呟いた。
動けないのは、悲しいだけ。今が悲しいように。
それでも――。
「寂しい」
理解はしても、胸の痛みはなくならない。
寂しくて、悲しくて。
まだ動けそうになかった。
陽が傾いて、空が茜色に染まっていく。
もうすぐ夜が訪れる。陽は海に沈み、月や星が瞬き出す。
波音は変わらない。何も聞こえない貝殻の代わりに、穏やかに鼓膜を震わせる。
「かえらないの?」
もう一度、問いかけられる。
何も言えず、俯いた。手にした貝殻を見つめ、一つ呼吸をする。
まだ動けない。動きたくない。
でも動かなくてはいけない事は、誰よりも分かっていた。
「――還る」
小さく呟いた。
「良い子」
頭を撫でて、温もりが離れていく。
砂を踏み締める音。俯く視界に手が差し伸べられた。
「還ろうか。一緒に」
顔を上げる。
優しく微笑む姿が、じんわりと滲んでいく。
「うん。一緒に還る」
手にしていた貝殻を手放して、代わりに差し出された手を取った。
白く、透けた手。
しっかりと繋いで立ち上がる。
沈む夕陽を目指し、海へと歩いていく。
見上げれば、茜色から紺色に色を変えていく空。月が昇り、星が瞬く。
「大丈夫?」
問いかけられて、頷いた。
「大丈夫。もう、戻らないから」
ここには戻らない。
波音に耳を澄ませてどんなに待っていても、声は聞こえない。返事は二度と返らないのだから。
待ち人は歩き出した。なら同じように進んでいくだけ。
「ありがとう」
繋ぐ手の温もりに、そっと囁いた。
迎えに来てくれた事。先に逝かないで待っていてくれた事。
手を繋いでいてくれる事。そのすべてがとても尊く、愛おしい。
「どういたしまして」
柔らかな声が返る。それがとても嬉しい。
寄せては返す波が、足を濡らす。還る事を褒めるように、優しく招かれる。
温かな海。穏やかな波音。
手を繋いで、二人還っていく。
海に沈むその瞬間。一度だけ振り向いて。
「さようなら」
二つに割れた貝殻に、別れを告げた。
20250705 『波音に耳を澄ませて』
誰もいない廃校舎の中を、自由気ままな風が吹き抜ける。
廊下を過ぎ、教室の戸を叩き中に入り込めば、今度は机や椅子を揺らし窓を鳴らして去っていく。
まるで誰もいなくなってしまった事を悲しむように。
誰かに自身の存在を気づかせるように。
風はくるりと渦を描き、音を鳴らして吹いていく。
「本当に行くの?」
前を行く彼女に、何度目かの問いを繰り返す。
「しつこい。嫌ならさっさと帰ればいい」
冷たく返され、小さくごめんと呟いた。
溜息を呑み込んで、目の前の廃校舎へ視線を向ける。
ひっそりと佇む小さな木造二階建ての校舎には、ある噂があった。
――真夜中。屋上にある風見鶏が青に染まる時、風と共に失くしたものが戻ってくる。
誰が言い始めたのかは分からない。いつの間にか学校内で広まって、実際に忍び込んだ生徒も何人かいる。
けれど屋上に行けたという生徒の話は聞かない。風見鶏を見つけ、失くしたものが戻ったという話も、当然聞く事はなかった。
「風見鶏なんて、本当にあるのかな?」
「なかったら、噂なんて広まらないでしょ。風見鶏なんて、学校に普通はあるはずないんだから」
確かに。校門を越えながら、そう思う。
本やテレビでしか見た事のない、風見鶏。噂がなければ、もしかしたらその存在なんて気にも留めなかったに違いない。
「昇降口が閉まってたらどうする?」
「中に入った生徒がいるんだから、どっかに入れるとこはあるでしょ」
そう言って彼女は足早に校庭を抜けていく。近づく校舎の黒々とした姿は、その内側に得体の知れない何かが潜んでいるようで怖ろしい。思わず足が竦むも、彼女は気にせず進んでいく。
広がっていく彼女との距離。このまま逸れてしまう事を怖れて、震える足を無理矢理動かし、彼女の後を追いかけた。
校舎の中はしんと静まりかえり、彼女と自分の立てる足音がやけに大きく響いていた。
「屋上、誰も行った事がないって話だけど」
中に入ってから、彼女は何も答えない。スマホのライトだけという僅かな灯りだけを頼りに、彼女は迷う事なく足を進めていく。
彼女は、ここに来た事があるのだろうか。ふと疑問が込み上げる。
そもそも彼女がここに来た理由を知らない。
何かを失くしてしまったから、噂を頼りにここに来たのだろうけれど。その失くした何かを、彼女は話してくれなかった。
角を曲がり、階段を上る。上る度にぎいぎいと嫌な音を立てる階段に、身を竦めて先を行く彼女の背中を見た。
引き留めるべきかもしれない。床が抜けて落ちてしまったら怪我をしてしまう。
「ねぇ」
引き留めようと声をかける瞬間。
二階から風が吹いてきた。
強い風。思わず目を瞑る。頬を髪を撫でて去って行く風は、何だか楽しそうに笑っている気がした。
一瞬で去った風にほっと息を吐いて、今度こそ彼女を引き留めようと上を見る。
「――え?」
だけどそこに彼女の姿はない。
慌てて階段を駆け上がる。ぎしぎし軋む音に、でも今は気にしてなどいられなかった。
「どこ?」
二階について辺りを見渡す。
近くに姿は見えない。スマホのライトでは遠くまでは見渡せない。
「どうしよう……」
一人の心細さに、忘れていた恐怖が込み上げてくる。
戻る事も先に進む事も出来なくて、途方に暮れて立ち尽くした。
「あれ?」
さっきまでいたはずの友人の姿が見えない事に気づき、少女は立ち止まり背後を振り返る。
スマホのライトを翳しても、近くに人影は見えない。声も、床を軋ませて歩く音も聞こえず、少女の眉間に皺が寄った。
前を向き直し、歩き出す。広くはない校舎だ。それに臆病な友人が、一人で動き回る可能性は低い。
二階に上がる階段の途中までは一緒だった。ならばきっと、怖くて二階に上がれず立ち止まっているに違いない。
今の少女には、友人と合流するため戻るよりも、屋上への階段を探す事の方が余程重要だった。
廊下の端まで向かい、壁に触れる。少女の通う学校とは異なる、木造のどこか柔らかい感覚。少女は何かを探るように壁を見据え、辿っていく。
不意に、少女の指が壁に沈んだ。少女はそのまま手を、腕を沈め、壁の向こうへと抜けていく。
そこには屋上へと続く階段が、静かに佇んでいた。
「あった」
僅かに笑みを浮かべ、少女は躊躇なく階段へと向かうと、そのまま駆け上がる。屋上へと続く扉に飛びつくと、力の限り押し開けた。
「風見鶏……」
暗い屋上。フェンス中央の上に取り付けられた風見鶏が、湿った生ぬるい風を浴びてくるりと向きを変えていた。
逸る心を抑え、少女はゆっくりと風見鶏に近づく。期待に満ちた、祈るような面持ちで、どうかと小さく呟いた。
不意に風が吹いた。
少女の背後。校舎の中から吹いた風は、少女の髪を揺らして風見鶏に纏わり付き、くるくると向きを変えていく。
くるくる回る度に風見鶏の色が変わる。鈍色が深い青へと染まっていく。
そして完全に青へと色を変えた時、風は勢いをなくして地に下り、風から人へと姿を変えた。
少女の友人によく似た、少年の姿に。
「――っ!」
息を呑み、少女は駆け出した。ぼんやりと佇む少年に抱きつき、嗚咽を零す。
「っ、ごめん。ごめんなさいっ!」
首を傾げ困惑する少年は、少女が何故謝っているのかがわからないのだろう。少女の友人や、周囲と同じ。記憶が欠落している。
「私、私が、置いていったから……皆、忘れて……」
泣きながら少女は懺悔した。一年前の罪を告白する。
一年前、少女はクラスメイト達と肝試しにこの廃校へと訪れた。
その中には、友人も目の前の少年もいた。皆、怖がりながらも校舎内を探検し、楽しく談笑していた。
楽しい思い出になるはずだった。
それが変わったのは、屋上へ出た時だ。
きいきいと鳴る風見鶏。それに混じり、誰かの笑い声が聞こえた。
風が頬を撫で、耳元で誰かが囁く。何を言っているのかは分からない。ただ楽しげな幼い子供達の笑い声が、確かに聞こえた。
そこからは皆、恐怖でパニックになった。一目散に校舎内へ戻り、我先にと校内を出る。
廃校から離れて、いくらか落ち着きを取り戻した時、そこに少年の姿はなかった。
置いていってしまったのだと少女は気づいた。けれど気づいたのは少女一人だけ。他の誰もが気づかなかった。
正確には、誰の記憶からも少年の存在が抜け落ちていた。
肝試しに行ったクラスメイトは誰一人、少年の双子の妹である友人ですら、少年の事を覚えてはいなかった。
少女一人だけ。ただ一人、少年の事を忘れず記憶して。
そうして一年後、ようやく少年を迎えに来れた。
失くした少年という欠落を戻す事が出来たのだ。
「――帰ろう。今度こそ、一緒に」
泣きながら呟く少女に、少年は困惑しながらも頷いた。
「――あれ?」
校門を過ぎて、少女は違和感を覚え立ち止まる。
振り返り見る校舎は、変わらず暗く、沈黙を保っていた。
「どうしたの?」
「何か、忘れているような……?」
思い出せない欠落に、少女は眉を寄せ呟いた。
何かを忘れている。だがそれが何かを思い出せない。
不意に過ぎた風が、控えめに少女の服の裾を揺らす。そのまま校舎へと向かう風に、思わず少女は手を伸ばし。
消えていく風に、少女の目から一筋涙が零れ落ちた。
「――戻らなきゃ」
「戻る?誰か、まだあの校舎にいるの?」
少年の言葉に少女は頷きかけて、硬直する。
何も思い出せなかった。廃校に来た時、一人ではなかった気がするのに、一人だった記憶しかないその差異が、少女を苦しめる。
「誰か、いたの。確かに……あなたの……双子の妹」
控えめで、臆病な。大切な、友人だった。
しかし少年は眉を寄せ、少女の言葉に首を振る。
「俺、一人っ子だよ……双子って……妹なんていないよ」
否定の言葉に、少女の記憶に僅かに残っていた輪郭が解けて消えていく。
「――そっか。そうだった……ごめん、何か勘違いしてた」
行こう、と廃校に背を向け、少女は歩き出す。
痛む胸と頬を伝う滴は、恐怖と安堵からくるものだと、自身に言い聞かせ。
そして二度と振り向く事はなく。
少女はそれからを、欠落を抱えながら生きていく事となった。
控えめに過ぎる風が、服の裾を揺らす。
「おはよう」
「あ。おはよう」
振り返れば、片手を上げて挨拶をする少年の姿。
それに挨拶を返しながら、少女は意味もなく胸が苦しくなる。
一人足りない。何故か感じる欠落に、少女は寂しさと共に後悔を抱く。
苦しくて耐えられず、一度失くしたものが戻るという廃校を訪れた事があった。
しかしそこに廃校はなく。人工的に開かれた空間が、かつてそこに校舎があった事を示していた。
古く、傷みの激しい校舎に、噂を信じて入り込む人が多いため、安全のために取り壊してしまったのだという。
何もない空間に、少女は絶望した。二度と戻らない欠落に泣いて、それから誰かと関わる事を少しだけ畏れるようになった。
「数学の課題、終わってる?」
「う、うん……終わってるけど」
「じゃあ、見せてくれない?昨日、すっかり忘れて寝ちゃってて」
申し訳なさそうに頼む少年の髪を、ふわりと風が揺らす。それに気づいて、少年は風が吹いた場所に視線を向けて僅かに眉を下げた。
「どうしたの?」
「あ、いや。何でもない。ちょっと風に起こられただけ」
苦笑する少年は、さらに髪を乱す風に触れるかのように手を伸ばす。見えない何かを撫でる仕草をすれば、次第に風は少年の髪を乱さなくなる。
時折見せるようになった少年の仕草。それを少女は羨ましく思う。
理由は分からない。ただ少年のように風に触れたいと切望して、苦しくなる。
苦しくて切なくて。もしもあの時引き返していたら、と記憶にない後悔に苛まれるのだ。
「急ごう。このままだと遅刻する」
「――そうだね」
少し先を行く少年を追って、少女も歩き出す。
少年の髪を、服を揺らす風。彼と共にある風が、気まぐれに少女の服を揺らすのを感じる度に。
そのまま手を繋いで、二度と離したくないと。
強く、願った。
20250704 『青の風』
遠くへ行きたかった。
どこでもいい。この閉ざされた檻の中から出られるのであれば、どんな場所でも。
何故自分はここにいるのか。いつからいるのかすら、覚えてはいない。
すべてが曖昧に解けてしまうほど時は無常に過ぎ、己から何もかもを奪い去っていく。
己を慈しむ腕の温もりも、慰めの言葉も。
すべては時と共に過ぎ、朽ちていく。
遠くへ、この檻の向こう側へと行けたのならば。
あるいは、この檻の中へと慈悲深い誰かが再び訪れてくれたのならば。
朽ちた数多の幻想を夢見て、目を閉じる。
残された残骸だけが、唯一の慰めだった。
かつん、と音を立て、誰かが石段を降りてくる気配がした。
目を開け、視線を向ける。
淡い期待は、だが降りてくるその姿を認めて、落胆に変わった。
無表情で、冷たい気配を纏った男。
まだ年若い青年に見える彼は、決して己をここから出さない。定期的に訪れては、格子の前の行燈の蝋燭を変え、格子に鎖を巻きつける。己を外に出さぬための封を重ねていく。
「ここから出してくれ」
懇願は冷たい一瞥で、なかった事にされる。
無機質な、ものを見るような目。隠そうともしない嫌悪に濡れた視線に、ただ悲しみだけが込み上げる。
「お願いだ、どうか。どうかもう解放してくれ」
男は答えない。視線を向ける事もなく、黙々と格子に鎖を巻いていく。
変わらない男の態度。最初がいつか記憶にないほどの昔から、この男は変わらない。己に対する態度も、そしてその容姿も何一つ。
縋るように伸ばした腕を、男は歯牙にもかけない。ないものとして扱い、慈悲の一つもかけはしない。
「私が何をした?何故こんな酷い仕打ちを受けなければならない?」
思わず問いかける。答えがないと知りながらも、これ以上覚えのない咎を受け続けるのは耐えられなかった。
だが予想に反し、蝋燭を変え終えた男の動きが止まる。徐に立ち上がりこちらに視線を向けると、無言で指を差した。
己の腕の中にある、慰めの欠片。かつては温もりを与えてくれたそれを指し示され、咄嗟に隠すように抱き込んだ。
この男はささやかな慰めすら否定し、奪うというのか。俯いて、男の無機質な目から逃げ出した。
どうして変わってしまったのか。
ふと、過ぎていく思いに、唇を噛み締めた。
昔はこんな子ではなかった。朗らかに笑い、己の後に付き従う、優しい子であったのに。
疾うの昔に溢れてしまった記憶の残り香が、痛いほどに胸を締め付けた。
薄暗く、不気味なほどに静かな森の奥。
小柄な少年が、道なき藪を掻き分け歩いていた。
その足取りは酷く覚束ない。虚ろに開いた目は、まるで夢を見ているかのようにぼんやりと空を見つめていた。
「ここで何をしている」
不意にかけられた冷たい言葉に、少年は足を止める。
「この先は立ち入り禁止だ。さっさと帰れ」
鋭さを含んだ声音に、少年は体を震わせ目を瞬く。虚ろだった目が焦点を結び、困惑を浮かべながら辺りを見渡した。
「え……ここ。どこ?」
「聞こえなかったのか。早く戻れと言っている」
苛立ちを隠そうともしない声。びくりと身を竦めて視線を向ければ、どうやら声は少年の向かう先から聞こえているようであった。
「えっと、その……」
「来た道を戻ればいいだけだ。死にたくないなら、早く帰れ」
「は、はいっ!」
強い言葉に、少年は慌てて来た道を引き返す。
恐怖に涙目になりながら、何故ここにいるのかを思い出そうと記憶を辿る。だが思い出せるものは何もなく、手がかりを求めて背後を振り返った。
「――あ」
草木に埋もれるようにして、僅かに建物が見えた。
神社にある社のような、小さな建物。見知らぬ山奥。
少年の記憶が、ある一つの言い伝えを思い浮かべる。
――森の奥には、人喰いの鬼が封じられている。
ひっと、恐怖に引き攣る声を溢し、少年は急いで来た道を駆け抜ける。
言い伝えは本当だった。封じられても尚、人を求めて呼ぶ鬼。
声が止めなければ、今頃鬼に喰われていただろう。
涙で歪む視界の中。少年は何度も足を縺れさせながら、紙一重で助かった自身の幸運に感謝した。
少年の姿が去っていくのを見届けて、男はひとつ息を吐いた。
少年が村に戻れば、また鬼の話が広まる事だろう。
複雑な思いを抱えながら、男は踵を返し社へと向かった。
中へと入り、静かに座る。この地下で今も封じられている、村の者が鬼と呼ぶ存在に思いを馳せて目を伏せた。
人を喰らう鬼。
それは正しくもあり、誤りでもあった。
この地下にいるのは、鬼ではない。
遠い昔、憑坐《よりまし》として幼い頃から託宣《たくせん》を受け続けた男の兄の成れの果てだ。
元服を過ぎても憑坐として在ったためか、兄はいつからか奇行を繰り返すようになった。家畜の血を啜り、夜半の頃に幽鬼の如く彷徨い歩く。
そして、最後には人を喰らった。
兄はきっと覚えてはいない。
男だけが覚えている。
じっとりとした熱気が肌に絡みつくような夜の事だった。
兄を止めるため掴んだ手を、逆に引かれた。
兄の美しい顔《かんばせ》と、口から覗く人ならざるモノの牙は、男の記憶に刻まれ消える事はない。
その夜、弟は死んだ。
死んだはずであった。
不意に声が聞こえた。兄の嘆く声。どうして、と繰り返される悲痛な声音。
どうして、と問いただしたいのは男の方だ。
死んだはずの弟は、今のこの見知らぬ男の体で目覚めた。
傍には泣きながら笑う兄。そして、弟の骸。
混乱する男に兄は、託宣に従い死んだ弟に新たな体を与えたのだと言った。
罪の意識など何一つ感じず、純粋に男が目覚めた事を喜んでいた。
その瞬間に、男は悟った。男の敬愛する兄は、もうどこにもいないのだと。
故に、男は父と共に兄を封じた。骨となった弟の骸を抱き、呆然と閉じる格子を見つめる兄。その目は、まるで何も知らない幼子の純粋さを湛えていた。
それから果てのない年月を、男は兄と共に在る。
封を重ね、時折現れる兄の嘆きに呼応した子供らを追い払う。
その繰り返しに、男は疲れていた。
歳を取らぬこの体。鼓動も熱もない、死者の体。
兄はもう、何一つ覚えていない。それが余計に男を苦しめる。
かたり、と音がした。
そろそろ新たに封を重ねなければならない。
しかし男が立ち上がる様子はない。項垂れてかりかりと格子を引っ掻く音と、兄の嘆きを聞いている。
兄は遠くへ行きたいのだと言っている。
ならばそれを叶えてもいいのではないか。
いくら男が追い払えど、その目を潜り抜けて子供は兄の元へ訪れる。束の間の慰めを兄へ与え、最後にはその身を犠牲にする。
完全に封じる事が出来ないのなら、解放しても然程変わらないはずだ。
それに、これが託宣だとしたら。兄の言葉は神の言葉だ。人を絶やす事が、神の意志ではないだろうか。
自嘲して、男はゆるゆると立ち上がる。重い足を引きずって隠し戸を開け、石段を降りる。
男はこの永遠を与えた兄を恨んでいる。だが、同時に兄を慕い続けてもいた。
「ここから出してくれ」
兄の懇願に反応を見せず、男は黙々と封を重ねていく。
横目で伺う兄の周囲には、幾つもの骸の山。そして、その腕に抱かれた、細く白い骨。
兄が男の――弟の骨を手放さぬ限り、男は兄を封じ続ける。
兄に罪を重ねさせない。これ以上、人から逸脱させはしない。
それが、男が兄に対して出来る唯一の事だった。
20250702 『遠くへ行きたい』
――拝啓
初夏の候、ご健勝のことと存じます。
見知らぬ人から送られて来た手紙には、祖父の家を継いでほしいと書かれていた。
一度も会った事のない祖父。その遺言に、家の事が書かれていたらしい。
興味はなかったが、どちらにしても手続きで一度会いに行かなければならない。調べた住所が県を跨いだ山奥にあるのを見て、思わず嘆息する。
手紙には最寄駅までの切符も同封されていた。
まるで地獄へ導く招待状のように見えて、知らない祖父を密かに恨んだ。
手紙に従い、山奥の無人駅で降りた。
小さくて、古びた駅だ。今も使われている事が信じられないほどには。
降車したのは自分ひとり。
重い溜息を吐き、地獄への一歩を踏み出した。
駅舎の外には、一人の青年の姿があった。
「ようこそ、おいで下さいました」
穏やかな微笑みを浮かべる青年に先導されて、村の奥へと向かう。
昼だというのにどこか薄暗い村には、誰の姿もない。
ただ、周囲の家の中からは、人の気配がする。こちらの様子を窺い、ひそひそと何かを話している。
視線を向ければ、僅かに開いた窓の隙間から誰かの目が見えた。
「お気になさらず。娯楽のない村ですから、新しい人が珍しいのですよ」
僅かに眉を下げ、青年は言う。
目が合った瞬間に、静かに閉じられた窓を見ながら、そうですかと冷たく返す。
それに理解は出来ても、納得はいかない。酷く不快だった。全身に絡みつくような得体の知れない何かに耐えながら、早く帰る事だけを思い足を進めた。
やはり、ここは地獄に違いない。
屋敷は村の一番奥に、ひっそりと建っていた。
「こちらです」
青年の後に続いて無言で歩く。
屋敷の中は、外の暑さが嘘のように涼しく、そして静まり返っていた。道中の好奇な、あるいは警戒の目も感じない。
完全な無人だった。屋敷全体が眠っているようだ。
「誰もいないんですね」
「はい。今は屋敷の管理のため一時的に私も住まわせて頂いておりますが、あなたが継いだ後はあなただけの屋敷となります」
私だけの屋敷。思わず眉が寄る。
大きな屋敷に一人で住むのは現実的ではない。手入れが回らず、仕事にも影響があるだろう。
それに外に出るにも、あの村を通らなければ駅にはつかない。あのいくつもの視線を思い出すだけで、きっと屋敷を出る気も失せてしまうに違いない。
まるで牢獄だ。
屋敷を継ぐ気持ちなど、欠片も湧いてこなかった。
「こちらでお待ちください。お茶の用意をしてきます」
通された部屋は、随分と殺風景な和室だった。
中央に大きめの座卓がある以外は何もない。井草の匂いが漂う和室。
青年を待つ間、どう断るかを考える。
初対面の相手に、はっきりと断れるほどの度胸はない。けれどこのままでは、継ぎたくもない屋敷を継がされてしまう。
頭を悩ませていれば、静かに襖が開き、盆を手にした青年が入ってきた。
「粗茶ですが」
そう言って目の前に置かれたコップには、氷の入った冷茶が注がれていた。
礼を言って、コップに手を伸ばす。随分と喉が渇いていた。無理もない。早朝から電車を乗り継いでこの村に着き、炎天下の中、あの不快な村を通り過ぎて来たのだから。
からん、と涼やかな音を立てる氷に誘われるように口をつける。ほのかな甘みに、つい一気に冷茶を飲み干してしまった。
「道中、お疲れだったでしょう。詳しい説明は明日にして、今日はゆっくりとお休みください」
「え、でも……」
「どちらにしても、電車はもう来ないのです。ですので、今日はこの屋敷でゆっくりとお過ごし頂いて、手続きなどの話は明日行いましょう」
電車がない。その事実に眉が寄るが、何も言わずに新しく注がれた冷茶に口をつける。
密かに溜息を吐いて、帰れぬ事にどこか漠然とした不安が込み上げるのを感じていた。
ふと、目が覚めた。
見慣れぬ天井に、一瞬どこにいるのか分からず混乱する。
体を起こし、辺りを見渡した。薄暗い、殺風景な和室。文机と座椅子、そして奥に飾られた大きな水晶を見て、夕飯後に案内された部屋なのを思い出す。
深く溜息を吐いた。あの後、結局夕飯をご馳走になり、そのまま泊まる事になってしまった。
親切な青年は、自分がこの屋敷を継いでくれると思って疑っていない。その事が余計に心を重くさせる。
この屋敷を継ぎたくはない。だがそれを、あの青年に伝えるのは、悲しませてしまう気がして今日は何も言えなかった。
どうすればいいのか。悩み彷徨う視線が、何気なく水晶を向く。
大きな水晶。澄んだ美しさを湛えるこのクリスタルは、けれどその内側に無数のひびを宿しているのを知っている。
布団を抜け出し水晶に近づきながら、青年の言葉を思い出す。
――この水晶には、手を触れないでください。
確かに下手に触るとひびが広がり、割れてしまいそうだ。触れてほしくない理由は分かる。だが、ならばしまっておけばいいという疑問の答えは、理解が出来なかった。
――水晶は家ですから。家をしまうなど、おかしいでしょう?
水晶が家。この屋敷の象徴という事だろうか。青年は詳しく語らず、部屋を出てしまったため、それ以上詳しくは聞けなかった。
「水晶は、家……」
呟いて、手を伸ばす。
もしも、水晶が割れてしまったのなら、この屋敷も同じように壊れてしまうだろうか。そうなれば、屋敷を継ぐ事なく自分の家に帰る事が出来るのではないか。
くだらない妄想に、思わず苦笑する。水晶に触れる寸前で手を止め、指先で撫でるふりをして戻した。
明日、青年に直接屋敷を継ぐ意思がない事を伝えよう。
そう心の中で決意して、もう一眠りするため立ち上がった。
ぴしり、と。
微かな音に、身を強張らせた。
恐る恐る、水晶へと視線を向ける。暗がりの中でも、何故かはっきりと見える水晶。内側に走る無数のひびとは違う、外側に新しく走ったひびに息を呑んだ。
ぴしり、ぱきっ。
呆然と見ている目の前で、次第にひびは大きくなっていく。
泣きそうなほど歪んだ自分の姿を無数に映し、広がるひびがそれを砕いていく。
そして――。
ぱきん、と。
いっそ儚い音を立てて、水晶は粉々に砕けてしまった。
くすくす。
どこからか、笑い声がした。
「――っ、誰?」
視線を巡らせても、誰の姿もない。
くすり。くすくす。
笑い声が室内に響く。
数を増やし、反響して、密やかな笑い声は次第に大きな嘲笑へと変わっていく。
咄嗟に部屋の出口に向かい駆け出した。開け放たれたままの戸を抜けて、家の外へと向かう。
「いやっ、なんで……?」
しかしどんなに廊下を進んでも、出口が見えてこない。
角を曲がる。走る。そしてまた角を曲がり。
くすくす。
おかしい。何故、角を何度も曲がっているのか。
何故、こんなにも廊下の先が長いのか。
同じくような景色。同じ角。同じ道。
出口が――終わりが、どこにも見えない。
ずるり。
背後から、何かを引きずるような音がした。
「来ないで。来ないで、やめて……」
うわ言のように呟いて、只管に走る。
速度はもう上がらない。息が切れ、心臓の痛みに、視界が滲み出す。
足は止められない。止めてしまったら、そこが自分の終わりだ。
ずるり。ずるっ。
引きずる音は決して早くはないのに、それでも離れない。常に同じ距離を保ち、追いかけてくる。
「いや。いや、やだ……あぁ、いやぁ」
くすくす。くすり。
角を曲がり、廊下を走る。
滲む視界では、もうここがどこなのか分からない。
不意に、音が消えた。
笑い声も、引きずる音も。
走る足音も、呼吸音さえも何もかも。
僅かに速度を落とす。角を曲がりながら、そっと背後に視線を向けかけて。
くすり。
耳元に吹き込まれる笑い声に、声にならない悲鳴をあげて、再び果てのない廊下を走り出した。
何度目かの角を同じように曲がる。
同じようにその先に続く廊下を駆け抜けようとして。
目の前の何かにぶつかり、止まった。
「あ、あぁ」
「どうしましたか?」
「私。私、は……水晶が」
穏やかな声音。案内をしてくれた、青年の。
「水晶?」
落ち着かせるように背をさすりながら、青年は背後へと視線を向けた。
気づけば、また背後の音が消えている。
聞こえるのは自身の荒い呼吸音と心臓の音。
息を整えながら、恐る恐る振り返る。
「――いない?」
「えぇ。ここには私とあなた以外には誰も入っていないはずですが」
少しだけ困惑を乗せた青年の声が遠い。滲んだ視界でもはっきりと映るのは、来た時と何も変わらない廊下。
しばらく呆然と見つめていれば、あぁ、と何かに納得した青年の声が聞こえた。
視線を戻し、青年を見る。
小さく頷いた青年が、笑ったように見えた。
「割れたのならば、繋がなければ」
ずるり。
歌うような囁き。背に回る腕が、すべての終わりを宣告する。
ふふっ。
耳元で誰かの忍び笑いがした。冷たい何かが触れる足を掴み、這い上ってくる。
「あぁ、いや……や、ぁ」
「あなたの、その命で」
青年の腕が離れた。けれどもう動けない。
足も、腕も。体のすべてが何かに掴まれ、自分の意思では動かす事が出来ない。
涙を拭われ、視界が鮮明になる。
穏やかな微笑みを浮かべる青年。
そして、水晶のように透明な、見えない何か。
――つかまえた。
青年と目が合う。
――おかえりなさい。
怯えた自分の姿を映した水晶の目が、嬉しそうに歪んでいた。
蝉の声を遠くに聞きながら、女は案内されるままに屋敷の奥へと歩いていく。
時代に取り残されたかのような、広く古い屋敷。丁寧に手入れをされているのだろう。屋敷には傷み一つ見当たらない。
屋敷に来るまでに通り過ぎてきた村もまた、時が止まったかのような古さがあった。不躾ないくつもの視線を思い出し、女の表情が僅かに曇る。
「申し訳ありませんが、私……」
「そのお話は明日に致しましょう。長旅でお疲れでしょうし、帰りの電車は明日にならなければ来ないのです。ですので今日はゆっくりとお休みください」
案内していた青年は、そう言って微笑みながら女を振り返る。
「それに一晩過ごしてみれば、この屋敷が気にいるかもしれませんし」
そう言いながら、青年は奥のある一室の前で立ち止まった。遅れて女が立ち止まるのを見て、戸に手をかける。
「屋敷のすべては、継いで頂けましたらあなたのものとなります。ですが一つだけお願いがあるのです」
静かに戸を開ける。薄暗い室内に足を踏みいれる。
調度品の少ない部屋だ。文机と座椅子、そして奥に飾られている大きな水晶しかない。
水晶は随分と古いもののようだ。内側には無数のひびが入り、周りの景色を歪めて映している。
「この水晶には、くれぐれも、手を触れないでください」
側に寄り、青年は愛おしげに水晶を見つめながら告げる。
「家が壊れてしまうのは、可哀想でしょう?」
歪む景色を映す水晶の中に、膝を抱えて眠る誰かの姿が見えた気がした。
20250702 『クリスタル』