sairo

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遠くへ行きたかった。
どこでもいい。この閉ざされた檻の中から出られるのであれば、どんな場所でも。
何故自分はここにいるのか。いつからいるのかすら、覚えてはいない。
すべてが曖昧に解けてしまうほど時は無常に過ぎ、己から何もかもを奪い去っていく。
己を慈しむ腕の温もりも、慰めの言葉も。
すべては時と共に過ぎ、朽ちていく。

遠くへ、この檻の向こう側へと行けたのならば。
あるいは、この檻の中へと慈悲深い誰かが再び訪れてくれたのならば。

朽ちた数多の幻想を夢見て、目を閉じる。
残された残骸だけが、唯一の慰めだった。



かつん、と音を立て、誰かが石段を降りてくる気配がした。
目を開け、視線を向ける。
淡い期待は、だが降りてくるその姿を認めて、落胆に変わった。
無表情で、冷たい気配を纏った男。
まだ年若い青年に見える彼は、決して己をここから出さない。定期的に訪れては、格子の前の行燈の蝋燭を変え、格子に鎖を巻きつける。己を外に出さぬための封を重ねていく。

「ここから出してくれ」

懇願は冷たい一瞥で、なかった事にされる。
無機質な、ものを見るような目。隠そうともしない嫌悪に濡れた視線に、ただ悲しみだけが込み上げる。

「お願いだ、どうか。どうかもう解放してくれ」

男は答えない。視線を向ける事もなく、黙々と格子に鎖を巻いていく。
変わらない男の態度。最初がいつか記憶にないほどの昔から、この男は変わらない。己に対する態度も、そしてその容姿も何一つ。
縋るように伸ばした腕を、男は歯牙にもかけない。ないものとして扱い、慈悲の一つもかけはしない。

「私が何をした?何故こんな酷い仕打ちを受けなければならない?」

思わず問いかける。答えがないと知りながらも、これ以上覚えのない咎を受け続けるのは耐えられなかった。
だが予想に反し、蝋燭を変え終えた男の動きが止まる。徐に立ち上がりこちらに視線を向けると、無言で指を差した。
己の腕の中にある、慰めの欠片。かつては温もりを与えてくれたそれを指し示され、咄嗟に隠すように抱き込んだ。
この男はささやかな慰めすら否定し、奪うというのか。俯いて、男の無機質な目から逃げ出した。
どうして変わってしまったのか。
ふと、過ぎていく思いに、唇を噛み締めた。

昔はこんな子ではなかった。朗らかに笑い、己の後に付き従う、優しい子であったのに。

疾うの昔に溢れてしまった記憶の残り香が、痛いほどに胸を締め付けた。





薄暗く、不気味なほどに静かな森の奥。
小柄な少年が、道なき藪を掻き分け歩いていた。
その足取りは酷く覚束ない。虚ろに開いた目は、まるで夢を見ているかのようにぼんやりと空を見つめていた。

「ここで何をしている」

不意にかけられた冷たい言葉に、少年は足を止める。

「この先は立ち入り禁止だ。さっさと帰れ」

鋭さを含んだ声音に、少年は体を震わせ目を瞬く。虚ろだった目が焦点を結び、困惑を浮かべながら辺りを見渡した。

「え……ここ。どこ?」
「聞こえなかったのか。早く戻れと言っている」

苛立ちを隠そうともしない声。びくりと身を竦めて視線を向ければ、どうやら声は少年の向かう先から聞こえているようであった。

「えっと、その……」
「来た道を戻ればいいだけだ。死にたくないなら、早く帰れ」
「は、はいっ!」

強い言葉に、少年は慌てて来た道を引き返す。
恐怖に涙目になりながら、何故ここにいるのかを思い出そうと記憶を辿る。だが思い出せるものは何もなく、手がかりを求めて背後を振り返った。

「――あ」

草木に埋もれるようにして、僅かに建物が見えた。
神社にある社のような、小さな建物。見知らぬ山奥。
少年の記憶が、ある一つの言い伝えを思い浮かべる。

――森の奥には、人喰いの鬼が封じられている。

ひっと、恐怖に引き攣る声を溢し、少年は急いで来た道を駆け抜ける。
言い伝えは本当だった。封じられても尚、人を求めて呼ぶ鬼。
声が止めなければ、今頃鬼に喰われていただろう。

涙で歪む視界の中。少年は何度も足を縺れさせながら、紙一重で助かった自身の幸運に感謝した。



少年の姿が去っていくのを見届けて、男はひとつ息を吐いた。
少年が村に戻れば、また鬼の話が広まる事だろう。
複雑な思いを抱えながら、男は踵を返し社へと向かった。
中へと入り、静かに座る。この地下で今も封じられている、村の者が鬼と呼ぶ存在に思いを馳せて目を伏せた。

人を喰らう鬼。
それは正しくもあり、誤りでもあった。
この地下にいるのは、鬼ではない。
遠い昔、憑坐《よりまし》として幼い頃から託宣《たくせん》を受け続けた男の兄の成れの果てだ。
元服を過ぎても憑坐として在ったためか、兄はいつからか奇行を繰り返すようになった。家畜の血を啜り、夜半の頃に幽鬼の如く彷徨い歩く。
そして、最後には人を喰らった。

兄はきっと覚えてはいない。
男だけが覚えている。

じっとりとした熱気が肌に絡みつくような夜の事だった。
兄を止めるため掴んだ手を、逆に引かれた。
兄の美しい顔《かんばせ》と、口から覗く人ならざるモノの牙は、男の記憶に刻まれ消える事はない。
その夜、弟は死んだ。

死んだはずであった。

不意に声が聞こえた。兄の嘆く声。どうして、と繰り返される悲痛な声音。
どうして、と問いただしたいのは男の方だ。

死んだはずの弟は、今のこの見知らぬ男の体で目覚めた。
傍には泣きながら笑う兄。そして、弟の骸。
混乱する男に兄は、託宣に従い死んだ弟に新たな体を与えたのだと言った。
罪の意識など何一つ感じず、純粋に男が目覚めた事を喜んでいた。
その瞬間に、男は悟った。男の敬愛する兄は、もうどこにもいないのだと。
故に、男は父と共に兄を封じた。骨となった弟の骸を抱き、呆然と閉じる格子を見つめる兄。その目は、まるで何も知らない幼子の純粋さを湛えていた。

それから果てのない年月を、男は兄と共に在る。
封を重ね、時折現れる兄の嘆きに呼応した子供らを追い払う。
その繰り返しに、男は疲れていた。
歳を取らぬこの体。鼓動も熱もない、死者の体。
兄はもう、何一つ覚えていない。それが余計に男を苦しめる。

かたり、と音がした。
そろそろ新たに封を重ねなければならない。
しかし男が立ち上がる様子はない。項垂れてかりかりと格子を引っ掻く音と、兄の嘆きを聞いている。

兄は遠くへ行きたいのだと言っている。
ならばそれを叶えてもいいのではないか。
いくら男が追い払えど、その目を潜り抜けて子供は兄の元へ訪れる。束の間の慰めを兄へ与え、最後にはその身を犠牲にする。
完全に封じる事が出来ないのなら、解放しても然程変わらないはずだ。
それに、これが託宣だとしたら。兄の言葉は神の言葉だ。人を絶やす事が、神の意志ではないだろうか。

自嘲して、男はゆるゆると立ち上がる。重い足を引きずって隠し戸を開け、石段を降りる。
男はこの永遠を与えた兄を恨んでいる。だが、同時に兄を慕い続けてもいた。

「ここから出してくれ」

兄の懇願に反応を見せず、男は黙々と封を重ねていく。
横目で伺う兄の周囲には、幾つもの骸の山。そして、その腕に抱かれた、細く白い骨。
兄が男の――弟の骨を手放さぬ限り、男は兄を封じ続ける。
兄に罪を重ねさせない。これ以上、人から逸脱させはしない。
それが、男が兄に対して出来る唯一の事だった。



20250702 『遠くへ行きたい』

7/4/2025, 11:03:08 AM