寄せては返す波音を、時を忘れて聞いていた。
「かえらないの?」
無言で首を振る。
手の中の欠けた貝殻は、何も言わない。
耳に当てても、海の音はもう聞こえなかった。
「――寂しい」
小さく呟いた。
「うん。寂しいね」
静かな声が返る。その優しさが、胸に痛いほど響く。
背中越しに感じる温もりも、今はただ悲しいだけだった。
「どうして?」
誰にでもなく問いかける。
波音に耳を澄ませる。変わらない音。強くはなく、でも胸に響く音。
海を感じながら、そっと耳に貝殻を寄せた。
「どうして、今年は来てくれなかったの?」
何も聞こえない。どれだけ待っても返ってこない。
声を記憶する貝殻。唯一の繋がり。
波音さえ聞こえず、目を伏せた。
「寂しいね」
優しい声が、背中越しに囁く。
その声に、微かに胸が痛んだ。
不意に海風が吹き抜ける。
冷たい潮の匂いが残り、背中越しの温もりがそっと離れていく。
海風がその隙間を通り抜け、冷たさにふるりと肩を震わせた。
寂しさが増す。振り返ろうとして、けれどその前に背後から腕が回され抱きしめられた。
温かい。冷たい海風や貝殻とは正反対なその温もり。
「寂しいよ」
目を伏せたまま、少しだけ泣いた。
「――でもね。それは良い事だよ」
抱きしめる腕が、静かに強さを増す。
痛みはない。けれど、どこか厳しさのある強さ。
「立ち止まっていたのに、前を向けた。動けるようになるのは、とても喜ばしい事だ」
知っている。
声に出さず、呟いた。
動けないのは、悲しいだけ。今が悲しいように。
それでも――。
「寂しい」
理解はしても、胸の痛みはなくならない。
寂しくて、悲しくて。
まだ動けそうになかった。
陽が傾いて、空が茜色に染まっていく。
もうすぐ夜が訪れる。陽は海に沈み、月や星が瞬き出す。
波音は変わらない。何も聞こえない貝殻の代わりに、穏やかに鼓膜を震わせる。
「かえらないの?」
もう一度、問いかけられる。
何も言えず、俯いた。手にした貝殻を見つめ、一つ呼吸をする。
まだ動けない。動きたくない。
でも動かなくてはいけない事は、誰よりも分かっていた。
「――還る」
小さく呟いた。
「良い子」
頭を撫でて、温もりが離れていく。
砂を踏み締める音。俯く視界に手が差し伸べられた。
「還ろうか。一緒に」
顔を上げる。
優しく微笑む姿が、じんわりと滲んでいく。
「うん。一緒に還る」
手にしていた貝殻を手放して、代わりに差し出された手を取った。
白く、透けた手。
しっかりと繋いで立ち上がる。
沈む夕陽を目指し、海へと歩いていく。
見上げれば、茜色から紺色に色を変えていく空。月が昇り、星が瞬く。
「大丈夫?」
問いかけられて、頷いた。
「大丈夫。もう、戻らないから」
ここには戻らない。
波音に耳を澄ませてどんなに待っていても、声は聞こえない。返事は二度と返らないのだから。
待ち人は歩き出した。なら同じように進んでいくだけ。
「ありがとう」
繋ぐ手の温もりに、そっと囁いた。
迎えに来てくれた事。先に逝かないで待っていてくれた事。
手を繋いでいてくれる事。そのすべてがとても尊く、愛おしい。
「どういたしまして」
柔らかな声が返る。それがとても嬉しい。
寄せては返す波が、足を濡らす。還る事を褒めるように、優しく招かれる。
温かな海。穏やかな波音。
手を繋いで、二人還っていく。
海に沈むその瞬間。一度だけ振り向いて。
「さようなら」
二つに割れた貝殻に、別れを告げた。
20250705 『波音に耳を澄ませて』
7/6/2025, 9:59:07 AM