――拝啓
初夏の候、ご健勝のことと存じます。
見知らぬ人から送られて来た手紙には、祖父の家を継いでほしいと書かれていた。
一度も会った事のない祖父。その遺言に、家の事が書かれていたらしい。
興味はなかったが、どちらにしても手続きで一度会いに行かなければならない。調べた住所が県を跨いだ山奥にあるのを見て、思わず嘆息する。
手紙には最寄駅までの切符も同封されていた。
まるで地獄へ導く招待状のように見えて、知らない祖父を密かに恨んだ。
手紙に従い、山奥の無人駅で降りた。
小さくて、古びた駅だ。今も使われている事が信じられないほどには。
降車したのは自分ひとり。
重い溜息を吐き、地獄への一歩を踏み出した。
駅舎の外には、一人の青年の姿があった。
「ようこそ、おいで下さいました」
穏やかな微笑みを浮かべる青年に先導されて、村の奥へと向かう。
昼だというのにどこか薄暗い村には、誰の姿もない。
ただ、周囲の家の中からは、人の気配がする。こちらの様子を窺い、ひそひそと何かを話している。
視線を向ければ、僅かに開いた窓の隙間から誰かの目が見えた。
「お気になさらず。娯楽のない村ですから、新しい人が珍しいのですよ」
僅かに眉を下げ、青年は言う。
目が合った瞬間に、静かに閉じられた窓を見ながら、そうですかと冷たく返す。
それに理解は出来ても、納得はいかない。酷く不快だった。全身に絡みつくような得体の知れない何かに耐えながら、早く帰る事だけを思い足を進めた。
やはり、ここは地獄に違いない。
屋敷は村の一番奥に、ひっそりと建っていた。
「こちらです」
青年の後に続いて無言で歩く。
屋敷の中は、外の暑さが嘘のように涼しく、そして静まり返っていた。道中の好奇な、あるいは警戒の目も感じない。
完全な無人だった。屋敷全体が眠っているようだ。
「誰もいないんですね」
「はい。今は屋敷の管理のため一時的に私も住まわせて頂いておりますが、あなたが継いだ後はあなただけの屋敷となります」
私だけの屋敷。思わず眉が寄る。
大きな屋敷に一人で住むのは現実的ではない。手入れが回らず、仕事にも影響があるだろう。
それに外に出るにも、あの村を通らなければ駅にはつかない。あのいくつもの視線を思い出すだけで、きっと屋敷を出る気も失せてしまうに違いない。
まるで牢獄だ。
屋敷を継ぐ気持ちなど、欠片も湧いてこなかった。
「こちらでお待ちください。お茶の用意をしてきます」
通された部屋は、随分と殺風景な和室だった。
中央に大きめの座卓がある以外は何もない。井草の匂いが漂う和室。
青年を待つ間、どう断るかを考える。
初対面の相手に、はっきりと断れるほどの度胸はない。けれどこのままでは、継ぎたくもない屋敷を継がされてしまう。
頭を悩ませていれば、静かに襖が開き、盆を手にした青年が入ってきた。
「粗茶ですが」
そう言って目の前に置かれたコップには、氷の入った冷茶が注がれていた。
礼を言って、コップに手を伸ばす。随分と喉が渇いていた。無理もない。早朝から電車を乗り継いでこの村に着き、炎天下の中、あの不快な村を通り過ぎて来たのだから。
からん、と涼やかな音を立てる氷に誘われるように口をつける。ほのかな甘みに、つい一気に冷茶を飲み干してしまった。
「道中、お疲れだったでしょう。詳しい説明は明日にして、今日はゆっくりとお休みください」
「え、でも……」
「どちらにしても、電車はもう来ないのです。ですので、今日はこの屋敷でゆっくりとお過ごし頂いて、手続きなどの話は明日行いましょう」
電車がない。その事実に眉が寄るが、何も言わずに新しく注がれた冷茶に口をつける。
密かに溜息を吐いて、帰れぬ事にどこか漠然とした不安が込み上げるのを感じていた。
ふと、目が覚めた。
見慣れぬ天井に、一瞬どこにいるのか分からず混乱する。
体を起こし、辺りを見渡した。薄暗い、殺風景な和室。文机と座椅子、そして奥に飾られた大きな水晶を見て、夕飯後に案内された部屋なのを思い出す。
深く溜息を吐いた。あの後、結局夕飯をご馳走になり、そのまま泊まる事になってしまった。
親切な青年は、自分がこの屋敷を継いでくれると思って疑っていない。その事が余計に心を重くさせる。
この屋敷を継ぎたくはない。だがそれを、あの青年に伝えるのは、悲しませてしまう気がして今日は何も言えなかった。
どうすればいいのか。悩み彷徨う視線が、何気なく水晶を向く。
大きな水晶。澄んだ美しさを湛えるこのクリスタルは、けれどその内側に無数のひびを宿しているのを知っている。
布団を抜け出し水晶に近づきながら、青年の言葉を思い出す。
――この水晶には、手を触れないでください。
確かに下手に触るとひびが広がり、割れてしまいそうだ。触れてほしくない理由は分かる。だが、ならばしまっておけばいいという疑問の答えは、理解が出来なかった。
――水晶は家ですから。家をしまうなど、おかしいでしょう?
水晶が家。この屋敷の象徴という事だろうか。青年は詳しく語らず、部屋を出てしまったため、それ以上詳しくは聞けなかった。
「水晶は、家……」
呟いて、手を伸ばす。
もしも、水晶が割れてしまったのなら、この屋敷も同じように壊れてしまうだろうか。そうなれば、屋敷を継ぐ事なく自分の家に帰る事が出来るのではないか。
くだらない妄想に、思わず苦笑する。水晶に触れる寸前で手を止め、指先で撫でるふりをして戻した。
明日、青年に直接屋敷を継ぐ意思がない事を伝えよう。
そう心の中で決意して、もう一眠りするため立ち上がった。
ぴしり、と。
微かな音に、身を強張らせた。
恐る恐る、水晶へと視線を向ける。暗がりの中でも、何故かはっきりと見える水晶。内側に走る無数のひびとは違う、外側に新しく走ったひびに息を呑んだ。
ぴしり、ぱきっ。
呆然と見ている目の前で、次第にひびは大きくなっていく。
泣きそうなほど歪んだ自分の姿を無数に映し、広がるひびがそれを砕いていく。
そして――。
ぱきん、と。
いっそ儚い音を立てて、水晶は粉々に砕けてしまった。
くすくす。
どこからか、笑い声がした。
「――っ、誰?」
視線を巡らせても、誰の姿もない。
くすり。くすくす。
笑い声が室内に響く。
数を増やし、反響して、密やかな笑い声は次第に大きな嘲笑へと変わっていく。
咄嗟に部屋の出口に向かい駆け出した。開け放たれたままの戸を抜けて、家の外へと向かう。
「いやっ、なんで……?」
しかしどんなに廊下を進んでも、出口が見えてこない。
角を曲がる。走る。そしてまた角を曲がり。
くすくす。
おかしい。何故、角を何度も曲がっているのか。
何故、こんなにも廊下の先が長いのか。
同じくような景色。同じ角。同じ道。
出口が――終わりが、どこにも見えない。
ずるり。
背後から、何かを引きずるような音がした。
「来ないで。来ないで、やめて……」
うわ言のように呟いて、只管に走る。
速度はもう上がらない。息が切れ、心臓の痛みに、視界が滲み出す。
足は止められない。止めてしまったら、そこが自分の終わりだ。
ずるり。ずるっ。
引きずる音は決して早くはないのに、それでも離れない。常に同じ距離を保ち、追いかけてくる。
「いや。いや、やだ……あぁ、いやぁ」
くすくす。くすり。
角を曲がり、廊下を走る。
滲む視界では、もうここがどこなのか分からない。
不意に、音が消えた。
笑い声も、引きずる音も。
走る足音も、呼吸音さえも何もかも。
僅かに速度を落とす。角を曲がりながら、そっと背後に視線を向けかけて。
くすり。
耳元に吹き込まれる笑い声に、声にならない悲鳴をあげて、再び果てのない廊下を走り出した。
何度目かの角を同じように曲がる。
同じようにその先に続く廊下を駆け抜けようとして。
目の前の何かにぶつかり、止まった。
「あ、あぁ」
「どうしましたか?」
「私。私、は……水晶が」
穏やかな声音。案内をしてくれた、青年の。
「水晶?」
落ち着かせるように背をさすりながら、青年は背後へと視線を向けた。
気づけば、また背後の音が消えている。
聞こえるのは自身の荒い呼吸音と心臓の音。
息を整えながら、恐る恐る振り返る。
「――いない?」
「えぇ。ここには私とあなた以外には誰も入っていないはずですが」
少しだけ困惑を乗せた青年の声が遠い。滲んだ視界でもはっきりと映るのは、来た時と何も変わらない廊下。
しばらく呆然と見つめていれば、あぁ、と何かに納得した青年の声が聞こえた。
視線を戻し、青年を見る。
小さく頷いた青年が、笑ったように見えた。
「割れたのならば、繋がなければ」
ずるり。
歌うような囁き。背に回る腕が、すべての終わりを宣告する。
ふふっ。
耳元で誰かの忍び笑いがした。冷たい何かが触れる足を掴み、這い上ってくる。
「あぁ、いや……や、ぁ」
「あなたの、その命で」
青年の腕が離れた。けれどもう動けない。
足も、腕も。体のすべてが何かに掴まれ、自分の意思では動かす事が出来ない。
涙を拭われ、視界が鮮明になる。
穏やかな微笑みを浮かべる青年。
そして、水晶のように透明な、見えない何か。
――つかまえた。
青年と目が合う。
――おかえりなさい。
怯えた自分の姿を映した水晶の目が、嬉しそうに歪んでいた。
蝉の声を遠くに聞きながら、女は案内されるままに屋敷の奥へと歩いていく。
時代に取り残されたかのような、広く古い屋敷。丁寧に手入れをされているのだろう。屋敷には傷み一つ見当たらない。
屋敷に来るまでに通り過ぎてきた村もまた、時が止まったかのような古さがあった。不躾ないくつもの視線を思い出し、女の表情が僅かに曇る。
「申し訳ありませんが、私……」
「そのお話は明日に致しましょう。長旅でお疲れでしょうし、帰りの電車は明日にならなければ来ないのです。ですので今日はゆっくりとお休みください」
案内していた青年は、そう言って微笑みながら女を振り返る。
「それに一晩過ごしてみれば、この屋敷が気にいるかもしれませんし」
そう言いながら、青年は奥のある一室の前で立ち止まった。遅れて女が立ち止まるのを見て、戸に手をかける。
「屋敷のすべては、継いで頂けましたらあなたのものとなります。ですが一つだけお願いがあるのです」
静かに戸を開ける。薄暗い室内に足を踏みいれる。
調度品の少ない部屋だ。文机と座椅子、そして奥に飾られている大きな水晶しかない。
水晶は随分と古いもののようだ。内側には無数のひびが入り、周りの景色を歪めて映している。
「この水晶には、くれぐれも、手を触れないでください」
側に寄り、青年は愛おしげに水晶を見つめながら告げる。
「家が壊れてしまうのは、可哀想でしょう?」
歪む景色を映す水晶の中に、膝を抱えて眠る誰かの姿が見えた気がした。
20250702 『クリスタル』
7/3/2025, 4:48:39 PM