sairo

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誰もいない廃校舎の中を、自由気ままな風が吹き抜ける。
廊下を過ぎ、教室の戸を叩き中に入り込めば、今度は机や椅子を揺らし窓を鳴らして去っていく。
まるで誰もいなくなってしまった事を悲しむように。
誰かに自身の存在を気づかせるように。
風はくるりと渦を描き、音を鳴らして吹いていく。



「本当に行くの?」

前を行く彼女に、何度目かの問いを繰り返す。

「しつこい。嫌ならさっさと帰ればいい」

冷たく返され、小さくごめんと呟いた。
溜息を呑み込んで、目の前の廃校舎へ視線を向ける。
ひっそりと佇む小さな木造二階建ての校舎には、ある噂があった。

――真夜中。屋上にある風見鶏が青に染まる時、風と共に失くしたものが戻ってくる。

誰が言い始めたのかは分からない。いつの間にか学校内で広まって、実際に忍び込んだ生徒も何人かいる。
けれど屋上に行けたという生徒の話は聞かない。風見鶏を見つけ、失くしたものが戻ったという話も、当然聞く事はなかった。

「風見鶏なんて、本当にあるのかな?」
「なかったら、噂なんて広まらないでしょ。風見鶏なんて、学校に普通はあるはずないんだから」

確かに。校門を越えながら、そう思う。
本やテレビでしか見た事のない、風見鶏。噂がなければ、もしかしたらその存在なんて気にも留めなかったに違いない。

「昇降口が閉まってたらどうする?」
「中に入った生徒がいるんだから、どっかに入れるとこはあるでしょ」

そう言って彼女は足早に校庭を抜けていく。近づく校舎の黒々とした姿は、その内側に得体の知れない何かが潜んでいるようで怖ろしい。思わず足が竦むも、彼女は気にせず進んでいく。
広がっていく彼女との距離。このまま逸れてしまう事を怖れて、震える足を無理矢理動かし、彼女の後を追いかけた。



校舎の中はしんと静まりかえり、彼女と自分の立てる足音がやけに大きく響いていた。

「屋上、誰も行った事がないって話だけど」

中に入ってから、彼女は何も答えない。スマホのライトだけという僅かな灯りだけを頼りに、彼女は迷う事なく足を進めていく。
彼女は、ここに来た事があるのだろうか。ふと疑問が込み上げる。
そもそも彼女がここに来た理由を知らない。
何かを失くしてしまったから、噂を頼りにここに来たのだろうけれど。その失くした何かを、彼女は話してくれなかった。
角を曲がり、階段を上る。上る度にぎいぎいと嫌な音を立てる階段に、身を竦めて先を行く彼女の背中を見た。
引き留めるべきかもしれない。床が抜けて落ちてしまったら怪我をしてしまう。

「ねぇ」

引き留めようと声をかける瞬間。
二階から風が吹いてきた。
強い風。思わず目を瞑る。頬を髪を撫でて去って行く風は、何だか楽しそうに笑っている気がした。
一瞬で去った風にほっと息を吐いて、今度こそ彼女を引き留めようと上を見る。

「――え?」

だけどそこに彼女の姿はない。
慌てて階段を駆け上がる。ぎしぎし軋む音に、でも今は気にしてなどいられなかった。

「どこ?」

二階について辺りを見渡す。
近くに姿は見えない。スマホのライトでは遠くまでは見渡せない。

「どうしよう……」

一人の心細さに、忘れていた恐怖が込み上げてくる。
戻る事も先に進む事も出来なくて、途方に暮れて立ち尽くした。



「あれ?」

さっきまでいたはずの友人の姿が見えない事に気づき、少女は立ち止まり背後を振り返る。
スマホのライトを翳しても、近くに人影は見えない。声も、床を軋ませて歩く音も聞こえず、少女の眉間に皺が寄った。
前を向き直し、歩き出す。広くはない校舎だ。それに臆病な友人が、一人で動き回る可能性は低い。
二階に上がる階段の途中までは一緒だった。ならばきっと、怖くて二階に上がれず立ち止まっているに違いない。
今の少女には、友人と合流するため戻るよりも、屋上への階段を探す事の方が余程重要だった。
廊下の端まで向かい、壁に触れる。少女の通う学校とは異なる、木造のどこか柔らかい感覚。少女は何かを探るように壁を見据え、辿っていく。
不意に、少女の指が壁に沈んだ。少女はそのまま手を、腕を沈め、壁の向こうへと抜けていく。
そこには屋上へと続く階段が、静かに佇んでいた。

「あった」

僅かに笑みを浮かべ、少女は躊躇なく階段へと向かうと、そのまま駆け上がる。屋上へと続く扉に飛びつくと、力の限り押し開けた。

「風見鶏……」

暗い屋上。フェンス中央の上に取り付けられた風見鶏が、湿った生ぬるい風を浴びてくるりと向きを変えていた。
逸る心を抑え、少女はゆっくりと風見鶏に近づく。期待に満ちた、祈るような面持ちで、どうかと小さく呟いた。
不意に風が吹いた。
少女の背後。校舎の中から吹いた風は、少女の髪を揺らして風見鶏に纏わり付き、くるくると向きを変えていく。
くるくる回る度に風見鶏の色が変わる。鈍色が深い青へと染まっていく。
そして完全に青へと色を変えた時、風は勢いをなくして地に下り、風から人へと姿を変えた。
少女の友人によく似た、少年の姿に。

「――っ!」

息を呑み、少女は駆け出した。ぼんやりと佇む少年に抱きつき、嗚咽を零す。

「っ、ごめん。ごめんなさいっ!」

首を傾げ困惑する少年は、少女が何故謝っているのかがわからないのだろう。少女の友人や、周囲と同じ。記憶が欠落している。

「私、私が、置いていったから……皆、忘れて……」

泣きながら少女は懺悔した。一年前の罪を告白する。

一年前、少女はクラスメイト達と肝試しにこの廃校へと訪れた。
その中には、友人も目の前の少年もいた。皆、怖がりながらも校舎内を探検し、楽しく談笑していた。
楽しい思い出になるはずだった。
それが変わったのは、屋上へ出た時だ。
きいきいと鳴る風見鶏。それに混じり、誰かの笑い声が聞こえた。
風が頬を撫で、耳元で誰かが囁く。何を言っているのかは分からない。ただ楽しげな幼い子供達の笑い声が、確かに聞こえた。
そこからは皆、恐怖でパニックになった。一目散に校舎内へ戻り、我先にと校内を出る。
廃校から離れて、いくらか落ち着きを取り戻した時、そこに少年の姿はなかった。
置いていってしまったのだと少女は気づいた。けれど気づいたのは少女一人だけ。他の誰もが気づかなかった。
正確には、誰の記憶からも少年の存在が抜け落ちていた。
肝試しに行ったクラスメイトは誰一人、少年の双子の妹である友人ですら、少年の事を覚えてはいなかった。
少女一人だけ。ただ一人、少年の事を忘れず記憶して。
そうして一年後、ようやく少年を迎えに来れた。
失くした少年という欠落を戻す事が出来たのだ。

「――帰ろう。今度こそ、一緒に」

泣きながら呟く少女に、少年は困惑しながらも頷いた。





「――あれ?」

校門を過ぎて、少女は違和感を覚え立ち止まる。
振り返り見る校舎は、変わらず暗く、沈黙を保っていた。

「どうしたの?」
「何か、忘れているような……?」

思い出せない欠落に、少女は眉を寄せ呟いた。
何かを忘れている。だがそれが何かを思い出せない。
不意に過ぎた風が、控えめに少女の服の裾を揺らす。そのまま校舎へと向かう風に、思わず少女は手を伸ばし。
消えていく風に、少女の目から一筋涙が零れ落ちた。

「――戻らなきゃ」
「戻る?誰か、まだあの校舎にいるの?」

少年の言葉に少女は頷きかけて、硬直する。
何も思い出せなかった。廃校に来た時、一人ではなかった気がするのに、一人だった記憶しかないその差異が、少女を苦しめる。

「誰か、いたの。確かに……あなたの……双子の妹」

控えめで、臆病な。大切な、友人だった。
しかし少年は眉を寄せ、少女の言葉に首を振る。

「俺、一人っ子だよ……双子って……妹なんていないよ」

否定の言葉に、少女の記憶に僅かに残っていた輪郭が解けて消えていく。

「――そっか。そうだった……ごめん、何か勘違いしてた」

行こう、と廃校に背を向け、少女は歩き出す。
痛む胸と頬を伝う滴は、恐怖と安堵からくるものだと、自身に言い聞かせ。
そして二度と振り向く事はなく。
少女はそれからを、欠落を抱えながら生きていく事となった。





控えめに過ぎる風が、服の裾を揺らす。

「おはよう」
「あ。おはよう」

振り返れば、片手を上げて挨拶をする少年の姿。
それに挨拶を返しながら、少女は意味もなく胸が苦しくなる。
一人足りない。何故か感じる欠落に、少女は寂しさと共に後悔を抱く。
苦しくて耐えられず、一度失くしたものが戻るという廃校を訪れた事があった。
しかしそこに廃校はなく。人工的に開かれた空間が、かつてそこに校舎があった事を示していた。
古く、傷みの激しい校舎に、噂を信じて入り込む人が多いため、安全のために取り壊してしまったのだという。
何もない空間に、少女は絶望した。二度と戻らない欠落に泣いて、それから誰かと関わる事を少しだけ畏れるようになった。

「数学の課題、終わってる?」
「う、うん……終わってるけど」
「じゃあ、見せてくれない?昨日、すっかり忘れて寝ちゃってて」

申し訳なさそうに頼む少年の髪を、ふわりと風が揺らす。それに気づいて、少年は風が吹いた場所に視線を向けて僅かに眉を下げた。

「どうしたの?」
「あ、いや。何でもない。ちょっと風に起こられただけ」

苦笑する少年は、さらに髪を乱す風に触れるかのように手を伸ばす。見えない何かを撫でる仕草をすれば、次第に風は少年の髪を乱さなくなる。
時折見せるようになった少年の仕草。それを少女は羨ましく思う。
理由は分からない。ただ少年のように風に触れたいと切望して、苦しくなる。
苦しくて切なくて。もしもあの時引き返していたら、と記憶にない後悔に苛まれるのだ。

「急ごう。このままだと遅刻する」
「――そうだね」

少し先を行く少年を追って、少女も歩き出す。
少年の髪を、服を揺らす風。彼と共にある風が、気まぐれに少女の服を揺らすのを感じる度に。

そのまま手を繋いで、二度と離したくないと。
強く、願った。



20250704 『青の風』

7/5/2025, 12:17:09 PM