幼い頃。忘れられない夏の始まりの記憶。
陽射しが燦めく午後、大きくて綺麗な鳥に出会った。
夏の色をした不思議な鳥。見る角度や光の加減で、空のような深い青にも、陽射しのような金色にも見える翼。
気まぐれに羽ばたく度に、周りの空気さえ色を変えているように見えた。
鳥は何でも知っていた。時々意地悪だけど、どんな拙い質問にも笑って答えてくれた。
あまり外には出られない自分にとって、鳥の話が世界のすべてだった。
だからだろう。いつしか鳥に、憧れを持つようになったのは。
もしも自由に飛べたのなら。鳥と共に望む場所にいけたのならば。
一度思ってしまえば、憧れてしまえば止まらない。
だから、望んでしまったのだ。
「ねぇ。あなたの羽根を、一枚ちょうだい?」
鳥に近づきたかった。繋がりが欲しかった。
再び鳥が空へ飛び去って、一人になっても寂しくないような、そんな思い出が欲しかった。
「――羽根が欲しいのか?」
一瞬だけ目を見張り、鳥が尋ねる。
いつもとは違う、怒っている訳ではないけれど、何かを抑えているような声音。
怖くなって否定しようとする前に、鳥は翼を広げ一枚の羽根を毟り取った。
翼の中で、一番綺麗な羽根。
毟った羽根を鳥は器用に嘴で咥え、髪に挿す。小さく鳴き声を上げる鳥の声を聞きながら、そっとそれを手に取った。
「ありが、とう」
「どういたしまして」
冷たい声。冷たいのに、絡みついてくるような響きに思わず俯くと、鳥は顔を寄せた。
「大事にしてくれ。それはオレの風切羽なんだから」
耳元で囁かれた言葉に、驚いて顔を上げ鳥を見た。
陽のように燦めいていた金の目が、どろりと色を溶かして自分を見つめていた。
「これで、オレは飛べなくなった。空には帰れない」
冷たかったはずの声も、溶けていく。
怖ろしいほどに優しく、歌うように囁いた。
「嬉しいか?お前が望んだから、オレは空を捨てた……その責任を取ってくれ」
鳥が甘えるような鳴き声を上げる。
罪を突きつけられて動けない自分の頬に、擦り寄った。
「私……私、そんなつもりじゃ……」
否定の言葉は、途中から勢いをなくして消えていく。
「だがお前は望んだ。羽根が欲しいと言っただろう」
責め立てる声は、何故か優しい。甘く絡みつくような優しさ。
鎖のように巻き付いて、許さないと締め付ける。
「責任を取ってくれ。空から落ちたオレは、お前の側にいるしかない。だから一生をかけて、オレに尽くしてくれ」
大きな翼に囲われて、何も見えなくなる。
ここは牢屋。罪を犯した自分のいるべき場所。
「うん……ごめんなさい」
手の中の羽根を抱きしめて、小さく頷いた。
その時からずっと、鳥は側にいる。
自分にしか見えない、不思議な鳥。
意地悪で、優しくて。残酷な罪の色をした鳥が、鎖を繋いで離れない。
朝露を小皿に集め、鳥に差し出す。
「もういいの?」
「あぁ。もう十分だ」
朝露を一口。たったそれだけで、鳥の食事は終わる。
夏の色をした翼を鳥は広げ。それが意味する事を察して、小皿を片付け、代わりにタオルと洗面器を持ち鳥に近づく。
「冷たくない?」
「いや。これくらいがちょうど良い」
洗面器に張った水に浸したタオルを絞り、鳥の翼を拭いていく。深い青が、タオルで拭けば煌めく金色に色を変え、その美しさに目を細めた。
思わず触れてしまいそうになって、誤魔化すようにタオルを水に浸す。水の冷たさにそっと息を吐いて、自分自身に言い聞かせる。
――私が、この綺麗な鳥から空を奪った。
あの日鳥からもらった羽根は、紐を通して首から提げてある。あれからずっと、手放した事はない。
これ以上求めてはいけない。空を奪ってもまだ、欲しがるのは駄目な事だ。
こうして鳥の側で求められるままに世話を行うのは、それが自分の罰だからだ。
勘違いをしてはいけない。自分は許されてなどいない。
タオルを軽く絞って、顔を上げる。けれど鳥はもう翼をたたみ、窓の外を見つめていた。
金の瞳が、陽射しを反射して燦めいている。何も言わずに空を見つめているその表情に、胸が苦しくなって耐えられず目を逸らした。
「――片付けてくる」
洗面器や小皿を纏め、立ち上がる。
着いてくるだろうかと淡い期待をして、ゆっくりと扉へ向かった。
「そんなに嫌か」
部屋を出る直前、鳥が静かに呟いた。
冷たい声音。期待していたものをすべて否定する、低い声。
びくりと肩を震わせて、振り返り鳥を見た。
「お前が望んだのに。逃げだしたいほどに嫌なのか」
「待って。それって、どういう……?」
「嫌なんだろう?羽根は欲しがる程に好きでも、オレの事は嫌いなようだ」
何を言っているのだろう。言っている意味が少しも分からない。
夏の陽射しを反射した金の眼。鋭い視線を向けられて、胸が苦しくなる。
「そんな事、ない」
首を振る。そんな事、一度も思った事はなかったのに。
何故鳥は、そんな残酷な事を言うのだろうか。
しかしその否定は鼻で笑われる。怒りに濁る目をして、鳥は冷たく吐き捨てる。
「あるだろ。あれからお前は笑わなくなった。いつも俯いて、辛気くさい顔ばかりする」
息を呑んだ。
言われてみれば、鳥に羽根を貰ってからは笑った事がなかった気がする。心配する両親に作る笑いを浮かべる事はあっても、自然に笑う事はなかった。
でもそれは決して、鳥が嫌いだからではない。
「違う。違うの」
どう言えば伝わるのか。
引き返して、机に洗面器と小皿を置きながら考える。しかし何一つ答えは浮かばず、悩みながらも鳥に近づいた。
「だって、私……」
「もういい」
ただ一言。
無感情に呟いて、鳥は視線を逸らし大きく翼を広げた。
軽く羽ばたけば、部屋の中で風が舞う。鳥が外に向き直るのを見て、弾かれたように駆け寄った。
「待って……!」
「少しでも夢を見たオレが、間違ってた」
飛んでしまう。
このまま遠くへ。そして二度とここに戻る事はない。
それが怖くて、必死に鳥に縋りついた。
「やだ。お願い、行かないで」
鳥は何も言わない。広げた翼はたたまれず、でもそれ以上羽ばたく事もなく。
怖さと期待が胸の中で渦を巻いて、苦しくて涙が溢れ出す。
「行かないで。私、何でもする。側にいてくれるなら、何だってするから」
「――なら、落ちてみせろ」
ばさり、と大きな翼で包まれ、何も見えなくなる。
「落ちろ。オレと同じ所まで落ちてこい」
低い呟き。どうすればいいのか分からず、動けない。
「どうやって?」
どうすれば鳥と同じ所に落ちる事が出来るのか。
そう問いかければ、鳥は優しく鳴き声を上げた。
「オレを好きになればいい」
好き。
その言葉に、体を離し顔を上げた。
翼をたたんだ鳥が、顔を寄せる。金の目に映る自分の顔は真っ赤だ。恥ずかしくなって視線を逸らそうとするが、鳥はそれを許さない。
「オレは、お前に恋をして空から落ちた。お前がオレに空を捨てさせたんだ。責任を取って、オレを愛して側にいろ」
真剣な声に、思わず首から提げた羽根を抱きしめた。
上手く声が出ない。答えなければと焦るほど、何も言えなくなってしまう。
鳥は静かに待っている。あの日のように金の目がとろりと色を溶かし出す。
その色は、甘い恋の色だ。
「あ、私……私も」
羽根から手を離し、腕を伸ばす。
鳥の首に抱きついて、頬を寄せた。
「最初から私も……恋に落ちてる」
消え入りそうなほど小さな声で答えれば、鳥はまた甘い鳴き声を上げた。
昔々。ある所に、一人の少女がおりました。
体が弱く、滅多に外には出られない少女は、窓から見える空だけが世界のすべてでした。
ある日の事。いつものように少女が空を見上げていると、大きな鳥が現れて少女にたくさんの事を教えてくれました。
空の事。風の事。鳥が見てきた世界の事。
夏の色をした綺麗な翼を持つ鳥に、少女は次第に淡い恋心を抱きます。
幼さ故に恋を恋と自覚出来ぬまま、少女は鳥に言いました。
「あなたの羽根を、一枚ちょうだい?」
鳥は驚きましたが、すぐに自身の羽根を毟り少女に与えました。
鳥もまた純粋な少女に恋をしていたのです。
しかし、鳥は思いの伝え方を知りませんでした。求愛の鳴き声も、人である少女には伝わりません。人を知らない鳥は、ですから少女への言葉を誤ってしまったのです。
「責任を取ってくれ。空から落ちたオレは、お前の側にいるしかない。だから一生をかけて、オレに尽くしてくれ」
鳥の言葉は、精一杯の求愛の言葉でしたが、少女にとっては自身の罪を突きつけられた言葉でした。
そこから一人と一羽の思いはすれ違いながら、共に暮らし始めました。
すれ違いによる苦しさを抱き、それを告げられず。
すれ違いの果てに、少女と鳥はようやく思いを伝え合いました。
空に恋をした少女と、恋をして空から落ちた鳥。
それからの少女と鳥がどうなったのか。そもそも一人と一羽の関係を、誰も知りませんでしたから、知る術はありません。
ですが体が弱く、長く生きられなかった少女が亡くなった後の事。
少女の住んでいた街では、時折不思議な色をした番の鳥の姿が見られる事があるそうです。
青のようで、金色のような。あるいは白のような、夏の色を思わせる二羽の鳥。
仲睦まじく寄り添う鳥が落とした羽根は、その街では恋のお守りとして大切にされています。
20250706 『空恋』
7/7/2025, 5:10:04 PM