sairo

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青い短冊を抱きしめ、神社の石段を駆け上がる。
神社の奥。毎年七夕の季節になると、一本の立派な笹が飾られる。
そこに願い事を書いた短冊を吊すのが、毎年恒例の行事だった。
一番上に辿り着き、乱れた呼吸を整える。月明かりに照らされた境内の奥で、笹や短冊が風に揺れている音が聞こえた気がした。
慎重に、音を立てないように奥へと進む。やがてぼんやりと笹の影と、側で佇む人影を認めて立ち止まった。
向きを変えて、境内の脇へと足を踏み出す。彼に見つからないように、ひっそりと。

「無駄だと何回言えば分かるんだ。石段を上がっている時から気づいていたぞ」

呆れたような、笑いを含んだ声がして、ぎくりと体が固まった。動けないでいると、手の中の短冊が風もないのに震え出す。そしてそのままふわりと浮かび、奥の彼の方へと向かっていった。

「ちょっと!返してよ」

慌てて短冊を追いかけ、彼の方へと向かう。
短冊を手にした彼は笹に吊し、少しだけ眉を寄せたのが暗がりでもしっかりと見えた。
深い溜息。呆れるのも仕方ない。短冊には何も書かれていないのだから。
正しくは見えないように書かれている、だけれども。

「願いを叶えてもらいたいのに、読まれないようにする意味はあるのか?」
「目の前で読もうとする方が悪い」
「読まなきゃ、願いが分からないだろう」

確かに、と理解は出来るが、納得は出来ない。
初めて出会った時から繰り返してきたやり取りに、今更言い募るつもりはないのだろう。こちらを一瞥して短冊に向き直った彼は、そっと何も書かれていない表面を撫でた。

「まったく。無駄だと何度言えば理解するのか」

撫でた先から文字が浮き上がる。少し焦げたような文字。図書室に通い詰めた努力がすべて無駄になって、驚きから落胆に肩を落とした。
見られたくなかったのに。特に今年の短冊は。
俯いていれば、小さく息を呑む音がした。顔を上げて彼を見る。
初めて見る彼の驚いた表情。何をしても呆れるだけだった彼の貴重な顔を見て、少しだけ気分が向上する。

「意味が分からん」

眉を寄せてこちらを見る彼が、短冊の文字をなぞる。

――七夕に願いを叶えてくれる誰かの願いが叶いますように。

今年の願い事。最後くらい、いつも文句を言いながら願いを叶え続けてくれた彼のために願い事をしたかった。
私は来年、ここを出て海の向こうへ行く。私の意思ではない。家族が勝手に決めた事だ。
留学などと家族は周りに話しているが、まったくのでたらめだ。両親が作った借金。その返済に、娘である私を売った。
良くある話。どうする事も出来ない未来。
彼に二度と会えない事だけが、唯一の心残りだった。

「私、大人になるの。来年からは願い事なんてしないから、今までありがとうの気持ちを込めただけよ」

視線を少しだけ逸らして嘯いた。
彼にも、自分自身にも嘘を吐く。寂しさも怖さも、逃げ出したい気持ちも何もかもを誤魔化して、無理矢理笑ってみせた。

「――そうか」

彼は小さく呟いて、短冊を裏返した。
見えなくなった願い事。この願いは叶えないという意思表示。
予想はしていた。仕方がない事と言い聞かせて、くるりと彼に背を向けた。

「じゃあね。今までありがと」

挨拶は簡単に。顔を見てしっかりと別れを告げれば、きっと泣いてしまうだろうから。
歩き出そうとして、右手が何かに引かれた。視線を落として見つめれば、手首に巻き付く銀の糸。

「何これ?」

糸を引いても解けない。どこから、と視線で辿れば、どうやら彼の着物の裾から糸が伸びているらしい。

「ねぇ、これ」
「思いもしない事を願うな。すべては無駄だ。裏を見れば心の内が晒されるのだから……本当に、何度言っても覚える気がないのだから、困ったものだ」

疲れたように長い溜息を吐かれた。彼にはこの糸が見えていないのだろうか。
力任せに引いても千切れず、結び目も見当たらない。
助けを求めても、彼は欠片も気にする様子はなく。

「誤魔化しているのか、諦めているのか……どちらだとしても、本心を書かなければ意味がない」
「ねぇ、ちょっと」
「子供は子供らしく、素直に助けを求めれば良いだろうに」

困惑する私に見せつけるようにして、彼は短冊の裏を一撫でする。
浮かび上がる文字。
赤い震えた一言を見て思わず目を見張り、泣くのを耐えて俯いた。

――逃げたい

たった四文字。
誤魔化して、諦めた振りをしても、消えなかった事。
それは私の、本当の願いだった。

「な、んで……」
「何も考えず願いを叶えている訳ではないと、最初に言っただろうに。嘘偽りや欲に塗れた願いまで叶えてやるほど、俺は暇ではない」

糸が引かれた。今度は右足に絡みついた糸が彼の方へと強く引き、自然と足が前に出る。
意味が分からない。幼い頃の事なんて、ほんの僅かしか覚えていない。

「だが、せっかくの願い事だからな。叶えさせてもらおう……お前は子供のまま、俺と共に願いを叶える手伝いをする。家にも帰れず、ここを離れる事も出来ない」

新しく左足に絡みついた糸が、足を進ませる。
俯く視界が彼の足を認めて、ゆっくりと顔を上げていく。

「お前はこれから、俺に隠される。だが、逃げる先に死を選ぶのと、然程変わらんだろう。否、お前にとっては隠される方が本望か……最初の願い以降は、ずっと俺のために背を伸ばし、綺麗になりたいと願っていたのだからな」

意地悪く笑う彼が、頭を撫でる。ぐしゃぐしゃと、髪の毛を乱していく。
きっと私の顔は真っ赤になっている事だろう。恥ずかしくて逃げたいのに、体が動かない。
一緒にいたい。離れたくない。逃げたい気持ちと正反対な気持ちが、ぐるぐると回り出す。

「さて、仕事に精を出すか。主人のように、年に一度の逢瀬しか許されないのは耐えられん」

頭を撫でるのを止めた彼が、今度は私の右手を取った。巻き付く銀の糸を解いて、それに合わせて両足の糸も解けて彼の手に収まる。
目の前で糸が互いに絡み合い、編み込まれていく。やがて一枚の燦めく銀の衣になって、彼はそれを私に羽織わせた。

「行くぞ。仕事の内容は忘れてくれるなよ?」
「仕事……?」
「そうだ。この年に一度の願いを叶えにいく」

手を差し伸べられる。その手を取れば、ふわりと体が浮き上がった。

「今年は俺の側にいるだけでいい。手を離すなよ」

彼に手を引かれ、夜空を舞う。強い風が笹や短冊を揺らし、水の流れのような音を奏でていく。
繋いだ手を握り、彼の側に寄った。初めて空を飛んだ事に対する不安もあったが、それより今は彼の目から逃げたかった。
恥ずかしい。嬉しい。怖い。幸せ。たくさんの感情が溢れて、落ち着かない。彼の優しい眼差しが、さらに落ち着かなくさせる。

「願った事を、後悔しているのか」

問いかけられて彼を見上げた。
首を振る。初めて会った時から彼に恋をしていた私には、泣いてしまいそうなくらいに幸せな事だ。
笑顔を浮かべて、彼の手を引いた。近づく彼に抱きついて、そっと囁く。

「ありがとう――大好き」

伝えれば、彼も優しく微笑んで。

「俺もだ」

抱きつく私の額に、そっと口づけをくれた。



20250707 『願い事』

7/8/2025, 2:26:01 PM