sairo

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突き刺すような強い陽射し。蝉時雨が響き渡る。
無人の集落の道を、少年は一人歩いて行く。

昨日、この集落の最後の住人だった男の葬儀が終わった。普段は寂れた集落も、その日ばかりは子や孫達で賑わい、何かと忙しなく行き交っていた。
だが葬儀が終わり皆集落を出れば、辺りはひっそりと静まりかえっている。
聞こえるのは風に木々が騒めく音と、虫や獣の声ばかりだ。

雑草の茂る道なき道を進んでいく。
目指す先、集落の中で唯一まともに形を留めている家があった。最後の住人の住んでいた家。その前に、人影があった。

腰の曲がった痩せ衰えた老人。ぼんやりと家を見つめる老人に、少年は破顔して声をかける。

「久しぶり。随分と年を取っちまって、立派な爺になったな」

ゆっくりと振り返る老人は、少年の言葉に顔を顰め。気に入らないとばかりに睨み付けた。

「来るのが遅い。また迷子になったな、お前」
「仕方ない。何もかも変わっちまって、ここまで辿り着けたのが奇跡のようなもんだぞ。むしろ褒めてくれたっていいくらいだ」

肩を竦めて少年は老人に歩み寄る。
手を差し出す。手を取ると疑わない目をする少年に、老人はひとつ溜息を吐き。

「――痛ぇっ!」

その手を強く叩いた。

「ひでぇ。ちっとは手加減しろよ」
「俺を待たせるお前が悪い」

鼻で笑う老人の姿が揺らぎ出す。陽炎の如く煌めいて、若き日の青年へと戻っていく。

「お前って、そんなに性格悪かったっけ?なんで俺に合わせてくれないんだよ」
「俺を待たせるお前が悪い」

同じ台詞を繰り返し、青年はにやりと笑う。
恨みがましげに、少年は青年を見つめ。やがて諦めたように息を吐いて、眉を下げ笑った。

「――少し見て回るか」
「そうだな。最後に見て回るのも悪くない」

どちらともなく頷いて、集落の奥へと歩き出す。
離れていた時間など二人には関係ない。在りし日のままの距離で、互いに語り出した。



「畑も田んぼも、全部山に呑み込まれたんだな。あそこに残ってんのはお前の畑?」
「まあな。だがここ数年、腰を痛めてから手を入れてないから、荒れ放題だ……時期に、すべて呑まれるさ」

和やかに語り合いながら、歩いて行く。
辺りは草木に覆われ、田畑の面影は欠片もない。少年が指し示す青年の畑も草が茂り、言われなければそれが畑だとは思えない様相であった。

「俺ん家の田んぼも山の中か……田植えから刈り入れまで、毎年お前が手伝ってくれたのにな」
「その分、米を貰ってたからな。働かざる者、食うべからずってやつだ」

過去に思いを馳せ、記憶の中の在りし日の光景と今を重ね合わせていく。
二人の視線の先で、陽炎が揺らぐ。踊るように揺れ動き、その煌めきの合間から、広大な田畑が見えた。
青々とした稲。瑞々しい夏野菜。畑仕事に精を出す誰かの影がこちらに向けて手を振った。

「おい、見ろよ」
「あぁ……懐かしいな」

陽炎が揺らぎ、田畑が消える。元の緑に呑まれ荒れた地は、過去など知らぬと言いたげに、沈黙を保っている。
刹那の邂逅。だが二人にはそれだけで十分だ。

「いいものが見られた。やっぱり日頃の行いが良かったせいだな」
「親不孝者が何を言ってる。お前のお袋さんが、どれだけ泣いていたと思っているんだ」
「止めてくれって。今ぐらいはそんな野暮を言わないでくれよ」

情けなく笑って、少年は息を吐いた。知ってるよ、と呟いて、足を進めていく。
それ以上青年は何も言わず。少年の背を見ながら、ゆっくりと歩き出した。



朽ちた家々を抜けていく。

「ここの家が、一番最初にいなくなったな。大学を卒業した息子の元へ、一家で向かったらしい」
「へぇ。ここの家の番犬。前を通っただけで吠えるから、苦手だったんだよな」

陽炎が揺らぐ。
その向こう側から犬の吠える声がして、合間から見える家の引き戸が開き誰かの影が顔を出す。

「村長の屋敷も崩れたんだ。大きくて立派だったのに」
「優秀な奴ほど外に出るもんさ。そして二度と帰ってこない。爺婆が死んで、それで終わりだ。いくら立派だろうと、人が住まない家が朽ちるのはあっという間だ」

大きな屋敷の門前を、誰かの影が箒で掃いている。
二人に気づき、手を止め会釈をして。
不意に吹き抜けた、気まぐれな風によって掻き消されていく。

「お前の家にも行くか?」
「なんでだよ。行ったとこで、何があるっていうんだ」
「お前の号泣する姿が見られる」
「お前……ほんっとうに、性格が悪くなったな」

時折ふざけ、楽しく語らいながら、二人は奥へと歩いて行く。
思い出話を語り、陽炎が刹那の幻を見せ。それを話題に、また話が盛り上がる。

「そういや、もうすぐ夏祭りの時期か」
「――あぁ。そんなものもあったか」

集落の奥で、二人は足を止めた。
緑に覆われた、かつては広間であっただろう場所。

「あの事件の後、どんどん規模が小さくなって……人がいなくなっていった事も影響して、数年後にはなくなったな」
「そっか……残念だな。皆、それを楽しみにしてたのに」

陽炎が揺らぎ風が過ぎて、祭り囃子の笛の音が聞こえた。
低い太鼓の音。笑う声。楽しげな騒めき。
いくつもの屋台と、複数の人影。
祭の陽気に惹かれるように、少年は足を踏み出した。

「なぁ。ちびすけは、あれからどうなった?」

少年の声に混じり、微かに水の流れる音がする。

「元気だったよ。病気や怪我ひとつしないで……ここを出て行った」

少年に続いて広間に足を踏み入れながら、青年は静かに答えた。

「母さんは?」

少年の問いに、青年は沈黙を返す。
祭の賑わいは消え、代わりに水の音と人々の騒めきが大きくなる。
誰かの悲鳴。叫び。焦りを含んだ声に、空気が変わる。
だがそれも、強く吹いた風に掻き消され。

聞こえるのは、蝉時雨と木々の擦れる音ばかり。

「――約束。守ってくれて、ありがとな」

微かな呟きに、青年は深く溜息を吐いた。

「夢の中の、しかも一方的な約束だったけれどな」

青年の悪態混じりの返答に、少年は苦笑する。

「うん。本当にありがと……そのせいで、長い事一人にさせてごめんな、親友」
「まったくだ。こんな辺鄙な所、約束がなかったらとっくに出て行ったのに……だが、約束通り迎えに来てくれてありがとよ、親友」

立ち止まる少年の背を叩き、青年は笑う。
子供のような笑い方。少しずつ、姿が揺らいでいく。

「お袋さんは、お前の事を誇りだと言っていたよ。自慢の息子だって……それでいて、どうしようもなく親不孝者だってさ」
「泳ぎには自信があったんだよ。だから何とかなるって、そう思ってた」
「お前のその無鉄砲なとこ、次からは直しておけよ。親をあんな風に泣かせるもんじゃない」
「分かってるって」

振り返り、少年は泣くように笑う。手を差し出せば、青年は優しく微笑んで。

「次も一緒にいられたらいいな、親友」
「絶対に一緒にいてやるから覚悟しとけよ、親友」
「あぁ。楽しみにしている」

差し出された手を、握る。
少年もまた、その姿が陽炎のように揺らぎ出す。笑い合いながら硬く握った手を掲げ。

不意に風が吹き抜けた。木々を揺らし、陽炎を掻き消す程に強い風。
駆け抜ける風が去った後には、もう何もない。
少年の姿も、青年の姿も。

最後の住人が亡くなり、集落もまた死んだ。
ここには誰もいない。あの日の景色が蘇る事もない。

僅かに残る人がいた痕跡も、すべて山は呑み込んでいく事だろう。



20250708 『あの日の景色』

7/9/2025, 1:19:58 PM