人の絶えた板張りの廊下を、月明かりと小さな懐中電灯の灯りを頼りに進んでいく。
歩く度に床が軋んだ音を立てる。舞い上がる埃が、ここが使われなくなってから長い時が過ぎている事を示していた。
町村合併により使われなくなった公民館。ここにはいつからか、ある噂が囁かれるようになっていた。
――真夜中に旧公民館の中から、誰かの泣く声と鈴の音が聞こえてくる。
噂を聞いて好奇心に駆られた何人もの人が、この旧公民館に忍び込んだ。
その殆どは何も起きなかったと鼻白んでいたが、何人かは悲しげに目を伏せ、一言だけ語った。
――いつか、届いてほしい。
誰に何が届いてほしいのか。誰もそれ以上を語らず、詳しい事は分からない。
だから直接確かめにきた。
この奥には、村の公民館としては珍しく、立派な舞台がある。子供達の劇の発表会から音楽会、そして祭の伝統舞踊の練習場所として、長く使われてきた。
思い出の場所。時と共に面影を失っていく村の中で、数少ない彼女との記憶を留めている場所だった。
不意に、風に乗って微かに鈴の音が聞こえた。
一定の間隔で聞こえる、澄んだ音。泣く声は聞こえない。
灯りを翳す。薄暗い廊下の先に、閉じた扉が静かに待っていた。
――行かなければ。
一度、深く呼吸をする。
少しの恐怖と、抑えきれない期待に逸る鼓動を落ち着かせながら、ゆっくりと足を踏み出した。
扉を押し開ける。
薄暗がりの中、広がる光景に息を呑み、動きを止めた。
澄んだ鈴の音が舞台に響く。
千早の袖がふわりと広がり、鈴に合わせて舞っている。
笛や太鼓の音は聞こえない。だが、はっきりと耳の奥で蘇る。
窓から差し込む月明かりに照らされて、舞台の上で一人舞う少女。
四肢に括られた鈴が、少女の動きに合わせて音を奏でていく。頬を濡らす涙が、月明かりを反射して煌めいた。
届いてほしいと、皆一様に目を伏せる答えがそこにあった。
「届かない……これじゃあ、まだ」
微かな呟き。
静かに泣きながら舞い続ける少女の姿を前に、何も言えずに立ち尽くした。
少女を知っている。見間違えるはずもない。
少女の姿は、いなくなってしまったあの時から何一つ変わらないままだ。
「もう少し。もっと、動いて……届いて」
少女は一人きりでずっと――おそらくはあの日から、同じ悪夢を見続けているのだ。
どうして。零れ落ちた言葉は、少女には届かない。
目を閉じる。記憶の中の姿と、今目の前にいる姿を重ねて、目を開いた。
懐中電灯を手放して、少女の元に歩み寄る。
少女は待っている。届かないと決めつけて、届いてほしいと願い続けている。
終わらせなければならない。それが少女のために自分に出来る、唯一の事なのだから。
舞台へ上がり、少女の側へ近づいた。
少女の舞は止まらない。その事に一抹の寂しさを感じながらも、ポケットに手を入れた。
中から古びた鈴と取り出す。それを手に、少女の動きに合わせて腕を振るい、足を踏み出した。
少女の舞と重ねるように、舞い踊る。長く踊る事を止めていたため、足が縺れ、腕の動きもぎこちない。
それでも動きは止めない。忘れかけていた、懐かしくて愛しい記憶が蘇り、このまま終わらせてしまいたくないとも思ってしまう。
いつも一緒だった。何をするにも、常に少女が側にいた。
夏祭りの踊りの練習。自分の舞に届かないと、少女は誰よりも練習していた。
あの日を思い出し、胸が苦しくなる。
踊る事を止めた切っ掛け。少女が姿を消した、あの日。
一人になって、何もかもを止めた。舞も、遊びも。少女と一緒に行ってきた事はすべて。
村中を彷徨い歩き、少女の姿を探し続けた。時間と共にそれすら空しくなって、進学を理由に逃げるように村を出た。
「届かない……届いて」
「届いてるよ。あの時から届いていた」
鈴の音の合間の呟きに、思いを込めて言葉を返す。
他の誰が何と言おうと、少女の舞は自分よりも美しかった。
「一番綺麗だったんだよ。見とれるくらいに美しかった。ねぇ、気づいて……届いて……」
届かないと知りながら、祈る思いで囁いた。
鈴が鳴る。飛ぶように舞い、優雅に踊る。
届いてほしいと、限界を訴える体に力を入れて、少女の動きに合わせて舞った。
「届かない」
「届いて」
くるりと回り、互いを向いて動きを止める。
舞の終わり。肩で息をしながら、少女を見つめた。
少女の腕が動く。また初めから繰り返されるその動き。
届かない。終わらせる事が出来ないと、唇を噛みしめ鈴が鳴るのを待った。
けれど腕は、それ以上動かず。
瞬く目がこちらを見上げ、小首を傾げた。
「――届いた?」
「届いてたよ。ばか」
不思議そうな呟きに、泣きながら笑い膝をついた。
「大丈夫?」
眉を下げて近づく少女の手を取り引き寄せる。
懐かしい温もり。幻ではない、何よりの証拠。
「逢いたかった……苦しくて逃げ出すくらい、寂しかった」
少女の肩を涙が濡らす。
そっと背中をさする手の優しさに、呼吸が乱れ嗚咽が零れ出す。
突然失った大切な存在。あの日までは、片時も離れる事のなかった双子の姉。
「――一緒に帰ろう。もう二度と、離れないで」
泣きながら懇願すれば、小さく笑う気配がする。
「泣き虫。勉強も運動も、踊りだって私より上手なのに」
答える代わりに、強くしがみついた。
姉に褒めてもらうための努力だと、いつになったら気づいてくれるのだろう。
小さな手が頭に触れる。慰めるように撫でられてゆっくりと顔を上げた。
「帰ろっか。一緒に」
微笑んで告げられた言葉に、眉を下げて頷く。
涙を拭って立ち上がり、差し出された手を握った。
小さな手。あの日のまま、変わらない姉の手。
込み上げる涙を堪えて、二人一緒に舞台を下りた。
窓から見える空は、うっすらと白み始めている。
夜が明ける。一人の悪夢がようやく終わるのだ。
「踊り。前より下手になった?」
「一人になってから、止めた。あれからずっと踊ってない」
「もったいない。皆の中で一番上手だったのに」
手を繋いだ帰り道。不意に問われて眉が下がる。
一人で踊る事に意味はない。それを分かって、敢えて告げられる。
「教えてあげようか?今度は私が、届くのを待っててあげる」
微笑む姉に、思わず足が止まる。
本当に何も気づいていないと、溜息を吐いた。
「届かないからいい。今だけじゃなくて、あの時からずっと届かなかった。皆の中で一番綺麗な踊りには、きっと届かない」
拗ねたように呟けば、姉は僅かに頬を染め。
「ばか」
小さく呟いた。
20250709 『届いて・・・・・」
7/10/2025, 10:40:06 AM