この島には夜が来ない。
私と彼女。二人だけの小さな島。
空は青く、どこまでも遠く。広がる青い海もまた、果てしない。
「何して遊ぼっか?」
問いかける声に、体を起こして視線を向ける。楽しげに笑う彼女はこちらに歩み寄ると、私の隣に座ってそのまま横になる。
「それとも、お昼寝にする?」
そう言ってこちらを見上げて手招く彼女に、仕方がないなと笑ってみせる。同じように横になり、目を閉じて深く息をした。
聞こえるのは波の音。どこか遠くで鳴く海猫の声に耳を澄ませ、潮の香りで肺を満たす。
穏やかな風が髪を揺らす。さりげなく繋がれた手の温もりに、小さく笑みが零れ落ちた。
小さな島。けれどここはとても穏やかだ。
海の向こうの憧れよりも、今はこの穏やかさに眠ってしまいたかった。
目を覚ましても。空の青が変わる事はない。
「次は散歩に行こっか」
先に起きて立ち上がった彼女が、こちらに向けて手を差し出す。その手を取って立ち上がり、バッグを背負って二人、砂浜へと歩き出す。
潮騒を聞きながら、海の向こうを想像する。広い海の先には、一体何があるのだろうか。
どんな街があって、どんな人が暮らしているのか。気づけば海を見つめたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「海の向こうに行きたいの?」
問われて、少し悩む。
海の向こうが気になる。けれどそれは、行ってみたい気持ちとは少しばかり違うような気がした。
首を傾げていれば、彼女はくすくすと笑い出す。
彼女はよく笑う。遊んで、はしゃいで、時には失敗をしても笑って、いつでも楽しそうだ。
「紙飛行機を飛ばそうよ」
紙飛行機。唐突な言葉に目を瞬いた。
「私達の代わりに、紙飛行機に見に行ってもらおうよ。海の先には何があるのか」
煌めく目をして語る彼女に頷いて、背負っていたバッグを地面に降ろした。
チャックを開けて、中を探る。ぼろぼろのバッグに詰め込まれたものを掻き分けて、奥から数枚の折り紙を取り出した。
赤い折り紙を手渡すと、彼女はお礼を言いながら紙飛行機を折っていく。集中する彼女の姿をどこか眩しく思いながら、同じように黒の折り紙で飛行機を折り始めた。
「飛ばないね」
風に乗せて飛ばしても、途中で失速して紙飛行機は海へと落ちていく。
飛ばない事の落胆と、やっぱりと思ってしまう諦めと。複雑な気持ちを抱えながら、不満げに頬を膨らませる彼女の背を撫でた。
「どうすれば飛ぶかなぁ」
悩む彼女の横で、残りの折り紙を確認する。
手元にある折り紙は、白が二枚。他にないかとバッグを漁るも、折り紙はもう見つけられず。
諦めてバッグを閉じ、溜息を吐く。彼女を見れば、まだ名残惜しげに海を見つめていた。
彼女の慰めに、何か別の遊びを考えなければ。彼女は今までどんな遊びでも楽しそうにはしていたが。
記憶を辿る。そういえば、バッグの中に画用紙と色鉛筆が入っていた。思い出して再びバッグを開けば、そうだ、と弾んだ声が隣から聞こえた。
「ねぇ!次の紙飛行機には絵を描こうよ。飛ばないのはきっと、何も乗ってないからなんだ。だから絵を描いて思いを乗せれば、次こそは遠くまで飛んでくれるはず!」
そんなものだろうか。疑問が過るが、彼女が笑顔になってくれたのだから、それでいい気もする。
我ながら単純だな、と思いながら、バッグの中から色鉛筆を取り出した。
「何を描こうかな?飛行機だし……鳥にしよう!」
水色の色鉛筆を取り、彼女は真剣な顔で出来たばかりの白い紙飛行機に絵を描いていく。
それを横目で見ながら、目の前の真っ白な紙飛行機を前に何を描くかを迷う。
彼女が鳥を描くならば、私は何がいいだろうか。彼女や海や空を見て、もう一度紙飛行機に向かう。
黒の色鉛筆を取って、猫の姿を描き出した。
自分の代わりに音を聞く耳、ものを見る目。願いながら描いていく。
「出来た!」
紙飛行機を持って嬉しそうに笑う彼女を見ながら、描き終わった猫の絵をそっと指でなぞった。
彼女の紙飛行機に描かれた青の鳥。本当にどこまでも自由に飛んでいけそう。
彼女の紙飛行機と共に、私の紙飛行機が海を渡って空を一緒に飛んでいく。そんな想像に、鼓動が軽やかに跳ねた。
「よし!じゃあ、一緒に飛ばそうか」
頷いて、彼女の隣に立つ。
もう一度描いた黒猫に触れ、海を見る。
穏やかな海。緩やかな風。紙飛行機が飛ぶのを。待っていてくれるかのようだ。
「行くよ。せーのっ!」
彼女のかけ声に合わせて、紙飛行機を飛ばす。途中で失速せず高く舞い上がる紙飛行機が、風に乗って海の向こうに飛んでいく。
「飛んだ!」
喜ぶ彼女と手を取って笑い合う。紙飛行機が見えなくなるまで、その姿を彼女と見送っていた。
「見えなくなっちゃった……これで自由だね」
小さく彼女が呟いた。
自由になれた。その一言に、急に不安が込み上げる。
本当に良かったのだろうか。自由になって、好きな所に行っても、本当に。
「大丈夫だよ」
彼女は笑う。私の不安をすべて消し去るような、煌めく目をして高らかに告げる。
「心くらいは逃げ出してもいい。自由に空を飛んで、海を渡って……そうしたら、明日も生きて行けるでしょう?」
だから、と繋いだままの手を揺らす。もう片方の手も繋いで、彼女と向き合った。
「そろそろ行こうか。余計なものは、ここに全部置いていこう。がらくたがなくたって、大丈夫だから」
いいのだろうか。ちらりと足下に置いたままのバッグに視線を落とした。
開いて中身の見えるバッグからは、彼女の言うがらくたが溢れんばかりに詰め込まれている。彼女と遊んで少しは量が減ったけれど、量が多すぎて重さは最初とそれほど変わらない。
本当に置いていってもいいのか不安で、彼女を見た。彼女は大丈夫と頷いて、そっと額を合わせて囁いた。
「怖くないよ。紙飛行機に乗った心は、海の向こうを目指して自由に飛んでいる。目を閉じれば、海と空の青が見える。音が聞こえる……それに」
繋いだ手を離して抱きしめられる。痛む体を撫でて、たくさんの傷ごと包み込まれた。
「私はずっと、側にいる。もうすぐちゃんと会えるからね」
包まれる優しさに目を閉じた。
彼女の囁きと波の音を聞きながら、意識がゆっくりと揺らぎ出す。
彼女がいてくれるのなら、まだ頑張れる気がした。
「またね」
約束の言葉を最後に、穏やかな夢は終わりを告げた。
次に目覚めた時、最初に目にしたのは知らない男の人の姿だった。
驚いたように目を見張り、涙を滲ませ何かを告げる。
でも声は聞こえない。聞こえるのは波の音と遠くで鳴く海猫の声。
この男の人は誰だろう。何故泣くのだろうか。
ぼんやりと考えながら、ゆっくりと口を開いた。
「誰?」
掠れた声。たった一言なのに、喉が痛む。体も重くて、鈍い痛みが続いている。
男の人の動きが止まった。聞こえなかっただろうかと思うが、もう一度声を上げる気にはならなかった。
男の人が何かを言う。無言でいれば、くしゃりと顔を歪めて崩れ落ちた。
それを見遣って、室内に視線を巡らせた。
随分と白く無機質な部屋だ。白のベッド。布団から出た腕に繋がれている、点滴のチューブ。何かの機械から伸びたコードは、体のあちこちに繋がれているらしい。
病院だ。けれど何故、ここにいるのか。
考えても思い出せない事に、諦めて目を閉じる。
瞼の裏に広がる青に、思いを馳せた。
心だけは、この現実から逃げられている。
そう思うと不安が溶けて、何もかもが些細な事に感じられた。
病院にいる事も。男の人の事も、何もかも。
――またね。
誰かの声が聞こえた気がした。誰なのかは覚えていないけれど、きっと今も泣いている男の人ではないだろう。
優しい声。再会の約束に、僅かに口元が緩む。
重い腕を動かして、そっと自分のお腹を撫でた。
20250711 『心だけ、逃避行』
7/12/2025, 5:57:39 PM