sairo

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とても静かな夜だった。
ひっそりと建つ廃屋の中。一人縁側に座り、ぼんやりと丸い月を見上げていた。
とても静かだ。
人や車、機械など、人の存在を示すような音は少しも聞こえない。
獣や虫の声、水や風といった自然の音すらしなかった。
視線を月から、軒に吊された風鈴へと移す。
風鈴は鳴らない。ただ静かに風を待っている。
今夜はもう風鈴は鳴らないのかもしれない。いつでも鳴る訳ではないのだろうか。
少しだけ落胆して立ち上がる。部屋の中へと入り、無意識にぼろぼろの障子戸を閉めた。
和室の畳は陽に焼けて変色しているが、廃屋にしては状態は良い。壁も所々にひび割れはあるものの、崩れ落ちている所はなかった。
部屋の隅に座り、壁に凭れる。風鈴が鳴るまで少し休もうと目を閉じた。



不意に破れた障子戸から風が吹き込んできた。
風が髪を揺すり、目を開ける。ぼんやりと暗い室内を見つめていれば、微かに風鈴が鳴る音がした。
障子戸へ視線を向ける。まだ微睡んでいる意識では、立ち上がり縁側へ出る考えは浮かばない。ただ一度だけ鳴った風鈴の音を待ち、そして訪れるはずの誰かを待った。
障子戸がゆっくりと開かれる。月に照らされ影になった誰かが静かに部屋に入り込み。

「久しぶり。相変わらずぼんやりしているな」

懐かしい声と共に、目の前に座り込んだ親友があの日と変わらない姿で笑った。



「変わらないね。もう何年も経っているのに、あの夏の日のままだ」
「当たり前だろ、死んでんだから。さすがにぼんやりしすぎだろうが」
「だって……本当にくるとは思わなかったから」

廃屋に吊された風鈴は、夏の間だけ鳴る事がある。
その音に呼ばれて訪れるのは、幽霊や物の怪の類いだと聞いた。
ただの噂だと思っていた。だが、親友は訪れた。
風鈴の音に呼ばれて、彼岸から此岸へと戻ってきた。

「さて、折角だ。時間は十分にある事だし、存分に楽しもうじゃないか。昔話に花を咲かせるもよし。子供時代を思い出して遊び回るもよし……どうする?」

問われて、苦笑する。
本当に親友は変わらない。大仰な身振りも、態とらしい言い回しも昔のままだ。

「昔話……何かあったっけ?」
「おいおい、勘弁してくれ。前から忘れやすいとは思っていたが、ここまでとは。もしかして、俺の事も忘れたわけじゃあないだろうな」

頭に手を当て、嘆く振りをされる。随分な物言いではあるが、少しも気分を害さないのは、親友の人柄故の事だろう。

「覚えているよ。昔、肝試しに連れて行かれて、そのまま置き去りにされた事も。盗み食いを、私のせいにされた事も。しっかりと覚えている」
「それは忘れてくれるのが友情というものだろう?酷い奴だな。もっと他にあるだろうが。迷子のお前を探して、手を繋いで帰った事とか。万年赤点のお前に、勉学を教えた事とか」
「酷くて結構。あと、そちらも案外酷い事を言っている事を自覚してほしい」

軽く眉を寄せれば、呵々と楽しげな笑い声が上がる。

「昔話はよろしくないな。態々古傷を抉るのは、実に無駄な行為だ……ならば、童心に返って存分に遊び倒そうではないか」

親友は立ち上がり、恭しく手を差し出す。いつまでも幼い子供のような親友に呆れと共に懐かしさが込み上げ、微笑んでその手を取った。



遊び倒す、とはいえ、部屋の中で出来る事は限られてくる。

「ねぇ。外には出ないの?」
「外は場が安定しないからな。ぼんやりしているお前は、一歩外に出ただけですぐに迷子になるだろう。迷子捜しは、遊びではない」

迷子になると決めつけられて密かに眉が寄る。だが記憶を辿る限り否定は出来ず。
では何をするかと視線だけで問えば、彼は笑って隠れ鬼と提案した。

「二人だけで、隠れ鬼?」
「案外楽しいぞ。外に出なければ、どこに隠れても構わない。ゆっくり五十数えてやるから、その間に隠れて見せろ」

そう言って、自分が了承する前に親友は数を数え始める。
慌てて部屋を出て、隠れられそうな場所を探して廊下を歩く。

「あれ?」

違和感を感じて立ち止まる。
外から見た時は、この廃屋はそれほど広くはなかったはずだ。暗さもあるが先の見えない廊下に、少しばかり不安を覚える。

「三十一、三十二……」

背後から聞こえる親友の声。我に返り苦笑した。
死者である親友と遊んでいるこの状況こそ異様だ。今更廃屋が広くなった所で、気にかけるほどではない。
恥ずかしくなり、早足で歩き出す。適当な部屋に入り、押し入れを開ける。何もないのを見て中に入ると、音を立てぬよう気をつけながら押し入れを閉めた。



楽しい時間というものは、得てして早く過ぎ去ってしまうものだ。
最初の部屋で二人、横になって何気なく天井を見上げる。古傷を抉ると言いながらも語り合ってしまったのは、親友の誘うままに存分に遊んだからだろうか。
隠れ鬼から始まり、鬼事をして相撲も取った。どこからか見つけてきた駒を回し、面子で争い、その他にも思いつく限りの遊びをした。
疲れて横になり、思い出すのは幼き日々の思い出。自然と語り出すのも仕方がない事かもしれない。

気づけば室内は大分明るくなり、破れた障子の隙間から仄かな光が差し込み始めている。
時期に日が昇り、朝が訪れるのだろう。それはつまり親友との別れが近い事も示していた。

誰かが訪れた後に鳴る風鈴は、帰りの合図。訪れたモノは、此岸から彼岸へと還っていく。
そろそろ風鈴が鳴るのだろう。そうすれば親友は彼岸に還っていく。
その時には、一緒に連れていってはくれないだろうか。
口に出せない願いを抱えながら、風鈴の音をただ待った。

「――風鈴、鳴らないね」

けれどいくら待てども風鈴は鳴らず。
部屋に陽射しが差し込み、朝が訪れても、外からは何の音も聞こえなかった。
横目で親友を見る。上の空で天井を見上げている親友の表情は初めて見るもので、訳もなく心細さを覚えてしまう。
手を伸ばす。そっと肩に触れれば、夢から覚めたように目を瞬き、視線を向けられた。

「どうした?」

優しい笑顔。それは、親友が何かを隠している時にする表情だった。

「何を隠しているの?」

問いかければ、虚を衝かれたような表情をして、それは次第に意地の悪い表情に変わる。

「知りたいか?」

肩に触れた手を取られ尋ねられる。知りたいと思う好奇心と、知ってはいけないという警鐘に、どうすれば良いのか分からず視線を逸らした。
明るい障子戸を見る。風鈴はまだ沈黙を保ったままだ。

「どんなに待っても、風鈴は鳴らないぞ」
「え?」
「ここに来た時に外してしまったからな」

世間話のように告げられ、驚きに親友へ視線を戻した。
何故。どうしてそんな事を。
疑問が巡る。親友の考えがまったく読めない。
聞きたい事はたくさんあるというのに、何を言えばいいのか分からない。
そんな困惑を察して、親友の笑みが優しくなる。何かを隠している時とも違う、幼い頃に泣き止まない自分を宥めている時の表情。

「俺が死んで、何年経ったか覚えているか?」

答えられず、体が硬直する。思い出してはいけない事を無理矢理思い出しているようで、頭の奥が鈍い痛みを持ち始める。

「ならば、俺が何処でどうやって死んだのか、思い出せるか?」
「それ、は……夏の……海で」

親友は夏の日に、海で死んだ。それは確かに覚えている。
そう言われた。知らされたはずだ。

「――あれ?」

それ以外を思い出せない。

「お前、本当にぼんやりしているんだな」

深く溜息を吐いて、親友は上体を起こす。
手を引かれて、同じように体を起こし向き合った。
頭が痛む。何故気にならなかったのだろうか。親友の事だけでなく、自分の事すら満足に思い出せない。
隙間だらけの自分の記憶が、今更になって何よりも怖ろしく感じた。

「仕方がないから、最初から説明してやろう……先ずはあの風鈴だが、あの音は彼岸と此処を繋げる事が出来る」

親友の目が理解出来ているかを問う。それには小さく頷いた。

「彼岸のモノが風鈴を鳴らす。そうすれば、彼岸からこの廃屋へ渡る事が出来る。実際俺も風鈴を鳴らし此処に来た……一度鳴らした風鈴は、時間が過ぎればひとりで鳴り出す。彼岸へ還すために」

親友の言葉に、縁側に続く障子戸を一瞥した。
外されたという風鈴。鳴らないのであれば、親友はこのまま彼岸に還る事は出来ない。

「どうして……?」
「最後まで話を聞け……風鈴の音は彼岸を繋ぐが、渡れるのは一人だけだ。そしてそれは、鳴らしたモノでなくとも構わない」

一人だけ。何故か腑に落ちて、同時に落胆した。
親友と共にいく事は出来ないのか。
だから親友は風鈴を外したのだろうか。置いていかれる自分を憐れんで。
親友を見る。真剣な眼差しに、酷く心が痛む。
自分の事は気にするなと無理に笑いかけ、親友は再び呆れた溜息を吐いた。

「――数年前に、偶然付近を彷徨う死者がいた。死者はふらふらとこの廃屋に近づき、その風が風鈴を鳴らした」

唐突に変わった話に、首を傾げる。
説明を求めて親友を見るが、気にもかけずに話を続けた。

「その時、ちょうど廃屋には生者がいた。死にたいと常に思っているような、軟弱な奴だ。そいつは廃屋に現れ、彷徨い出す死者から隠れて、風鈴の側で只管に待った――風鈴が再び鳴り出すのを」
「それ、は……」
「だから話を最後まで聞け……そして時間が過ぎ、風鈴が鳴る。彼岸への道が通じ、生者は迷わずその道を抜け、道は閉じた……廃屋に死者を残したまま」

残された死者。それが誰かを、親友は視線だけで告げる。
あぁ、と思わず声を漏らし、静かに目を閉じた。

「五年だ。五年もお前は此岸を彷徨った。自分が死者だと忘れるくらい彷徨って……ようやくこの廃屋に戻ってきた」

阿呆が。
そう悪態を吐く親友は、呆ける自分を見つめて告げる。

「風鈴の音は、一人しか彼岸に連れて行かない。俺が残っても良いが、お前はきっとすぐに風鈴を鳴らすだろうからな。だからいっそ外してしまう事にした……彼岸でも此岸でもないこの廃屋からは出られん。いつこの場が崩壊するかも分からんが、またお前を此岸に彷徨わせるよりかは余程良い」

手を引かれた。親友の肩口に頭を押し当て、顔を隠される。
その優しさに甘えて、静かに涙を流した。
頭の痛みは疾うになくなり、霞んでいた記憶が鮮明になっていく。
親友は死んだ。夏の海で。乗っていた艦《ふね》と共に、沈んでしまった。
そして自分もまた、その数日後には死んだ。親友とは違う海の上で、艦と共に沈んだ。

「ようやくお前も思い出した事だ。落ち着いたのならば、また存分に語り合おうか。語り、遊び、二人の時を共に楽しもう……いつかくる、終わりの時まで。閉じられた箱庭を堪能しようではないか」

相変わらずな親友に、泣きながら笑う。
そう言えば、迷子になった時に必ず迎えに来てくれていたのは親友だったと思い出す。
本当に変わらず、優しい男だ。止まらない涙はそのままに、顔を上げて親友を見つめ。

「生前も、死後も面倒を見てくれてありがとう。これからも末永くよろしく頼むよ」

そう言って笑えば、親友は呆れた顔をして、それでも嬉しそうに笑った。



20250712 『風鈴の音』

7/13/2025, 11:01:06 AM