sairo

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「おや、久しぶりだねぇ。また大きくなって」
「お久しぶりです。おじさん」

畑仕事に精を出す男性に声をかけられ、軽く会釈をして通り過ぎる。
これで五人目。笑顔の裏で、密かに溜息を吐いた。
声をかけてくれるのは嬉しけれど、数日分の荷物の入ったキャリーが重い。何時間も電車とバスに揺られた疲れもあって、今は早く休みたかった。

夏休みの度に訪れる祖父母のいる村は、ずっと変わらない。
人も。風景も。まるで時が止まっているかのようだ。
祖父母の家へと向かいながら、ふと視線を村の奥にやる。
小さいながらも立派な、木造二階建ての学校。何年も前に廃校になってはいるが、くたびれた様子は見えない。
きっと村の人達が、今も手入れをしているのだろう。

あそこには、『ワラシ様』がいるのだろうから。



ふと、息苦しさに意識が浮上する。
体が重い。目を開けても、暗くて周りがよく見えない。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。何かに口を塞がれているみたいに。
手を伸ばして口に触れる。呼吸を妨げるもの何もはない。
苦しさに身を捩る。助けを求めて踠く指が床に爪を立て、違和感に気づく。
布団や畳の感覚ではなかった。霞み出した視界でもう一度辺りを見渡す。
暗い場所。端に寄った小さな机と椅子。
見覚えのない、けれどどこか懐かしい――。
息が出来ない。視界が霞み、やがて何も見えなくなっていく。
そのまま、すべてが真っ黒に染まっていった。



はっとして目が覚めた。
荒くなる呼吸を落ち着かせ、深く息を吸い込む。
息は吸える。吐く事も出来る。
その事に安堵して、ゆっくりと体を起こした。
辺りを見渡す。暗くてよく見えないが、祖父母の家ではないのはすぐ分かった。
ここは教室だ。机や椅子の大きさから、小学校だろうか。

「――っ!?」

何故、という疑問は、急に襲う激痛に掻き消された。
頭が痛い。何かで殴られたかのように。
そのまま床に倒れ込む。力の入らない体を動かし背後を見るが、誰もいない。
痛みに意識が霞み、視界がまた黒に塗り潰されていく。

「どうして」

落ちていく意識の中。
小さな呟きが、聞こえた気がした。



あれから何度も目を覚ましては、痛みや苦しさに意識を奪われる事を繰り返している。
その地獄のような時間の中、時々誰かの声を聞いた。

――いやだ。
――たすけて。
――おかあさん。

苦痛に踠くその傍らで、声は同じように苦しんで助けを求めていた。
自分よりも幼い子供の声。助けを求めながらも、すでに諦めてしまっている声音。

「おかあさん」

小さな声に、薄れる意識で理解した。
この苦痛は、誰かの記憶だ。たくさんの子供達の最後の記憶を、痛みごと体験しているのだ。
理解して、泣きたくなった。
理不尽に受ける痛みに対する怒りではない。説明のつかない恐怖でもない。
ただ、悲しかった。
助けを求める幼い声に、手を差し伸べる者が誰もいない事が、ひたすら悲しくて泣きたかった。



目が覚める。
息苦しさはない。襲い来る痛みに構えていても、何も起こらない。
ふと、気配を感じて顔を上げる。
教室の隅。何かの影がいくつも揺らいでいた。

「悲しんでくれるの?」
「わたしたちを見てくれるの?」

幼い子供の声が、幾重にも重なって教室に響く。
気づけば隅にいた影に囲まれて、手を繋がれていた。

「きて」

手を引かれて、ゆっくりと立ち上がる。自分の意思とは関係なく、体は影に手を引かれるままに歩き出す。
教室の扉が、きい、と軋んだ音を立てて開いた。

「とくべつに、ほんとうをぜんぶ見せてあげる」

開いた扉の先は廊下ではなかった。
代わりに、地下へと続く階段が、底の見えない闇を孕んで口を開けていた。


手を引かれるままに、ゆっくりと階段を下りていく。
下から冷たい風が吹き抜け、小さく体を震わせる。引き返せないような恐怖に立ち止まりたくなるが、足は止まらない。

「大丈夫」

後ろから声が聞こえた。他の子供達より、低く落ち着いた声。

「手を引いているから、転ぶ事はないよ」

囁く声はどこまでも淡々としている。

「それにほら」

下りる先に、微かな灯りが見えた。揺らめく灯りに導かれるように少しだけ手を強く引かれ、階段を下りる足を速める。


「ここだよ」

階段を下りて手を離された。
薄暗い地下の空間に、ぼんやりと蝋燭の明かりが灯っている。

「大人達の隠していた真実の場所。俺達の家」

湿った土の匂い。木で補強はされているものの、剥き出しの土が不安を掻き立てる。
小さな空間の手前には、祭壇があった。
水の入った器と、僅かな米が盛られた皿。
色あせた人形や飴玉、履き古した靴など、どれも子供のものばかり。
その奥。開けた空間には、不自然に土が盛り上がった場所があった。
転々と盛り上がる土。子供のものばかりが供えられた祭壇。そして学校。
嫌な予感に、背筋が寒くなるのを感じた。

「――ワラシ様?」
「そうだよ」

後ろの声がそう告げて、再び手を繋がれる。
祭壇を過ぎて奥へと引かれる。座らされ、影が回りを囲む。
不意に後ろから伸びた手に視界を塞がれ、知らない記憶が過ぎていく。

土を掘る誰か。その傍らには、麻袋に入った何か。
子供一人入れるほどの穴を掘り、穴から出た誰かは袋に手を伸ばす。
口を開け、中身を穴に落としていく。
中から出てきたのは、まだ幼い――。

「口減らし。生き残るためには必要な事なんだろうけどね。でも――」

場面が変わる。

――やめて!お願いだから。

泣きながら懇願する声。
薄暗い部屋。その奥で、揺らめく二つの影。

――俺が!俺が、もっと働くから!妹の分まで頑張るから、だから!

縋る影は振り払われ、薄い壁に叩きつけられる。
呆然と見つめる影の前で、振りかざす刃が鈍く光を反射していた。


「間引くくらいなら、何故産んだのか。産んで、殺して。捨てて。それでおざなりに祀られるのは納得がいかない。形だけの祀りで富を得ようなんて、そんな事認められる訳がない」

視界を覆う手が外される。
優しく背を撫でられて、耐えきれず嗚咽が溢れた。
胸が痛かった。苦しかった。
何故、どうして、という疑問が頭の中でぐるぐると渦を巻く。

「悲しんでくれる」
「見てくれる」
「ねぇ。あそぼ」

周りを囲う影が手を引いた。

「遊んで、優しい子」

誘う声は、どこまでも無邪気だ。

「今まで招いた子は、俺たちの記憶を見ただけで、すぐに壊れてしまった。誰一人悲しんでも、遊んでもくれなかった」

寂しい、と誰かが口にする。遊んで、と影達が強請る。

「俺たちが触れても、記憶が流れても壊れなかった、特別な子……ここで遊んでくれるなら、もう誰も招かない。ずっとここで、俺たちが与えられなかった愛を与えてほしい」

背中に抱きつく影の腕が、気まぐれに溢れる涙を拭い、耳元で囁く。
楽しそうに、嬉しそうに。あちらこちらで声が上がる。
逃げろ、とまだ冷静な自分が警鐘を鳴らす。けれどもそれは、縋る影の手から流れ込む記憶に、すぐに掻き消されてしまった。

「それに、もう戻れない。ほら、蝋燭が消えたら終わり……少し苦しいけど、きっと我慢出来る」

影が指差す先にある蝋燭が、その言葉と共に音もなく消えた。





「いたか?」
「いや、どこにもいない」

吹き出す汗を拭いながら、村の男達はどこか諦めの滲む顔で溜息を吐いた。

「ワラシ様んとこへも行けなくなっちまったからな……こりゃあ、隠されたかもしれねぇな」
「良い子だったからなぁ。俺んとこの息子の嫁にほしかったくらいだ」

話しながら、視線を学校の方へと向ける。
小さいながらも手入れの行き届いていたはずの学校は、一晩で様相が変わっていた。
校舎は無数の蔦に覆われ、窓や扉は硬く閉ざされ、入る事は叶わない。

「せめて、供え物だと思ってくださればいいんだが」

ぽつりと呟かれた言葉に、皆同意する。
この村は、代々ワラシ様の恵みを受けて生きてきた。今更、恵みを受けずに生きる事など出来るはずもない。
男達は皆、表情を曇らせる、だがそれは、少女が一人行方不明になった事への心配や悲しみではなく。

「本当に良い子だったからな」

自分達の今後を憂いての表情だった。





暗い廊下を、少女は無心で駆け抜ける。
背後からは楽しげな笑い声。きゃあ、と弾ける声が響き、少女のように駆け回っている。
少女の頬を涙が濡らす。止まらない涙は月明かりに照らされて、宝石のように煌めいた。
その涙は、はたして恐怖からくるものか。それとも二度と戻れない事への悲しみか。
あるいは、少女と遊び続ける影達の哀れみからくるものなのか。
少女にももう分からない。
ただ影達の望むままに遊び、寄り添うだけだ。

「捕まえた」

不意に腕を掴まれ、少女の体が傾ぐ。それを抱き留めて、少年は笑った。

「じゃあ、次は何して遊ぼうか?」

少女の頬を伝う涙を拭い、終わらない遊びの続きを囁いた。


20250713 『隠された真実』

7/14/2025, 9:22:29 AM