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6/16/2025, 11:48:42 AM

雲一つない、快晴。
窓の外を見上げ、燈里《あかり》は小さく溜息を吐いた。
ここ数日続いた雨の気配は欠片も見えない。窓越しでも照りつける日差しは強く、梅雨の終わりが近い事を示していた。
はぁ、と燈里は再び溜息を吐く。家に帰って来てからというもの、明らかに溜息の数が増えた。分かっていながらも増えていく溜息に、思うのは数日前の非日常だ。

取材に訪れた先で起こった事。出会いと別れ。忘れてしまいたいほどの恐怖は、忘れる事の出来ない切なさになった。
簡易的な三献《さんこん》の儀を終えて、結《ゆい》と縁次《よりつぐ》は互いに寄り添いながら姿を消した。長い間満たされない欠落を抱えて彷徨い続けていた二人が、ようやく結ばれる事が出来たのだ。
祝言絵図に描かれたものよりも美しく、幸せそうな花婿と花嫁は、手を取り合い常世の旅路へと向かうのだろう。
それは喜ばしい事だ。一抹の寂しさはあるものの、燈里は心から二人の門出を祝福している。

溜息を吐いた。
死者の祝言――幽婚が終わり、こうして再び日常に戻ってきた。戻ってきたはずだった。一つの変化を除いては。

「そんなに溜息を吐くと、幸せが逃げていくぞ」
「冬玄《かずとら》」

優しい声と共に、マグカップが手渡される。
暖かな温もりとココアの甘い香り。今の時期には少しばかり不釣り合いなそれに、漏れ出そうになる溜息を呑み込んだ。
そのまま冬玄に抱き上げられて、燈里はソファの元まで運ばれる。後ろから抱き竦められて、燈里は背中から感じる冷たさにおとなしくマグカップに口を付けた。

家に戻ってから、否、あの幽婚の場で燈里が目覚めてから、冬玄は燈里から片時も離れようとはしない。一時であれ、燈里を失った事が冬玄の傷として心に深く刻まれてしまったためだ。

「冬玄」

マグカップから立ち上る湯気を見ながら、燈里は冬玄に声をかける。

「もう大丈夫だよ。縁次さんは結と一緒にいるんだし、楓《かえで》も言っていたでしょ?」

冬玄は何も答えない。ただ燈里を抱き留める腕に力を込めるだけだ。鼻腔を擽る蝋梅の香りと冬玄の腕の冷たさは、まるで冬に戻ったようで、燈里はふるりと肩を震わせる。
それに気づいて、僅かながらに腕の力は弱まるものの、やはり離す気配はないようだ。
変わらない状況に何度目かの溜息を吐き、冷えた体を温めるように、燈里はマグカップに口を付けた。



「――ろう」
「何?」

聞こえた静かな声に、燈里は首を傾げ振り返る。

「あの時、他の絵図にも触っただろう」

小さく繰り返された冬玄の言葉に、燈里は苦笑する。
あの時とは、冬玄を探して仏堂の奥へ向かうため、扉の前に掛かる絵図を外した時の事だろう。
結の警告に従って、燈里は決して紫陽花には触れなかった。だというのに燈里が縁次に連れて行かれたのは、それ以外の直接的な縁《えにし》が結ばれてしまったからだ。家に戻った後で、そう楓が教えてくれた。
あの時、縁次の絵図に触れてしまった事で縁が結ばれ、そして一人でいた事で隙が出来た。直前に結が燈里の精神を自らの内で眠らせていなければ、燈里は縁次と契りを結ばれていたのだろう。

「大丈夫だよ。他の絵図は皆花婿と花嫁が揃っていたんだから。きちんと祀られているから、縁次さんのようにはならないよ」
「分からないだろう。もしも見ていた絵図が偽りだとしたら?触れた後で、絵図が変化していたとしたら?……人間は欲深い存在だ。本物が欲しくならないとは言い切れない」
「心配性だなぁ」

くすくす笑い、燈里はマグカップに口を付ける。冷めてしまったココアを飲み干すと、冬玄は慣れたようにマグカップを燈里から取り上げテーブルに置いた。

「同じ過ちは繰り返したくないだけだ」

頑なな言葉には、どこか怯えが滲んでいる。仕方がないと燈里は身動いで冬玄に向き直り、両手で頬を包み込んだ。

「祖霊祭祀。人は亡くなって魂は常世へ向かい、正しく祀られた御霊《みたま》は子孫や村を守る。祀りとはそういうものでしょう?祀られる事で守り、祀られなくなれば祟る……だから心配はいらないんだよ」
「それでも、絶対ではない」
「冬玄」
「――無駄だよ、燈里」

呆れた声が聞こえたと同時に、燈里の体が冬玄から引き離される。追い縋る手を容赦なくはたき落とし、楓は燈里を背に冬玄の前に立った。

「楓!もう大丈夫なの?」
「まぁね。まだ燈里の体の中にいた感覚が抜けなくて、変な感じではあるけれど」

燈里の精神が結の中にある間、楓は燈里の体に残っていた。虚ろな器となった体に入り込もうとするモノ達から燈里を守る必要があったからだ。同時に縁次との祝言の最後の抵抗として、記憶の片隅ではなく燈里として一時的ではあるが成り代わった。そのため楓としての形が定まらず、ここ数日は現実でも燈里の意識の中でさえも、その姿は翁面の形しか取れなかった。

「そんな事より。燈里、あまりこれを甘やかさないんだよ。どうせ何を言った所で、燈里から離れないのだから……燈里と自分以外の男の祝言の場を見た事が、よほどショックだったらしい」
「煩い。燈里を返せ」
「燈里を凍えさせる気かい?たった一杯のココアで、燈里が君の冷たさに耐えられる訳がないだろう」

鋭い言葉に冬玄は何も言えず、楓を睨む。それを歯牙にも掛けず、楓は燈里の手を引いて窓際へと移動した。

「燈里に触れたいのなら、その妖の衝動を静める事だ。トウゲン様から冬玄に戻らない限りは、近づく事は許さないよ」

舌打ちしながらも、冬玄は動かない。楓の言っている事はすべて正しいのだと、冬玄は何より理解していた。

「分かっている」

絞り出すようにそれだけを告げて、冬玄はマグカップを手に立ち上がる。台所に向かうその背に、燈里は苦笑しながらも呟いた。

「今の時期なら、逆に涼しくて気持ちが良かったんだけどな。これからもっと暑くなるだろうし、冷たいのは悪くないと思うんだけど」
「燈里。そういう所だよ。そうやって甘やかすから、あんな我が儘が出来上がるんだ」

呆れる楓に燈里はでも、と声を上げる。
燈里の優しさは変わらない。すべてを受け入れ包み込む、雪のような静かな美しさ。いつか承一《しょういち》が言った言葉を思い出し、冬玄は小さく笑みを浮かべた。
また温かなココアでも入れて、燈里へと持って行こう。きっと燈里は受け入れてくれるはずだから。
そんな期待を抱きながら、冬玄はお湯を沸かし始める。

外は快晴。夏の前触れの暑さが訪れそうだ。





緩やかに季節がいくつか過ぎて行き。

ある梅雨の始めの頃。祝縁寺の仏堂に、男が一枚の祝言絵図を奉納した。
男とよく似た花婿は、青年の姿をしていてもその顔は幼さを隠し切れてはいない。幼いままに亡くなったであろう事は、そのあどけなさが残る花婿の表情と享年十歳の文字が示していた。
納めた絵図に向かい、男は長く手を合わせていた。表情はなく、男がどんな気持ちでいるのかは分からない。
かたり、と音がして、外の雨音が強くなる。仏堂の扉が開けられた事に気づき、男は合わせていた手を下ろし、振り向いた。

「あぁ、申し訳ありません。邪魔をしてしまいましたな」

扉を開けて入ってきた住職が、男に気づき申し訳なさそうに眉を下げる。

「いえ。そろそろ戻ろうかと思っていた所です」

そんな住職に対して無感情に男は言葉を返し、扉へと歩み寄る。一礼する男に住職は微笑んで、奉納されたばかりの絵図に視線を向け目を細めた。

「立派なお子様でしたのでしょう。大切な語らいの時間に水を差すような真似をして、大変申し訳ない」

男もまた絵図に視線を向け。僅かにその目に悲しみが浮かぶ。

「――ええ。私にはもったいないくらいの、立派な息子でした。他者のために、躊躇いもなくその身を投げ出せる。立派で……どこまでも愚かな息子です」

感情の乗らない男の声が仏堂に響く。愚かと言いながらも、男の表情は後悔に歪んでいた。
住職は何も聞かない。子の亡くなった理由も、男と子の間に何があったのかも。
ただ男が語る言葉を、静かに聞いていた。

「私に出来るのはこれだけです。息子のために何もしてこなかった私に出来るのは、こうして祀る事だけ。例えそれが私の独善的な行為だとしても……ここが再び絵図を受け入れて下さって、本当に良かった」
「私もここを再び開く事が出来て良かったですよ。妙な噂がなくなって、ようやくです」
「花婿・花嫁葬列というやつですか」

男の言葉に、住職は頷く。
実際に行方不明者も出ている噂だ。周囲の反感を買い、寺を締めざるを得ない事は容易に想像がついた。

「ここを必要とされる方は多くおります。慰めや祈りの場を失わずに済んだのは、とても幸いでした。管理を任せていた親類とイワイの方には、感謝してもしきれません」
「イワイ、ですか?」

聞き慣れない単語に、男は住職へと視線を向ける。住職はただ静かに微笑んで男の横を通り過ぎ、正面の扉に掛けられている錠に鍵を差し込んだ。

「この寺に納められる絵図は、亡くなられた方と架空の相手を描いたものが主ですが、一枚だけ亡くなられた方同士の祝言を描いたものがあるのです」

小さな音を立て、鍵が開く。扉を開けて、住職は男を振り返った。

「イワイの方はその絵図に描かれた方々とは何の縁もなかったと聞いています。ですが偶然この地を訪れた際に、絵図を奉納する切っ掛けを与えて下さり、噂をなくして頂いた……そして今も、こうして梅雨の時期になると詣でられるのですよ。この絵図だけでなく、寺に納められたすべての絵図を詣でて下さいます」

住職の柔らかな笑みに、男は気づく。イワイのその意味を。
扉の奥から、微かに風が吹いた。眠っていたものが目覚めたかのように。

「イワイの方はこの奥の間の絵図の祝言を祝い、斎《いわい》人として仏様を祀って下さっているのです」

雨音が聞こえる。
その音に混じり、何かの音が聞こえていた。
耳を澄ませても、はっきりとは聞こえない音。
それは低く、高く。

まるで祝言を祝う雅楽のような、そんな厳かな音色だった。



20250615 『マグカップ』

6/15/2025, 9:48:28 AM

態とらしい咳払いが、室内に響く。

「その、なんだ……どうなってんのか、説明してくれねぇか」

気まずげな顔をする承一《しょういち》へ、結《ゆい》と冬玄《かずとら》は視線を向ける。すぐに視線を腕の中の燈里《あかり》へと戻す冬玄とは対照的に、結は仕方がないと息を吐いて口を開いた。

「あたしと燈里を勘違いした縁次《よりつぐ》が、強引に燈里と祝言を挙げようとして、兄貴があたしと縁次の絵を納めて、こうなった」
「全然分かんねぇな。説明する気あんのか、結」

眉を寄せる承一に、結は肩を竦めてみせる。縋りつく縁次の背を撫でながら、どこから話すべきかと承一の目を見つめた。
承一もまた結の目を見返し。ややあって、確認だけどよ、と悩みながらも疑問を口にする。

「縁次の絵の嫁の方。塗り潰したのは、本当におめえか?」

視線を結から縁次へと向ける。
結の名を繰り返し呼びながら、必死に離れまいと縋る縁次の姿は、在りし日の姿からは想像が出来ないものだ。結に執着する今の縁次ならば、何度描き直しても結ではない花嫁を黒く塗り潰すのではないか。
そんな予想を、しかし結は苦笑しながら否定した。

「あたしがやった。例え想像上の相手でも、あたし以外は認められなかったし……相手がいない状態で縁次の所へ行ったら、あの花嫁の代わりにあたしが縁次と祝言を挙げられると思ったから」

でも、と縁次と繋ぐ手の小指に絡む白の糸を見ながら、結は暫し口籠もる。衝動的な行動の結果が、願ったものとは悉く異なったであろう事は、二人の様子から明らかだ。

「花嫁を塗り潰されて不完全になったとはいえ、縁次は祀られてる。だから祀られなかったあたしを、縁次は認識出来なかったんだ」
「――祀ってやっただろうが」

寂しさを乗せた声音で呟く結に、承一は苦い顔をしながらもそれを否定する。
驚いたように顔を上げる結に、承一は言い含めるようにして、祀ったと繰り返した。

「おめえが死んで、俺が描いてやっただろ?壁に掛けた瞬間に婿が歪んじまって、すぐに外したがよ……縁次みてぇに何度描き直しても同じようになるから、そのまま家ん中にしまっちまったがな」

短く息を吐く承一に、結は戸惑い視線を揺らす。強く繋がれた手と、しがみつき名を呼ぶ縁次と、そして承一を見て力なく首を振る。

「知らない。あたしの絵の事も、縁次の絵の事も……描き直したって何?あたし、一度しか縁次の絵を塗り潰してない」
「なら、縁次しかいねぇわな」

呆れたような乾いた笑いを浮かべ、承一は結の方へ歩み寄る。縁次の襟を掴んで結から引き剥がし、花婿の席へと座らせた。
花嫁の席に視線を向ける。すでに冬玄と燈里は席を離れ、結が席に着くのを静かに待っている。状況が理解できず困惑する結に、承一は目線だけで花嫁の席に座るように促した。

「結」
「燈里」

少し離れた場所で、冬玄に抱きかかえられたままの燈里が声を掛ける。

「三献《さんこん》の儀。道具はあるから、縁次さんと盃を交わそう?私が御神酒を注ぐから」
「でも……縁次が」

縁次に視線を向ける。承一に引き剥がされる際に、抵抗を見せていた縁次は、しかし今は花婿の席で沈黙を保っていた。顔を上げ姿勢を正し、儀式の始まりを待つ縁次に、結は一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた。
幼い頃に交わした戯れのような約束を、死してなお縁次は記憶し、ただ一人を求めている。自身に与えられた花嫁を否定し、結の花婿を拒絶し、契るその時を待っている。
怖ろしさすら感じられる、その一途な想い。真っ直ぐな縁次の視線に、結は思わず俯いた。
深く息を吐く。そして結は顔を上げると、ゆっくりと花嫁の席へ向かい座った。
冬玄に支えられながら燈里は側に寄り、着ていた白無垢を結の肩に掛ける。綿帽子を承一が結に被せ、ぐすと鼻を鳴らしながら離れていった。

「まさか、妹の晴れ姿が見れるなんてな」

声を震わせながら、承一は親族の席に着く。

「いい年して、みっともなく泣かないでよ。恥ずかしい」
「うるせぇ!本当に可愛げのない奴だな」

互いに文句を言い合う兄妹は、それでもその表情はとても穏やかだ。本当に仲の良い兄妹だったのだろう。
どこか切ない気持ちに、燈里は目を細める。慰めのようにその背を撫でる冬玄に笑いかけ、縁次と結の正面に座った。
燈里と結の視線が交わる。
泣くのを耐えたような不格好な微笑みを浮かべ、結はありがとうと、燈里へ頭を下げる。

「燈里が来てくれてよかった。もしも燈里が来なかったら、こんな経験、きっと出来なかった」
「私も結がいてくれてよかった。もしもあの行列が縁次さんじゃなかったら。もしも結がいなかったら、きっと祝言絵図に描かれて、知らない誰かと結ばれてたはずだから」

偶然の出会いが、互いの最善の結果を導いた。
それは最早偶然ではなく、必然かもしれない。

「――じゃあ、始めるよ。形ばかりの式になるけど、ごめんね」

そう言って、燈里は冬玄と共に盃に神酒を注いでいく。
一番小さな盃。花婿と花嫁の過去を表したもの。
それを縁次へと手渡し、縁次は三回に分けて神酒を飲み干した。
返された盃に再び神酒を注ぎ、今度は結へと手渡す。縁次と同じように三回に分けて神酒を飲み干した結は、燈里へ盃を返しながら眉を下げる。

「まさか死んでから酒を飲むとは思わなかった」
「私も、幽婚に立ち会うとは思わなかった」

互いに笑い合う。
燈里が盃に神酒を注いで縁次に渡し、それが飲み干されていくのを、どこか不思議な気持ちで結は見つめていた。
盃を受け取って、今度はそれよりも大きな盃へと変えて神酒を注ぐ。
二番目に小さな盃は、花婿と花嫁の現在を表したものだ。
それを今度は結へと手渡す。結から縁次、そして結へと盃は交わされ、燈里は最後の一番大きな盃を手にした。

「死者に未来は必要ないんじゃない?」

結に止められ、燈里は目を瞬いて盃を見る。
一番大きな盃は、花婿と花嫁の未来。子孫繁栄と一家の安寧は、確かに死者には不釣り合いだ。
そう思いながらも、燈里は神酒を注ぐ手を止めず。盃を手渡された縁次も躊躇いもなく飲み干すのを見て、結は呆れたように溜息を吐いた。

「死者が未来を思ってもいいと思うけどな。祝言絵図は死者の未来を願って描かれているんだから……私が結の未来の幸せを願うように、結は縁次さんとの未来の幸せを願えばいいよ」
「屁理屈……本当に燈里は、あたしと正反対だ」

縁次から返された盃に神酒を注ぐ燈里を結は止めず、手渡された盃におとなしく口を付けた。


「これで終わり?」

縁次が飲み干した盃を受け取る燈里は、結の言葉に頷いた。
そう、と呟き、結は自身の手に視線を落とす。
小指に巻かれた白い糸。盃を交わした前と何も変わらない事に、どこか拍子抜けしながら縁次に視線を向けて。

「結」

手を引かれ、縁次に強く抱きしめられた。

「――縁次っ!」

突然の事に、結は慌てて身を捩る。けれど頬を包み額を合わせて微笑む縁次に、結は動けずに頬を染めた。

「約束……やっと守る事が出来た」

嬉しそうに囁かれて、結は息を呑む。結だけを見つめる縁次の目から視線を逸らせず、気恥ずかしさに目を瞬いた。

「結。俺のお嫁さんになってくれて、ありがとう」
「だ、だって。約束したもの。縁次が、お嫁さんにしてくれるって。だから」

滲み出す視界の中で、結は必死で声を上げる。
幼い頃の、あの秘密の部屋で約束を交わした時の思いが込み上げる。

「結。大好き」

結の頬を包んでいた手は、結の両手と繋ぎ指を絡め。

「あたしも……あたしも、縁次が好き」

吐息が重なる。静かに目を閉じた。
あの特別な日を繰り返すように。誓いを交わすように。

ゆっくりと二人の唇が重なった。



20250614 『もしも君が』

6/14/2025, 11:14:26 AM

それはほんの僅かな、気のせいだと思えるほど些細な変化だった。
鳴り響く雅楽の狂った音色が、僅かに正される。呪いから祝いへと成り代わるように。

「――きた」

呟いて、結《ゆい》は部屋の入口へと駆け出した。扉に手を掛け、渾身の力を込めて開いていく。

「結っ!?おめえ、なんで……」
「ばか兄貴、その話は後!早く絵を」

扉の向こう。仏堂にいた承一《しょういち》が、驚きに声を上げる。結はそんな承一を睨み強く声をかけると、奥を指差した。
奥に視線を向け、ひっと承一から掠れた悲鳴が漏れる。恐怖に見開かれ、動けない承一に結は焦れてその背を容赦なく叩いた。

「痛ぇ!?何しやがる、このじゃじゃ馬娘!」
「時間がないんだっての!男なんだから、あんなのに怯えんな!」

文句を言う承一にさらに強い言葉を返し、結は拳を振り上げる。それに慌てて、承一は腕の中の額――新しい祝言絵図を抱え直し、小走りで部屋の奥へと向かった。


「縁次《よりつぐ》と……さっきの嬢ちゃんか」
「無駄口はいいから、さっさと絵を掛け替えて!」

赤い糸で互いを繋がれている花婿と花嫁を見て、承一の眉が寄る。足を止める承一を許さないとばかりに、結は強く責め立てる。そして、縁次の糸を砕き続けている冬玄《かずとら》へと声を張り上げた。

「化け物!絵から伸びる糸を砕いて、そのまま外して!今なら外せるはずだ!」

声に反応して結と承一へ視線を向けた冬玄は、すぐさま状況を理解すると、弾かれるように絵図へと向かう。絵図から伸びる太い糸を掴み凍らせて砕くと、そのまま額を壁から取り外した。

「兄貴!」
「わぁってる!」

結の呼び声に叫ぶように返事を返し、承一は手にしていた額を壁に掛ける。
花婿と花嫁の描かれた、祝言絵図。
花婿の名は、遠見《とおみ》縁次。
花嫁の名は、齋《いつき》結。

二人の契りを示す絵図が、奉納された。





優しく揺り起こされて、目を覚ました。

「雨が上がった。だからもう起きないと」

まだぼんやりとする意識で目を瞬き、焦点を合わせていく。

「雨が上がったの?」
「うん。すっかり晴れてる」

手を伸ばす。同じように伸ばされ繋がる手の小指に巻かれた白の糸を見て、自身の右手の小指に視線を落とした。
何も巻かれていない事が、何故だか寂しいと感じてしまう。

「赤は間違った色だから、ないのは当たり前。ちゃんと正しい相手がいるんだから……それが単細胞のろくでなしでも」
「何?」

最後の方が聞き取れず、首を傾げた。それに何でもないと首を振り、手を繋いだまま立ち上がる。

「行こうか」

同じように立ち上がり、手を繋いだまま部屋の外へと向かう。
眠っている間に朝が来たのだろう。明るい室内には雨の名残はどこにも見られない。障子を開けて出た縁側の廊下は、眩いばかりの光が差し込み、外を見れば澄み切った青空が広がっていた。
記憶が混濁している。眉を寄せ、外と廊下、出てきた室内に視線を向け、そして繋がれている手を見た。

「ここは……?」
「あたし達の秘密の部屋」

記憶の中の。
そう付け加える私は、どこか寂しい目をしていた。

「――まだ、寂しいの?」

思わず問いかける。問われた私は、驚いたように目を瞬き、ふんわりと微笑んだ。

「もう寂しくない。ようやく寂しくなくなった」
「ならよかった」
「ありがとう……どうせ迎えが来るだろうし、それまで話していよっか」

そう言って手を離すと、縁側の窓を開け放していく。日差しの差し込む縁側に座って手招かれ、その隣に座った。
何を話そうか。話そうといいながら悩むその姿は、とても楽しそうだ。

「昔話でもする?この辺りの子供なら必ず聞かされる、祝縁寺の昔話」
「うん、聞きたい。聞かせて」

頷くと、私はその話を思い出すように空を見上げ、ゆっくりと語り出す。

「昔々。ある所に、一人の母親と小さな子供がおりました――」

緩やかに、穏やかに。
もの悲しい、祝縁寺の始まりが紡がれていく。


昔の事。夫に先立たれた妻が、幼子を抱えて必死に生きていた。
母一人、子一人。貧しくはあったが母は子を愛し、大切に育てていた。
しかしある春の終わり。子供は流行病にかかり、看病の甲斐もなく亡くなってしまう。唯一の子を喪って、母は深く嘆き悲しんだ。
とある絵師がいた。絵師は近所に住む子を喪った母を哀れに思い、一つの絵を描き上げた。
それは、亡くなった子が成長した姿を想像して描かれたもの。絵を渡すと母は大いに喜び、そしてある願いを口にする。

――どうかこの子に、伴侶を与えてやってはくれませぬか。

一人で亡くなった子の慰めに。そんな母の願いを快く引き受け、絵師は一枚の祝言絵図を描き上げた。
その日の夜。絵師は謎の高熱に魘された。起き上がる事も出来ず、何日も死の淵を彷徨った。
亡くなった子は、七つに満たない幼子だ。子は村の山奥に住む神に連れていかれたのだった。
その子を絵師は、絵の中で成長させ伴侶を持たせた。それは神の元から解き放つ導となり、子は母の元で祖霊として祀られたのだ。
絵師の謎の高熱は、神の怒り。それを知って、母は祝言絵図を手に近くの寺へと駆け込んだ。
境内に咲き誇る青の紫陽花を一本手折り、本尊の前で紫陽花と絵図を置き、こう告げた。

――絵師は子を喪い、嘆く私の願いに応えただけの事。もしも私の子への想いを、絵師の誠実さを誤りだと断ずるのであれば、どうかこの花の色を赤く染めて下さいませ。赤く染まるのであれば私は絵を手放し、どんな咎でも受け入れましょう。しかし青のままであれば、正しいとお認めになるのであるならば、その怒りは静めるべきもので御座いましょうや。

高らかに告げた母の前で、紫陽花の花は色を喪っていく。青から白へ。だがいくら待てど、白から赤へは変わらない。
それを見た母は深く一礼し、絵図を手に寺を出た。そして後日、絵師が回復した頃を見計らい、改めて寺を訪れ絵図を奉納したのだった。


語り終えて、彼女はくすりと笑う。

「これが祝縁寺の始まり。まあ、ただのこじつけだろうけどね。山の神様なのに行くのは寺だし。青い紫陽花を赤くしろなんて無理難題を、まったく関係ない仏に押しつけるし。まったくもって意味が分からない……けど切っ掛けが何であれ、あの絵のおかげで救われた人はたくさんいる」

そのたくさんの中に、彼女はいるのだろうか。寂しくはないと言っていたけれど、果たしてそれは救われた事になるのだろうか。
不安になり、彼女を見た。彼女は何も言わず、微笑むだけだった。

不意に、どこからか音が聞こえてくる。
音色のような、歌声のような不思議な旋律。何故か懐かしくて愛しくて、無意識に指が胸元を探る。

「――ねぇ、この音。何に聞こえる?」

穏やかに問われて、何も触れない手を握りながら耳を澄ませた。
懐かしい音色。愛しい曲。いつかどこかで、大切な誰かが歌ってくれた愛の歌。

「ラブソング。私のために歌ってくれた、大切な歌」
「そっか……あたしには、子守歌に聞こえるよ。母さんや兄貴が、あたしのために歌ってくれた、大切な歌だ」

優しい声音。彼女を見つめ、考える。
私とよく似た彼女が誰かを。優しくて不器用な、寂しがりな彼女の名前を。
彼女は何も言わない。ただ静かに、穏やかに目を細めて。
ふと何かに気づいて、彼女は一点を指を差した。
指差す先で、誰かが立っている。それは、とても大切な。
忘れたくはないと願っていたはずの――。

「お迎えだよ。いい加減行かないとね。待ちくたびれて、縁次なんかは泣いてそうだ」

そう言って立ち上がる。手を差し伸べながら、晴れやかに笑う。

「行こう、燈里」

名前を呼ばれ、同じように笑いながらその手を取った。

「うん。行こう――結」

立ち上がり、手を繋いで歩き出す。
庭に植えられた白の紫陽花が、花に溜まった滴を払うように揺れていた。





雨音が止んだ。
雅楽の音が正され、荘厳な音色が部屋に響き渡る。
外した額は溶けるように消えていき、残る赤い糸はその端から解けていく。

「燈里っ!」

糸が解けた事で傾いでいく燈里の元へ、冬玄は駆け寄りその華奢な体を抱きしめる。冷たい体を包み込み、鋭い目をして結の姿を探した。
だが部屋に結の姿はない。状況を飲み込めず祝言絵図の前で立ち尽くす承一と、傍らで倒れた縁次がいるのみだ。

「――どこ行った?あの娘」
「燈里の所だよ」

声がした。燈里の唇から、燈里ではない声が紡がれる。

「楓《かえで》?」
「正直堕ちるんじゃないかって思ってたけど、我慢が出来たようで何よりだ」

皮肉めいていながらも隠し切れない安堵を含んだ声音に、冬玄の眉が僅かに下がる。気まずさを抱え、それでも燈里を気にして声を掛けた。

「燈里は?」
「ひとつを二人に切り離している所。でもそのまま話に花が咲きそうだね……仕方ない。一人で我慢が出来たご褒美に、迎えに行ってきてあげるよ」

苦笑して、楓はそれきり沈黙する。状況が理解出来ぬまま、冬玄は燈里の綿帽子を外した。
眠る燈里の、熱を失った頬に触れる。泣くのを耐えて唇を噛みしめる冬玄の視界の隅で、倒れ伏す縁次が徐に起き上がるのが見えた。

「ゆい……ゆい……」

立ち上がる事が出来ないらしい。這いずり、結の名を繰り返し呼びながら、縁次は周囲を彷徨う。片手を伸ばし、ただ一人を求める姿から、冬玄はそっと目を逸らした。

「ゆい……」
「そんなに呼ばなくても、ここにいるよ。縁次の隣に、ずっといる」

柔らかな声音。はっとして視線を向ければ、そこには伸ばした縁次の手を取り、繋いで微笑む結の姿があった。

「ゆい……やくそく……はなれない……ゆい、ゆい……」
「分かってる。約束したからね。ほら、兄貴がちゃんと叶えてくれたんだよ」

繋ぐ手の指を絡めて、結に縋り付いていく縁次を抱き留めながら。結は冬玄を一瞥し、燈里へと視線を向ける。その視線から隠すように燈里を抱き寄せて、冬玄は燈里に体に僅かに熱が宿っている事に気づいた。

「燈里?」

頬に触れる。赤みを帯びていく頬の熱を感じ取り、願うように燈里の名を呼んだ。
唇を指先でなぞる。僅かな隙間すら厭うように、強く体を抱き寄せて。
触れた唇の熱で溶けてしまいそうな錯覚に、冬玄の世界がくらりと揺れた気がした。

「燈里」

見つめる燈里の瞼が微かに震える。ゆるりと開いたぼんやりとした目が、冬玄を見つめ焦点を結んでいく。

「――かずとら?」

どこか辿々しい呟きに、冬玄は泣くように微笑んで。

「おかえり。燈里」

離れたくないと、強く強く燈里を抱きしめた。



20250613 『君だけのメロディ』

6/13/2025, 11:21:54 AM

暗闇の回廊を冬玄《かずとら》は一人、奥を目指して歩き続けた。
調子の外れた耳障りな雅楽の音と雨音が、回廊内に響き渡る。笙や笛、太鼓の音が雨音と重なり、溶け合い。だがある節を過ぎると雨音だけを残してぷつりと途絶え、また同じ旋律を奏で始める。
延々と繰り返される同じ音に、冬玄は足を止めぬまま息を吐いた。
どれほどの間、この回廊内を彷徨っているのか。
周囲が見えぬ暗闇に、繰り返される調子の外れた歪な雅楽。遠ざかりはしないが、決して近くもならないそれは、ただの人であれば疾うの昔に心を病ませ壊しているのだろう。冬玄であるからこそ、まだ耐える事が出来ている。

「燈里《あかり》」

手にした守袋を握る。冬玄が回廊の奥へと進む唯一の理由であり、絶対的な存在。手の中で感触を確かめて、俯き立ち止まりそうになるのを堪えて、冬玄は歩き続けた。

「――なんだ?」

不意に雅楽でも、雨音でもない音が混じる。
途切れ途切れに聞こえてくるのは、微かな歌声。耳を澄ませる冬玄の記憶を揺さぶり、唇を噛みしめた。
それは以前、冬玄が燈里のために歌ったものだ。燈里の母校で起こった事件に巻き込まれた際、廊下に響き渡る音の渦に逆らうように歌ったラブソング。抱き寄せた時の燈里のぬくもりを思い出し、険しさを湛えていた冬玄の目が僅かに綻んだ。
一度立ち止まり、目を閉じる。聞こえる歌だけに意識を向けて、そこで冬玄は違和感に気づく。
歌声は燈里のものだ。だがそれだけ。抑揚のない歌い方。拙く辿々しい旋律は、まるで歌う事が初めてのように覚束ない。

「あの娘……何を考えている?」

燈里とよく似た、その身の内に燈里を取り込んだであろう結《ゆい》。彼女の行動の意味を理解できずに、冬玄は眉を顰め目を開けた。
今は考えていても仕方がない。この歌の方へ向かう以外に、燈里に辿り着く方法はないのだから。
ゆっくりと歩き出す。迷わず力強く、足を踏み出した。





穏やかな微睡みの中。
聞こえる歌声に懐かしさが込み上げ、思わず笑みが浮かぶ。

「まだ雨は止まないよ」

歌が途切れる。優しい響きの声に甘えながら、歌を止めないでほしいとぬくもりに擦り寄った。

「仕方ないな。初めて歌うんだけど」

苦笑して、また歌が紡がれる。
いつか誰かが歌ってくれた歌。思いが込められた、素敵なラブソング。I loveで終わる暖かな余韻に、もう一度と繋ぐ手をそっと握る。

「我が儘。そろそろ仕舞いだよ。ぐずらないでさっさとおやすみ」

窘められる声の響きも優しい。
暖かで優しくて、気を抜けば泣いてしまいそうだ。
嬉しくて堪らないのに、それと同じくらい苦しい。いずれ訪れるさよならに、いっそ泣き叫んで縋りたくなってしまう。
置いていかないでほしい。一人にしないでほしい。
誰に対してそう強く思うのかは、思い出せないけれど。

歌声が響く。
おしまいだと言いながら歌ってくれる優しさに、力強く握り返される手の暖かさに微笑んで。
僅かに浮かび上がった意識を、さらに深く沈めていった。





「ここか」

光が漏れ出す扉の前で冬玄は立ち止まった。
歌声はもう聞こえない。歪に繰り返す雅楽の音が雨音に混じり、扉の向こう側から聞こえている。

「燈里」

手の中の守袋に視線を落とし、扉を見据え手を掛ける。然程力を込めずとも開いていく扉は、軋んだ音を立てながら中の異様な光景を冬玄の眼前に晒した。
部屋の奥。俯き座る白無垢を着た燈里と、その隣に座る黒紋付を羽織った男。男もまた深く俯き顔は見えないが、おそらくはこれが遠見《とおみ》なのだろう。
互いに寄り添うように座る二人以外、他には誰もいない。部屋の中に雅楽の音だけが響いている。

「燈里」

名を呼び、冬玄は燈里へと歩み寄る。燈里は答えない。身じろぎ一つせず、俯いたまま。
燈里と遠見の前に置かれた銚子と重ねられた盃は、使われた様子はない。互いの家族もなにもない、形だけの祝言。
その理由に気づいて、冬玄は嘲るように口元を歪めた。

「体だけあった所で、誓いは出来ない……これが目的か。娘」

声を張り上げる。
動かない遠見へと一歩近づき、冬玄は腕を伸ばした。

「おとなしく燈里を返せ。さもなくば、貴様の大切な遠見を壊す」

その言葉はただの脅しではない。
冬玄の周囲に霜が降りていく。伸ばした指先が遠見の髪に触れ、一瞬で髪が凍り付いた。

「――化け物」

無感情な声音。
腕を降ろし振り向く冬玄を一瞥して、結は燈里と遠見を指差した。

「よく見なよ。単細胞」

鼻で笑われ、冬玄の目に怒りが浮かぶ。しかし無言で結が示す方へと視線を向けた。

「花嫁と花婿。もう繋がれている」

言われて目を凝らす。燈里の右手の小指と、遠見の左手の小指。赤い糸で何重にも巻き付けられていた。

「――これは」

目を見張る冬玄の前で、その赤い糸はさらに小指に巻き付いていく。やがては小指だけでなく、手に腕に巻き付いて、燈里と遠見を結びつける。
燈里と遠見の体が糸に引かれ、互いへと傾いでいく。
二人は寄り添っているのではない。糸に繋がれ、引かれていただけだ。
赤い糸は二人を絡めながら、背後へと伸びていく。気づけばそこには、あの祝言絵図がかけられていた。

「なんで、燈里の名が……」

絵図の黒く塗り潰された花嫁。その下には“宮代《みやしろ》燈里”と名が記されていた。仏堂で見た時には何も書かれてはいなかったはずだ。
呆然と絵図を見つめる冬玄の横で、結は不快だと言わんばかりに、吐き捨てる。

「燈里は行列に花嫁の位置で参加した。その瞬間に絵に名前が書き込まれる。かきこまれたなら、祝言は必ず行われるよ」

不意に遠見の右腕が持ち上がる。糸に釣られた腕が銚子に伸び、中の神酒を盃に注いでいく。

「っ、止めろ!」

冬玄の手が糸を掴み、瞬時に凍らせ粉々に砕く。だが新たな糸が絵図から伸び、再び遠見の腕を繋いでいく。
きりがない。銚子や盃を砕こうにも、何故かこれらが凍り付く事はなかった。

「あんたのせいで、燈里はここに戻ってくる事になった。あんたが手を離したから、縁次《よりつぐ》の手が繋がれた……全部、考えなしの化け物のあんたのせい」

冷たい目をして、結は告げる。
何も言えず、ただ糸を砕くだけの冬玄を睨み付け、入口を振り返る。
何かを待つように。目を細めて、閉じた扉を見つめ続ける。

雅楽の音が響き渡る。
先ほどよりも長い節を奏で、また初めから繰り返して。
歪な音色に合わせて、雨音が強くなっていく。



20250612 『I love』

6/12/2025, 10:34:16 AM

細かな雨が降り続いている。
雨に濡れながら、墓地へと運ばれていく棺。静かな葬列を、雨が包み込んでいる。
一人になってしまった。家に帰っても、出迎えてくれる人は誰もいない。
どうして。何度も繰り返した思いに、涙が滲み出す。両親が亡くなってからずっと泣き続けていたのに、まだ涙は涸れる事はないらしい。
ふと、違和感に俯く顔を上げて棺を見た。亡くなったのは父と母。けれど目の前で運ばれていく棺はひとつだけ。
これは父と母、どちらの葬列なのだろう。それともまったく違う誰かの葬列に迷い込んでしまったのか。
隣を歩く兄が持つ遺影に視線を向ける。雨に濡れた黒の額の中を見ようと、目を凝らす。

「――あぁ、そうか」

思わず呟いて棺を見た。棺の中で横たわる死体を想像して、そっと目を閉じる。

無表情でこちらを見つめていたのは、私だった。
両親ではない。
これは、私の葬列だ。



雨音が聞こえていた。
ざあざあと、激しく窓や地面を雨が打ち付ける。
風が強い。外では嵐が来ているようだ。
遠雷。体の内側から響く音に身を竦ませながら、閉じていた目を開けた。
薄暗い両親の部屋。気づけばその隅で、膝を抱えて蹲って泣いていた。
稲光。心の中で、ゆっくりと数を数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
どおん、と、重苦しい音。まだ遠い事に詰めていた息を吐きながら、立ち上がる。
激しい雨と風が窓を鳴らす。今だけだ。明日になれば、きっとこの嵐は去るだろう。
この嵐で事故にあった両親とは違う。どんなに待っていても、二度と二人が帰って来る事はないのだ。
稲光。カーテンを白く染め、暗い室内を一瞬だけ明るく浮かばせる。
遅れてくるだろうその音から逃げ出すように、足早に部屋を抜け出した。



「――お願い」

雨音に紛れて、微かに居間から声が聞こえた。
入口からそっと覗き込む。
居間の片隅。喪服姿の私が立ち尽くしていた。赤く腫れた目を誰かに向けて、泣きながら願っていた。

「一人は寂しい。一緒にいて」

まるで迷子の幼い子供のようだ。必死に伸ばした手は、けれども誰かに取られる事はない。
居間には私以外誰もいない。当然だ。祖母は数年前に亡くなっている。そして両親がいなくなって、私は一人きりになったのだから。
一人きり。改めて突きつけられて、胸が苦しくなる。込み上げる涙を拭い、気づけば居間に入って私の手を取っていた。

「――寂しいの?」

喪服姿の私が問いかける。

「寂しい。私も、寂しい?」

頷いて問い返せば、私はきょとりと目を瞬いて笑った。

「うん。あたしも、寂しい」

どちらからともなく繋いだ手を解き、互いの背へと回す。熱を失った冷たい体を温めるように、強く抱きしめ目を閉じた。

「寂しいね。約束したのに」
「そうだね。一人になって、寂しいよ」
「なら、このまま雨が上がるまで、ひとつになって眠っていよっか」

この雨が上がるまで。
遠く雨音を聞きながら、嬉しくなって小さく笑う。
眠ってしまえば、雨も雷も怖くはない。それに一人でないのならば、きっと雨音も優しく感じられるだろう。
背に回した手に力を込める。離れないように。このまま溶け合ってしまえるように。

「おやすみ、私」
「おやすみなさい……ありがとう、あたし」

意識が混じり合っていく。悲しみも寂しさも雨音に溶かして、深い眠りへと落ちていく。
冷たいはずの雨音が、優しく包んでくれているようで。
小さく息を吐いて、何もかもを手放した。





ぷつん。
何かが切れたような、なくなってしまったような感覚に、冬玄《かずとら》は目を見張り息を呑んだ。

「燈里《あかり》?」

名を呼べど、答えはない。
込み上げる激情に、冬玄の影が揺らぐ。気を抜けばすぐにでも呑まれてしまいそうな衝動に耐えながら、冬玄は仏堂の扉に手を掛けた。
暗い仏堂の内部が、開かれていく扉から差し込む光で露わになる。吹き込む風が、壁にかかる無数の祝言絵図を揺らし、音を立てた。
仏堂内の正面。花嫁が黒く塗り潰された祝言絵図の真下に何かが落ちていた。それを認め、冬玄の表情が変わった。
足早に近づき、それを拾い上げる。紐の切れた守袋。それは冬玄が燈里に渡していたものだ。

「――燈里」

ぞわり、と空気が揺らめいた。
冬玄の影が大きく揺らぐ。顔を上げた冬玄からは表情が抜け落ち、花婿だけの祝言絵図へと視線を向けた。
唇が歪に弧を描く。冬玄の足下を中心に霜が降りていく。
静かに腕を持ち上げ、その指先が絵図へと伸びて。

「化け物」

背後から聞こえた呟きに、指が止まる。緩慢に振り返る冬玄の虚ろに濁った目が入口に佇む結《ゆい》の姿を認識し、困惑に瞬いた。

「燈里?」

結に重なるようにして、燈里が感じられる。
結でありながら、燈里でもある。まるで二人が一人になったように。

「――き、さまっ!」

その理由を理解して、冬玄の表情は怒りに歪んだ。

「死者の分際で、燈里を喰ったなっ!」

叫びと同時、結の右肩が凍る。
だが結は表情一つ変えずに、凍り付いた自身の右肩を見て。冬玄を見据え首を傾げた。

「いいの?」

無感情な疑問。訝しげに眉を潜めた冬玄は、だがすぐにその意味を理解して結の氷を溶かしていく。
燈里は今、結と同化している。結に傷をつける事は、燈里を傷つける事に等しい。
怒りや憎悪に歪んだ目に、焦りと恐怖が浮かぶ。激情のままに破壊する前に間に合った事に、安堵からか冬玄の体が一度大きくふらついた。
そのまま動けない冬玄を歯牙にも掛けず、結は自身の右腕を見た。何度か動かし問題がない事を確認して、冬玄の背後へと視線を向ける。
静かに結は冬玄へと近づき、その横を通り過ぎて奥へと向かう。結を追って視線を向ければ、そこに無数の祝言絵図はなく、ただ暗く長い回廊が続いているのが見えた。

「これは……」
「祝言が始まるよ。化け物」

結はそれだけを告げ、戸惑う様子も見せずに回廊へと足を踏み入れる。
奥から聞こえるのは、雨音と雅楽の音色だ。
祝言を祝う雅楽は歪み調子を外れ、それを単調な雨音が包み込む。異質でしかない音は、それでも冬玄を落ち着かせるには十分なもののようであった。
一度大きく呼吸する。手の中の守袋に冬玄は唇を触れさせて、回廊を見据えた。

「燈里……必ず連れ戻すから、諦めるな」

回廊はどこまでも暗く、結の姿は欠片も見えない。
だが冬玄の目は強い意志を湛えて前を見つめ、迷わずに回廊へと足を踏み入れた。



20250611 『雨音に包まれて』

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