細かな雨が降り続いている。
雨に濡れながら、墓地へと運ばれていく棺。静かな葬列を、雨が包み込んでいる。
一人になってしまった。家に帰っても、出迎えてくれる人は誰もいない。
どうして。何度も繰り返した思いに、涙が滲み出す。両親が亡くなってからずっと泣き続けていたのに、まだ涙は涸れる事はないらしい。
ふと、違和感に俯く顔を上げて棺を見た。亡くなったのは父と母。けれど目の前で運ばれていく棺はひとつだけ。
これは父と母、どちらの葬列なのだろう。それともまったく違う誰かの葬列に迷い込んでしまったのか。
隣を歩く兄が持つ遺影に視線を向ける。雨に濡れた黒の額の中を見ようと、目を凝らす。
「――あぁ、そうか」
思わず呟いて棺を見た。棺の中で横たわる死体を想像して、そっと目を閉じる。
無表情でこちらを見つめていたのは、私だった。
両親ではない。
これは、私の葬列だ。
雨音が聞こえていた。
ざあざあと、激しく窓や地面を雨が打ち付ける。
風が強い。外では嵐が来ているようだ。
遠雷。体の内側から響く音に身を竦ませながら、閉じていた目を開けた。
薄暗い両親の部屋。気づけばその隅で、膝を抱えて蹲って泣いていた。
稲光。心の中で、ゆっくりと数を数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
どおん、と、重苦しい音。まだ遠い事に詰めていた息を吐きながら、立ち上がる。
激しい雨と風が窓を鳴らす。今だけだ。明日になれば、きっとこの嵐は去るだろう。
この嵐で事故にあった両親とは違う。どんなに待っていても、二度と二人が帰って来る事はないのだ。
稲光。カーテンを白く染め、暗い室内を一瞬だけ明るく浮かばせる。
遅れてくるだろうその音から逃げ出すように、足早に部屋を抜け出した。
「――お願い」
雨音に紛れて、微かに居間から声が聞こえた。
入口からそっと覗き込む。
居間の片隅。喪服姿の私が立ち尽くしていた。赤く腫れた目を誰かに向けて、泣きながら願っていた。
「一人は寂しい。一緒にいて」
まるで迷子の幼い子供のようだ。必死に伸ばした手は、けれども誰かに取られる事はない。
居間には私以外誰もいない。当然だ。祖母は数年前に亡くなっている。そして両親がいなくなって、私は一人きりになったのだから。
一人きり。改めて突きつけられて、胸が苦しくなる。込み上げる涙を拭い、気づけば居間に入って私の手を取っていた。
「――寂しいの?」
喪服姿の私が問いかける。
「寂しい。私も、寂しい?」
頷いて問い返せば、私はきょとりと目を瞬いて笑った。
「うん。あたしも、寂しい」
どちらからともなく繋いだ手を解き、互いの背へと回す。熱を失った冷たい体を温めるように、強く抱きしめ目を閉じた。
「寂しいね。約束したのに」
「そうだね。一人になって、寂しいよ」
「なら、このまま雨が上がるまで、ひとつになって眠っていよっか」
この雨が上がるまで。
遠く雨音を聞きながら、嬉しくなって小さく笑う。
眠ってしまえば、雨も雷も怖くはない。それに一人でないのならば、きっと雨音も優しく感じられるだろう。
背に回した手に力を込める。離れないように。このまま溶け合ってしまえるように。
「おやすみ、私」
「おやすみなさい……ありがとう、あたし」
意識が混じり合っていく。悲しみも寂しさも雨音に溶かして、深い眠りへと落ちていく。
冷たいはずの雨音が、優しく包んでくれているようで。
小さく息を吐いて、何もかもを手放した。
ぷつん。
何かが切れたような、なくなってしまったような感覚に、冬玄《かずとら》は目を見張り息を呑んだ。
「燈里《あかり》?」
名を呼べど、答えはない。
込み上げる激情に、冬玄の影が揺らぐ。気を抜けばすぐにでも呑まれてしまいそうな衝動に耐えながら、冬玄は仏堂の扉に手を掛けた。
暗い仏堂の内部が、開かれていく扉から差し込む光で露わになる。吹き込む風が、壁にかかる無数の祝言絵図を揺らし、音を立てた。
仏堂内の正面。花嫁が黒く塗り潰された祝言絵図の真下に何かが落ちていた。それを認め、冬玄の表情が変わった。
足早に近づき、それを拾い上げる。紐の切れた守袋。それは冬玄が燈里に渡していたものだ。
「――燈里」
ぞわり、と空気が揺らめいた。
冬玄の影が大きく揺らぐ。顔を上げた冬玄からは表情が抜け落ち、花婿だけの祝言絵図へと視線を向けた。
唇が歪に弧を描く。冬玄の足下を中心に霜が降りていく。
静かに腕を持ち上げ、その指先が絵図へと伸びて。
「化け物」
背後から聞こえた呟きに、指が止まる。緩慢に振り返る冬玄の虚ろに濁った目が入口に佇む結《ゆい》の姿を認識し、困惑に瞬いた。
「燈里?」
結に重なるようにして、燈里が感じられる。
結でありながら、燈里でもある。まるで二人が一人になったように。
「――き、さまっ!」
その理由を理解して、冬玄の表情は怒りに歪んだ。
「死者の分際で、燈里を喰ったなっ!」
叫びと同時、結の右肩が凍る。
だが結は表情一つ変えずに、凍り付いた自身の右肩を見て。冬玄を見据え首を傾げた。
「いいの?」
無感情な疑問。訝しげに眉を潜めた冬玄は、だがすぐにその意味を理解して結の氷を溶かしていく。
燈里は今、結と同化している。結に傷をつける事は、燈里を傷つける事に等しい。
怒りや憎悪に歪んだ目に、焦りと恐怖が浮かぶ。激情のままに破壊する前に間に合った事に、安堵からか冬玄の体が一度大きくふらついた。
そのまま動けない冬玄を歯牙にも掛けず、結は自身の右腕を見た。何度か動かし問題がない事を確認して、冬玄の背後へと視線を向ける。
静かに結は冬玄へと近づき、その横を通り過ぎて奥へと向かう。結を追って視線を向ければ、そこに無数の祝言絵図はなく、ただ暗く長い回廊が続いているのが見えた。
「これは……」
「祝言が始まるよ。化け物」
結はそれだけを告げ、戸惑う様子も見せずに回廊へと足を踏み入れる。
奥から聞こえるのは、雨音と雅楽の音色だ。
祝言を祝う雅楽は歪み調子を外れ、それを単調な雨音が包み込む。異質でしかない音は、それでも冬玄を落ち着かせるには十分なもののようであった。
一度大きく呼吸する。手の中の守袋に冬玄は唇を触れさせて、回廊を見据えた。
「燈里……必ず連れ戻すから、諦めるな」
回廊はどこまでも暗く、結の姿は欠片も見えない。
だが冬玄の目は強い意志を湛えて前を見つめ、迷わずに回廊へと足を踏み入れた。
20250611 『雨音に包まれて』
6/12/2025, 10:34:16 AM