sairo

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雲一つない、快晴。
窓の外を見上げ、燈里《あかり》は小さく溜息を吐いた。
ここ数日続いた雨の気配は欠片も見えない。窓越しでも照りつける日差しは強く、梅雨の終わりが近い事を示していた。
はぁ、と燈里は再び溜息を吐く。家に帰って来てからというもの、明らかに溜息の数が増えた。分かっていながらも増えていく溜息に、思うのは数日前の非日常だ。

取材に訪れた先で起こった事。出会いと別れ。忘れてしまいたいほどの恐怖は、忘れる事の出来ない切なさになった。
簡易的な三献《さんこん》の儀を終えて、結《ゆい》と縁次《よりつぐ》は互いに寄り添いながら姿を消した。長い間満たされない欠落を抱えて彷徨い続けていた二人が、ようやく結ばれる事が出来たのだ。
祝言絵図に描かれたものよりも美しく、幸せそうな花婿と花嫁は、手を取り合い常世の旅路へと向かうのだろう。
それは喜ばしい事だ。一抹の寂しさはあるものの、燈里は心から二人の門出を祝福している。

溜息を吐いた。
死者の祝言――幽婚が終わり、こうして再び日常に戻ってきた。戻ってきたはずだった。一つの変化を除いては。

「そんなに溜息を吐くと、幸せが逃げていくぞ」
「冬玄《かずとら》」

優しい声と共に、マグカップが手渡される。
暖かな温もりとココアの甘い香り。今の時期には少しばかり不釣り合いなそれに、漏れ出そうになる溜息を呑み込んだ。
そのまま冬玄に抱き上げられて、燈里はソファの元まで運ばれる。後ろから抱き竦められて、燈里は背中から感じる冷たさにおとなしくマグカップに口を付けた。

家に戻ってから、否、あの幽婚の場で燈里が目覚めてから、冬玄は燈里から片時も離れようとはしない。一時であれ、燈里を失った事が冬玄の傷として心に深く刻まれてしまったためだ。

「冬玄」

マグカップから立ち上る湯気を見ながら、燈里は冬玄に声をかける。

「もう大丈夫だよ。縁次さんは結と一緒にいるんだし、楓《かえで》も言っていたでしょ?」

冬玄は何も答えない。ただ燈里を抱き留める腕に力を込めるだけだ。鼻腔を擽る蝋梅の香りと冬玄の腕の冷たさは、まるで冬に戻ったようで、燈里はふるりと肩を震わせる。
それに気づいて、僅かながらに腕の力は弱まるものの、やはり離す気配はないようだ。
変わらない状況に何度目かの溜息を吐き、冷えた体を温めるように、燈里はマグカップに口を付けた。



「――ろう」
「何?」

聞こえた静かな声に、燈里は首を傾げ振り返る。

「あの時、他の絵図にも触っただろう」

小さく繰り返された冬玄の言葉に、燈里は苦笑する。
あの時とは、冬玄を探して仏堂の奥へ向かうため、扉の前に掛かる絵図を外した時の事だろう。
結の警告に従って、燈里は決して紫陽花には触れなかった。だというのに燈里が縁次に連れて行かれたのは、それ以外の直接的な縁《えにし》が結ばれてしまったからだ。家に戻った後で、そう楓が教えてくれた。
あの時、縁次の絵図に触れてしまった事で縁が結ばれ、そして一人でいた事で隙が出来た。直前に結が燈里の精神を自らの内で眠らせていなければ、燈里は縁次と契りを結ばれていたのだろう。

「大丈夫だよ。他の絵図は皆花婿と花嫁が揃っていたんだから。きちんと祀られているから、縁次さんのようにはならないよ」
「分からないだろう。もしも見ていた絵図が偽りだとしたら?触れた後で、絵図が変化していたとしたら?……人間は欲深い存在だ。本物が欲しくならないとは言い切れない」
「心配性だなぁ」

くすくす笑い、燈里はマグカップに口を付ける。冷めてしまったココアを飲み干すと、冬玄は慣れたようにマグカップを燈里から取り上げテーブルに置いた。

「同じ過ちは繰り返したくないだけだ」

頑なな言葉には、どこか怯えが滲んでいる。仕方がないと燈里は身動いで冬玄に向き直り、両手で頬を包み込んだ。

「祖霊祭祀。人は亡くなって魂は常世へ向かい、正しく祀られた御霊《みたま》は子孫や村を守る。祀りとはそういうものでしょう?祀られる事で守り、祀られなくなれば祟る……だから心配はいらないんだよ」
「それでも、絶対ではない」
「冬玄」
「――無駄だよ、燈里」

呆れた声が聞こえたと同時に、燈里の体が冬玄から引き離される。追い縋る手を容赦なくはたき落とし、楓は燈里を背に冬玄の前に立った。

「楓!もう大丈夫なの?」
「まぁね。まだ燈里の体の中にいた感覚が抜けなくて、変な感じではあるけれど」

燈里の精神が結の中にある間、楓は燈里の体に残っていた。虚ろな器となった体に入り込もうとするモノ達から燈里を守る必要があったからだ。同時に縁次との祝言の最後の抵抗として、記憶の片隅ではなく燈里として一時的ではあるが成り代わった。そのため楓としての形が定まらず、ここ数日は現実でも燈里の意識の中でさえも、その姿は翁面の形しか取れなかった。

「そんな事より。燈里、あまりこれを甘やかさないんだよ。どうせ何を言った所で、燈里から離れないのだから……燈里と自分以外の男の祝言の場を見た事が、よほどショックだったらしい」
「煩い。燈里を返せ」
「燈里を凍えさせる気かい?たった一杯のココアで、燈里が君の冷たさに耐えられる訳がないだろう」

鋭い言葉に冬玄は何も言えず、楓を睨む。それを歯牙にも掛けず、楓は燈里の手を引いて窓際へと移動した。

「燈里に触れたいのなら、その妖の衝動を静める事だ。トウゲン様から冬玄に戻らない限りは、近づく事は許さないよ」

舌打ちしながらも、冬玄は動かない。楓の言っている事はすべて正しいのだと、冬玄は何より理解していた。

「分かっている」

絞り出すようにそれだけを告げて、冬玄はマグカップを手に立ち上がる。台所に向かうその背に、燈里は苦笑しながらも呟いた。

「今の時期なら、逆に涼しくて気持ちが良かったんだけどな。これからもっと暑くなるだろうし、冷たいのは悪くないと思うんだけど」
「燈里。そういう所だよ。そうやって甘やかすから、あんな我が儘が出来上がるんだ」

呆れる楓に燈里はでも、と声を上げる。
燈里の優しさは変わらない。すべてを受け入れ包み込む、雪のような静かな美しさ。いつか承一《しょういち》が言った言葉を思い出し、冬玄は小さく笑みを浮かべた。
また温かなココアでも入れて、燈里へと持って行こう。きっと燈里は受け入れてくれるはずだから。
そんな期待を抱きながら、冬玄はお湯を沸かし始める。

外は快晴。夏の前触れの暑さが訪れそうだ。





緩やかに季節がいくつか過ぎて行き。

ある梅雨の始めの頃。祝縁寺の仏堂に、男が一枚の祝言絵図を奉納した。
男とよく似た花婿は、青年の姿をしていてもその顔は幼さを隠し切れてはいない。幼いままに亡くなったであろう事は、そのあどけなさが残る花婿の表情と享年十歳の文字が示していた。
納めた絵図に向かい、男は長く手を合わせていた。表情はなく、男がどんな気持ちでいるのかは分からない。
かたり、と音がして、外の雨音が強くなる。仏堂の扉が開けられた事に気づき、男は合わせていた手を下ろし、振り向いた。

「あぁ、申し訳ありません。邪魔をしてしまいましたな」

扉を開けて入ってきた住職が、男に気づき申し訳なさそうに眉を下げる。

「いえ。そろそろ戻ろうかと思っていた所です」

そんな住職に対して無感情に男は言葉を返し、扉へと歩み寄る。一礼する男に住職は微笑んで、奉納されたばかりの絵図に視線を向け目を細めた。

「立派なお子様でしたのでしょう。大切な語らいの時間に水を差すような真似をして、大変申し訳ない」

男もまた絵図に視線を向け。僅かにその目に悲しみが浮かぶ。

「――ええ。私にはもったいないくらいの、立派な息子でした。他者のために、躊躇いもなくその身を投げ出せる。立派で……どこまでも愚かな息子です」

感情の乗らない男の声が仏堂に響く。愚かと言いながらも、男の表情は後悔に歪んでいた。
住職は何も聞かない。子の亡くなった理由も、男と子の間に何があったのかも。
ただ男が語る言葉を、静かに聞いていた。

「私に出来るのはこれだけです。息子のために何もしてこなかった私に出来るのは、こうして祀る事だけ。例えそれが私の独善的な行為だとしても……ここが再び絵図を受け入れて下さって、本当に良かった」
「私もここを再び開く事が出来て良かったですよ。妙な噂がなくなって、ようやくです」
「花婿・花嫁葬列というやつですか」

男の言葉に、住職は頷く。
実際に行方不明者も出ている噂だ。周囲の反感を買い、寺を締めざるを得ない事は容易に想像がついた。

「ここを必要とされる方は多くおります。慰めや祈りの場を失わずに済んだのは、とても幸いでした。管理を任せていた親類とイワイの方には、感謝してもしきれません」
「イワイ、ですか?」

聞き慣れない単語に、男は住職へと視線を向ける。住職はただ静かに微笑んで男の横を通り過ぎ、正面の扉に掛けられている錠に鍵を差し込んだ。

「この寺に納められる絵図は、亡くなられた方と架空の相手を描いたものが主ですが、一枚だけ亡くなられた方同士の祝言を描いたものがあるのです」

小さな音を立て、鍵が開く。扉を開けて、住職は男を振り返った。

「イワイの方はその絵図に描かれた方々とは何の縁もなかったと聞いています。ですが偶然この地を訪れた際に、絵図を奉納する切っ掛けを与えて下さり、噂をなくして頂いた……そして今も、こうして梅雨の時期になると詣でられるのですよ。この絵図だけでなく、寺に納められたすべての絵図を詣でて下さいます」

住職の柔らかな笑みに、男は気づく。イワイのその意味を。
扉の奥から、微かに風が吹いた。眠っていたものが目覚めたかのように。

「イワイの方はこの奥の間の絵図の祝言を祝い、斎《いわい》人として仏様を祀って下さっているのです」

雨音が聞こえる。
その音に混じり、何かの音が聞こえていた。
耳を澄ませても、はっきりとは聞こえない音。
それは低く、高く。

まるで祝言を祝う雅楽のような、そんな厳かな音色だった。



20250615 『マグカップ』

6/16/2025, 11:48:42 AM