sairo

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暗闇の回廊を冬玄《かずとら》は一人、奥を目指して歩き続けた。
調子の外れた耳障りな雅楽の音と雨音が、回廊内に響き渡る。笙や笛、太鼓の音が雨音と重なり、溶け合い。だがある節を過ぎると雨音だけを残してぷつりと途絶え、また同じ旋律を奏で始める。
延々と繰り返される同じ音に、冬玄は足を止めぬまま息を吐いた。
どれほどの間、この回廊内を彷徨っているのか。
周囲が見えぬ暗闇に、繰り返される調子の外れた歪な雅楽。遠ざかりはしないが、決して近くもならないそれは、ただの人であれば疾うの昔に心を病ませ壊しているのだろう。冬玄であるからこそ、まだ耐える事が出来ている。

「燈里《あかり》」

手にした守袋を握る。冬玄が回廊の奥へと進む唯一の理由であり、絶対的な存在。手の中で感触を確かめて、俯き立ち止まりそうになるのを堪えて、冬玄は歩き続けた。

「――なんだ?」

不意に雅楽でも、雨音でもない音が混じる。
途切れ途切れに聞こえてくるのは、微かな歌声。耳を澄ませる冬玄の記憶を揺さぶり、唇を噛みしめた。
それは以前、冬玄が燈里のために歌ったものだ。燈里の母校で起こった事件に巻き込まれた際、廊下に響き渡る音の渦に逆らうように歌ったラブソング。抱き寄せた時の燈里のぬくもりを思い出し、険しさを湛えていた冬玄の目が僅かに綻んだ。
一度立ち止まり、目を閉じる。聞こえる歌だけに意識を向けて、そこで冬玄は違和感に気づく。
歌声は燈里のものだ。だがそれだけ。抑揚のない歌い方。拙く辿々しい旋律は、まるで歌う事が初めてのように覚束ない。

「あの娘……何を考えている?」

燈里とよく似た、その身の内に燈里を取り込んだであろう結《ゆい》。彼女の行動の意味を理解できずに、冬玄は眉を顰め目を開けた。
今は考えていても仕方がない。この歌の方へ向かう以外に、燈里に辿り着く方法はないのだから。
ゆっくりと歩き出す。迷わず力強く、足を踏み出した。





穏やかな微睡みの中。
聞こえる歌声に懐かしさが込み上げ、思わず笑みが浮かぶ。

「まだ雨は止まないよ」

歌が途切れる。優しい響きの声に甘えながら、歌を止めないでほしいとぬくもりに擦り寄った。

「仕方ないな。初めて歌うんだけど」

苦笑して、また歌が紡がれる。
いつか誰かが歌ってくれた歌。思いが込められた、素敵なラブソング。I loveで終わる暖かな余韻に、もう一度と繋ぐ手をそっと握る。

「我が儘。そろそろ仕舞いだよ。ぐずらないでさっさとおやすみ」

窘められる声の響きも優しい。
暖かで優しくて、気を抜けば泣いてしまいそうだ。
嬉しくて堪らないのに、それと同じくらい苦しい。いずれ訪れるさよならに、いっそ泣き叫んで縋りたくなってしまう。
置いていかないでほしい。一人にしないでほしい。
誰に対してそう強く思うのかは、思い出せないけれど。

歌声が響く。
おしまいだと言いながら歌ってくれる優しさに、力強く握り返される手の暖かさに微笑んで。
僅かに浮かび上がった意識を、さらに深く沈めていった。





「ここか」

光が漏れ出す扉の前で冬玄は立ち止まった。
歌声はもう聞こえない。歪に繰り返す雅楽の音が雨音に混じり、扉の向こう側から聞こえている。

「燈里」

手の中の守袋に視線を落とし、扉を見据え手を掛ける。然程力を込めずとも開いていく扉は、軋んだ音を立てながら中の異様な光景を冬玄の眼前に晒した。
部屋の奥。俯き座る白無垢を着た燈里と、その隣に座る黒紋付を羽織った男。男もまた深く俯き顔は見えないが、おそらくはこれが遠見《とおみ》なのだろう。
互いに寄り添うように座る二人以外、他には誰もいない。部屋の中に雅楽の音だけが響いている。

「燈里」

名を呼び、冬玄は燈里へと歩み寄る。燈里は答えない。身じろぎ一つせず、俯いたまま。
燈里と遠見の前に置かれた銚子と重ねられた盃は、使われた様子はない。互いの家族もなにもない、形だけの祝言。
その理由に気づいて、冬玄は嘲るように口元を歪めた。

「体だけあった所で、誓いは出来ない……これが目的か。娘」

声を張り上げる。
動かない遠見へと一歩近づき、冬玄は腕を伸ばした。

「おとなしく燈里を返せ。さもなくば、貴様の大切な遠見を壊す」

その言葉はただの脅しではない。
冬玄の周囲に霜が降りていく。伸ばした指先が遠見の髪に触れ、一瞬で髪が凍り付いた。

「――化け物」

無感情な声音。
腕を降ろし振り向く冬玄を一瞥して、結は燈里と遠見を指差した。

「よく見なよ。単細胞」

鼻で笑われ、冬玄の目に怒りが浮かぶ。しかし無言で結が示す方へと視線を向けた。

「花嫁と花婿。もう繋がれている」

言われて目を凝らす。燈里の右手の小指と、遠見の左手の小指。赤い糸で何重にも巻き付けられていた。

「――これは」

目を見張る冬玄の前で、その赤い糸はさらに小指に巻き付いていく。やがては小指だけでなく、手に腕に巻き付いて、燈里と遠見を結びつける。
燈里と遠見の体が糸に引かれ、互いへと傾いでいく。
二人は寄り添っているのではない。糸に繋がれ、引かれていただけだ。
赤い糸は二人を絡めながら、背後へと伸びていく。気づけばそこには、あの祝言絵図がかけられていた。

「なんで、燈里の名が……」

絵図の黒く塗り潰された花嫁。その下には“宮代《みやしろ》燈里”と名が記されていた。仏堂で見た時には何も書かれてはいなかったはずだ。
呆然と絵図を見つめる冬玄の横で、結は不快だと言わんばかりに、吐き捨てる。

「燈里は行列に花嫁の位置で参加した。その瞬間に絵に名前が書き込まれる。かきこまれたなら、祝言は必ず行われるよ」

不意に遠見の右腕が持ち上がる。糸に釣られた腕が銚子に伸び、中の神酒を盃に注いでいく。

「っ、止めろ!」

冬玄の手が糸を掴み、瞬時に凍らせ粉々に砕く。だが新たな糸が絵図から伸び、再び遠見の腕を繋いでいく。
きりがない。銚子や盃を砕こうにも、何故かこれらが凍り付く事はなかった。

「あんたのせいで、燈里はここに戻ってくる事になった。あんたが手を離したから、縁次《よりつぐ》の手が繋がれた……全部、考えなしの化け物のあんたのせい」

冷たい目をして、結は告げる。
何も言えず、ただ糸を砕くだけの冬玄を睨み付け、入口を振り返る。
何かを待つように。目を細めて、閉じた扉を見つめ続ける。

雅楽の音が響き渡る。
先ほどよりも長い節を奏で、また初めから繰り返して。
歪な音色に合わせて、雨音が強くなっていく。



20250612 『I love』

6/13/2025, 11:21:54 AM