sairo

Open App
6/11/2025, 11:36:10 AM

「妹は美しかった。容姿だけじゃねぇ。信念を貫く強さも、苛烈な生き方さえも……すべてが美しかった」

絵図に描かれた名を指先でなぞりながら、承一《しょういち》は目元を僅かに緩ませた。
その目はどこか遠く、在りし日を見つめ。過ぎ去り、届かない過去を思い目を細める。

「丙午《ひのえうま》の年に生まれちまったもんで、よく爺共からは疎まれていたよ。丙午に生まれた女は気性が激しく、夫を短命にさせるなんて、そんな迷信を信じて……けど結《ゆい》は、真っ直ぐに生きた。周りなんざ関係ないって、自分を曲げようとはしなかった」

その目に浮かぶのは、妹に対する親愛と誇りだ。そしてそれは悲しみと一抹の寂しさへと変わり、結を重ね見るようにして承一は燈里《あかり》を見た。

「あんた。結が死人だって知って怖くなったか?話を聞いて軽蔑するか?」

悲しみを帯びた問いかけに、燈里は目を逸らさず承一を見つめ。一つ呼吸をしてから、いいえと否定する。

「私は結さんに助けて貰ったんです。以前取材に来た時に……そして今回も。仏堂に連れて行ってくれて、管理人であるあなたの事を教えてくれました。そんな優しい人を怖がったり、況して軽蔑なんて出来ません」

燈里に言葉に、承一は口元を歪め。視線を絵図の中の花嫁へと向け、そうかと優しく呟いた。

「あいつの分かりにくい優しさが伝わるとはな……素直でないんだよ。優しいのに、言い方がきつくて誰にも気づかれん。今回もそうなんだろう。そこにどんな思いがあれ、知らぬ振りは出来なかったんだろうよ」

承一の、結を思う言葉はどこまでも優しい。花嫁の髪を撫ぜるような指先の動きもまた、愛おしさに満ちて。
静かに妹を思う承一に、燈里はただ頷く事しか出来なかった。

「あんたは容姿こそ結に生き写しだが、その在り方は真逆だな。冬に降る雪があんたなら、夏の差すような日差しが結だ。あんたのようにすべてを受け入れ包み込む、静かな美しさは結にはねぇ。どこまでも苛烈で、それでいて何もかもをその眩いばかりの光でさらけ出させる。真っ直ぐな美しさがあった……俺の自慢の妹だったよ」

深く息を吐いて、承一は顔を上げる。どこか泣きそうな、それでも決意を秘めた目をして燈里を見据え、笑った。

「――頃合い、なのかもしれんな」
「え?」
「あんたがここに来た。結に似ているってだけで巻き込まれた、可哀想な嬢ちゃんかと思ったが、そうじゃない。結に導かれて、訪れるべくして訪れた。それに幸い、一番に反対していた遠見の両親はとっくに墓の下だ……いい加減、兄として妹を送り出すべきなんだろうさ」

その決意は悲しいほどに美しく。
知らず燈里は俯き、膝の上に置いた手をきつく握り締める。しかしそれは上から冬玄《かずとら》の手に優しく包まれて、はっとして燈里は冬玄を見た。

「あんたが描くのか?」

冬玄の問いに、承一はあぁ、と頷いた。

「この絵も、遠見《とおみ》の絵も、俺が描いた。他の奴じゃあ、描き終えた瞬間に燃えちまうからな。それでも何度描き直してもすぐにこうなる」

だが、と言いながら承一は奥の部屋へと視線を向ける。絵図を持ってゆっくりと立ち上がり、話は終わりだと言わんばかりに歩き出した。

「遠見に言われて出せなかった絵がある。完成させる前に仕舞い込んだが、奉納する事にするよ。そうすれば、あんたも遠見から解放されるはずだ」

部屋の奥へと続く襖に手を掛けながら凪いだ声音で呟くと、承一はそのまま襖を開け部屋に入っていく。残された燈里達もまた静かに立ち上がり、承一の家を後にした。






「まだ油断は出来ないが、終わる目処はついたか」
「そうだね。後はどこかで籠城でもしてみる?」

幾分か険しさが和らいだ冬玄に楓《かえで》が楽しそうに同意する。そんな二人の背を見ながら、燈里は密かに息を吐いた。

「燈里。あまりあの娘に、心を傾けるものではないよ」

前を行く楓が不意に振り返り、燈里に忠告する。曖昧に笑って首を振り、差し出される手を見ない振りをした。
結が死者であった事に、悲しみだけでなく死者に対しての畏れも少なからずある。しかし結は最初から燈里を助けてくれたのだ。その優しさを、死者だからという理由だけで拒みたくはなかった。

「まったく。困ったもんだ」
「仕方がない。燈里は優しい、良い子だからね」

呆れたように優しく笑って、楓は前を向き冬玄と共に歩き出す。その背にごめんね、と声なく呟いて、燈里も少し遅れて歩き出した。
無理矢理繋がれないのは優しさであり、もうすぐに終わるという安堵からだろう。その優しさに甘えて、もう少しだけ結を一人思っていたかった。

不意に、太鼓の音が聞こえた。
太鼓に続いて、笙や笛の音。足音が聞こえ出す。

「っ、冬玄」

前の二人はまだ、気づかない。
手を伸ばし、冬玄の腕を掴もうとして。

その手は、何も掴めずに空を切った。

「――え?」

何が起こったのか。理解を拒むように燈里はすり抜けた手に視線を向け。
その手が背後から伸びた知らない誰かの手に繋がれるのを見て、燈里は声にならない悲鳴をあげた。
慌てて周囲を見回すが、前を歩いていたはずの二人の姿はどこにもない。

「みつけた」

歪にひび割れた声。硬直する燈里の耳元で、愛おしげに笑う。

「ゆい、やくそく……ゆい。ゆい」

声は只管に結の名を呼ぶ。違うと否定する燈里の声は、喉の奥に張り付いて声にならない。
何故。どうして。
疑問が巡る。忠告通りに、今まで一度も紫陽花に触れてはいなかったはずだ。
怯え混乱し、身じろぎ一つ出来ぬ燈里の視界の隅で、白の何かが零れ落ちていく。
白の花びら。紫陽花の装飾花が、燈里の左肩から滑り落ちていく。
いつの間に。そう驚く燈里の脳裏を、ある一つの行為が過ぎていく。
仏堂にて、結に奥の間を教えられた時の事。結は燈里の左肩を叩いてから、場所を示した。
思い出すと同時。急速に意識が沈んでいく。抗う事を許さぬほどの深みへと引き込まれていく。

「――燈里っ!」

どこか遠くから、冬玄の声がして。
だがそれに答える前に、意識は黒く塗り潰された。





微かな違和感に、冬玄は弾かれたように背後を振り向いた。
だがそこにいるはずの、燈里の姿はどこにもない。

「燈里!」

周囲を見渡し名を呼ぶが、答える声はない。舌打ちして、気配を探る冬玄の耳に、低い太鼓の音が響いた。
音のする方へと視線を向ける。触れれば切れてしまいそうな鋭さを湛えた目が、遠く祝縁寺へと向かう行列を認め苛立ちに細められる。しかしその目は、ある一人を捉えた瞬間に、驚愕に見開かれた。
黒紋付羽織袴を来た男の隣。俯いて寄り添い歩く燈里の姿。

「燈里っ!」

叫んでも、燈里に反応はない。追いかけるために駆け出そうとした冬玄は、ふと込み上げた違和感に隣にいる楓へと視線を向けた。

「っおい。どうした」

崩れ落ち、震える肩を抱きしめ俯く楓の姿。嫌な予感に、膝をついて楓と視線を合わせた。

「燈里に何が起きている?なんであれの隣に燈里がいるんだ!」

楓は答えない。目を見開き、不規則な呼吸を繰り返し続けている。
それでも冬玄を認識した楓は、戦慄く唇を無理矢理に動かし、掠れた声で告げる。

「祝縁寺……閉ざされた。奥の間……意識が……追い出されて……」

焦点が揺らぐ。浅い呼吸を繰り返しながらも、楓は笑みを形作り。

「堕ちるなよ……燈里を、置いていくな」

そう告げて、楓の姿は跡形もなく消えた。



「――努力する」

一人残され、冬玄は低く呟いた。
確約は出来ない。今の状況では、何一つ希望は持てない。
楓は燈里の記憶の中に在る妖だ。楓が消えたという事はつまり、燈里に危機的な何かが起きたという事。
静かに立ち上がる。
行列は既に見えない。去った方角へと冬玄は視線を向けて。

「っ、貴様」

山門の下。無表情でこちらを見下ろす結の姿を認め、冬玄の影が感情に呼応するかのように揺らめいた。

「これは貴様の仕業か!」

声を張り上げるも、結は答えない。冬玄の目の鋭さが増し、影がさらに大きく揺らいでいく。

「――化け物」

微かな呟き。揺らぐ冬玄の影を見つめ吐き捨てられた結の言葉に、冬玄は激昂した。
冬玄の影から翁面が現れ、結へと襲いかかる。だかその前に。

「燈里には、相応しくない」

口元に緩く笑みを浮かべ。目には激しい怒りを宿して。
結の姿は解けるように消えていった。



20250610 『美しい』

6/10/2025, 11:17:21 AM

結《ゆい》が教えてくれた家は、村から離れるようにしてひっそりと建っていた。

「やっぱり出ないね」

分かっていた事だけど、と楓《かえで》は小さく呟いた。
呼び鈴を鳴らせど、声をかけれど、中からの反応はない。
燈里《あかり》が前回取材に訪れた時も同じであった。この村の人々は、梅雨の時期に外へ出る事は滅多にない。運良く農作業に出ていた人に話を聞いた所、やはりあの花婿・花嫁葬列が理由のようだ。
薄々分かっていた事だけに落胆は然程ではないものの、他に行く当てもない。どうするべきかを悩む燈里の横で冬玄《かずとら》は涼しい顔をして扉に手を掛ける。そして躊躇いもなく玄関扉を開けた。

「ちょっと、冬玄!?」
「申し訳ないが、時間がないんでね。邪魔するよ」

無遠慮に家の中へと足を踏み入れる。突然事に呆然とする燈里の手を引いて、楓もそれに続いた。

「――なんだ。人の家にずかずかと……っ」

奥から出てきた初老の男性が、険しい顔をして家に入り込んで来た三人を睨みつける。だがその視線が燈里に向けられた瞬間、明らかに動揺した様子で息を呑んだ。

「結。お前……どうして」
「突然の訪問、申し訳ありません。私は結さんではなく、宮代《みやしろ》燈里と申します。結さんより、祝縁寺の管理をなされている方がこちらにいらっしゃると聞き、お邪魔させて頂きました」
「結、が?」

呆然と呟いて、男は緩々と首を振る。深く息を吐いてから改めて燈里に視線を向け、そして目を伏せた。

「入れ」

呟いて、部屋の奥へと男は戻っていく。

「結さんと、何かあったのかな?」
「何かあったとしても、それは二人の間での事で僕達が関わるべき事じゃない。それに今はあの花婿を何とかする方が先だよ」

男が燈里を結と見間違えた時、その目に浮かんだのは恐怖や悲痛の類いのように見えた。
気にはなるものの、楓の言う事は正しい。何も知らない部外者が口を出すべき事ではないだろう。
これ以上立ち止まっている訳にもいかず、燈里達も男の後を追って家の中へと入っていった。





「聞きたいのは、遠見《とおみ》の野辺送りの事だろう?」
「遠見?」
「なんだ。結から何も聞かされていないのか」

部屋に入り、促されるまま座った直後に男に言われた知らない名に、燈里は困惑する。
野辺送りとは葬儀の後、死者を火葬場や埋葬場所まで運ぶ事だ。おそらくは水たまりの向こう側で見た、あの葬列の事だろう。
だとすれば、遠見とは花婿の事か。俯く黒紋付羽織袴を来た花婿を思い出し、楓や冬玄の目が鋭さを増した。

「仏堂には行ったか?」
「あ、はい。その……無断で入り込んでしまい、すみません」

急いていたとは言え、燈里達がした事は立派な不法侵入だ。頭を下げる燈里に、男はぶっきら棒に構わんとだけ告げて、手元の湯飲みを呷る。はぁ、と息を吐いて湯飲みを置き、燈里を見据えた。

「あそこの中に、女の方が黒塗りされた絵があっただろう?あれが遠見だ」
「あれは……あの絵図は、どうして」
「あんたはあの絵について、どこまで知っている」

男に問われて、燈里は静かに答えた。
祝言絵図。幽婚。死者と架空の相手を描く、その意味を。
燈里の言葉を聞いて、男はまた深く息を吐いた。疲れたように、そして深い悲しみを吐き出すように。

「それなら禁忌についても当然知っているな。相手は必ず架空の人物で、決して生者を描いてはいけない……例え誓い合う相手がいたとしてもだ。描いてしまえば、そいつは死者に連れていかれてしまう」

楓の言葉を思い出す。
残された者、生者である婚約者には許せない事。将来を誓い合ったはずの相手が、例え架空の人物であれ違う誰かと結ばされる。
想像して、燈里は息苦しさに目を伏せた。

「以前はあれと似たようなものがいくつかあった。残された相手にとっちゃあ、業腹もんなんだろうな。だが、そうなるといつまでも祖霊として祀られん……どういう経緯で見たのかは知らんが、あんたが見ただろう野辺送りは、無縁仏化した遠見がイワイを求めて現れたものだ」
「イワイ……結さんも言っていました。イワイと契らされるって」

結だけでなく、黒い傘を差した男も言っていた事を思い出す。しかし二人は遠見がイワイであるかのように語っていた。男の話とはどこか違う。
男も気づいたのだろう。頭を掻きながら、あぁと苦笑し、視線を窓の外へと向けた。

「そりゃあ、表向きの祝《イワイ》だな。祝われる者。祝福される者と契るって意味だ……俺が言いてぇのは、本来の斎《イワイ》だ。斎《ものいみ》って字を書く」
「もしかして斎人《いわいびと》の……それじゃあ、遠見さんは祀って貰いたくてああして彷徨っているって事ですか?」

斎人。本来神を祀る人を差す言葉だ。
燈里の辿り着いた答えを肯定するように、男は視線を窓に向けたまま頷く。

「花婿・花嫁葬列だったか。例の噂が広まるうちに、あんな風に相手を消された絵はなくなっちまったよ。興味本位で夜中に寺に忍び込んだ馬鹿共が一人が消える度に、一枚消える。どこにいったのか、誰にも分からん……収められた中では、あれが最後の一枚だ。あんたはその最後の一枚に、イワイとして選ばれたんだろう」

それに、と何かを言いかけて男は口を噤む。眉を寄せ、それ以上語る事を拒むように首を振った。

「ならば、その遠見って男とその相手を描いてやればいいだろう?ああして彷徨い歩くよりは、誓った相手と契る方が、どちらにとっても本望だろうよ」

静かに話を聞いていた冬玄が、冷たく吐き捨てる。燈里が咎めるように視線を向けるが、気にする様子はない。
男は何も言わず、冬玄へと視線を向けた。苦悩を色濃く乗せながら、薄く笑う。

「何がそんなに気に入らんのかね。死者のためと言いながら、そこまで意固地になる事はないだろうに」
「元より、認められてはいねぇんだ。気の強い女はどうしても忌避されやすい」

その笑みが意味する事を理解して、冬玄は嫌そうに顔を顰めた。
確かに架空の花嫁を塗り潰す程の気性の激しい女よりは、架空であれ婚家に従順な女の方が喜ばれるのだろう。だがそれを求めるあまり、長くを祀らぬままであるのならば意味はないであろうに。
そう呆れる冬玄に、燈里は耐えきれずに声を上げた。

「冬玄。生者を描くのは禁忌だって言ったでしょう?そんな簡単に」
「あんた、本当に何も聞かされてないんだな」

しかし憤る燈里を、男の静かな声が止める。呆れたような、哀れむような声音に、燈里は戸惑いながら男に視線を向けた。

「それは、どういう……」
「どうしてこう、世界ってのは儘ならんのかね。僅かでも救いがあれば、あんたもここに来る事はなかっただろうに」

誰にでもなく男は呟き、立ち上がる。
少し待ってろと言い残し、男は奥の部屋へと入ると、ややあって何かを手にして戻ってきた。
ちゃぶ台に置かれたそれは、一枚の祝言絵図のようであった。だが花婿の絵は元が何であるか察せられぬ程に歪み、花嫁はきつくこちらを睨み付けている。

「生前の遠見が契ろうとした相手はもう死んじまってるよ。あの仏堂には奥の間があるんだが、そこで死んだ。花嫁を塗り潰した、そのすぐ後に」

花嫁の姿と書かれた名から目を逸らせないでいる燈里を哀れむように、男は静かに微笑み。

「そういや、まだ名乗ってなかったな。俺は齋《いつき》承一《しょういち》。五十年前に死んだこの花嫁――結の、兄だ」

そう言って、男――承一は、可哀想にと呟いた。



20250609 『どうしてこの世界は』

6/9/2025, 9:37:35 AM

「冬玄《かずとら》っ!」
「燈里!下がって」

急いで扉を開け、中へと足を踏み入れる。
だが先に入った楓が、険しい表情で燈里を制止した。常とは異なる、楓の硬い声。おとなしく止まりかけた燈里は、だが首を振ると楓の隣へと立った。

「来たのか。悪いな、手間取らせて」

部屋の中央。そこに冬玄はいた。
常と変わらぬ表情で、声音で。僅かに眉を下げながら、すまんと謝罪する。

「何、して……」
「これか?もう少しで終わるから待ってろ。思ったより抵抗が強くてな。時間が掛かったが、それももう終わる」

薄く笑い、冬玄は背後を振り返る。
そこには以前三人で買い物に出た帰りに遭遇した、白無垢を着た女がいた。纏わり付く闇に、悲鳴を上げて藻掻いている。
闇を吐き出しているそれを見て、燈里がひっと小さく悲鳴を上げた。宙に浮く翁面。それは楓のものとよく似ていながらも、とても悍ましいものだった。

「いい加減、諦めればいいものを。俺に選ばれたのだから、光栄だろう?」

無感情な呟きに、女に纏わり付いた闇が強く女を締め上げ、悲痛な悲鳴が上がる。暴れたために被っていた角隠しが落ち、必死な形相の潰れた女の顔が露わになる。
髪を振り乱し、悲鳴を上げ。けれども次第にそれは弱くなっていく。
それを目にして、燈里はたまらず女へと駆け出した。

「燈里。あまり近づくな。お前まで巻き込まれるぞ」

女へと伸ばされた手は冬玄に取られ、そのまま引き寄せられる。いつもと変わらぬ優しい声が逆に怖ろしい。

「お願い止めて!なんでこんな事っ」
「燈里のためだ」
「何、それ。私の、ためって……?」

意味が分からず、燈里は恐る恐る冬玄を見上げた。やはり普段と変わらぬ笑みを浮かべ、冬玄は燈里の頬に指を滑らせる。

「燈里と同じ気持ちを返すには、人間の感情について知る必要がある。どうするかと困っていたんだが、丁度良くこれが現れたから、手早く取り込んでしまおうと思ってな」
「なんで。なんで、そんな……私、そんな事」
「これを取り込んだ後は、花婿の方も取り込んだら仕舞いだ。そうしたら、家に帰ろうな」
「止めて。そんなの駄目。お願い」

燈里の懇願も、冬玄は苦笑するのみでその言葉は届かない。
どこまでもすれ違い、道が交わる事はない。
その悲しみか、はたまた恐怖からか。膜を張り出す目元をなぞられ、燈里は一筋涙を溢した。

「大丈夫だ。怖い事は何もない。今までも、これからも俺が燈里を守るのだから」
「――阿呆もここまで極めると、清々しいくらいに気持ち悪くなるんだね。燈里が怖がっているのは、君自身だよ。この阿呆」

いつの間にか翁面の側に寄っていた楓が、呆れた声音で毒づきながら面に容赦のない手刀を入れた。割れこそしなかったものの床に叩きつけられ、面から溢れだしていた闇が途切れていく。

「楓っ!」
「おいで、燈里。怖かったね」

冬玄の腕から抜け出して、燈里は楓の腕の中へと飛び込んだ。自分よりも背の高い燈里をふらつきもせずに抱き留めて、楓は険を帯びた目で冬玄を見据えた。

「――燈里?」

微かな呟き。自身の腕を呆然と見つめる冬玄に、楓は警戒しながらも溜息を吐く。視界の隅で床に落ちた面が、ふわりと浮き上がるのを見て、躊躇なく面を掴み冬玄へと投げつけた。

「いい加減にしなよ。燈里は今にも堕ちてしまいそうな守り神《トウゲン》様が怖くて、畏れ多くて仕方がないんだってさ」
「……その名で、呼ぶな」
「今の君に、その名以外に呼べる名はあるのかい?少なくとも燈里の婚約者である冬玄は、こんなに独りよがりではないよ。燈里に寄り添って、同じ道を歩いてくれるような男だったはずだ」

あからさまに冬玄の表情が歪んだ。投げつけられた面は次第に姿を薄くし、消えていく。それに呼応するかのように、冬玄の纏う異様な空気も薄れ、それを見て燈里は密かに息を吐いた。

「冬玄」

呼びかける。どこか途方に暮れた迷子のような顔をする冬玄を見つめ、願うように言葉を紡ぐ。

「私は、冬玄が側にいてくれるだけでいい。それだけでいいの」
「燈里」
「だからもう……置いていかないで」

消え入りそうな程に微かな声。それはただの恐怖からでない事に気づいて冬玄は力なく頷き、眉を下げて泣くように微笑んだ。

「――あぁ、そうだな。ずっと側にいるって言ったのにな……すまない、燈里」

手を差し出す。燈里もまた微笑んで、冬玄へと手を伸ばし。

「そういうのは、これを何とかしてからにしようか」

だがその手は冬玄に届く前に楓に引かれ、届く事はなかった。

「これ?」

目を瞬いて、燈里は視線を落とす。力なく横たわる白無垢姿の女を視界に入れて、小さく息を呑んだ。

「どうするの、これ?もう祝言を挙げる事しか分からなくなってるから、ずっと付き纏うようになるよ」
「でも、冬玄は……」
「人間の言う未練って奴が、誰かと契る事だからね。寸前までいった相手を、離したくはないだろう」

僅かにも動かない女を見下ろし、無感情に楓は言い放つ。何も言わないながらも、冬玄もまた楓と同じく冷めた目をして女を見遣り、燈里は一人悲しげに目を伏せた。
ここにいる女の未練。渡り廊下で垣間見たものと、扉に貼り付けられた絵を思う。
女はただ、幸せになりたかったのだ。燈里と同じように、好きな誰かと共に寄り添っていたかった。唯一違うのは燈里には冬玄がおり、女には誰もいなかった事。
ふと、仏堂に飾られていた無数の祝言絵図が思い浮かぶ。奉納された絵図と女の描いただろう絵の違いを探し、ある一つの方法を思いつく。

「燈里?」
「おい、どこ行く」

二人の制止の声も聞かず、燈里は扉へと駆け出した。
落ちていた画用紙を拾い上げる。鞄に手を伸ばし、中から一本の万年筆を取り出した。
黒の飾り気のない万年筆。普段何気なく使っているそれが、今はやけに重く感じられた。
一度深く呼吸をして、燈里は画用紙の上部に万年筆で文字を書いていく。ゆっくりと、字が震える事がないように慎重に。

――『奉納』

そして、花嫁の下に名を書こうとして。燈里は女の名を知らない事に気づいた。
顔を上げる。

「――っ」

咄嗟に悲鳴を呑み込み、硬直する。
目の前に女がいた。白く濁った虚ろな目が、書いたばかりの文字を見つめ、そして顔を上げて燈里を見つめた。

「たかなし、あい」

女のかさつく唇から零れた言葉が、女の名なのだろう。
燈里の万年筆を持つ手が、本人の意思とは無関係に動く。燈里とは異なる、丸みを帯びた癖のある字が『高梨あい』と書いていくのを、燈里はただ静かに見守った。

「――ありがとう」

歪に割れた声で感謝の言葉を述べて、あいという名の女は微笑んだ。その姿は次第に薄く解けていき、消えたと同時に、画用紙の花嫁が女へと成り代わった。
同じように花婿も姿が変わる。冬玄ではない。おそらくは他の絵図のように架空の花婿なのだろう。
互いに微笑み合い手を繋ぐ姿を見て、燈里の体から力が抜ける。深く息を吐いて、万年筆を鞄へと戻した。

「ただの落書きを祝言絵図にするとはね」

半ば感心したように、呆れたように楓は絵を覗き込む。

「赤の他人を供養するなんて、燈里は本当に物好きだ……でもこれで、穏やかに還る事が出来るだろう」

そうであればいい。燈里は密かに願う。
不意に差し出された手に、顔を上げる。静かに笑う冬玄に燈里も笑い、今度こそその手を取って立ち上がった。

「今度は花婿をどうにかしないとな」
「そうだね。これからも冬玄と一緒にいるためには、向き合わないと」

冬玄の言葉に頷いて、燈里は仏堂の入口へと視線を向ける。
扉が開いていた。
振り向いて奥の間に続く扉を見れば、そこは既に無数の絵図によって再び閉ざされていた。その中にはいつの間にか額装された女の絵図も、花嫁が黒く塗り潰された絵図もある。
複雑な気持ちで燈里は塗り潰された花嫁を見つめ、気持ちを振り払うように頭を振る。

「行こうか。管理人さんに話を聞けば、何か分かるかもしれないから」
「そうだね。今はそれくらいしか、出来る事はないか」

燈里の言葉に同意して、けれどその前にと、楓は冬玄へ視線を向ける。

「僕はね。燈里の記憶の中に在る。だから燈里と同じものを見て、感じる事も出来る」
「何が言いたい?」
「僕と燈里は近すぎるんだ。だから君のように、燈里に寄り添って歩く事は出来ない。同じ道を辿れても、隣を歩く事は出来ないんだよ……その事を忘れるな」
「――肝に銘じておく」

楓を見据え、冬玄は告げる。二人を見守る燈里の手を引き、強く抱きしめた。

「か、冬玄っ!?」
「もう離れない。だから、燈里も俺を離さないでくれ」

冬玄のその言葉に、頬を染め慌てていた燈里は動きを止める。迷うように視線を揺らし、そっと冬玄の背に腕を回した。

「分かった。もう独りにしないでね」

そう言って笑う。一度強く抱きついてから離れ、燈里は冬玄の手を取り繋いだ。
離れないようにと力を込め。そしてゆっくりと歩き出す。
寄り添う二人の背を見つめ、少し遅れて楓もまた歩き出す。
背後の、閉じられた扉越しに聞こえる微かな雅楽の音色に眉を潜めながらも外へ出て、躊躇なく仏堂の扉を閉めた。



20250608 『君と歩いた道』

6/8/2025, 11:52:50 AM

いつか夢は叶うものだと、誰もが歌っていた。

例えばクラスの冴えない女子が、ある日突然とある御曹司に告白されるように。
例えば一人ぼっちの寂しい女の子が、神様に愛されて幸せな日々を過ごすように。
例えば家族に虐げられたお姫様が、隣国の王子様と結婚するように。
物語の最後は、必ずめでたしめでたしで終わるのだ。

つまらない人生だった。
平凡な両親から生まれた、平凡な自分。
不細工ではなかったけれど、特に可愛い訳でもなかった。
クラスに馴染めずに、いつも一人きり。物語の中の世界が、唯一の居場所だった。
夢は叶うものだと、誰もが言っている。
ならば、この夢もいつか叶うだろう。
今のこの平凡でつまらない日々から連れ去ってくれるような、素敵な誰かと結婚をするのだ。

本当につまらない人生だった。
あっという間。眩しいヘッドライトと衝撃。
気づけば、一人ぼっち。手にしていたスマホは画面が粉々に割れて、好きだった物語の続きも読めない。誰にも気づいてもらえず、何もかもが終わってしまった。
夢は叶うと言っていたはずなのに、何一つ思い通りにはなっていない。
そう言えば、と思い出す。
雨上がりの夜。どこかの村で、花婿が花嫁を求めているらしい。それを見る事が出来れば、その人と結婚する事が出来るという。
ならば会いに行こう。本当ならば迎えに来てほしかったけれど、仕方がない。


そうして見つけた花婿は、でも一人の女性を追いかけて、私にはちっとも気づかない。
諦めきれなくて追いかけた先。花婿よりもとっても素敵な人に出会った。
彼女だろうか。花婿が追いかける女性の隣にいる綺麗な顔をした男性《ひと》。
やっぱり夢は叶うのだ。
女性は花婿と結婚する。それなら一人になる彼と、私が結婚すれば良い。
花婿の真似をして降らせた紫陽花の花を、彼は受け取ってくれた。
嬉しくて手を伸ばす。彼も同じように手を差し出した。


後は、祝縁寺で式を挙げるだけ。





「お姉ちゃんっ!」

楓《かえで》の声に、燈里《あかり》ははっとしたように顔を上げた。
寺の渡り廊下。仏堂の入口らしき黒塗りの扉に手をかける結《ゆい》の背を見ながら、燈里は詰めていた息を吐き出した。
遅れて襲う動悸に、胸を押さえて蹲る。楓に背をさすられながら、今し方過ぎていった誰かの記憶を燈里はただ漠然と思い返した。
まるで夢見る少女のような、拙くどこまでも他人任せな思い。独りよがりな感情が渦を巻いているようで、息苦しい。

「どうしたの?気分が悪いなら、無理せず今日は戻った方がいいと思うけど」
「だ、い、じょうぶ、です」

扉から手を離し振り返る結に、燈里は首を振る。何度か深く息を吐いて、ふらつきながらも立ち上がった。

「ここまで来て、今更戻れません……行かないと」
「そう?じゃあ開けるけど」

そう言って、結は扉へと向き直る。細い手が扉に掛かり、ゆっくりと開いていく。
暗い室内に外からもたらされた光が差し込み、露わになった異様な内部に、燈里は目を見張り息を呑んだ。

「これって……もしかして、この寺は」

仏堂と呼ばれながらも、そこには仏像が安置されていない。
何もない、板張りの部屋。だが代わりに、壁に掛けられた無数の絵が、ここがただの寺ではないのだと言葉なく告げていた。

「祝言絵図か。それもかなり古くから」

祝言を挙げた花婿と花嫁を描いたらしき絵図。
三方の壁を埋め尽くすほど、無数に飾られた絵を見渡しながら、楓は目を細め呟いた。

「しかもただの絵図じゃない。片方は未婚の死者を描いているね。祝縁寺とはよく言ったもんだ」
「幽婚……だから参進の儀でありながら、葬列」
「かなり前から描かなくなったけどね。ま、描いた所でもう飾る場所はないけどさ」

仏堂の隅に置かれた燭台に火を灯しながら、結は肩を竦めてみせる。呆然と絵図を見つめる燈里に近づき肩を叩くと、正面の壁を指差した。

「絵に覆われてるけど、この先にも部屋があるんだよ。たぶん、いるとしたらそこじゃない?」

結の指差す方へ視線を向ける燈里に、結は笑って頑張ってと声をかける。
踵を返し外へと向かい、だが入口で立ち止まると振り返る。

「あたしはもう帰るけど。もしここの今の管理者に話が聞きたいのなら、石段下りて最初の、ぽつんと建ってる小さな家に行くといいよ。出てきてくれるかは知らないけど」
「あ、ありがとうっ!」

それだけを告げ、今度こそ結は去って行く。その背に燈里は慌てて礼を言えば、返事代わりに手を振り。
結の姿が見えなくなるとほぼ同時。仏堂の扉が、音もなく閉まった。

「おっと、閉じ込められたみたいだ」

閉まる扉を一瞥して、楓は燈里に視線を向ける。
閉じ込められたという割に、焦る様子は見られない。燈里もまた取り乱す事なく扉を見つめ、そして正面の壁へと視線を移した。

「戻り道は、全部終わってから考えればいい。今は先に進まないと」

小さく呟いて、壁へと近づく。
遠目からでは分からなかったが、下方に小さな扉があるようだ。飾られている絵図が収まる額を、ひとつひとつ丁寧に外していく。
そのひとつを手にし、燈里は眉を潜めた。

「何だい、これは?」

隣で同じように額をよけていた楓が、燈里の手元ののぞき込み、同じように眉を寄せる。

「花嫁が真っ黒だね。よっぽど腹に据えかねていたのかな」

呆れたような楓に何も言わず、燈里は額を指先でなぞる。
花婿と花嫁が描かれた祝言絵図。しかし、その一枚だけは、花嫁の姿だけが黒く念入りに塗り潰されていた。

「幽婚は祖霊祭祀や、残された人々の慰めとして行われる、大切なものなのに」

かつて家を単位としていた頃の古い祖霊祭祀では、祝言を挙げ子孫を残す前に亡くなった霊は、酷く曖昧な存在だった。そのままでは無縁仏や荒霊になりやすいと恐れられ、故に幽婚や冥婚と呼ばれる、死後婚を行う事で防いでいた。
仏堂に飾られた、この無数の祝言絵図も幽婚の一種だ。未婚のままで亡くなった者のために、架空の花婿や花嫁を描いて奉納されたのだろう。
子を失った家族の嘆き。せめて婚礼を上げさせたいという、親のささやかな願い。
この絵を描いた残された者を思い、燈里は悲しげに目を伏せる。

「死者と生者を契らせる事は、人間にとっての禁忌だからね……でも残された者にとっては、それが許せなくなる事もあるものさ」

燈里の背を撫で、楓は額を取り上げた。

「それよりも、早くあれを見つけないと。燈里がさっき視たのがあれを連れて行ったやつなら、とてもよろしくない事が起きる予感がするよ」
「よろしくない事?」
「あれは燈里が絡むと、気持ち悪いくらい阿呆になるから」

大仰に肩を竦めて額を置く。残る最後の一枚を見て、可哀想にと微かに独り言ちながら手をかける。
それは、他の絵図とは明らかに違っていた。画用紙に描かれた、子供のような筆致の絵。可愛らしくデフォルメされた笑顔の花嫁と花婿が、余計に異様さを際立たせていた。

「この先にいるね……燈里。怖いなら、下がっておいで」

楓の優しい言葉に、燈里は笑って首を振った。画用紙に手をかけている楓の手に自らの手を重ね、そっと握る。

「大丈夫。行こう」

その言葉と同時、燈里と楓はテープで貼り付けられただけの画用紙を、躊躇なく引き剥がした。

「――っ!?」

扉に手をかけた瞬間。
向こう側から、耳をつんざく女の悲鳴が響き渡った。



20250607 『夢見る少女のように』

6/7/2025, 9:57:16 AM

暗い室内。
窓辺に座り外を見つめ、楓《かえで》は小さく息を吐いた。
雨の降り頻る外では雨と共に白の紫陽花が振り、地面を白で埋め尽くしている。今は姿の見えない行列も、やがて雨が上がれば訪れるのだろう。
これから先の選択をいくつか思い浮かべる。そのいくつかに燈里《あかり》を巻き込まなくてはいけない事に、楓は心底嫌そうに眉を寄せた。
室内に視線を向ける。翁面をつけたままの燈里は、俯き座り込んだまま微動だにしない。
強制的に心を眠らせているからだ。楓の本体ともいえる翁面をつけた今、燈里の記憶の片隅に存在する楓が燈里の精神を支配している。
だがいつまでもそのままという訳にもいかない。気乗りはしないが、燈里はこの先を自分で選択する権利があるのだから。

「燈里」

燈里の側に寄り、楓は膝をついて翁面ごと燈里の頬を包み込む。

「燈里」

眼を合わせ、名を呼ぶ。面越しの虚ろな目に、僅かに光が灯る。

「燈里には今、いくつか選択肢がある。このまま梅雨が終わるまで僕に守られているか。それともあの花婿と対峙するか」

優しく問いかければ、燈里の目が静かに瞬いた。

「――冬玄《かずとら》」

微かに呟く名に、楓は苦笑する。

「そうだね。じゃあ、あれを迎えに行くのも選択肢に追加しよう……燈里はどうしたい?怖いのなら、僕が代わりに行ってあげる。燈里の望むようにすればいいよ。僕は燈里の記憶の中に在る妖だ。君の望みにはすべて応えてあげる」

目が瞬く。幼子のように指先で楓の服の裾を掴む。
それが燈里の望みなのだろう。
悲しげに微笑んで、楓は翁面をゆっくりと外す。燈里の頬を伝い落ちる涙を拭い、囁いた。

「分かった。一緒に行こうか」
「ごめんなさい」

目を伏せる燈里の頭を、楓はそっと引き寄せる。胸に抱かれ、燈里はまた一筋涙を零した。

「あなたを苦しめるだけだって分かっているのに、忘れられない。それどころか、こうして望んでしまう……本当に、ごめんなさい」

何度も繰り返されるごめんなさいの言葉に、楓の目が愛しげに細められる。
徒に苦しませないよう、認識を歪め姉妹ごっこを続けてきたが、燈里の罪悪感がなくなる訳ではない。出会い、別れの時に楓が告げた、忘れろという言葉を叶えられない事を、優しい燈里は負い目に感じ続けている。
その言葉を告げた妖は、すでに気にしてはいないというのにも関わらず。

「それはもう気にしなくていいよ。僕はもう燈里を守るって決めたのだから……だから、今度からはもっと望んで?僕は燈里だけの妖だから、君にこうして望まれるのはとても心地がいい」

燈里の頭を撫でながら、楓は歌うように囁いた。
恐る恐る顔を上げる燈里に微笑んで、手を離して立ち上がる。楓の服を掴んだままの燈里の手をそっと解き、手を繋いだ。

「楓……?」
「明日の朝に出発するから、今から準備をしようか」

どこに、と尋ねる小さな声に、楓は首を傾げながら外へと視線を向けた。
楓から笑みが消える。燈里に向けていた慈しみは欠片もなく、ただ鋭さだけを湛えた目を外の複数の気配に向けた。

「あれが何なのか、燈里の調べた情報以上の事を僕は知らない。けど始まりはあの寺なんだ。それに伝承では、行列を見た者は寺の中で契りを交わすんだとあった……それなら行くべき場所はあの寺――祝縁寺《しゅくえんじ》だ」

そう言って、燈里へと視線を移す。ぼんやりと楓を見る目に、大丈夫だと微笑んだ。
繋いだ手を軽く引く。

「さあ行こう」

そう告げれば、燈里はゆっくりと頷き立ち上がった。





境内の脇に咲く紫陽花の千切れた花びらが、風に乗って空を舞う。
手慰みに紫陽花の花を千切っていた少女は、ふと何かに気づき、山門へと視線を向けた。
山門の前。二つの影が立っている。
姉妹だろうか。互いに手を繋ぎ、ゆっくりと境内へと入ってくる。姉らし女性が以前取材で来ていた事を思い出し、少女は二人へと向き直った。

「また来たの?無謀というか何というか」

呆れを滲ませて、少女は声をかける。しかし女性――燈里の堅い表情に、少女の表情にも険しさが滲んだ。

「何か訳ありか」
「あなたはこの寺の関係者ですか?」

不躾な質問ではあるが、それだけ相手には余裕がないのだろう。少女は眉を寄せ、首を振る。

「もう随分前から、この寺には誰もいない。管理を任されている人はいるけど、梅雨の時期には近づきもしないよ」

家を訪ねたとして、出てはこないだろう。
暗に少女に告げられ、妹らしき子供――楓の目が鋭さを増した。

「お寺の中に入りたいんだけど、お姉さんはどうすればいいか知ってる?」
「この中に入りたいの?という事は、誰か代わりに連れて行かれたんだ」
「どっかの阿呆が、余所の女に現を抜かしたんだよ」

思い出すだけで気に入らないと、楓は不機嫌に鼻を鳴らす。けれど少女は楓の言葉に、訝しげに眉を潜めた。

「花嫁?花婿じゃなくて?」

首を傾げて、記憶を巡らせる。ややあって、ああと何かに納得したように少女は一人頷いた。

「あれか。ここの噂を聞いて、辺りをうろついている中の誰かか」
「……随分詳しいんだね」
「まあね。ここって何もない寂れた村だし?他に行く場所がないから。ずっとここにいれば、それなりに分かるようになるよ」

肩を竦め少女は言う。

「それで、この中に入りたいんだっけ?ならついておいでよ。裏の仏堂に続く渡り廊下からなら入れるから……お姉さん達の目的があの行列に関してなら、本堂よりも仏堂に行った方がいいし」
「あ、あのっ!ありがとうございます」

慌てて深く頭を下げて礼を言う燈里に、少女は僅かに目を見張る。そしてくすくすと楽しそうに笑い声を上げた。

「お姉さんって真面目なんだね。あたしとそっくりなのに、そこは正反対だ」

そう言って、少女は真正面から燈里と向き合い。

「まだ自己紹介がまだだったね。あたしは結《ゆい》。齋《いつき》結だよ。よろしくね、お姉さん」

鏡映しのように同じ顔を見つめ、大仰に礼をしてみせた。



20250606 『さあ行こう』

Next