「冬玄《かずとら》っ!」
「燈里!下がって」
急いで扉を開け、中へと足を踏み入れる。
だが先に入った楓が、険しい表情で燈里を制止した。常とは異なる、楓の硬い声。おとなしく止まりかけた燈里は、だが首を振ると楓の隣へと立った。
「来たのか。悪いな、手間取らせて」
部屋の中央。そこに冬玄はいた。
常と変わらぬ表情で、声音で。僅かに眉を下げながら、すまんと謝罪する。
「何、して……」
「これか?もう少しで終わるから待ってろ。思ったより抵抗が強くてな。時間が掛かったが、それももう終わる」
薄く笑い、冬玄は背後を振り返る。
そこには以前三人で買い物に出た帰りに遭遇した、白無垢を着た女がいた。纏わり付く闇に、悲鳴を上げて藻掻いている。
闇を吐き出しているそれを見て、燈里がひっと小さく悲鳴を上げた。宙に浮く翁面。それは楓のものとよく似ていながらも、とても悍ましいものだった。
「いい加減、諦めればいいものを。俺に選ばれたのだから、光栄だろう?」
無感情な呟きに、女に纏わり付いた闇が強く女を締め上げ、悲痛な悲鳴が上がる。暴れたために被っていた角隠しが落ち、必死な形相の潰れた女の顔が露わになる。
髪を振り乱し、悲鳴を上げ。けれども次第にそれは弱くなっていく。
それを目にして、燈里はたまらず女へと駆け出した。
「燈里。あまり近づくな。お前まで巻き込まれるぞ」
女へと伸ばされた手は冬玄に取られ、そのまま引き寄せられる。いつもと変わらぬ優しい声が逆に怖ろしい。
「お願い止めて!なんでこんな事っ」
「燈里のためだ」
「何、それ。私の、ためって……?」
意味が分からず、燈里は恐る恐る冬玄を見上げた。やはり普段と変わらぬ笑みを浮かべ、冬玄は燈里の頬に指を滑らせる。
「燈里と同じ気持ちを返すには、人間の感情について知る必要がある。どうするかと困っていたんだが、丁度良くこれが現れたから、手早く取り込んでしまおうと思ってな」
「なんで。なんで、そんな……私、そんな事」
「これを取り込んだ後は、花婿の方も取り込んだら仕舞いだ。そうしたら、家に帰ろうな」
「止めて。そんなの駄目。お願い」
燈里の懇願も、冬玄は苦笑するのみでその言葉は届かない。
どこまでもすれ違い、道が交わる事はない。
その悲しみか、はたまた恐怖からか。膜を張り出す目元をなぞられ、燈里は一筋涙を溢した。
「大丈夫だ。怖い事は何もない。今までも、これからも俺が燈里を守るのだから」
「――阿呆もここまで極めると、清々しいくらいに気持ち悪くなるんだね。燈里が怖がっているのは、君自身だよ。この阿呆」
いつの間にか翁面の側に寄っていた楓が、呆れた声音で毒づきながら面に容赦のない手刀を入れた。割れこそしなかったものの床に叩きつけられ、面から溢れだしていた闇が途切れていく。
「楓っ!」
「おいで、燈里。怖かったね」
冬玄の腕から抜け出して、燈里は楓の腕の中へと飛び込んだ。自分よりも背の高い燈里をふらつきもせずに抱き留めて、楓は険を帯びた目で冬玄を見据えた。
「――燈里?」
微かな呟き。自身の腕を呆然と見つめる冬玄に、楓は警戒しながらも溜息を吐く。視界の隅で床に落ちた面が、ふわりと浮き上がるのを見て、躊躇なく面を掴み冬玄へと投げつけた。
「いい加減にしなよ。燈里は今にも堕ちてしまいそうな守り神《トウゲン》様が怖くて、畏れ多くて仕方がないんだってさ」
「……その名で、呼ぶな」
「今の君に、その名以外に呼べる名はあるのかい?少なくとも燈里の婚約者である冬玄は、こんなに独りよがりではないよ。燈里に寄り添って、同じ道を歩いてくれるような男だったはずだ」
あからさまに冬玄の表情が歪んだ。投げつけられた面は次第に姿を薄くし、消えていく。それに呼応するかのように、冬玄の纏う異様な空気も薄れ、それを見て燈里は密かに息を吐いた。
「冬玄」
呼びかける。どこか途方に暮れた迷子のような顔をする冬玄を見つめ、願うように言葉を紡ぐ。
「私は、冬玄が側にいてくれるだけでいい。それだけでいいの」
「燈里」
「だからもう……置いていかないで」
消え入りそうな程に微かな声。それはただの恐怖からでない事に気づいて冬玄は力なく頷き、眉を下げて泣くように微笑んだ。
「――あぁ、そうだな。ずっと側にいるって言ったのにな……すまない、燈里」
手を差し出す。燈里もまた微笑んで、冬玄へと手を伸ばし。
「そういうのは、これを何とかしてからにしようか」
だがその手は冬玄に届く前に楓に引かれ、届く事はなかった。
「これ?」
目を瞬いて、燈里は視線を落とす。力なく横たわる白無垢姿の女を視界に入れて、小さく息を呑んだ。
「どうするの、これ?もう祝言を挙げる事しか分からなくなってるから、ずっと付き纏うようになるよ」
「でも、冬玄は……」
「人間の言う未練って奴が、誰かと契る事だからね。寸前までいった相手を、離したくはないだろう」
僅かにも動かない女を見下ろし、無感情に楓は言い放つ。何も言わないながらも、冬玄もまた楓と同じく冷めた目をして女を見遣り、燈里は一人悲しげに目を伏せた。
ここにいる女の未練。渡り廊下で垣間見たものと、扉に貼り付けられた絵を思う。
女はただ、幸せになりたかったのだ。燈里と同じように、好きな誰かと共に寄り添っていたかった。唯一違うのは燈里には冬玄がおり、女には誰もいなかった事。
ふと、仏堂に飾られていた無数の祝言絵図が思い浮かぶ。奉納された絵図と女の描いただろう絵の違いを探し、ある一つの方法を思いつく。
「燈里?」
「おい、どこ行く」
二人の制止の声も聞かず、燈里は扉へと駆け出した。
落ちていた画用紙を拾い上げる。鞄に手を伸ばし、中から一本の万年筆を取り出した。
黒の飾り気のない万年筆。普段何気なく使っているそれが、今はやけに重く感じられた。
一度深く呼吸をして、燈里は画用紙の上部に万年筆で文字を書いていく。ゆっくりと、字が震える事がないように慎重に。
――『奉納』
そして、花嫁の下に名を書こうとして。燈里は女の名を知らない事に気づいた。
顔を上げる。
「――っ」
咄嗟に悲鳴を呑み込み、硬直する。
目の前に女がいた。白く濁った虚ろな目が、書いたばかりの文字を見つめ、そして顔を上げて燈里を見つめた。
「たかなし、あい」
女のかさつく唇から零れた言葉が、女の名なのだろう。
燈里の万年筆を持つ手が、本人の意思とは無関係に動く。燈里とは異なる、丸みを帯びた癖のある字が『高梨あい』と書いていくのを、燈里はただ静かに見守った。
「――ありがとう」
歪に割れた声で感謝の言葉を述べて、あいという名の女は微笑んだ。その姿は次第に薄く解けていき、消えたと同時に、画用紙の花嫁が女へと成り代わった。
同じように花婿も姿が変わる。冬玄ではない。おそらくは他の絵図のように架空の花婿なのだろう。
互いに微笑み合い手を繋ぐ姿を見て、燈里の体から力が抜ける。深く息を吐いて、万年筆を鞄へと戻した。
「ただの落書きを祝言絵図にするとはね」
半ば感心したように、呆れたように楓は絵を覗き込む。
「赤の他人を供養するなんて、燈里は本当に物好きだ……でもこれで、穏やかに還る事が出来るだろう」
そうであればいい。燈里は密かに願う。
不意に差し出された手に、顔を上げる。静かに笑う冬玄に燈里も笑い、今度こそその手を取って立ち上がった。
「今度は花婿をどうにかしないとな」
「そうだね。これからも冬玄と一緒にいるためには、向き合わないと」
冬玄の言葉に頷いて、燈里は仏堂の入口へと視線を向ける。
扉が開いていた。
振り向いて奥の間に続く扉を見れば、そこは既に無数の絵図によって再び閉ざされていた。その中にはいつの間にか額装された女の絵図も、花嫁が黒く塗り潰された絵図もある。
複雑な気持ちで燈里は塗り潰された花嫁を見つめ、気持ちを振り払うように頭を振る。
「行こうか。管理人さんに話を聞けば、何か分かるかもしれないから」
「そうだね。今はそれくらいしか、出来る事はないか」
燈里の言葉に同意して、けれどその前にと、楓は冬玄へ視線を向ける。
「僕はね。燈里の記憶の中に在る。だから燈里と同じものを見て、感じる事も出来る」
「何が言いたい?」
「僕と燈里は近すぎるんだ。だから君のように、燈里に寄り添って歩く事は出来ない。同じ道を辿れても、隣を歩く事は出来ないんだよ……その事を忘れるな」
「――肝に銘じておく」
楓を見据え、冬玄は告げる。二人を見守る燈里の手を引き、強く抱きしめた。
「か、冬玄っ!?」
「もう離れない。だから、燈里も俺を離さないでくれ」
冬玄のその言葉に、頬を染め慌てていた燈里は動きを止める。迷うように視線を揺らし、そっと冬玄の背に腕を回した。
「分かった。もう独りにしないでね」
そう言って笑う。一度強く抱きついてから離れ、燈里は冬玄の手を取り繋いだ。
離れないようにと力を込め。そしてゆっくりと歩き出す。
寄り添う二人の背を見つめ、少し遅れて楓もまた歩き出す。
背後の、閉じられた扉越しに聞こえる微かな雅楽の音色に眉を潜めながらも外へ出て、躊躇なく仏堂の扉を閉めた。
20250608 『君と歩いた道』
6/9/2025, 9:37:35 AM