暗い室内。
窓辺に座り外を見つめ、楓《かえで》は小さく息を吐いた。
雨の降り頻る外では雨と共に白の紫陽花が振り、地面を白で埋め尽くしている。今は姿の見えない行列も、やがて雨が上がれば訪れるのだろう。
これから先の選択をいくつか思い浮かべる。そのいくつかに燈里《あかり》を巻き込まなくてはいけない事に、楓は心底嫌そうに眉を寄せた。
室内に視線を向ける。翁面をつけたままの燈里は、俯き座り込んだまま微動だにしない。
強制的に心を眠らせているからだ。楓の本体ともいえる翁面をつけた今、燈里の記憶の片隅に存在する楓が燈里の精神を支配している。
だがいつまでもそのままという訳にもいかない。気乗りはしないが、燈里はこの先を自分で選択する権利があるのだから。
「燈里」
燈里の側に寄り、楓は膝をついて翁面ごと燈里の頬を包み込む。
「燈里」
眼を合わせ、名を呼ぶ。面越しの虚ろな目に、僅かに光が灯る。
「燈里には今、いくつか選択肢がある。このまま梅雨が終わるまで僕に守られているか。それともあの花婿と対峙するか」
優しく問いかければ、燈里の目が静かに瞬いた。
「――冬玄《かずとら》」
微かに呟く名に、楓は苦笑する。
「そうだね。じゃあ、あれを迎えに行くのも選択肢に追加しよう……燈里はどうしたい?怖いのなら、僕が代わりに行ってあげる。燈里の望むようにすればいいよ。僕は燈里の記憶の中に在る妖だ。君の望みにはすべて応えてあげる」
目が瞬く。幼子のように指先で楓の服の裾を掴む。
それが燈里の望みなのだろう。
悲しげに微笑んで、楓は翁面をゆっくりと外す。燈里の頬を伝い落ちる涙を拭い、囁いた。
「分かった。一緒に行こうか」
「ごめんなさい」
目を伏せる燈里の頭を、楓はそっと引き寄せる。胸に抱かれ、燈里はまた一筋涙を零した。
「あなたを苦しめるだけだって分かっているのに、忘れられない。それどころか、こうして望んでしまう……本当に、ごめんなさい」
何度も繰り返されるごめんなさいの言葉に、楓の目が愛しげに細められる。
徒に苦しませないよう、認識を歪め姉妹ごっこを続けてきたが、燈里の罪悪感がなくなる訳ではない。出会い、別れの時に楓が告げた、忘れろという言葉を叶えられない事を、優しい燈里は負い目に感じ続けている。
その言葉を告げた妖は、すでに気にしてはいないというのにも関わらず。
「それはもう気にしなくていいよ。僕はもう燈里を守るって決めたのだから……だから、今度からはもっと望んで?僕は燈里だけの妖だから、君にこうして望まれるのはとても心地がいい」
燈里の頭を撫でながら、楓は歌うように囁いた。
恐る恐る顔を上げる燈里に微笑んで、手を離して立ち上がる。楓の服を掴んだままの燈里の手をそっと解き、手を繋いだ。
「楓……?」
「明日の朝に出発するから、今から準備をしようか」
どこに、と尋ねる小さな声に、楓は首を傾げながら外へと視線を向けた。
楓から笑みが消える。燈里に向けていた慈しみは欠片もなく、ただ鋭さだけを湛えた目を外の複数の気配に向けた。
「あれが何なのか、燈里の調べた情報以上の事を僕は知らない。けど始まりはあの寺なんだ。それに伝承では、行列を見た者は寺の中で契りを交わすんだとあった……それなら行くべき場所はあの寺――祝縁寺《しゅくえんじ》だ」
そう言って、燈里へと視線を移す。ぼんやりと楓を見る目に、大丈夫だと微笑んだ。
繋いだ手を軽く引く。
「さあ行こう」
そう告げれば、燈里はゆっくりと頷き立ち上がった。
境内の脇に咲く紫陽花の千切れた花びらが、風に乗って空を舞う。
手慰みに紫陽花の花を千切っていた少女は、ふと何かに気づき、山門へと視線を向けた。
山門の前。二つの影が立っている。
姉妹だろうか。互いに手を繋ぎ、ゆっくりと境内へと入ってくる。姉らし女性が以前取材で来ていた事を思い出し、少女は二人へと向き直った。
「また来たの?無謀というか何というか」
呆れを滲ませて、少女は声をかける。しかし女性――燈里の堅い表情に、少女の表情にも険しさが滲んだ。
「何か訳ありか」
「あなたはこの寺の関係者ですか?」
不躾な質問ではあるが、それだけ相手には余裕がないのだろう。少女は眉を寄せ、首を振る。
「もう随分前から、この寺には誰もいない。管理を任されている人はいるけど、梅雨の時期には近づきもしないよ」
家を訪ねたとして、出てはこないだろう。
暗に少女に告げられ、妹らしき子供――楓の目が鋭さを増した。
「お寺の中に入りたいんだけど、お姉さんはどうすればいいか知ってる?」
「この中に入りたいの?という事は、誰か代わりに連れて行かれたんだ」
「どっかの阿呆が、余所の女に現を抜かしたんだよ」
思い出すだけで気に入らないと、楓は不機嫌に鼻を鳴らす。けれど少女は楓の言葉に、訝しげに眉を潜めた。
「花嫁?花婿じゃなくて?」
首を傾げて、記憶を巡らせる。ややあって、ああと何かに納得したように少女は一人頷いた。
「あれか。ここの噂を聞いて、辺りをうろついている中の誰かか」
「……随分詳しいんだね」
「まあね。ここって何もない寂れた村だし?他に行く場所がないから。ずっとここにいれば、それなりに分かるようになるよ」
肩を竦め少女は言う。
「それで、この中に入りたいんだっけ?ならついておいでよ。裏の仏堂に続く渡り廊下からなら入れるから……お姉さん達の目的があの行列に関してなら、本堂よりも仏堂に行った方がいいし」
「あ、あのっ!ありがとうございます」
慌てて深く頭を下げて礼を言う燈里に、少女は僅かに目を見張る。そしてくすくすと楽しそうに笑い声を上げた。
「お姉さんって真面目なんだね。あたしとそっくりなのに、そこは正反対だ」
そう言って、少女は真正面から燈里と向き合い。
「まだ自己紹介がまだだったね。あたしは結《ゆい》。齋《いつき》結だよ。よろしくね、お姉さん」
鏡映しのように同じ顔を見つめ、大仰に礼をしてみせた。
20250606 『さあ行こう』
6/7/2025, 9:57:16 AM