それはほんの僅かな、気のせいだと思えるほど些細な変化だった。
鳴り響く雅楽の狂った音色が、僅かに正される。呪いから祝いへと成り代わるように。
「――きた」
呟いて、結《ゆい》は部屋の入口へと駆け出した。扉に手を掛け、渾身の力を込めて開いていく。
「結っ!?おめえ、なんで……」
「ばか兄貴、その話は後!早く絵を」
扉の向こう。仏堂にいた承一《しょういち》が、驚きに声を上げる。結はそんな承一を睨み強く声をかけると、奥を指差した。
奥に視線を向け、ひっと承一から掠れた悲鳴が漏れる。恐怖に見開かれ、動けない承一に結は焦れてその背を容赦なく叩いた。
「痛ぇ!?何しやがる、このじゃじゃ馬娘!」
「時間がないんだっての!男なんだから、あんなのに怯えんな!」
文句を言う承一にさらに強い言葉を返し、結は拳を振り上げる。それに慌てて、承一は腕の中の額――新しい祝言絵図を抱え直し、小走りで部屋の奥へと向かった。
「縁次《よりつぐ》と……さっきの嬢ちゃんか」
「無駄口はいいから、さっさと絵を掛け替えて!」
赤い糸で互いを繋がれている花婿と花嫁を見て、承一の眉が寄る。足を止める承一を許さないとばかりに、結は強く責め立てる。そして、縁次の糸を砕き続けている冬玄《かずとら》へと声を張り上げた。
「化け物!絵から伸びる糸を砕いて、そのまま外して!今なら外せるはずだ!」
声に反応して結と承一へ視線を向けた冬玄は、すぐさま状況を理解すると、弾かれるように絵図へと向かう。絵図から伸びる太い糸を掴み凍らせて砕くと、そのまま額を壁から取り外した。
「兄貴!」
「わぁってる!」
結の呼び声に叫ぶように返事を返し、承一は手にしていた額を壁に掛ける。
花婿と花嫁の描かれた、祝言絵図。
花婿の名は、遠見《とおみ》縁次。
花嫁の名は、齋《いつき》結。
二人の契りを示す絵図が、奉納された。
優しく揺り起こされて、目を覚ました。
「雨が上がった。だからもう起きないと」
まだぼんやりとする意識で目を瞬き、焦点を合わせていく。
「雨が上がったの?」
「うん。すっかり晴れてる」
手を伸ばす。同じように伸ばされ繋がる手の小指に巻かれた白の糸を見て、自身の右手の小指に視線を落とした。
何も巻かれていない事が、何故だか寂しいと感じてしまう。
「赤は間違った色だから、ないのは当たり前。ちゃんと正しい相手がいるんだから……それが単細胞のろくでなしでも」
「何?」
最後の方が聞き取れず、首を傾げた。それに何でもないと首を振り、手を繋いだまま立ち上がる。
「行こうか」
同じように立ち上がり、手を繋いだまま部屋の外へと向かう。
眠っている間に朝が来たのだろう。明るい室内には雨の名残はどこにも見られない。障子を開けて出た縁側の廊下は、眩いばかりの光が差し込み、外を見れば澄み切った青空が広がっていた。
記憶が混濁している。眉を寄せ、外と廊下、出てきた室内に視線を向け、そして繋がれている手を見た。
「ここは……?」
「あたし達の秘密の部屋」
記憶の中の。
そう付け加える私は、どこか寂しい目をしていた。
「――まだ、寂しいの?」
思わず問いかける。問われた私は、驚いたように目を瞬き、ふんわりと微笑んだ。
「もう寂しくない。ようやく寂しくなくなった」
「ならよかった」
「ありがとう……どうせ迎えが来るだろうし、それまで話していよっか」
そう言って手を離すと、縁側の窓を開け放していく。日差しの差し込む縁側に座って手招かれ、その隣に座った。
何を話そうか。話そうといいながら悩むその姿は、とても楽しそうだ。
「昔話でもする?この辺りの子供なら必ず聞かされる、祝縁寺の昔話」
「うん、聞きたい。聞かせて」
頷くと、私はその話を思い出すように空を見上げ、ゆっくりと語り出す。
「昔々。ある所に、一人の母親と小さな子供がおりました――」
緩やかに、穏やかに。
もの悲しい、祝縁寺の始まりが紡がれていく。
昔の事。夫に先立たれた妻が、幼子を抱えて必死に生きていた。
母一人、子一人。貧しくはあったが母は子を愛し、大切に育てていた。
しかしある春の終わり。子供は流行病にかかり、看病の甲斐もなく亡くなってしまう。唯一の子を喪って、母は深く嘆き悲しんだ。
とある絵師がいた。絵師は近所に住む子を喪った母を哀れに思い、一つの絵を描き上げた。
それは、亡くなった子が成長した姿を想像して描かれたもの。絵を渡すと母は大いに喜び、そしてある願いを口にする。
――どうかこの子に、伴侶を与えてやってはくれませぬか。
一人で亡くなった子の慰めに。そんな母の願いを快く引き受け、絵師は一枚の祝言絵図を描き上げた。
その日の夜。絵師は謎の高熱に魘された。起き上がる事も出来ず、何日も死の淵を彷徨った。
亡くなった子は、七つに満たない幼子だ。子は村の山奥に住む神に連れていかれたのだった。
その子を絵師は、絵の中で成長させ伴侶を持たせた。それは神の元から解き放つ導となり、子は母の元で祖霊として祀られたのだ。
絵師の謎の高熱は、神の怒り。それを知って、母は祝言絵図を手に近くの寺へと駆け込んだ。
境内に咲き誇る青の紫陽花を一本手折り、本尊の前で紫陽花と絵図を置き、こう告げた。
――絵師は子を喪い、嘆く私の願いに応えただけの事。もしも私の子への想いを、絵師の誠実さを誤りだと断ずるのであれば、どうかこの花の色を赤く染めて下さいませ。赤く染まるのであれば私は絵を手放し、どんな咎でも受け入れましょう。しかし青のままであれば、正しいとお認めになるのであるならば、その怒りは静めるべきもので御座いましょうや。
高らかに告げた母の前で、紫陽花の花は色を喪っていく。青から白へ。だがいくら待てど、白から赤へは変わらない。
それを見た母は深く一礼し、絵図を手に寺を出た。そして後日、絵師が回復した頃を見計らい、改めて寺を訪れ絵図を奉納したのだった。
語り終えて、彼女はくすりと笑う。
「これが祝縁寺の始まり。まあ、ただのこじつけだろうけどね。山の神様なのに行くのは寺だし。青い紫陽花を赤くしろなんて無理難題を、まったく関係ない仏に押しつけるし。まったくもって意味が分からない……けど切っ掛けが何であれ、あの絵のおかげで救われた人はたくさんいる」
そのたくさんの中に、彼女はいるのだろうか。寂しくはないと言っていたけれど、果たしてそれは救われた事になるのだろうか。
不安になり、彼女を見た。彼女は何も言わず、微笑むだけだった。
不意に、どこからか音が聞こえてくる。
音色のような、歌声のような不思議な旋律。何故か懐かしくて愛しくて、無意識に指が胸元を探る。
「――ねぇ、この音。何に聞こえる?」
穏やかに問われて、何も触れない手を握りながら耳を澄ませた。
懐かしい音色。愛しい曲。いつかどこかで、大切な誰かが歌ってくれた愛の歌。
「ラブソング。私のために歌ってくれた、大切な歌」
「そっか……あたしには、子守歌に聞こえるよ。母さんや兄貴が、あたしのために歌ってくれた、大切な歌だ」
優しい声音。彼女を見つめ、考える。
私とよく似た彼女が誰かを。優しくて不器用な、寂しがりな彼女の名前を。
彼女は何も言わない。ただ静かに、穏やかに目を細めて。
ふと何かに気づいて、彼女は一点を指を差した。
指差す先で、誰かが立っている。それは、とても大切な。
忘れたくはないと願っていたはずの――。
「お迎えだよ。いい加減行かないとね。待ちくたびれて、縁次なんかは泣いてそうだ」
そう言って立ち上がる。手を差し伸べながら、晴れやかに笑う。
「行こう、燈里」
名前を呼ばれ、同じように笑いながらその手を取った。
「うん。行こう――結」
立ち上がり、手を繋いで歩き出す。
庭に植えられた白の紫陽花が、花に溜まった滴を払うように揺れていた。
雨音が止んだ。
雅楽の音が正され、荘厳な音色が部屋に響き渡る。
外した額は溶けるように消えていき、残る赤い糸はその端から解けていく。
「燈里っ!」
糸が解けた事で傾いでいく燈里の元へ、冬玄は駆け寄りその華奢な体を抱きしめる。冷たい体を包み込み、鋭い目をして結の姿を探した。
だが部屋に結の姿はない。状況を飲み込めず祝言絵図の前で立ち尽くす承一と、傍らで倒れた縁次がいるのみだ。
「――どこ行った?あの娘」
「燈里の所だよ」
声がした。燈里の唇から、燈里ではない声が紡がれる。
「楓《かえで》?」
「正直堕ちるんじゃないかって思ってたけど、我慢が出来たようで何よりだ」
皮肉めいていながらも隠し切れない安堵を含んだ声音に、冬玄の眉が僅かに下がる。気まずさを抱え、それでも燈里を気にして声を掛けた。
「燈里は?」
「ひとつを二人に切り離している所。でもそのまま話に花が咲きそうだね……仕方ない。一人で我慢が出来たご褒美に、迎えに行ってきてあげるよ」
苦笑して、楓はそれきり沈黙する。状況が理解出来ぬまま、冬玄は燈里の綿帽子を外した。
眠る燈里の、熱を失った頬に触れる。泣くのを耐えて唇を噛みしめる冬玄の視界の隅で、倒れ伏す縁次が徐に起き上がるのが見えた。
「ゆい……ゆい……」
立ち上がる事が出来ないらしい。這いずり、結の名を繰り返し呼びながら、縁次は周囲を彷徨う。片手を伸ばし、ただ一人を求める姿から、冬玄はそっと目を逸らした。
「ゆい……」
「そんなに呼ばなくても、ここにいるよ。縁次の隣に、ずっといる」
柔らかな声音。はっとして視線を向ければ、そこには伸ばした縁次の手を取り、繋いで微笑む結の姿があった。
「ゆい……やくそく……はなれない……ゆい、ゆい……」
「分かってる。約束したからね。ほら、兄貴がちゃんと叶えてくれたんだよ」
繋ぐ手の指を絡めて、結に縋り付いていく縁次を抱き留めながら。結は冬玄を一瞥し、燈里へと視線を向ける。その視線から隠すように燈里を抱き寄せて、冬玄は燈里に体に僅かに熱が宿っている事に気づいた。
「燈里?」
頬に触れる。赤みを帯びていく頬の熱を感じ取り、願うように燈里の名を呼んだ。
唇を指先でなぞる。僅かな隙間すら厭うように、強く体を抱き寄せて。
触れた唇の熱で溶けてしまいそうな錯覚に、冬玄の世界がくらりと揺れた気がした。
「燈里」
見つめる燈里の瞼が微かに震える。ゆるりと開いたぼんやりとした目が、冬玄を見つめ焦点を結んでいく。
「――かずとら?」
どこか辿々しい呟きに、冬玄は泣くように微笑んで。
「おかえり。燈里」
離れたくないと、強く強く燈里を抱きしめた。
20250613 『君だけのメロディ』
6/14/2025, 11:14:26 AM