態とらしい咳払いが、室内に響く。
「その、なんだ……どうなってんのか、説明してくれねぇか」
気まずげな顔をする承一《しょういち》へ、結《ゆい》と冬玄《かずとら》は視線を向ける。すぐに視線を腕の中の燈里《あかり》へと戻す冬玄とは対照的に、結は仕方がないと息を吐いて口を開いた。
「あたしと燈里を勘違いした縁次《よりつぐ》が、強引に燈里と祝言を挙げようとして、兄貴があたしと縁次の絵を納めて、こうなった」
「全然分かんねぇな。説明する気あんのか、結」
眉を寄せる承一に、結は肩を竦めてみせる。縋りつく縁次の背を撫でながら、どこから話すべきかと承一の目を見つめた。
承一もまた結の目を見返し。ややあって、確認だけどよ、と悩みながらも疑問を口にする。
「縁次の絵の嫁の方。塗り潰したのは、本当におめえか?」
視線を結から縁次へと向ける。
結の名を繰り返し呼びながら、必死に離れまいと縋る縁次の姿は、在りし日の姿からは想像が出来ないものだ。結に執着する今の縁次ならば、何度描き直しても結ではない花嫁を黒く塗り潰すのではないか。
そんな予想を、しかし結は苦笑しながら否定した。
「あたしがやった。例え想像上の相手でも、あたし以外は認められなかったし……相手がいない状態で縁次の所へ行ったら、あの花嫁の代わりにあたしが縁次と祝言を挙げられると思ったから」
でも、と縁次と繋ぐ手の小指に絡む白の糸を見ながら、結は暫し口籠もる。衝動的な行動の結果が、願ったものとは悉く異なったであろう事は、二人の様子から明らかだ。
「花嫁を塗り潰されて不完全になったとはいえ、縁次は祀られてる。だから祀られなかったあたしを、縁次は認識出来なかったんだ」
「――祀ってやっただろうが」
寂しさを乗せた声音で呟く結に、承一は苦い顔をしながらもそれを否定する。
驚いたように顔を上げる結に、承一は言い含めるようにして、祀ったと繰り返した。
「おめえが死んで、俺が描いてやっただろ?壁に掛けた瞬間に婿が歪んじまって、すぐに外したがよ……縁次みてぇに何度描き直しても同じようになるから、そのまま家ん中にしまっちまったがな」
短く息を吐く承一に、結は戸惑い視線を揺らす。強く繋がれた手と、しがみつき名を呼ぶ縁次と、そして承一を見て力なく首を振る。
「知らない。あたしの絵の事も、縁次の絵の事も……描き直したって何?あたし、一度しか縁次の絵を塗り潰してない」
「なら、縁次しかいねぇわな」
呆れたような乾いた笑いを浮かべ、承一は結の方へ歩み寄る。縁次の襟を掴んで結から引き剥がし、花婿の席へと座らせた。
花嫁の席に視線を向ける。すでに冬玄と燈里は席を離れ、結が席に着くのを静かに待っている。状況が理解できず困惑する結に、承一は目線だけで花嫁の席に座るように促した。
「結」
「燈里」
少し離れた場所で、冬玄に抱きかかえられたままの燈里が声を掛ける。
「三献《さんこん》の儀。道具はあるから、縁次さんと盃を交わそう?私が御神酒を注ぐから」
「でも……縁次が」
縁次に視線を向ける。承一に引き剥がされる際に、抵抗を見せていた縁次は、しかし今は花婿の席で沈黙を保っていた。顔を上げ姿勢を正し、儀式の始まりを待つ縁次に、結は一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた。
幼い頃に交わした戯れのような約束を、死してなお縁次は記憶し、ただ一人を求めている。自身に与えられた花嫁を否定し、結の花婿を拒絶し、契るその時を待っている。
怖ろしさすら感じられる、その一途な想い。真っ直ぐな縁次の視線に、結は思わず俯いた。
深く息を吐く。そして結は顔を上げると、ゆっくりと花嫁の席へ向かい座った。
冬玄に支えられながら燈里は側に寄り、着ていた白無垢を結の肩に掛ける。綿帽子を承一が結に被せ、ぐすと鼻を鳴らしながら離れていった。
「まさか、妹の晴れ姿が見れるなんてな」
声を震わせながら、承一は親族の席に着く。
「いい年して、みっともなく泣かないでよ。恥ずかしい」
「うるせぇ!本当に可愛げのない奴だな」
互いに文句を言い合う兄妹は、それでもその表情はとても穏やかだ。本当に仲の良い兄妹だったのだろう。
どこか切ない気持ちに、燈里は目を細める。慰めのようにその背を撫でる冬玄に笑いかけ、縁次と結の正面に座った。
燈里と結の視線が交わる。
泣くのを耐えたような不格好な微笑みを浮かべ、結はありがとうと、燈里へ頭を下げる。
「燈里が来てくれてよかった。もしも燈里が来なかったら、こんな経験、きっと出来なかった」
「私も結がいてくれてよかった。もしもあの行列が縁次さんじゃなかったら。もしも結がいなかったら、きっと祝言絵図に描かれて、知らない誰かと結ばれてたはずだから」
偶然の出会いが、互いの最善の結果を導いた。
それは最早偶然ではなく、必然かもしれない。
「――じゃあ、始めるよ。形ばかりの式になるけど、ごめんね」
そう言って、燈里は冬玄と共に盃に神酒を注いでいく。
一番小さな盃。花婿と花嫁の過去を表したもの。
それを縁次へと手渡し、縁次は三回に分けて神酒を飲み干した。
返された盃に再び神酒を注ぎ、今度は結へと手渡す。縁次と同じように三回に分けて神酒を飲み干した結は、燈里へ盃を返しながら眉を下げる。
「まさか死んでから酒を飲むとは思わなかった」
「私も、幽婚に立ち会うとは思わなかった」
互いに笑い合う。
燈里が盃に神酒を注いで縁次に渡し、それが飲み干されていくのを、どこか不思議な気持ちで結は見つめていた。
盃を受け取って、今度はそれよりも大きな盃へと変えて神酒を注ぐ。
二番目に小さな盃は、花婿と花嫁の現在を表したものだ。
それを今度は結へと手渡す。結から縁次、そして結へと盃は交わされ、燈里は最後の一番大きな盃を手にした。
「死者に未来は必要ないんじゃない?」
結に止められ、燈里は目を瞬いて盃を見る。
一番大きな盃は、花婿と花嫁の未来。子孫繁栄と一家の安寧は、確かに死者には不釣り合いだ。
そう思いながらも、燈里は神酒を注ぐ手を止めず。盃を手渡された縁次も躊躇いもなく飲み干すのを見て、結は呆れたように溜息を吐いた。
「死者が未来を思ってもいいと思うけどな。祝言絵図は死者の未来を願って描かれているんだから……私が結の未来の幸せを願うように、結は縁次さんとの未来の幸せを願えばいいよ」
「屁理屈……本当に燈里は、あたしと正反対だ」
縁次から返された盃に神酒を注ぐ燈里を結は止めず、手渡された盃におとなしく口を付けた。
「これで終わり?」
縁次が飲み干した盃を受け取る燈里は、結の言葉に頷いた。
そう、と呟き、結は自身の手に視線を落とす。
小指に巻かれた白い糸。盃を交わした前と何も変わらない事に、どこか拍子抜けしながら縁次に視線を向けて。
「結」
手を引かれ、縁次に強く抱きしめられた。
「――縁次っ!」
突然の事に、結は慌てて身を捩る。けれど頬を包み額を合わせて微笑む縁次に、結は動けずに頬を染めた。
「約束……やっと守る事が出来た」
嬉しそうに囁かれて、結は息を呑む。結だけを見つめる縁次の目から視線を逸らせず、気恥ずかしさに目を瞬いた。
「結。俺のお嫁さんになってくれて、ありがとう」
「だ、だって。約束したもの。縁次が、お嫁さんにしてくれるって。だから」
滲み出す視界の中で、結は必死で声を上げる。
幼い頃の、あの秘密の部屋で約束を交わした時の思いが込み上げる。
「結。大好き」
結の頬を包んでいた手は、結の両手と繋ぎ指を絡め。
「あたしも……あたしも、縁次が好き」
吐息が重なる。静かに目を閉じた。
あの特別な日を繰り返すように。誓いを交わすように。
ゆっくりと二人の唇が重なった。
20250614 『もしも君が』
6/15/2025, 9:48:28 AM