雨の降り頻る夜。
村は静かに眠りについている。灯りはすべて絶え、出歩く者など誰一人おらず。
やがて、雨が上がった。だが辺りは不気味な静寂に包まれ、蛙の鳴き声さえも聞こえてはこない。
生きるものすべて、死に絶えたかのような無音。深い暗闇に呑まれ、沈んでいく。
ふと、音がした。遠く微かに、低い太鼓の音が響く。
太鼓に合わせ、奏でられるは高い笛の音。どこか寂しげに聞こえる音色が、厳かに静寂を乱していく。
音が近づく。ゆっくりと静々と村を横切り、奥の寺へと向かっていく。
大勢の足音。仄かな提灯の灯りに、その異様な姿が露わになる。
それは喪服に身を包んだ行列だった。俯き歩く誰もに生気はない。ただ黙々と、寺へと向かい歩いて行く。
その中心。赤い番傘を差し掛けられた人影があった。黒紋付羽織袴を着た年若い男。やはり俯きながら、静かに歩いている。
音が過ぎていく。やがては寺の前までつき。
音色が止まる。足音が止まり。
その行列は、闇夜に解けるように。
音もなく静かに、消えていった。
雨が降り始める。
境内の脇に咲いた紫陽花を濡らしていく。
ぽとり、と。雨に紛れて小さな音。
真白い紫陽花の花がひとつ、落ちていた。
その村には、花婿・花嫁葬列という伝承がある。
梅雨の時期、雨上がりの夜。
花婿、あるいは花嫁の葬列がどこからともなく現れ、村の奥の寺へと向かうのだという。
だが、それは死者の行列。
決して、その姿を見てはいけない。
もし見てしまったのならば、その者は死者に見入られて。寺の中で、婚姻を結ばれてしまう――そう言い伝えられていた。
雨が上がった。
傘を打つ音が消え、彼女は構えていたカメラから顔を上げる。
雨に濡れ、色を濃くした境内の石畳。その脇には赤や青、紫の紫陽花が咲き乱れ、人の訪れを待ち望んでいる。その奥の本堂もまた雨に濡れ、屋根を伝い落ちる滴が雲越しに注ぐ光を反射し煌めいた。
傘をたたみ、空を仰ぐ。厚い雲に覆われ、陽の光は差し込まないが、まだ日暮れには遠いようだ。
時計を確認する。午後三時。やはり、日暮れは先だ。
「今日はもう、切り上げようかな。必要な写真は、もう撮ったし」
誰にでもなく呟いて、片付けを始める。寺の軒下に置いていたバッグにカメラを詰め、肩にかけた。
ふと、辺りが異様に静かである事に気づく。雨が上がったというのに、虫や蛙、鳥の声がしない。まるで世界から一人取り残されてしまったような、そんな錯覚に彼女は胸元の守袋を握り締めた。
「大丈夫。大丈夫」
何度も繰り返し、自身に言い聞かせる。
まだ夜には遠い。今回取材に訪れた、この村で語られている伝承は、雨上がりの夜に現れるのだと聞いている。
もう一度、空を見上げた。厚い雲越しであっても、まだ日は十分に高い。夜の訪れはまだ先の事だ。
一度深呼吸をして、ゆっくりと歩き出す。後ろを振り向かないように、前だけを見る。
山門の近く、降り続く雨によって出来た水たまりが、道を塞いでいる。足を踏み入れないように大きく迂回して。
何気なく、その水たまりを覗いた。
「――っ」
目を見張り、息を呑む。
空を写しているはずの水たまりは、暗闇に沈んでいる。月や星明かりのない、昏い夜の装いをした世界が、水たまりという境界を隔てて存在していた。
低く、高く。太鼓や笛の音が聞こえた。荘厳に響き渡る音色は雅楽だ。水たまりの向こう側で、参進の儀が始まったのだ。
握り締めた守袋が熱を帯びる。見てはいけない、ここから一刻も早く逃げろと、忠告している。だが逸る気持ちとは裏腹に、彼女の体は縫い止められたように動かず、視線は水たまりに注がれたままだった。
音が近づく。次第に複数の足音が聞こえだし、暗闇の奥から淡い光が現れた。
提灯の灯り。ゆったりと近づき、行列の姿をぼんやりと浮かばせる。
提灯を持つ子供の手。闇夜に浮かぶ白の旗。
死者の行列を、見てしまう。
「お姉さん」
手を引かれ、後ろに倒れ込む。
その瞬間に体の自由を取り戻し、彼女は小さく蹲るようにして強く目を閉じた。
守袋を抱きしめ、必死で今見たものを脳裏から消していく。何も見なかったと強く念じ、聞こえ続ける雅楽など幻聴だと自身に言い聞かせて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
「水たまりって境界になる事、知らないの?そんな仕事をしているのに、今までよく無事だったね」
淡々とした、感情の伴わない少女の声音。
ぱしゃん、とすぐ側で水音がした。はっとして目を開けて視線を向けば、制服姿の少女が無心で石を水たまりに投げ入れているのが見えた。
ぱしゃん、ばしゃんと水が跳ねる。その度に未だに聞こえる雅楽や複数の足音が掻き消され、やがては何も聞こえなくなる。
「お姉さん」
石を投げ入れていた手を止めて、少女は彼女を呼ぶ。
やはり凪いだ声音で、ただ事実だけを彼女に突きつける。
「梅雨の間、紫陽花に触らないで。色に関係なく、写真越しでも絶対に」
「――どうして?」
声を震わせ、それでも彼女は問いかける。
紫陽花に、何の関係があるのか。聞いた伝承を思い返せど、彼女には思い当たる節は欠片もなかった。
「白の紫陽花は、目印だから」
「目印?」
「本当に何も知らないんだね」
僅かに呆れを乗せて少女は呟いた。
ゆっくりと振り返る。少女の姿に驚き息を呑む彼女を見下ろして。
「葬列を見た者の元に届けられる白の紫陽花は、イワイと契る人だという目印なんだよ。触れたら最後、寺の奥へと連れ込まれてイワイと契らされる……色があっても、本物でなくても駄目だ。それに触れた瞬間に色が抜け落ちて、白になってしまうから」
声音と同じく凪いだ目をして告げる少女は、彼女とよく似た顔をしていた。
「あなたは……?」
彼女の問いかけに、答えはなく。
少女は無言で踵を返し、呆然としたままの彼女を置いて、山門をくぐり抜け去ってしまう。
慌てて立ち上がり少女を追うが、その姿は既に遠く。
少女の背が村の中へと消えていくのをただ見つめ、彼女は守袋に触れる。
先程まで帯びていた熱はない。恐る恐る覗き込んだ水たまりも、どんよりとした雲に覆われた空を写すのみで、夜の気配はどこにも見えなかった。
ぽつり。見下ろす水たまりに波紋が浮かぶ。
ぽつ、ぽつりと波紋は数を増やして。
見上げた空から、絹糸のように細い雨が降ってくる。慌てて差した傘を、雨は静かに濡らしていく。
――梅雨の間、紫陽花に触らないで。
少女の言葉を思い出す。
振り返り、境内の脇で咲き乱れる紫陽花を見遣る彼女の目の前で。
ぽとり、と。
真白い紫陽花の花がひとつ、落ちた。
20250601 『雨上がり』
「また負けちゃった」
そう言って、彼女は笑う。負けたというのに、悔しさの欠片も見せず。
その笑顔が眩しくて目を細める。散らばったカードを纏めながら、さりげなく視線を逸らした。
勝負には勝った。だがその瞬間に、自分は彼女という存在の大きさにまた負けたのだ。
「どうしたの?」
問いかける声に首を振る。
羨ましい、悔しいと思う気持ちを、浮かべた笑みで隠して終わりを告げる。
「そろそろ帰る時間だね。また明日」
「もうこんな時間か、残念。今日こそは勝てると思ったのに」
「――勝ってるよ。いつも君には負けている」
ぼつりと小さく呟いた。
何か言った、と問いかける彼女に、何もないと答えて手を振る。
「まあ明日ね。次は絶対に勝つからね」
「うん。期待してる」
部屋から出て行く彼女の背を見送りながら、手にしたカードを気まぐれに弄ぶ。
勝負の勝ち負けなんて、何の意味もない。
彼女のように強くなれない自分は、その時点で既に負けているのだから。
「強く、なりたいな」
カードを片付けながら、嘆息する。
窓の外を見れば、空は青から赤へと色を変えて。遠くカラスの鳴き声を聞きながら、徐に手を上げた。
その瞬間に部屋の灯りはすべて消える。窓から差し込む陽の光が、部屋の暗がりに自分の影を伸ばしていき。
その影は揺らいで形を小さく崩して、人間から獣の姿へと変わっていく。
「彼女のようになりたい」
影と同じく獣――狸へと姿を変えて、彼女を思い項垂れた。
半年ほど前、寝所にしていたこの廃墟で彼女と出会った。
明るく、好奇心旺盛で。それでいてとても優しい彼女。この廃墟に来たのも、友人が肝試しに訪れてから戻らない事を心配していたためだった。
まあ、その友人は実際には別の廃墟に行っていた訳であるが。その時は何も知らず、二人して廃墟の中を探し回って、それで仲良くなった。
それから毎日のように、この場所で彼女と一緒に遊んだ。
廃墟に残されていたものや彼女が持ち込んだもので一緒に遊び、勝負をして楽しく過ごしていた。彼女はゲームの類いが得意ではないようで、勝つのはいつも自分だった。
けれど。
「また、言えなかった」
彼女は自分が狸である事を知らない。彼女と出会ってからずっと人間の姿で接していて、今も告げる事が出来ないでいる。言わなければと思い立って、そろそろ一月が経とうとしていた。
本当の事を打ち明けても、きっと彼女はそうなんだ、と笑ってくれるだろう。でも万が一、もしも彼女にすべてを打ち明けて、怖がられたり怯えられたりしたとしたら。二度とこの廃墟に遊びに来てくれなくなったとしたら。
それを考えると、怖くて怖くて、何も言えなくなってしまうのだ。
「強く、なりたいな」
ソファに飛び乗り、丸くなる。
強くなりたかった。勝負の悉くに負けても、それを笑っていられるくらいの強さがほしかった。そうしたらきっと、彼女に自分の気持ちごと、すべてを話せるのに。
勝負の勝ち負けなんて、彼女の強さに比べたら些細な事だ。何も言えない臆病な自分は、彼女よりも遙かに弱い存在なのだから。
「明日。明日こそ、ちゃんと言おう」
何度目かの決意を口にして、目を閉じる。
「ぼくが狸だって事。それから、大好きだって事」
明日こそ。結局無駄になって散らばった、言葉達の残骸を見ない振りして明日が来るのを待つ。
はずだった。
「その明日は、いつになったら来てくれるのっ!」
ばんっ、と大きな音を立てて扉が開けられたと同時に、少し怒っているような彼女の声が聞こえた。
思わず飛び上がる。飛び上がって、扉に視線を向けて固まった。
強い目をした彼女が、大股でこちらへ歩いてくる。怒っているような、拗ねているような顔をして目の前まで来ると、躊躇う事なく体を持ち上げた。
「私は、あと何回、その明日こそを待てばいいのっ!」
「え、えと……え?」
「君が人間じゃない事くらい、ずっと前から知ってるの!負けそうになる度に耳としっぽが出てくるんだから、誰でも気づけるって」
前足の下に手を入れて持ち上げられたせいで、後ろ足がぷらぷらとして落ち着かない。
なんて、現実逃避をしたくなるくらいの事実に、思わず泣きたくなる。恥ずかしすぎて逃げてしまいたいというのに、けれども彼女の勢いは止まらない。
「驚かそうって、さよならしてから少しして部屋に忍び込んだ時なんか、今みたいに狸の姿で呑気に寝ててさ。それで寝言で好きって言ってるのも知ってるんだからね」
「あ、あ、やだ……うそ」
「嘘じゃない!何だったら、その後からずっと、明日こそっていう言葉を聞いてから帰ってるんだから……で?私をいつまで待たせる気なの?」
がくがくと彼女の感情のままに揺さぶられる。その気持ち悪さよりも、何もかもを知られていたという衝撃に、目眩がしてきた。
狸でよかった。状況は悪くなるばかりで、彼女の怒りも収まるどころか高まっていく一方だ。それでも人間の姿では真っ赤になっているだろう顔が、見られないのはせめてもの救いだった。
それすらも現実逃避でしかないのだけれど。
「私だってね、女の子なの!好きな子にそう思われてるって知って、期待してるんだけど!?本当にいつまで待たせるのよ!」
「あ、う……ごめん、ごめんね。だから」
「じゃあ、言って。今すぐ、ここで。私の前で告白して」
揺さぶる腕が止まり、彼女と真正面から視線を合わせられる。逸らしたくはなるけれど、逸らしてしまったらもう彼女とは一緒にいられないだろう。
落ち着くために深く呼吸をして、彼女の怒りながらも悲しげな目を見つめた。
そこでようやく、彼女を悲しませているのに気づく。意気地のない自分を叱咤して、もう一度呼吸をしてから口を開いた。
「えっと……実はね、僕は狸なんだ」
「うん。知ってる」
「それで。えっと……君が、好き。です」
最後の方は、声が震えてしまっていたが、はっきりと告げる。ようやく、告げられた。
ふっと、彼女の表情が緩み。でもすぐに眉を寄せ、睨まれる。
「駄目。やり直し。何かきゅんとしない。散々待たせたんだから、もっと言って」
え、と間抜けな声を上げ、慌てて身を捩る。彼女の腕から下りて、人間の姿に変わった。
腕を上げて灯りをつける。恥ずかしいけれど仕方がない。それよりも彼女を悲しませる事の方がよっぽど嫌だから。
何度も夢の中で練習したように、彼女の両手を握り目を合わせる。
「君が好き。僕と付き合ってほしい」
真剣に、思いのすべてを込めて告げる。
彼女の頬が段々と赤くなる。それを可愛いなと見ていれば、握った手を解いて、彼女に抱きつかれた。
「遅い!でも、合格……私も、大好き」
予想していなかった答えに、一瞬で顔が熱くなる。
どうすればいいのか分からない手が宙を彷徨って、そしてそっと彼女の背に回す。
くすくすと笑う声。頬に触れた熱に、今にも倒れてしまいそうだ。
その後。
暗くなった夜道を一人で帰らせるのが嫌で、二人手を繋いで彼女の家へと帰り。
何故か言いくるめられ。狸の姿ではあるものの、彼女との同棲が始まった。
「女の子って、怖い」
「失礼な事言わないで」
彼女の家に来てから、一回も勝てない勝負に溜息を吐く。
彼女はやっぱり強い。勝ち負けなんて、始まる前から決まっていたようだ。
「勝ち負けよりも、楽しいか楽しくないかじゃない?今はまだ、ちょっと怒ってるから手加減しないけど」
「本当に怖い……でも、そんな所も大好き」
楽しそうに笑う彼女の顔が赤くなる。
そして赤くなりながらも、真っ直ぐに目を合わせて。
「私の方が好き。最初から……あの廃墟でずっと手を繋いで、怖いのから守ってくれた時からずっと好き」
真剣な表情で告げられて、意味を持たない声が漏れた。
20250531 『勝ち負けなんて』
楽しそうな笑い声が、風に乗って駆け抜けていく。
赤や紫、白の花が咲き乱れる庭を過ぎて、テラスへと向かう。
「――少女ははらはらと涙を流しながら、神様へと手を伸ばしました。忘れる事を怖がり、残った家族や神様から逃げ続けていた少女は、ようやくすべてを受け入れる覚悟が出来たのです」
柔らかな声音。白いテーブルでたくさんの子供達に囲まれながら、誰かが絵本を読み聞かせていた。
「こうして可哀想な少女は、助けてくれた神様と家族と共に、いつまでも幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
本は閉じられ、物語が終わる。
もっととせがむ子供達に、彼女は優しく微笑んで。
「また明日」
お決まりの言葉を囁いた。
懐かしい夢を見た。
苦笑して体を起こす。いつもと変わらぬ暗い部屋に視線を巡らせてから、ゆっくりと立ち上がる。
幸せだった幼い頃の夢を見たせいか、やけに体が重く感じられる。温かな優しさなど、夢の中だけの幻だと自分自身に言い聞かせる。ここが現実だ。最後には覚めてしまう夢に逃げても、何の意味もない。
そういえば、と身支度を整えながら思う。他の皆は、今どうしているだろうか。
元気でいてくれればそれでいい。あの場所は寂しくて悲しい子供達が辿り着く場所だと教えられたが、だからこそ幸せを願ってしまう。皆の面倒を率先して見てくれたあの子は特に。
優しい子だった。子供達の中で一番年上だった事もあってか、家の主だった彼女の隣にいつもいた、落ち着いた子。部屋や庭の隅ですべてを拒んで蹲る自分に、手を差し伸べてくれたのは彼女の他にはあの子だけだった。
あの子の優しさや暖かさに何かお礼がしたくて、あの時一番大切だったものをあげた。それが何か、もう覚えてはいない。けれど驚き目を見張り、そしてふんわりと笑った顔は今も褪せずに覚えている。
――もしも……。
差し出された小指。お礼として交わした約束は、はたして何だっただろうか。
頭を振り、過去の残滓を散らしていく。
今更過去には戻れない。夢に縋っても空しいだけで、意味はないのだから。
「過去は戻らない。明日が来るとも限らない」
呟いて部屋を出る。
自分に出来るのは、今日を足掻いて過ごしていく事だけだ。
「ねぇ」
夕暮れ時。家に帰る途中で声をかけてきた幼い少年は、どこか恥ずかしそうにしながら、手にした小さな石を差し出した。
「えっと……」
白くて丸い、綺麗な石。それは少年にとって大切なものではないのだろうか。差し出されたものの、受け取って良いのか躊躇する。
「おにいさんが渡してって」
「お兄さん?」
益々困惑する。同級生か誰かの弟なのだろうか。だがそもそも何かを貰うまでの、友人と呼べる人は自分にはいない。人違いではないだろうか。
少年は少し首を傾げて、石を受け取るのを待っている。伝えるべきかを悩み、声をかけようとして。
「まだ痛くて寂しいのなら、どうぞって」
そう言ってはにかみ、固まる自分の手を取り石を乗せた。
「――ぁ」
石から伝わる温もりに、忘れていたすべてを思い出す。
あの子への贈り物。あの時の自分が唯一渡す事の出来た、まだ優しかった家族との思い出の宝物。その時、あの子は一つの約束をくれたのだ。
――もしも、大きくなっても痛くて寂しいままだったら。本当の意味でこの場所に来てしまう事になったら、僕が代わりに幸せにしてあげる。それまでには、ちゃんと跡を継いでみせるから。
柔らかな、優しいあの子の声を思い出す。指切りをした小指が、あの日の熱を持ち始める。
「約束したんでしょ?だからおねえさんもいっしょに行こう」
石を持つ手とは反対の手を引かれ、少年と共に歩き出す。幼い頃に迷い込んだ、あの場所へ行くのだろう。
「おねえさんは特別だって。明日は続かないけど、痛くて寂しくならないのはいいなぁ。ぼく、すごく嫌だったもん。ごめんなさいしても、やめてって言っても終わらなくてね……だからおねえさんは良かったね」
無邪気に少年は笑う。心から喜んで、早く行こうと手を引いた。
寂しくて悲しい子供達の魂が集う場所。眠りにつく前の一時の安らぐ場所に向かい、段々に足が速くなっていく。
幼い頃に迷い込んだ時は、命は細い糸一本で辛うじて繋がっていた。あの時切ってしまおうと思っていた糸を留めて現に戻ったのは、あの子が約束をくれたからだ。これから先も変わらないと理解して、あえてその約束を糧に今までを生き抜いてきた。
今日で終わるはずだったのか。まぁ確かに、節目の日ではあったのだろう。
今日は姉が死んだ日だ。そして丁度自分は姉と同じ年になった。彼らの心はやはり、耐えきれなかった。
「おねえさんは、絵本読むの上手?おにいさんはちょっとだけ下手なの。上手なら絵本を読んでほしいな」
期待に満ちた目で見上げられて、どう答えるべきかを思案する。頭を過ぎていくのは、テラスで絵本を読んでくれた彼女の事だ。
彼女ではなく、あの子が絵本を読んでいるのならば、正しく代替わりが行われたという事だろう。
あの子は、約束をすべて叶えてくれたのだ。
「――絵本を読んだ事がないから、上手かどうかは分からないな。でも向こうに行ったら、好きな絵本を読んであげる」
「ほんとっ?約束だよ!」
眼を輝かせて念を押す少年に、小さく笑って頷いた。
やったあ、と飛び跳ねてはしゃいで、逸る気持ちにとうとう駆け出していく。無邪気な姿を微笑ましく思いながら、手を引かれるままに駆け出していく。
街を横切り、裏路地を通り抜け。木々の合間を抜けていく。
現が終わる事に悔いはない。今はただ、終わりの先に続いた温もりが、泣いてしまいそうなほどに嬉しい。あの子とした約束が与えてくれる、奇跡のような優しさが愛おしい。
森を抜け、色とりどりの花が咲き乱れる庭を過ぎていく。
テラスに佇む青年が、こちらに気づき振り向いた。
懐かしい面影を宿した彼。柔らかく微笑んで、軽く腕を広げた。
少年は手を離す。けれども足は止まらずに。
成長した彼の腕の中へと、飛び込んでいく。
楽しそうな笑い声が、風に乗って駆け抜けていく。
赤や紫、白の花が咲き乱れる庭を過ぎて、テラスへと向かう。
「――こうして少女の物語は終わりを迎えました。ですがその次のページに、誰かがこっそりと続きを書き込んだのです。暖かな、光溢れる物語を」
たくさんの子供達に囲まれながら、テラスに座り絵本を読む。
不意に抱き上げられて、彼の膝の上。柔らかく微笑む彼の唇が、額に触れて思わず声が上がった。
「そして少女は、約束を交わした青年と皆に囲まれて、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
「おねえさんの邪魔しちゃダメ!」
「せっかくいいところだったのに、終わらせないでよ」
「おにいさん、大人気ないー」
子供達の不満もに気にせず本は閉じられ、物語が終わる。
もっととせがむ子供達に、ごめんねと微笑んで。
「また明日」
お決まりの言葉を囁いた。
20250530 『まだ続く物語』
アラームの音で目を覚ます。
ベッドサイドに置かれたデジタル時計。示された時刻と共に今日の日付を確認するのは、もう習慣になってしまった。
――五月三十一日。
変わらない日付。
いつからだったかは、覚えていない。感覚的にはもう一ヶ月以上経っている気はするのに、六月が訪れる気配はない。
小さく息を吐く。繰り返す一日に泣いて悲しむ気持ちは大分前になくなった。あるのは諦めと、一欠片の希望だけだ。
時計の時刻を確認する。
あと十三分。母が起こしに来る前にと、ベッドから抜け出し身支度を整えていく。
決まった時間に同じ言動を取る周囲は、きっと今日も同じだろう。
同じ行動。同じ台詞。
繰り返し過ぎて一字一句まで覚えてしまった授業を聞き流しながら、今回はどうするかを考える。
前回は確か、街の図書館で何か手掛かりはないかを探したのだったか。その時に確か、時間や空間を自由に行き来できる渡り鳥の伝承を見つけたはずだ。
だから今回は、その伝承のある山へと向かおうと、そこまで話していた事を思い出した。
ちょうどタイミングよく、教室の戸を叩く音が聞こえた。視線を向ければ、にこやかに手を振る彼女の姿。同じように手を振り返し、立ち上がる。
授業中だというのに誰も、教師ですらも反応を示さない。まるで今日という一日が、舞台の中の出来事のようだ。
薄寒い気持ちになりながら、早足に教室を出た。
「伝承にある山ってこの近くなんだ」
「本にはそう書いてあるね」
彼女と二人、本を確認しながら歩いて行く。
すれ違う誰もが、やはりこちらを気にかける様子はない。彼女も周りを気にかける事もなく、本に視線を落としたまま少し前を歩いている。
彼女はとても不思議な人だった。諦めて、ただ受け入れるばかりの自分に、手を差し伸べた彼女。自分と同じように、一日を繰り返している事に気づいているのに、それに動じた様子は一度も見た事はなかった。
「渡り鳥、かぁ……そんな話、一度も聞いた事はなかったけどな」
「人間が求めるものによって、呼び方が変わるからね。それに普通の妖と違って、人間の望みに応えなければ存在出来ないって訳でもないから、人間に関わろうとするモノも少ないし」
「そうなんだ……随分、詳しいんだね」
そこまで詳しく、本に書いてあっただろうか。込み上げる違和感に少しだけ距離を取り、彼女の背を見つめた。
「そりゃあね。いつも見てたし」
そう言って彼女は立ち止まり、振り返る。
一つ遅れて立ち止まり。彼女の言葉に驚く自分に肩をすくめ、どこか寂しげな目をして彼女は笑った。
「君もそうだろう?遠い昔に、いつも会っていたじゃないか」
会っていた。彼女の言葉に記憶を辿るものの、思い出せるものはない。
「――知らない。会った事なんてないよ」
首を振って否定すれば、彼女はより一層悲しい目をする。
手にした本を宙に放り投げて、空を見上げながら、だろうねと呟いた。
「今の君になるずっと前の事だ。一番最初の、まだ何もなくしていない時の君の話だよ」
少し、昔話でもしようか。
そう言って、彼女は空を見上げたまま、語り出した。
空の彼方。人間には認識されないどこかに、渡り鳥の集まる木があった。
自由を好む鳥が、羽を休めるために気まぐれに訪れる、そんな場所。それでも人間の集落のような、いくつかの群れが互いに支え合う事で、そこは保たれていた。
いつの頃からか、姿を見せなくなった鳥が現れるようになった。一羽、また一羽と姿が消えていく。皆が不安に思い、互いに不信感を抱くようになったある日、その事件は起きた。
とある小さな渡り鳥が、いくつかある群れの中でも強い力を持つ年若い鳥に怪我を負わせた。幸い一命を取り留めたその鳥は、襲った鳥こそが全ての元凶だと証言した。
曰く、姿を消した鳥達は皆、その小さな鳥に喰われてしまったのだ、と。
「もちろんその話を信じないモノもいたんだよ。例えば、その子の姉さんとか。その子が慕っていた鳥とかね……でも信じたモノが殆どで、訴えた鳥の影響もとても大きかった」
歌うような彼女の囁きは、とても静かだ。彼女が何を思っているのか。声だけでは分からない。
「結局、その襲った鳥は翼を捥がれて追放された。それが渡り鳥達の最初の誤りだ」
「誤り?」
「そう。間違っていたんだ。襲われ、訴えた鳥の歪さに気づけなかった。気づこうともせず……あの子が何を守ったのかを知ったのは、襲われた鳥の怪我が悪化した時。あの子が追放された後の事だよ」
彼女は語る。その襲われた鳥が痛みと熱で弱っていった末に、何をしたのかを。
鳥の傷は一向に良くならず。次第に意識が混濁するようになった。幻覚にうなされ、叫び声を上げて。
そして、ある晩。
鳥は自身の群れの中の一羽に襲い掛かろうとした。側にいたモノらにすぐに取り押さえられ、大事には至らなかったが、鳥は憎悪に顔を歪め叫んだ。
――俺に寄越せ!その肉を、力を。俺の代わりに、お前が消えてしまえ!
そこにいる誰もが、鳥の言葉の意味が分からなかった。その意味を知ったのは、翌朝の事だ。
「その鳥はね。普通の妖のように、人間の望みに応えて認識してもらわなければ、存在を保っていられなかったんだ。けどその鳥はプライドが高くて、人間の望みに応える事を嫌がった……その代わりに、他の鳥を食べて存在を繋いでいたんだよ」
彼女の視線は空から離れない。
どこか遠く、もしかしたらその木のある方を見ているのかもしれない。
「――その鳥は、どうなったの?」
「翼を折られ、羽を毟られて。その代わりに、存在を繋ぎ留められる術を施されて、木の根元に繋がれたよ。今もきっと、繋がれたままだろうね」
皮肉だよね、と彼女は笑う。
あれほど消える事を恐れていたのに、繋がれてからはずっと消えたいと泣いているのだから。
そう呟く彼女は、笑っているはずなのに、泣いているように見えた。
「――ある一羽の鳥がいた。追放された鳥とは親友で、そしてすべてが明らかになるまでは、家族を傷つけた憎い敵だった」
「親友……敵……」
「そう。そしてすべてを知ってから、その鳥は追放された子を探しに出た。謝りたかったのか、ただ会いたかっただけなのか。今となっては分からないけど、色々な所を探し続けて……ようやく見つけたんだ」
見つけた。そう彼女は言うものの、彼女の声音は悲しげだ。
「その子は翼を捥がれても消えなかった。人間に混じり、必死で生きていたんだよ」
「じゃあ、謝れたの?」
いや、と彼女は首を振る。
空から視線を逸らして、こちらを見つめ。
泣くように笑った。
「声をかける事が出来なかったんだ。遠くから姿を見て、離れた。もう少しだけ勇気を持てたなら、謝ろうって。またいつでも会えるからって呑気に考えて……それが取り返しのつかない誤りだって、気づきもしないで」
「それって……」
「渡り鳥の最大の誤りだ。その子を失って、保たれていた集落は崩壊した。今も木は残っているけれど、残っているのは繋がれたままの鳥と、その群れくらいだ」
伸ばされた手。一瞬だけ躊躇して、戸惑うだけの自分の頬に触れる。
「何も残らなかったんだ。二度と空には還れず、無慈悲に奪われて深い水の底に沈められて。欠片一つ掬い上げる事も出来なかった」
「それは……あなたの話?」
迷いながらも、辿り着いた一つの可能性を口にする。
でも分からない。彼女が渡り鳥だとして何故、彼女は自分にこんな話をするのだろうか。
「そうだよ。これは俺の話であり……君の話でもある」
柔らかく、切なく細められた目に見つめられ、頬に触れていた手が肩に触れそのまま引き寄せられる。
「そん、なの……そんな事、知らない」
首を振り知らないと告げても、彼女が離れる気配はない。
宥めるように背を撫でられて、君の話だ、と繰り返す。
「過去へと渡っても、一度起きてしまった事は変えられないんだ。だから君が再び渡り鳥として戻ってくるのを待っていた……でも君は人間として生まれた。人間として生きて、そして」
「やめて……お願い」
聞きたくないと願っても、逆に背に回った彼女の腕に力が込められるばかりで止められない。
縋るように肩口に額を押し当てて、小さく呟いた。
「君は同じ歳、同じ日に、必ず俺の前で消えていく。手を伸ばしてもすり抜けて、その命を零して……何度も何度も、俺の目の前で」
背に回る腕が震えている。痛いくらいに抱きしめられて、どうすればいいのか分からない。
「俺、たくさん考えたんだ。どうすれば君を失わずにすむのか、生きてくれるのか……それで思いつけたのは、失う日が来る前を繰り返す事だった」
「――じゃあ、これって」
「そうだよ。俺が繰り返してるんだ」
そう言って、彼女は顔を上げて笑う。涙に濡れた目が揺らいで、彼女の姿も揺らいでいく。
「俺は兄さんの妹なんだ。兄さんと、目的のために手段を選ばないような歪な鳥と同じ血が流れてる……これしかないって思った時、私から俺になるって、そう覚悟した」
揺らぎながらも、強さを湛えた目。覚悟を決めた目から視線を逸らして俯いた。
彼女の目を見続けていたら、もう戻れない。そんな気がして怖かった。
「俺が怖い?」
「怖くない」
「無理しないでいいよ。同じ日を繰り返して壊れそうになってたのは、近くで見ていたんだからよく知ってる」
優しい声音。
じゃあなんで、と尋ねる声は、笑えるくらいに震えていた。
「――そろそろ日が暮れるね」
疑問の答えの代わりに返された、彼女の静かな言葉。
思わず顔を上げれば、いつの間にか空は茜に染まっていた。
「今回はこれくらいにしよう。この繰り返しの元凶が渡り鳥だと知ったんだから、次回は何をすればいいか分かるよね?」
首を振る。
これ以上何も分かりたくなどなかった。
「渡り鳥が元凶なんだ。その渡り鳥を従える方法を探さないと。従える事が出来たなら、命じるだけで、明日が来るよ」
けれど彼女は容赦なく、進むべき道を突きつける。
「そして明日が来たら。その時がきたら、渡り鳥を身代わりにする。それで何もかもが終わるよ。忌まわしい鳥に煩わされる事なく。日々を送れるんだ」
それが唯一正しい方法だと、彼女は疑わない。
彼女にとっての最良が、自分にとっても最良なのだと信じて笑い、最後に強く抱きしめてられる。
「また、次でね」
手を離した彼女が、渡り鳥となって空へと鳴きながら飛び去っていく。
今更手を伸ばしても、届かない。黒に染まる世界に呑まれながら、目を閉じた。
ぐにゃり、と何かが歪む感覚。今日の終わりから始まりへと、渡るのだろう。
鳴き声を上げた。彼女に気づかれぬように、小さく微かに。
何かが自分の中から抜けていく。目を開けて、その何かを見据えた。
翼を捥がれた見窄らしい鳥。けれどその目には強い意志を宿した。
この渡る瞬間にだけ認識出来る、一番最初の自分の欠片。
何も言わずとも、何をすべきかは分かっている。お互いに頷いて、鳥は彼女を追って去っていく。
彼女を守るために。
そのために、自分はあの日、空を捨て彼女に憎まれる決意をしたのだから。
鳥を見送り、目を閉じて意識を沈めていく。
遠く、アラームの鳴る音が聞こえ。
そしてまた、今日が始まる。
20250529『渡り鳥』
「こんな所で、いつまでも何をやっている」
溜息と共に吐き出された言葉に、砂を掬う手を止める。
だがすぐに砂の中へと手を差し入れて、真白い砂を掬い上げていく。
「思い出を掬い上げる練習」
小さく呟いて、零れ落ちていく砂をただ見つめた。
さらさらと、指の間から零れ落ちる砂。まるで記憶のように、どんなに掬い上げても隙間から零れ落ちていってしまう。
「くだらないな」
吐き捨てて、背後の彼が近づいてくる。それを気にも留めずにいれば、頭に強い衝撃を感じた。
「痛っ……何、急に」
「貴様がいつまでも動かぬのが悪い」
「だからって、殴る事ない……」
文句を言いながら背後を振り返り。さらに続けようと下言葉は、けれど彼の静かで強い目に、勢いをなくしてしまう。
怒っているわけでも、心配しているでもない。ただ自分の心の内を見透かすような、真っ直ぐな眼差し。言葉の真意を求める目から逃れるように、視線を逸らした。
「今度は何だ。喧嘩でもしたか」
「そんなんじゃない。ただ……」
言いかけて、口を噤む。何を言えばいいのか、分からなかった。
忘れてしまう事が悲しい。
言葉にしてしまえば簡単だ。けれどその一言だけでは、何一つ伝えたい事は伝わらない気がしていた。
手の中に僅かに残る砂に、視線を落とす。それが忘れたいもののいくつかと重なって見えて、か細い声が唇から溢れ落ちた。
「なんで、忘れてしまうの?忘れたくなんてないのに」
「阿呆か。そんなくだらん事でうじうじとしていたとは」
はぁ、と重苦しい溜息。そして容赦のない二回目の拳骨が降ってきた。
痛みに閉じた瞼の裏で星が散る。思わず頭を抑えて蹲れば、まったくと呆れが滲む声と共に、頭をそっと引き寄せられた。
「忘却とは、人間が生きるための大切な手段だ。忘れなければ、貴様の小さくて軽い頭はとっくに壊れてしまっているだろうよ」
「でも、それならなんで……」
頭を抱かれ優しく撫でられながら、なんで、を繰り返す。
なんで、忘れたいものを選べないのか。
なんで、忘れたくないものほど最後まで残ってしまうのか。
頭の痛みによるものではない涙が込み上げて、呼吸が乱れていく。泣かないようにと必死で目を瞑り、呼吸を整えていれば、頭を撫でる手が一層優しくなった。
「人間は忘れる生き物だ。魂に刻み込まれるほど強い記憶でない限りは、いずれ忘れてしまうだろう。過去に縋るすべてが悪とは言わんが、生きていく限りは手を離すべきだ」
「――でも……怖い」
こうして彼の優しさに包まれている間にも、何かが零れ落ちていく気がして首を振る。さらさらと見えない砂が落ちていく音が聞こえるようで、それが怖くて声を上げた。
「なんで……父さんや母さんの顔がもう思い出せない。兄弟がいたはずなのに、それが誰なのかさえ分からない。分からないはずなのに、すべてをなくした悲しさや寂しさだけが残って……それが、とても苦しい」
「――あの阿呆共め」
苦さを含んだ呟き。冷え切った響きに、肩が震えた。
恐る恐る開けた目は、けれども彼に塞がれて。
「帰るぞ。その苦痛は、記憶を無理矢理剥がされた故に生じたものだ。帰って事を起こした阿呆共を締め上げれば、苛む苦痛も恐怖も和らぐだろう」
「帰る……?」
「まったく、どいつもこいつも面倒ばかり起こしよって……ほら、早くしろ」
そうは言えど、目は塞がれたまま。
どうすればいいのか分からず、ぼんやりと彼に凭れていれば、何度目かの溜息を吐かれ。
三度目の、強い衝撃を頭に感じたのを最後に、意識が真っ黒に染まった。
「――っ……痛いってば!何度も叩かなくてもいいだろっ」
叫んで飛び起きる。
「……あれ?」
側にいたはずの彼の姿はどこにもない。それどころか外にいる訳でもない事に、目を瞬いた。
視線を巡らせる。見慣れた畳敷きの室内。飛び起きた時に跳ね飛ばされた布団が視界の隅に見えて、あれ、と間抜けな声が漏れた。
「――夢?」
ゆっくりと頭に手を当てる。意識が飛ぶほどの痛みはなく、え、とやはり間抜けな声が出た。
どうやら本当に夢を見ていたらしい。一度夢だと認識してしまえば、途端に記憶が薄れていく。
さらさらと、砂が零れ落ちるように。水が流れていってしまうように。
思わず苦笑する。現であれだけ彼に叱られているというのに、夢の中でも彼に叱られるとは。
深く息を吐き、頭を振って記憶を散らす。これは零すべき記憶だ。意識を逸らそうと、耳を澄ませて外の音に聞き入った。
雨の音。しとしとと、さらさらと細かな雨が降り続いているのが聞こえる。そろそろ梅雨入りの時期であるのを思い出した。
あぁ、そう言えば。ふと思い出しかけた記憶の欠片。けれども近づく荒い足音に零れて、意識の端へと落ちてしまう。
「おい。いつまで寝ているつもりだ」
すぱん、と小気味良い音を立て、襖が開けられる。遠慮の欠片もない行為に文句を言うより早く、布団から出て片付けをし出すのは、悲しいほどに身についてしまった習性だ。
「今回の元凶を連れてきてやったぞ」
「元凶?」
どさり、と重たい音。
布団を片付けながら視線を向ければ、畳に転がる子狐が三匹。皆ぼろぼろで、頻りにごめんなさいを繰り返していた。
「え?どういう事?」
「なんだ。それすら忘れたか」
腰に手を当て半眼で睨み付ける彼に、慌てて記憶を手繰り寄せる。
眠る前の記憶。夢の中の記憶。思いつく限りを考えて。
「――あ。記憶」
ひとつ、思い浮かぶ。
夢の中。酷く曖昧ではあるが、苦しくて怖い思いをしたのを思い出す。
零れていくものを繋ぎ止めようと踠いて、繋ぎ止められず。彼に叱られて、それでも怖いと泣いていた。
「聞けば、元は貴様が過去を悔やんでいたというではないか。それを根こそぎ引き剥がした事は到底許せるものではないが、貴様も同等かそれ以上に反省しろ」
「過去を、悔やむ?」
記憶にはない事に困惑する。
子供の頃とは違い、過去を悔やんだ所で意味はない事を知っている。それなのに、悔やまずにはいられなかった過去とは、何だったのか。
「お花を……あげれば、よかったって……」
「寂しそう、だったから……」
「だから……ない方が、いいかなって……ごめんなさい」
控えめに説明する子狐達に、眉を寄せながら記憶を手繰る。
花。送りたい相手。あげれなかった後悔。
そう言えば、と心当たりを思いながら、深く考えずに口を開く。
「今回も、母の日に花一つあげられなかったって、ついぼやいたっけ」
家のすべての管理を行い、自分の世話まで焼く彼に何も出来なかった事を、悔やんだのだったか。
思い出せた事に安堵して。だが同時に、不用意な事を口にした事に気づき、後悔した。
「ほう?その母の日とやらに花を贈りたかった相手というのは、まさか俺様ではあるまいな?」
「あ、いや。その……」
引き攣る笑みを浮かべながら、彼に視線を向ける。
笑顔だ。笑っているというのに、彼の目は鋭くこちらを見据えて怒りを露わにしている。
だが、その怒りはすぐに鳴りを潜め。呆れを滲ませた溜息と共に、解けていく。
「まあいい。貴様が阿呆である事は、昔から変わらぬのだからな」
「阿呆言うな。あと、別に母親みたいだなんて思ってもないから」
思わず言い返すも、彼は当然だと鼻で笑う。
「俺様に感謝の気持ちがあるのならば、花を贈るよりもまず、規則正しい生活を送る事だ。夜更かしも、好き嫌いも、改善する努力をしろ」
そう言って、彼は踵を返し部屋を出る。
「……努力は、してる」
見えなくなった彼の背にそう呟いて、子狐達の側に寄る。
ぼろぼろではあるものの、怪我はないようだ。最初から分かっていた事ではあるが、ほっと息を吐く。
「ごめんな。巻き込んで」
子狐達の頭をそれぞれ撫でながら、小さく呟いた。
手ぐしで毛並みを整えながら、外の音に耳を澄ます。
しとしとと、さらさらと、雨はまだ降り続いている。零れ落ちていくものを嘆くように。
今外に出て手を伸ばせば、掬う事は出来るだろうか。そんな幻想を抱きながら、何を掬いたいのかを考える。
帰らぬ幼い日の温もりか。はたまた無力だった自分自身か。
意味のない事。過去に縋る時間があるのならば、前を見なくては。同じ事を繰り返さないためにも。
自嘲して、いつの間にか眠ってしまった子狐達をそのままに部屋を出る。
どこからか感じる、いくつもの心配そうな視線を感じながら、大丈夫だと笑ってみせた。
20250528『さらさら』