楽しそうな笑い声が、風に乗って駆け抜けていく。
赤や紫、白の花が咲き乱れる庭を過ぎて、テラスへと向かう。
「――少女ははらはらと涙を流しながら、神様へと手を伸ばしました。忘れる事を怖がり、残った家族や神様から逃げ続けていた少女は、ようやくすべてを受け入れる覚悟が出来たのです」
柔らかな声音。白いテーブルでたくさんの子供達に囲まれながら、誰かが絵本を読み聞かせていた。
「こうして可哀想な少女は、助けてくれた神様と家族と共に、いつまでも幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
本は閉じられ、物語が終わる。
もっととせがむ子供達に、彼女は優しく微笑んで。
「また明日」
お決まりの言葉を囁いた。
懐かしい夢を見た。
苦笑して体を起こす。いつもと変わらぬ暗い部屋に視線を巡らせてから、ゆっくりと立ち上がる。
幸せだった幼い頃の夢を見たせいか、やけに体が重く感じられる。温かな優しさなど、夢の中だけの幻だと自分自身に言い聞かせる。ここが現実だ。最後には覚めてしまう夢に逃げても、何の意味もない。
そういえば、と身支度を整えながら思う。他の皆は、今どうしているだろうか。
元気でいてくれればそれでいい。あの場所は寂しくて悲しい子供達が辿り着く場所だと教えられたが、だからこそ幸せを願ってしまう。皆の面倒を率先して見てくれたあの子は特に。
優しい子だった。子供達の中で一番年上だった事もあってか、家の主だった彼女の隣にいつもいた、落ち着いた子。部屋や庭の隅ですべてを拒んで蹲る自分に、手を差し伸べてくれたのは彼女の他にはあの子だけだった。
あの子の優しさや暖かさに何かお礼がしたくて、あの時一番大切だったものをあげた。それが何か、もう覚えてはいない。けれど驚き目を見張り、そしてふんわりと笑った顔は今も褪せずに覚えている。
――もしも……。
差し出された小指。お礼として交わした約束は、はたして何だっただろうか。
頭を振り、過去の残滓を散らしていく。
今更過去には戻れない。夢に縋っても空しいだけで、意味はないのだから。
「過去は戻らない。明日が来るとも限らない」
呟いて部屋を出る。
自分に出来るのは、今日を足掻いて過ごしていく事だけだ。
「ねぇ」
夕暮れ時。家に帰る途中で声をかけてきた幼い少年は、どこか恥ずかしそうにしながら、手にした小さな石を差し出した。
「えっと……」
白くて丸い、綺麗な石。それは少年にとって大切なものではないのだろうか。差し出されたものの、受け取って良いのか躊躇する。
「おにいさんが渡してって」
「お兄さん?」
益々困惑する。同級生か誰かの弟なのだろうか。だがそもそも何かを貰うまでの、友人と呼べる人は自分にはいない。人違いではないだろうか。
少年は少し首を傾げて、石を受け取るのを待っている。伝えるべきかを悩み、声をかけようとして。
「まだ痛くて寂しいのなら、どうぞって」
そう言ってはにかみ、固まる自分の手を取り石を乗せた。
「――ぁ」
石から伝わる温もりに、忘れていたすべてを思い出す。
あの子への贈り物。あの時の自分が唯一渡す事の出来た、まだ優しかった家族との思い出の宝物。その時、あの子は一つの約束をくれたのだ。
――もしも、大きくなっても痛くて寂しいままだったら。本当の意味でこの場所に来てしまう事になったら、僕が代わりに幸せにしてあげる。それまでには、ちゃんと跡を継いでみせるから。
柔らかな、優しいあの子の声を思い出す。指切りをした小指が、あの日の熱を持ち始める。
「約束したんでしょ?だからおねえさんもいっしょに行こう」
石を持つ手とは反対の手を引かれ、少年と共に歩き出す。幼い頃に迷い込んだ、あの場所へ行くのだろう。
「おねえさんは特別だって。明日は続かないけど、痛くて寂しくならないのはいいなぁ。ぼく、すごく嫌だったもん。ごめんなさいしても、やめてって言っても終わらなくてね……だからおねえさんは良かったね」
無邪気に少年は笑う。心から喜んで、早く行こうと手を引いた。
寂しくて悲しい子供達の魂が集う場所。眠りにつく前の一時の安らぐ場所に向かい、段々に足が速くなっていく。
幼い頃に迷い込んだ時は、命は細い糸一本で辛うじて繋がっていた。あの時切ってしまおうと思っていた糸を留めて現に戻ったのは、あの子が約束をくれたからだ。これから先も変わらないと理解して、あえてその約束を糧に今までを生き抜いてきた。
今日で終わるはずだったのか。まぁ確かに、節目の日ではあったのだろう。
今日は姉が死んだ日だ。そして丁度自分は姉と同じ年になった。彼らの心はやはり、耐えきれなかった。
「おねえさんは、絵本読むの上手?おにいさんはちょっとだけ下手なの。上手なら絵本を読んでほしいな」
期待に満ちた目で見上げられて、どう答えるべきかを思案する。頭を過ぎていくのは、テラスで絵本を読んでくれた彼女の事だ。
彼女ではなく、あの子が絵本を読んでいるのならば、正しく代替わりが行われたという事だろう。
あの子は、約束をすべて叶えてくれたのだ。
「――絵本を読んだ事がないから、上手かどうかは分からないな。でも向こうに行ったら、好きな絵本を読んであげる」
「ほんとっ?約束だよ!」
眼を輝かせて念を押す少年に、小さく笑って頷いた。
やったあ、と飛び跳ねてはしゃいで、逸る気持ちにとうとう駆け出していく。無邪気な姿を微笑ましく思いながら、手を引かれるままに駆け出していく。
街を横切り、裏路地を通り抜け。木々の合間を抜けていく。
現が終わる事に悔いはない。今はただ、終わりの先に続いた温もりが、泣いてしまいそうなほどに嬉しい。あの子とした約束が与えてくれる、奇跡のような優しさが愛おしい。
森を抜け、色とりどりの花が咲き乱れる庭を過ぎていく。
テラスに佇む青年が、こちらに気づき振り向いた。
懐かしい面影を宿した彼。柔らかく微笑んで、軽く腕を広げた。
少年は手を離す。けれども足は止まらずに。
成長した彼の腕の中へと、飛び込んでいく。
楽しそうな笑い声が、風に乗って駆け抜けていく。
赤や紫、白の花が咲き乱れる庭を過ぎて、テラスへと向かう。
「――こうして少女の物語は終わりを迎えました。ですがその次のページに、誰かがこっそりと続きを書き込んだのです。暖かな、光溢れる物語を」
たくさんの子供達に囲まれながら、テラスに座り絵本を読む。
不意に抱き上げられて、彼の膝の上。柔らかく微笑む彼の唇が、額に触れて思わず声が上がった。
「そして少女は、約束を交わした青年と皆に囲まれて、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
「おねえさんの邪魔しちゃダメ!」
「せっかくいいところだったのに、終わらせないでよ」
「おにいさん、大人気ないー」
子供達の不満もに気にせず本は閉じられ、物語が終わる。
もっととせがむ子供達に、ごめんねと微笑んで。
「また明日」
お決まりの言葉を囁いた。
20250530 『まだ続く物語』
5/31/2025, 1:29:12 PM