sairo

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「こんな所で、いつまでも何をやっている」

溜息と共に吐き出された言葉に、砂を掬う手を止める。
だがすぐに砂の中へと手を差し入れて、真白い砂を掬い上げていく。

「思い出を掬い上げる練習」

小さく呟いて、零れ落ちていく砂をただ見つめた。
さらさらと、指の間から零れ落ちる砂。まるで記憶のように、どんなに掬い上げても隙間から零れ落ちていってしまう。

「くだらないな」

吐き捨てて、背後の彼が近づいてくる。それを気にも留めずにいれば、頭に強い衝撃を感じた。

「痛っ……何、急に」
「貴様がいつまでも動かぬのが悪い」
「だからって、殴る事ない……」

文句を言いながら背後を振り返り。さらに続けようと下言葉は、けれど彼の静かで強い目に、勢いをなくしてしまう。
怒っているわけでも、心配しているでもない。ただ自分の心の内を見透かすような、真っ直ぐな眼差し。言葉の真意を求める目から逃れるように、視線を逸らした。

「今度は何だ。喧嘩でもしたか」
「そんなんじゃない。ただ……」

言いかけて、口を噤む。何を言えばいいのか、分からなかった。
忘れてしまう事が悲しい。
言葉にしてしまえば簡単だ。けれどその一言だけでは、何一つ伝えたい事は伝わらない気がしていた。
手の中に僅かに残る砂に、視線を落とす。それが忘れたいもののいくつかと重なって見えて、か細い声が唇から溢れ落ちた。

「なんで、忘れてしまうの?忘れたくなんてないのに」
「阿呆か。そんなくだらん事でうじうじとしていたとは」

はぁ、と重苦しい溜息。そして容赦のない二回目の拳骨が降ってきた。
痛みに閉じた瞼の裏で星が散る。思わず頭を抑えて蹲れば、まったくと呆れが滲む声と共に、頭をそっと引き寄せられた。

「忘却とは、人間が生きるための大切な手段だ。忘れなければ、貴様の小さくて軽い頭はとっくに壊れてしまっているだろうよ」
「でも、それならなんで……」

頭を抱かれ優しく撫でられながら、なんで、を繰り返す。
なんで、忘れたいものを選べないのか。
なんで、忘れたくないものほど最後まで残ってしまうのか。
頭の痛みによるものではない涙が込み上げて、呼吸が乱れていく。泣かないようにと必死で目を瞑り、呼吸を整えていれば、頭を撫でる手が一層優しくなった。

「人間は忘れる生き物だ。魂に刻み込まれるほど強い記憶でない限りは、いずれ忘れてしまうだろう。過去に縋るすべてが悪とは言わんが、生きていく限りは手を離すべきだ」
「――でも……怖い」

こうして彼の優しさに包まれている間にも、何かが零れ落ちていく気がして首を振る。さらさらと見えない砂が落ちていく音が聞こえるようで、それが怖くて声を上げた。

「なんで……父さんや母さんの顔がもう思い出せない。兄弟がいたはずなのに、それが誰なのかさえ分からない。分からないはずなのに、すべてをなくした悲しさや寂しさだけが残って……それが、とても苦しい」
「――あの阿呆共め」

苦さを含んだ呟き。冷え切った響きに、肩が震えた。
恐る恐る開けた目は、けれども彼に塞がれて。

「帰るぞ。その苦痛は、記憶を無理矢理剥がされた故に生じたものだ。帰って事を起こした阿呆共を締め上げれば、苛む苦痛も恐怖も和らぐだろう」
「帰る……?」
「まったく、どいつもこいつも面倒ばかり起こしよって……ほら、早くしろ」

そうは言えど、目は塞がれたまま。
どうすればいいのか分からず、ぼんやりと彼に凭れていれば、何度目かの溜息を吐かれ。
三度目の、強い衝撃を頭に感じたのを最後に、意識が真っ黒に染まった。





「――っ……痛いってば!何度も叩かなくてもいいだろっ」

叫んで飛び起きる。

「……あれ?」

側にいたはずの彼の姿はどこにもない。それどころか外にいる訳でもない事に、目を瞬いた。
視線を巡らせる。見慣れた畳敷きの室内。飛び起きた時に跳ね飛ばされた布団が視界の隅に見えて、あれ、と間抜けな声が漏れた。

「――夢?」

ゆっくりと頭に手を当てる。意識が飛ぶほどの痛みはなく、え、とやはり間抜けな声が出た。
どうやら本当に夢を見ていたらしい。一度夢だと認識してしまえば、途端に記憶が薄れていく。
さらさらと、砂が零れ落ちるように。水が流れていってしまうように。
思わず苦笑する。現であれだけ彼に叱られているというのに、夢の中でも彼に叱られるとは。
深く息を吐き、頭を振って記憶を散らす。これは零すべき記憶だ。意識を逸らそうと、耳を澄ませて外の音に聞き入った。
雨の音。しとしとと、さらさらと細かな雨が降り続いているのが聞こえる。そろそろ梅雨入りの時期であるのを思い出した。
あぁ、そう言えば。ふと思い出しかけた記憶の欠片。けれども近づく荒い足音に零れて、意識の端へと落ちてしまう。


「おい。いつまで寝ているつもりだ」

すぱん、と小気味良い音を立て、襖が開けられる。遠慮の欠片もない行為に文句を言うより早く、布団から出て片付けをし出すのは、悲しいほどに身についてしまった習性だ。

「今回の元凶を連れてきてやったぞ」
「元凶?」

どさり、と重たい音。
布団を片付けながら視線を向ければ、畳に転がる子狐が三匹。皆ぼろぼろで、頻りにごめんなさいを繰り返していた。

「え?どういう事?」
「なんだ。それすら忘れたか」

腰に手を当て半眼で睨み付ける彼に、慌てて記憶を手繰り寄せる。
眠る前の記憶。夢の中の記憶。思いつく限りを考えて。

「――あ。記憶」

ひとつ、思い浮かぶ。
夢の中。酷く曖昧ではあるが、苦しくて怖い思いをしたのを思い出す。
零れていくものを繋ぎ止めようと踠いて、繋ぎ止められず。彼に叱られて、それでも怖いと泣いていた。

「聞けば、元は貴様が過去を悔やんでいたというではないか。それを根こそぎ引き剥がした事は到底許せるものではないが、貴様も同等かそれ以上に反省しろ」
「過去を、悔やむ?」

記憶にはない事に困惑する。
子供の頃とは違い、過去を悔やんだ所で意味はない事を知っている。それなのに、悔やまずにはいられなかった過去とは、何だったのか。

「お花を……あげれば、よかったって……」
「寂しそう、だったから……」
「だから……ない方が、いいかなって……ごめんなさい」

控えめに説明する子狐達に、眉を寄せながら記憶を手繰る。
花。送りたい相手。あげれなかった後悔。
そう言えば、と心当たりを思いながら、深く考えずに口を開く。

「今回も、母の日に花一つあげられなかったって、ついぼやいたっけ」

家のすべての管理を行い、自分の世話まで焼く彼に何も出来なかった事を、悔やんだのだったか。
思い出せた事に安堵して。だが同時に、不用意な事を口にした事に気づき、後悔した。

「ほう?その母の日とやらに花を贈りたかった相手というのは、まさか俺様ではあるまいな?」
「あ、いや。その……」

引き攣る笑みを浮かべながら、彼に視線を向ける。
笑顔だ。笑っているというのに、彼の目は鋭くこちらを見据えて怒りを露わにしている。
だが、その怒りはすぐに鳴りを潜め。呆れを滲ませた溜息と共に、解けていく。

「まあいい。貴様が阿呆である事は、昔から変わらぬのだからな」
「阿呆言うな。あと、別に母親みたいだなんて思ってもないから」

思わず言い返すも、彼は当然だと鼻で笑う。

「俺様に感謝の気持ちがあるのならば、花を贈るよりもまず、規則正しい生活を送る事だ。夜更かしも、好き嫌いも、改善する努力をしろ」

そう言って、彼は踵を返し部屋を出る。

「……努力は、してる」

見えなくなった彼の背にそう呟いて、子狐達の側に寄る。
ぼろぼろではあるものの、怪我はないようだ。最初から分かっていた事ではあるが、ほっと息を吐く。

「ごめんな。巻き込んで」

子狐達の頭をそれぞれ撫でながら、小さく呟いた。
手ぐしで毛並みを整えながら、外の音に耳を澄ます。
しとしとと、さらさらと、雨はまだ降り続いている。零れ落ちていくものを嘆くように。
今外に出て手を伸ばせば、掬う事は出来るだろうか。そんな幻想を抱きながら、何を掬いたいのかを考える。
帰らぬ幼い日の温もりか。はたまた無力だった自分自身か。
意味のない事。過去に縋る時間があるのならば、前を見なくては。同じ事を繰り返さないためにも。
自嘲して、いつの間にか眠ってしまった子狐達をそのままに部屋を出る。
どこからか感じる、いくつもの心配そうな視線を感じながら、大丈夫だと笑ってみせた。



20250528『さらさら』

5/29/2025, 11:20:56 AM