sairo

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雨の降り頻る夜。
村は静かに眠りについている。灯りはすべて絶え、出歩く者など誰一人おらず。
やがて、雨が上がった。だが辺りは不気味な静寂に包まれ、蛙の鳴き声さえも聞こえてはこない。
生きるものすべて、死に絶えたかのような無音。深い暗闇に呑まれ、沈んでいく。

ふと、音がした。遠く微かに、低い太鼓の音が響く。
太鼓に合わせ、奏でられるは高い笛の音。どこか寂しげに聞こえる音色が、厳かに静寂を乱していく。
音が近づく。ゆっくりと静々と村を横切り、奥の寺へと向かっていく。
大勢の足音。仄かな提灯の灯りに、その異様な姿が露わになる。
それは喪服に身を包んだ行列だった。俯き歩く誰もに生気はない。ただ黙々と、寺へと向かい歩いて行く。
その中心。赤い番傘を差し掛けられた人影があった。黒紋付羽織袴を着た年若い男。やはり俯きながら、静かに歩いている。
音が過ぎていく。やがては寺の前までつき。
音色が止まる。足音が止まり。
その行列は、闇夜に解けるように。
音もなく静かに、消えていった。

雨が降り始める。
境内の脇に咲いた紫陽花を濡らしていく。
ぽとり、と。雨に紛れて小さな音。


真白い紫陽花の花がひとつ、落ちていた。



その村には、花婿・花嫁葬列という伝承がある。
梅雨の時期、雨上がりの夜。
花婿、あるいは花嫁の葬列がどこからともなく現れ、村の奥の寺へと向かうのだという。
だが、それは死者の行列。
決して、その姿を見てはいけない。
もし見てしまったのならば、その者は死者に見入られて。寺の中で、婚姻を結ばれてしまう――そう言い伝えられていた。





雨が上がった。
傘を打つ音が消え、彼女は構えていたカメラから顔を上げる。
雨に濡れ、色を濃くした境内の石畳。その脇には赤や青、紫の紫陽花が咲き乱れ、人の訪れを待ち望んでいる。その奥の本堂もまた雨に濡れ、屋根を伝い落ちる滴が雲越しに注ぐ光を反射し煌めいた。
傘をたたみ、空を仰ぐ。厚い雲に覆われ、陽の光は差し込まないが、まだ日暮れには遠いようだ。
時計を確認する。午後三時。やはり、日暮れは先だ。

「今日はもう、切り上げようかな。必要な写真は、もう撮ったし」

誰にでもなく呟いて、片付けを始める。寺の軒下に置いていたバッグにカメラを詰め、肩にかけた。
ふと、辺りが異様に静かである事に気づく。雨が上がったというのに、虫や蛙、鳥の声がしない。まるで世界から一人取り残されてしまったような、そんな錯覚に彼女は胸元の守袋を握り締めた。

「大丈夫。大丈夫」

何度も繰り返し、自身に言い聞かせる。
まだ夜には遠い。今回取材に訪れた、この村で語られている伝承は、雨上がりの夜に現れるのだと聞いている。
もう一度、空を見上げた。厚い雲越しであっても、まだ日は十分に高い。夜の訪れはまだ先の事だ。
一度深呼吸をして、ゆっくりと歩き出す。後ろを振り向かないように、前だけを見る。
山門の近く、降り続く雨によって出来た水たまりが、道を塞いでいる。足を踏み入れないように大きく迂回して。

何気なく、その水たまりを覗いた。

「――っ」

目を見張り、息を呑む。
空を写しているはずの水たまりは、暗闇に沈んでいる。月や星明かりのない、昏い夜の装いをした世界が、水たまりという境界を隔てて存在していた。
低く、高く。太鼓や笛の音が聞こえた。荘厳に響き渡る音色は雅楽だ。水たまりの向こう側で、参進の儀が始まったのだ。
握り締めた守袋が熱を帯びる。見てはいけない、ここから一刻も早く逃げろと、忠告している。だが逸る気持ちとは裏腹に、彼女の体は縫い止められたように動かず、視線は水たまりに注がれたままだった。
音が近づく。次第に複数の足音が聞こえだし、暗闇の奥から淡い光が現れた。
提灯の灯り。ゆったりと近づき、行列の姿をぼんやりと浮かばせる。
提灯を持つ子供の手。闇夜に浮かぶ白の旗。
死者の行列を、見てしまう。


「お姉さん」

手を引かれ、後ろに倒れ込む。
その瞬間に体の自由を取り戻し、彼女は小さく蹲るようにして強く目を閉じた。
守袋を抱きしめ、必死で今見たものを脳裏から消していく。何も見なかったと強く念じ、聞こえ続ける雅楽など幻聴だと自身に言い聞かせて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

「水たまりって境界になる事、知らないの?そんな仕事をしているのに、今までよく無事だったね」

淡々とした、感情の伴わない少女の声音。
ぱしゃん、とすぐ側で水音がした。はっとして目を開けて視線を向けば、制服姿の少女が無心で石を水たまりに投げ入れているのが見えた。
ぱしゃん、ばしゃんと水が跳ねる。その度に未だに聞こえる雅楽や複数の足音が掻き消され、やがては何も聞こえなくなる。

「お姉さん」

石を投げ入れていた手を止めて、少女は彼女を呼ぶ。
やはり凪いだ声音で、ただ事実だけを彼女に突きつける。

「梅雨の間、紫陽花に触らないで。色に関係なく、写真越しでも絶対に」
「――どうして?」

声を震わせ、それでも彼女は問いかける。
紫陽花に、何の関係があるのか。聞いた伝承を思い返せど、彼女には思い当たる節は欠片もなかった。

「白の紫陽花は、目印だから」
「目印?」
「本当に何も知らないんだね」

僅かに呆れを乗せて少女は呟いた。
ゆっくりと振り返る。少女の姿に驚き息を呑む彼女を見下ろして。

「葬列を見た者の元に届けられる白の紫陽花は、イワイと契る人だという目印なんだよ。触れたら最後、寺の奥へと連れ込まれてイワイと契らされる……色があっても、本物でなくても駄目だ。それに触れた瞬間に色が抜け落ちて、白になってしまうから」

声音と同じく凪いだ目をして告げる少女は、彼女とよく似た顔をしていた。

「あなたは……?」

彼女の問いかけに、答えはなく。
少女は無言で踵を返し、呆然としたままの彼女を置いて、山門をくぐり抜け去ってしまう。
慌てて立ち上がり少女を追うが、その姿は既に遠く。
少女の背が村の中へと消えていくのをただ見つめ、彼女は守袋に触れる。
先程まで帯びていた熱はない。恐る恐る覗き込んだ水たまりも、どんよりとした雲に覆われた空を写すのみで、夜の気配はどこにも見えなかった。
ぽつり。見下ろす水たまりに波紋が浮かぶ。
ぽつ、ぽつりと波紋は数を増やして。
見上げた空から、絹糸のように細い雨が降ってくる。慌てて差した傘を、雨は静かに濡らしていく。

――梅雨の間、紫陽花に触らないで。

少女の言葉を思い出す。
振り返り、境内の脇で咲き乱れる紫陽花を見遣る彼女の目の前で。
ぽとり、と。

真白い紫陽花の花がひとつ、落ちた。


20250601 『雨上がり』

6/2/2025, 10:45:52 AM