sairo

Open App

アラームの音で目を覚ます。
ベッドサイドに置かれたデジタル時計。示された時刻と共に今日の日付を確認するのは、もう習慣になってしまった。

――五月三十一日。

変わらない日付。
いつからだったかは、覚えていない。感覚的にはもう一ヶ月以上経っている気はするのに、六月が訪れる気配はない。
小さく息を吐く。繰り返す一日に泣いて悲しむ気持ちは大分前になくなった。あるのは諦めと、一欠片の希望だけだ。
時計の時刻を確認する。
あと十三分。母が起こしに来る前にと、ベッドから抜け出し身支度を整えていく。
決まった時間に同じ言動を取る周囲は、きっと今日も同じだろう。



同じ行動。同じ台詞。
繰り返し過ぎて一字一句まで覚えてしまった授業を聞き流しながら、今回はどうするかを考える。
前回は確か、街の図書館で何か手掛かりはないかを探したのだったか。その時に確か、時間や空間を自由に行き来できる渡り鳥の伝承を見つけたはずだ。
だから今回は、その伝承のある山へと向かおうと、そこまで話していた事を思い出した。
ちょうどタイミングよく、教室の戸を叩く音が聞こえた。視線を向ければ、にこやかに手を振る彼女の姿。同じように手を振り返し、立ち上がる。
授業中だというのに誰も、教師ですらも反応を示さない。まるで今日という一日が、舞台の中の出来事のようだ。
薄寒い気持ちになりながら、早足に教室を出た。



「伝承にある山ってこの近くなんだ」
「本にはそう書いてあるね」

彼女と二人、本を確認しながら歩いて行く。
すれ違う誰もが、やはりこちらを気にかける様子はない。彼女も周りを気にかける事もなく、本に視線を落としたまま少し前を歩いている。
彼女はとても不思議な人だった。諦めて、ただ受け入れるばかりの自分に、手を差し伸べた彼女。自分と同じように、一日を繰り返している事に気づいているのに、それに動じた様子は一度も見た事はなかった。

「渡り鳥、かぁ……そんな話、一度も聞いた事はなかったけどな」
「人間が求めるものによって、呼び方が変わるからね。それに普通の妖と違って、人間の望みに応えなければ存在出来ないって訳でもないから、人間に関わろうとするモノも少ないし」
「そうなんだ……随分、詳しいんだね」

そこまで詳しく、本に書いてあっただろうか。込み上げる違和感に少しだけ距離を取り、彼女の背を見つめた。

「そりゃあね。いつも見てたし」

そう言って彼女は立ち止まり、振り返る。
一つ遅れて立ち止まり。彼女の言葉に驚く自分に肩をすくめ、どこか寂しげな目をして彼女は笑った。

「君もそうだろう?遠い昔に、いつも会っていたじゃないか」

会っていた。彼女の言葉に記憶を辿るものの、思い出せるものはない。

「――知らない。会った事なんてないよ」

首を振って否定すれば、彼女はより一層悲しい目をする。
手にした本を宙に放り投げて、空を見上げながら、だろうねと呟いた。

「今の君になるずっと前の事だ。一番最初の、まだ何もなくしていない時の君の話だよ」

少し、昔話でもしようか。
そう言って、彼女は空を見上げたまま、語り出した。



空の彼方。人間には認識されないどこかに、渡り鳥の集まる木があった。
自由を好む鳥が、羽を休めるために気まぐれに訪れる、そんな場所。それでも人間の集落のような、いくつかの群れが互いに支え合う事で、そこは保たれていた。
いつの頃からか、姿を見せなくなった鳥が現れるようになった。一羽、また一羽と姿が消えていく。皆が不安に思い、互いに不信感を抱くようになったある日、その事件は起きた。
とある小さな渡り鳥が、いくつかある群れの中でも強い力を持つ年若い鳥に怪我を負わせた。幸い一命を取り留めたその鳥は、襲った鳥こそが全ての元凶だと証言した。
曰く、姿を消した鳥達は皆、その小さな鳥に喰われてしまったのだ、と。

「もちろんその話を信じないモノもいたんだよ。例えば、その子の姉さんとか。その子が慕っていた鳥とかね……でも信じたモノが殆どで、訴えた鳥の影響もとても大きかった」

歌うような彼女の囁きは、とても静かだ。彼女が何を思っているのか。声だけでは分からない。

「結局、その襲った鳥は翼を捥がれて追放された。それが渡り鳥達の最初の誤りだ」
「誤り?」
「そう。間違っていたんだ。襲われ、訴えた鳥の歪さに気づけなかった。気づこうともせず……あの子が何を守ったのかを知ったのは、襲われた鳥の怪我が悪化した時。あの子が追放された後の事だよ」

彼女は語る。その襲われた鳥が痛みと熱で弱っていった末に、何をしたのかを。
鳥の傷は一向に良くならず。次第に意識が混濁するようになった。幻覚にうなされ、叫び声を上げて。
そして、ある晩。
鳥は自身の群れの中の一羽に襲い掛かろうとした。側にいたモノらにすぐに取り押さえられ、大事には至らなかったが、鳥は憎悪に顔を歪め叫んだ。

――俺に寄越せ!その肉を、力を。俺の代わりに、お前が消えてしまえ!

そこにいる誰もが、鳥の言葉の意味が分からなかった。その意味を知ったのは、翌朝の事だ。

「その鳥はね。普通の妖のように、人間の望みに応えて認識してもらわなければ、存在を保っていられなかったんだ。けどその鳥はプライドが高くて、人間の望みに応える事を嫌がった……その代わりに、他の鳥を食べて存在を繋いでいたんだよ」

彼女の視線は空から離れない。
どこか遠く、もしかしたらその木のある方を見ているのかもしれない。

「――その鳥は、どうなったの?」
「翼を折られ、羽を毟られて。その代わりに、存在を繋ぎ留められる術を施されて、木の根元に繋がれたよ。今もきっと、繋がれたままだろうね」

皮肉だよね、と彼女は笑う。
あれほど消える事を恐れていたのに、繋がれてからはずっと消えたいと泣いているのだから。
そう呟く彼女は、笑っているはずなのに、泣いているように見えた。

「――ある一羽の鳥がいた。追放された鳥とは親友で、そしてすべてが明らかになるまでは、家族を傷つけた憎い敵だった」
「親友……敵……」
「そう。そしてすべてを知ってから、その鳥は追放された子を探しに出た。謝りたかったのか、ただ会いたかっただけなのか。今となっては分からないけど、色々な所を探し続けて……ようやく見つけたんだ」

見つけた。そう彼女は言うものの、彼女の声音は悲しげだ。

「その子は翼を捥がれても消えなかった。人間に混じり、必死で生きていたんだよ」
「じゃあ、謝れたの?」

いや、と彼女は首を振る。
空から視線を逸らして、こちらを見つめ。
泣くように笑った。

「声をかける事が出来なかったんだ。遠くから姿を見て、離れた。もう少しだけ勇気を持てたなら、謝ろうって。またいつでも会えるからって呑気に考えて……それが取り返しのつかない誤りだって、気づきもしないで」
「それって……」
「渡り鳥の最大の誤りだ。その子を失って、保たれていた集落は崩壊した。今も木は残っているけれど、残っているのは繋がれたままの鳥と、その群れくらいだ」

伸ばされた手。一瞬だけ躊躇して、戸惑うだけの自分の頬に触れる。

「何も残らなかったんだ。二度と空には還れず、無慈悲に奪われて深い水の底に沈められて。欠片一つ掬い上げる事も出来なかった」
「それは……あなたの話?」

迷いながらも、辿り着いた一つの可能性を口にする。
でも分からない。彼女が渡り鳥だとして何故、彼女は自分にこんな話をするのだろうか。

「そうだよ。これは俺の話であり……君の話でもある」

柔らかく、切なく細められた目に見つめられ、頬に触れていた手が肩に触れそのまま引き寄せられる。

「そん、なの……そんな事、知らない」

首を振り知らないと告げても、彼女が離れる気配はない。
宥めるように背を撫でられて、君の話だ、と繰り返す。

「過去へと渡っても、一度起きてしまった事は変えられないんだ。だから君が再び渡り鳥として戻ってくるのを待っていた……でも君は人間として生まれた。人間として生きて、そして」
「やめて……お願い」

聞きたくないと願っても、逆に背に回った彼女の腕に力が込められるばかりで止められない。
縋るように肩口に額を押し当てて、小さく呟いた。

「君は同じ歳、同じ日に、必ず俺の前で消えていく。手を伸ばしてもすり抜けて、その命を零して……何度も何度も、俺の目の前で」

背に回る腕が震えている。痛いくらいに抱きしめられて、どうすればいいのか分からない。

「俺、たくさん考えたんだ。どうすれば君を失わずにすむのか、生きてくれるのか……それで思いつけたのは、失う日が来る前を繰り返す事だった」
「――じゃあ、これって」
「そうだよ。俺が繰り返してるんだ」

そう言って、彼女は顔を上げて笑う。涙に濡れた目が揺らいで、彼女の姿も揺らいでいく。

「俺は兄さんの妹なんだ。兄さんと、目的のために手段を選ばないような歪な鳥と同じ血が流れてる……これしかないって思った時、私から俺になるって、そう覚悟した」

揺らぎながらも、強さを湛えた目。覚悟を決めた目から視線を逸らして俯いた。
彼女の目を見続けていたら、もう戻れない。そんな気がして怖かった。

「俺が怖い?」
「怖くない」
「無理しないでいいよ。同じ日を繰り返して壊れそうになってたのは、近くで見ていたんだからよく知ってる」

優しい声音。
じゃあなんで、と尋ねる声は、笑えるくらいに震えていた。

「――そろそろ日が暮れるね」

疑問の答えの代わりに返された、彼女の静かな言葉。
思わず顔を上げれば、いつの間にか空は茜に染まっていた。

「今回はこれくらいにしよう。この繰り返しの元凶が渡り鳥だと知ったんだから、次回は何をすればいいか分かるよね?」

首を振る。
これ以上何も分かりたくなどなかった。

「渡り鳥が元凶なんだ。その渡り鳥を従える方法を探さないと。従える事が出来たなら、命じるだけで、明日が来るよ」

けれど彼女は容赦なく、進むべき道を突きつける。

「そして明日が来たら。その時がきたら、渡り鳥を身代わりにする。それで何もかもが終わるよ。忌まわしい鳥に煩わされる事なく。日々を送れるんだ」

それが唯一正しい方法だと、彼女は疑わない。
彼女にとっての最良が、自分にとっても最良なのだと信じて笑い、最後に強く抱きしめてられる。

「また、次でね」

手を離した彼女が、渡り鳥となって空へと鳴きながら飛び去っていく。
今更手を伸ばしても、届かない。黒に染まる世界に呑まれながら、目を閉じた。
ぐにゃり、と何かが歪む感覚。今日の終わりから始まりへと、渡るのだろう。
鳴き声を上げた。彼女に気づかれぬように、小さく微かに。
何かが自分の中から抜けていく。目を開けて、その何かを見据えた。
翼を捥がれた見窄らしい鳥。けれどその目には強い意志を宿した。
この渡る瞬間にだけ認識出来る、一番最初の自分の欠片。
何も言わずとも、何をすべきかは分かっている。お互いに頷いて、鳥は彼女を追って去っていく。
彼女を守るために。
そのために、自分はあの日、空を捨て彼女に憎まれる決意をしたのだから。

鳥を見送り、目を閉じて意識を沈めていく。
遠く、アラームの鳴る音が聞こえ。

そしてまた、今日が始まる。



20250529『渡り鳥』

5/30/2025, 11:36:00 AM