「また負けちゃった」
そう言って、彼女は笑う。負けたというのに、悔しさの欠片も見せず。
その笑顔が眩しくて目を細める。散らばったカードを纏めながら、さりげなく視線を逸らした。
勝負には勝った。だがその瞬間に、自分は彼女という存在の大きさにまた負けたのだ。
「どうしたの?」
問いかける声に首を振る。
羨ましい、悔しいと思う気持ちを、浮かべた笑みで隠して終わりを告げる。
「そろそろ帰る時間だね。また明日」
「もうこんな時間か、残念。今日こそは勝てると思ったのに」
「――勝ってるよ。いつも君には負けている」
ぼつりと小さく呟いた。
何か言った、と問いかける彼女に、何もないと答えて手を振る。
「まあ明日ね。次は絶対に勝つからね」
「うん。期待してる」
部屋から出て行く彼女の背を見送りながら、手にしたカードを気まぐれに弄ぶ。
勝負の勝ち負けなんて、何の意味もない。
彼女のように強くなれない自分は、その時点で既に負けているのだから。
「強く、なりたいな」
カードを片付けながら、嘆息する。
窓の外を見れば、空は青から赤へと色を変えて。遠くカラスの鳴き声を聞きながら、徐に手を上げた。
その瞬間に部屋の灯りはすべて消える。窓から差し込む陽の光が、部屋の暗がりに自分の影を伸ばしていき。
その影は揺らいで形を小さく崩して、人間から獣の姿へと変わっていく。
「彼女のようになりたい」
影と同じく獣――狸へと姿を変えて、彼女を思い項垂れた。
半年ほど前、寝所にしていたこの廃墟で彼女と出会った。
明るく、好奇心旺盛で。それでいてとても優しい彼女。この廃墟に来たのも、友人が肝試しに訪れてから戻らない事を心配していたためだった。
まあ、その友人は実際には別の廃墟に行っていた訳であるが。その時は何も知らず、二人して廃墟の中を探し回って、それで仲良くなった。
それから毎日のように、この場所で彼女と一緒に遊んだ。
廃墟に残されていたものや彼女が持ち込んだもので一緒に遊び、勝負をして楽しく過ごしていた。彼女はゲームの類いが得意ではないようで、勝つのはいつも自分だった。
けれど。
「また、言えなかった」
彼女は自分が狸である事を知らない。彼女と出会ってからずっと人間の姿で接していて、今も告げる事が出来ないでいる。言わなければと思い立って、そろそろ一月が経とうとしていた。
本当の事を打ち明けても、きっと彼女はそうなんだ、と笑ってくれるだろう。でも万が一、もしも彼女にすべてを打ち明けて、怖がられたり怯えられたりしたとしたら。二度とこの廃墟に遊びに来てくれなくなったとしたら。
それを考えると、怖くて怖くて、何も言えなくなってしまうのだ。
「強く、なりたいな」
ソファに飛び乗り、丸くなる。
強くなりたかった。勝負の悉くに負けても、それを笑っていられるくらいの強さがほしかった。そうしたらきっと、彼女に自分の気持ちごと、すべてを話せるのに。
勝負の勝ち負けなんて、彼女の強さに比べたら些細な事だ。何も言えない臆病な自分は、彼女よりも遙かに弱い存在なのだから。
「明日。明日こそ、ちゃんと言おう」
何度目かの決意を口にして、目を閉じる。
「ぼくが狸だって事。それから、大好きだって事」
明日こそ。結局無駄になって散らばった、言葉達の残骸を見ない振りして明日が来るのを待つ。
はずだった。
「その明日は、いつになったら来てくれるのっ!」
ばんっ、と大きな音を立てて扉が開けられたと同時に、少し怒っているような彼女の声が聞こえた。
思わず飛び上がる。飛び上がって、扉に視線を向けて固まった。
強い目をした彼女が、大股でこちらへ歩いてくる。怒っているような、拗ねているような顔をして目の前まで来ると、躊躇う事なく体を持ち上げた。
「私は、あと何回、その明日こそを待てばいいのっ!」
「え、えと……え?」
「君が人間じゃない事くらい、ずっと前から知ってるの!負けそうになる度に耳としっぽが出てくるんだから、誰でも気づけるって」
前足の下に手を入れて持ち上げられたせいで、後ろ足がぷらぷらとして落ち着かない。
なんて、現実逃避をしたくなるくらいの事実に、思わず泣きたくなる。恥ずかしすぎて逃げてしまいたいというのに、けれども彼女の勢いは止まらない。
「驚かそうって、さよならしてから少しして部屋に忍び込んだ時なんか、今みたいに狸の姿で呑気に寝ててさ。それで寝言で好きって言ってるのも知ってるんだからね」
「あ、あ、やだ……うそ」
「嘘じゃない!何だったら、その後からずっと、明日こそっていう言葉を聞いてから帰ってるんだから……で?私をいつまで待たせる気なの?」
がくがくと彼女の感情のままに揺さぶられる。その気持ち悪さよりも、何もかもを知られていたという衝撃に、目眩がしてきた。
狸でよかった。状況は悪くなるばかりで、彼女の怒りも収まるどころか高まっていく一方だ。それでも人間の姿では真っ赤になっているだろう顔が、見られないのはせめてもの救いだった。
それすらも現実逃避でしかないのだけれど。
「私だってね、女の子なの!好きな子にそう思われてるって知って、期待してるんだけど!?本当にいつまで待たせるのよ!」
「あ、う……ごめん、ごめんね。だから」
「じゃあ、言って。今すぐ、ここで。私の前で告白して」
揺さぶる腕が止まり、彼女と真正面から視線を合わせられる。逸らしたくはなるけれど、逸らしてしまったらもう彼女とは一緒にいられないだろう。
落ち着くために深く呼吸をして、彼女の怒りながらも悲しげな目を見つめた。
そこでようやく、彼女を悲しませているのに気づく。意気地のない自分を叱咤して、もう一度呼吸をしてから口を開いた。
「えっと……実はね、僕は狸なんだ」
「うん。知ってる」
「それで。えっと……君が、好き。です」
最後の方は、声が震えてしまっていたが、はっきりと告げる。ようやく、告げられた。
ふっと、彼女の表情が緩み。でもすぐに眉を寄せ、睨まれる。
「駄目。やり直し。何かきゅんとしない。散々待たせたんだから、もっと言って」
え、と間抜けな声を上げ、慌てて身を捩る。彼女の腕から下りて、人間の姿に変わった。
腕を上げて灯りをつける。恥ずかしいけれど仕方がない。それよりも彼女を悲しませる事の方がよっぽど嫌だから。
何度も夢の中で練習したように、彼女の両手を握り目を合わせる。
「君が好き。僕と付き合ってほしい」
真剣に、思いのすべてを込めて告げる。
彼女の頬が段々と赤くなる。それを可愛いなと見ていれば、握った手を解いて、彼女に抱きつかれた。
「遅い!でも、合格……私も、大好き」
予想していなかった答えに、一瞬で顔が熱くなる。
どうすればいいのか分からない手が宙を彷徨って、そしてそっと彼女の背に回す。
くすくすと笑う声。頬に触れた熱に、今にも倒れてしまいそうだ。
その後。
暗くなった夜道を一人で帰らせるのが嫌で、二人手を繋いで彼女の家へと帰り。
何故か言いくるめられ。狸の姿ではあるものの、彼女との同棲が始まった。
「女の子って、怖い」
「失礼な事言わないで」
彼女の家に来てから、一回も勝てない勝負に溜息を吐く。
彼女はやっぱり強い。勝ち負けなんて、始まる前から決まっていたようだ。
「勝ち負けよりも、楽しいか楽しくないかじゃない?今はまだ、ちょっと怒ってるから手加減しないけど」
「本当に怖い……でも、そんな所も大好き」
楽しそうに笑う彼女の顔が赤くなる。
そして赤くなりながらも、真っ直ぐに目を合わせて。
「私の方が好き。最初から……あの廃墟でずっと手を繋いで、怖いのから守ってくれた時からずっと好き」
真剣な表情で告げられて、意味を持たない声が漏れた。
20250531 『勝ち負けなんて』
6/1/2025, 11:02:13 AM