「これで最後だ」
冷たく吐き捨てられた言葉に、唇を噛みしめる。
結局、最後まで敵わないのか。
けれど最後くらいはと歯を食いしばり、震える足に力を込めて立ち上がる。
「根性だけは認めてやろう」
「よく言う。思ってもないくせに」
「嘘ではない。嘘をつくのは、いつでも人間の方だろう」
だろうな、と心の内で同意しながら、自分がここにきた理由を思い返す。
――目の前の男を、本家の当主の元まで連れて行く。
ある日突然に命じられた事。
意味が分からなかった。今まで本家との関わりなど正月や盆の集まりくらいしかなかっというのに。
けれど従うしかなかった。それ以外の選択肢は、本家へと連れられた時点で奪われていた。
この男を連れて行かなければ、家族の命は保証されない。
乱れた息を整えながら、目の前の男に集中する。
男の右手に握られた赤い紐。その先に結ばれた真鍮の鈴を取れば、自分の勝ちだ。
男が提示した勝負。だが男の言うとおり、これが最後だ。
男が言葉にしなくても、自分にはもう男と張り合うだけの力は余り残されてはいない。
これで最後。
息を吸い。そして吐く。
目を閉じて。開き。
真鍮の鈴。ただそれだけを目指し。
真っ直ぐに駆け出した。
「やはり無駄だったな」
倒れ込む自分を見下ろして、男は無感情に呟いた。
目の前で揺れる鈴。手を伸ばせど、やはり届かない。
「まあ、暇つぶしにはなったか」
暇つぶし。自分のすべてで挑んだというのに、男にとっては余興の一つでしかないのか。
荒い呼吸を繰り返しながら、目だけは男を睨み付ける。悔しさに滲み出す視界を、血が滲むほど強く唇を噛む事で必死に耐えた。
泣いている時間はない。男を連れて行けぬ以上、一刻も早く戻り家族を助けなければ。
「なんだ。お前、もしかして今更戻れるとでも思っているのか?」
さも意外だと言わんばかりに、男は目を瞬き問いかける。男と対峙して、初めて聞いた感情の乗った声。だがそれよりも男の言葉の意味が気に掛かった。
「どういう、意味……?」
「お前は俺との勝負に負けたのだろう?ならば、お前は俺のものだ……まあ、もとよりここに来た時点で、お前は俺のものではあるがな」
何を言っているのか。意味を理解しかねて眉を潜めれば、首を傾げた男が何かに気づき笑う。
「ああ、何も知らされていなかったのか。可哀想にな」
無邪気に笑いながら、男は膝をつく。未だに動けない自分の頬を包み、逆さに目を合わせた。
男の炎のように揺らぐ深紅の目が、自分の内側を暴き立てていく。そんな不快な感情が込み上げ、逃れようとするも、体は縫い止められたように動かない。目を逸らす事も、閉じる事も出来ずに、次第に涙の膜を張り出した目から一筋滴が零れ落ちた。
「なるほど、家族のため……健気なもんだ。騙されているとも知らずに、なんて哀れなんだろうか」
「――っ、やだ」
「お前は帰れない。この俺に捧げられたのだから……だが、そうだな。あれらに契約の重さを知らしめる、いい機会かもしれんからな」
揺らぐ視界で男が笑う声がする。動かぬ体に必死に力をいれ、腕を伸ばして頬を包む男の手に爪を立てた。
「っと。痛いだろう。まったく、子猫じゃああるまいに……だがその頑張りに免じて、一時家に帰してやろう」
「ほ、んと、に……?」
「嘘はつかんと言っただろう」
蠱惑的な囁きに、腕の力が抜けていく。
男の顔が近づいて、深紅が意識を解かし始める。男と、自分と。境界が曖昧になっていく。
「小娘。その体、少しばかり借りるぞ」
深紅が揺れる。
男の言葉を最後に、記憶は途絶えた。
部屋一面を染める、深紅の華。
その中央で、一人の少女は老人を前に微笑んだ。
「口約束とはいえ、契約は守らなければな。でなければ道理が歪んでしまう」
がたがたと震える老人を、少女は気にかける事もせず。小首を傾げ、そもそも、と少しばかり呆れを乗せて呟いた。
「守られぬ事を前提とした約束はどうかと思うぞ。こうして予想外な事象が起きた時に、こうして契約不履行で痛い目を見るのはお前らの方なのだから」
幼い子を窘めるような口調で、だが老人へと向けられた右手は床で咲き乱れる華のように深紅に染まっている。
近づく手に、さらに老人の震えは激しくなり。意味の伴わない呻きを断続的に上げながら、腕を持ち上げその指先は一点を示した。
その先には、古い蔵。暫し蔵を見つめていた少女は、ああ、と小さく呟いて、困ったように頬を染めて笑った。
「まあ、なんだ。誰にでも間違いはある、というやつだな。それに数も足りない。両親と上に二人ほどいたはずだが、それはどうした?」
老人は何も言わない。必死で首を振りながら、命乞いを繰り返している。
それをどこか冷めた目で見つめながら。少女はそうだな、と優しい笑みを浮かべて、老人へと手を差し出した。
安堵に老人も笑みを浮かべ。
「約束した者。契約者が絶えれば、約束自体もなくなる。それに娘を捧げた際の儀を誤っていたのだから、結末は変わらない。あまり気にする事でもなかったな」
老人の笑みが凍り付く。
差し出された少女の手が、老人の顔を掴み。
またひとつ、部屋に深紅の華が咲いた。
「さて」
静寂が満ちた部屋を出て、少女は先ほど老人が示した蔵へと向かう。
蔵は堅牢な錠で閉じられていたが、少女にとっては意味のないものだ。軽く右手で触れただけで、錠は粉々に砕け地に落ちた。
蔵を開け、中へと足を踏み入れる。灯りはなくとも迷わずにその足は奥へと進み。
片隅に寄り添うように倒れる、二つの小さな影の前で足を止めた。
「ちょうどよかった。全員であったなら、流石に諦めていた所だった」
安堵したように笑い、少女は躊躇せずにその二つの影――二人の子供を抱え上げる。
小さな呻く声と共に、一人の子供の目が虚ろに開く。
「おねえ、ちゃん……?」
「なんだ。起きたのか」
蔵の外へと向かう足を止めず、少女は無感情に呟いた。
「お前らの姉は、俺に捧げられた。だがお前らを対価にした契約を此方で結んでいたようであったからな。たった今終わらせた所だ」
「けい、やく」
「故にお前らも連れて行く。恨むならば、ここの当主を恨む事だ」
呟く声はどこまでも冷たい。
姉の姿をしていても、姉ではないと気づいたのだろう。虚ろな視線がゆるりと閉じられ、消え入りそうな声が誰、とだけ呟いた。
「誰と尋ねておきながら、気を失ったか……まあ、聞こえていないだろうが、折角だ。答えてやろう」
呆れたように息を吐きながら、少女は笑う。
「俺は、お前達が奉っているモノだ。この屋敷の裏の山にある奥宮で奉られている古より存在する、お前らの祖先に術を授けたモノ。その時の契約で、定期的に一族を捧げる代わりに力と守護を与える、いわば神というやつだ」
くすくすと笑い声を上げながら、少女は蔵を出て山奥へと歩いていく。
その足取りは軽く。迷いもなく。
「まあ、今宵で血の濃い者らは絶えてしまったが。仕方がない事だ。約束とは契約と同意。それを違えてしまったのだから」
だからお前らも気をつける事だ。と少女は歌うように囁く。
その声はどこまでも優しく。どこまでも残酷に。
夜の静寂に解けていった。
誰かに揺り起こされている感覚に、沈んでいた意識が浮上する。
「あ、起きた」
「おはよう、お姉ちゃん」
どこか重苦しい頭を抑えながらも、弟妹におはようを返す。意識がはっきりしない。何かを忘れてしまったかのように。
「ご飯、出来てるからね」
きゃあ、と笑いながら駆けていく二人をぼんやり見送りながら、小さく息を吐いて布団から抜け出した。
布団をたたみ、押し入れにしまう。
その動作にどこか違和感を感じて、内心で首を傾げる。
部屋を見渡す。
何も変わらない。いつもの自分の部屋だ。
六畳一間の、自分の部屋。だというのに、畳の部屋という違和感が拭えない。
頭が痛い。何かが違う。何かを忘れているはずなのに、それがどうしても思い出せない。
耐えきれず、膝をつき頭を抑えて目を閉じた。
「どうした?」
聞こえた声に、はっとして目を開ける。
部屋の扉の前で、兄が首を傾げながらこちらを見つめていた。
「――違う」
違和感。首を振り、否定する。
あれは兄などではない。兄は、兄達はあんな男ではなかったはずだ。
「ああ、やはりお前のような気の強い娘には、名付けでもしない限り認識は変えられないか」
肩を竦めながらも、目の前の男は酷く楽しげだ。ゆっくりと歩み寄る姿に恐怖を覚えて、後退る。
だが然程広くない部屋。すぐに背が壁に触れ、逃げる事も出来ずに距離を詰められる。
「こないでっ」
「俺と対峙していた時の威勢の良さは、すっかりなくなってしまったな……うん、そうだな。やはりしばらくは名付けずに、お前の踠く様を楽しもうか」
そう言って、男は膝をつき腕を伸ばす。頬を包まれて、揺れる炎のような深紅の目に、覗き込まれる。
目の中の怯える自分が、男の目の中で解けていく。違和感も恐怖も、何もかもが解けて、境界が曖昧になっていく。
「――ぃや、なんで……」
「たまには意向を変えてみるのも楽しいだろう?なあに、次が捧げられるまでの間だけだ。たったの五十年ほど……ああ、だが。傍流の者らが同じように、俺との契約を望み捧げるとは限らないか。その時は、永遠にこのままごとを楽しもうか」
深紅が揺れる。思い出ごと記憶が書き換えられて、何もかもが変わっていく。
伏せた目から零れ落ちた滴を男に拭われ、違うと呟く声は低い笑い声に掻き消される。
助けて、と声なく願い。けれども何もかもを諦めて、解けた境界に身を委ねた。
「お姉ちゃん、遅いよ」
「もうお腹空いた」
先に食事を取るでもなく、おとなしく待ってくれていた弟妹にごめんね、と笑ってみせる。
「もしかして、泣いていたの?」
席に着けば、隣に座った弟に目が赤い事を指摘される。
やはり目を冷やしておくべきだったかと、笑って誤魔化しながら思う。大丈夫だと伝えても、納得はしてもらえないのだろう。
「少しな、寂しくなってしまったそうだ」
少し遅れて居間に入ってきた兄が、弟の頭を撫でながら教えてしまう。
内緒にしてほしいと頼んだのは、無駄だったようだ。恨めしげに見つめても、兄は笑うだけで堪えた様子はない。
兄の手から抜け出して、弟は側まで来ると小さな腕を広げて抱きついた。同じように近づいてきた妹にも抱きつかれ、ありがとう、と二人の頭を撫でる。
優しい子達だ。姉である自分がしっかりしないといけないのに、これではどちらが年上か分からないではないか。
苦笑しながら二人を撫でていれば、頭に感じる手の感触。視線を向ければ、兄が優しい顔をして頭を撫でていた。
「嘘つき」
「嘘はついていない。俺は了承してはいなかったからな……それに偽りであっても、それが正しいと認識すれば、それが真実になる」
「なにそれ?」
「ここにいる誰もが、その身を脅かされる事も、孤独を感じる事もないって事だ」
「意味が分からない」
兄は笑って首を振る。撫でていた手を離して席に着き、意地悪な顔をして二人に声をかけた。
「皆が揃ったからな。俺は食事にするが……いらないのなら、俺が二人の分ももらうぞ」
「あ、だめっ!」
「おにいちゃん、いじわるだ」
慌てて席に着く二人は、揃って手を合わせ、いただきます、と声を上げる。
今朝も随分と賑やかだ。寂しがっている暇はないだろう。
同じように手を合わせて、食事に手をつける。楽しげに笑う二人の声を聞きながら、いつもと変わらない一日の始まりに一人笑い。
穏やかな日々が、いつまでも続いていく事を願った。
20250527 『これで最後』
声が聞こえる。音が響いている。
楽しそうに、悲しそうに。囁く波が、さんざめく風が音を奏でている。
声が聞こえた。寂しげな声。
遠くどこかで、鳴く声が。
――名前を、呼んで。
首を傾げて、声の聞こえる方を見る。
――誰か、私の名前を。
呼べば良いのか。そうしたら、寂しいのはなくなるのだろうか。
その時は、深く考えもせずに。呼ばれぬ事の意味を知りもせずに。
なら呼びに行こう、と。
軽い足取りで、声のする方へと向かっていった。
辿り着いたのは、古びた神社の裏側。
ご神木の根元に、不思議な色合いの大きな鳥が横たわっていた。
声が聞こえる。言葉ではない、目の前の鳥の思いが聞こえている。
そっと近づけば、鳥の閉じていた瞼が開き、金に煌めく目が鋭くわたしを睨み付けた。
「近づくな。去れ」
――呼んで。名前を呼んで。
冷たい声と、寂しい声。
正反対の声が、立ち尽くすわたしの鼓膜を揺する。
「あなたはだあれ?」
問いかければ、鳥はくつり、と喉を鳴らして嗤った。
「知らぬのか。私の名は禁忌だ」
「きんき?」
その意味を、まだ幼かったわたしは知らなかった。
けれど知っていたとしても、何も変わらなかったのだろう。ずっと声が聞こえていたのだから。寂しい声が、呼んでと泣いていたのだから。
――私を呼んで。私は――。
一歩足を踏み出した。鳥の目がさらにきつく鋭くなり、威嚇するように高く鳴く。けれど怖いとは不思議と感じなかった。
手を差し出す。もう寂しくはないのだと、伝えるように嗤って。
「――」
ずっと聞こえている、ひとつの名前を口にした。
ざわりと風が渦を巻く。雲を呼び、陽を覆い隠していく。
驚きに見開く鳥の金の目が、ゆらりと揺らぐ。鋭さは消えて、残るのは何故か悲しみだった。
首を傾げた。呼んでほしいと言われたから呼んだのに、嬉しくはないのだろうか。
取られる事のなかった手に滴が落ちる。見上げる空は、厚い雲に覆われて、細かな雨が降り始めていた。
見上げている間にも、雨は勢いを増していく。慌てて雨を避けようと社へ駆け出そうとした体は、けれど何かに留められ視界が塞がれた。
「愚かな子だ……可哀想に」
頭上から聞こえる声は、鳥のものだ。
そっと手を伸ばし、体を包む何かに触れる。温かな、それでいて冷たい、なめらかで柔らかな、不思議な感触。それが鳥の羽だと気づいて、目を瞬いた。
「遍く声を聴く事の出来る希有な子。神の愛し子……本当に可哀想に」
囁く声は、どこまでも悲しい。
「呼んだから、悲しくなってしまったの?」
問いかければ、息を呑む音がした。
さらに体を翼で包まれて、いいやと小さく呟かれる。
「呼んでくれて、とても嬉しい」
泣きそうな、悲しい声。
その中に、隠し切れない喜びが混じっているのが聞こえて、それだけで嬉しくなる。
「よかった」
包まれる暖かさに、段々と眠くなる。
ざあざあと聞こえる雨の音も眠気を誘い、ふふ、と笑いながら目を閉じた。
先の事など、何も考えず。禁忌を破った事の、罪の大きさも知りもせず。
優しい温もりに包まれて、最後の穏やかな日は眠りと共に消えていった。
雨の音が聞こえていた。
「起きたのか。まだ眠っているといい」
優しい声が降り注ぐ。
目を開けても変わらない暗闇。痛みのないこの場所は、鳥の翼の中だろう。
「本当に人間とは愚かな生き物だ。最初に私を呼んで縋り、奉ったのは人間だろうに。それを忘れて災厄の根源と定め、私の名を封じて。剰え私と繋がっただけの、同じ人間であるあなたを躊躇いもなく傷つけるのだから」
呆れたような、怒っているような。冷たい声が吐き捨てる。
ごめんね、と答えようとして、遠い昔に潰された喉が、ひゅうとか細く音を鳴らした。
あの日。鳥の名前を呼んだ日から、わたしの世界は一変した。
優しさはすべて失われ、代わりに与えられたのは怒りと、憎しみを含んだ、罵倒と暴力だった。
村の人も家族ですらもわたしの名前を呼ばなくなり、食事も与えられず。傷だらけで動けなくなれば、容赦なく山奥へと棄てた。鳥がいなければ、今まで生きてはいられなかっただろう。
不意に、雨音に混じり人の声が聞こえた。思わず身を竦めれば、宥めるように鳥の羽が包み込んでくれる。
「案ずる必要はない。人間が私の元まで辿り着く事は不可能だ。直に諦めるだろう」
静かな声音。
大丈夫と羽が頬に触れ、強張る体から次第に力が抜けていく。
声はまだ聞こえている。誰かの名前を呼んでいる。
けれど鳥の言うとおり、声が近くなる事はなかった。
遠ざかる声に安堵の息を吐く。力なく羽に凭れると、鳥は微かに身じろいで小さく鳴き声を上げた。
何かを考えているのだろう。ここ数日、悩んでいるようだったから。
何に悩んでいるのか。尋ねたくとも、もう声は出ない。あの日以来名前を呼ぶ事も出来ない。守られてばかりで、歯がゆさばかりが募っていく。
そっと羽に触れる。ここにいるのだと、ひとりではないのだと、せめて伝えたかった。
「――頼みがある」
どこか思い詰めたような声に顔を上げる。翼の中では何も見えないけれど、それでも目を凝らして鳥の姿を探す。
いいよ、と声なく伝えれば、ややあって鳥は一度だけ低く鳴いた。
「名前を、呼んでほしい」
びくり、と肩が震える。
それは、それだけは叶えられない事だ。声を失ったわたしには、出来るはずがない。
それを分かっているはずなのに、鳥は呼んでと繰り返す。
「おいで。私の側で、もう一度名前を呼んで」
ゆっくりと閉じていた翼が開いていく。
光が溢れだし、その代わりに忘れかけていた体の痛みが戻ってくる。
ふらつく足に力を入れながら、鳥を見上げた。金に揺らめいた、悲しい目。痛みに顔を顰めながら、手を伸ばしてその首元に縋り付いた。
鳥の喉に唇を寄せる。
届けばいいと、強く願いながら口を開き。
言葉を、紡ぐ。
「――飛雨」
ざわり、とあの日のように、風が渦を巻く。
雨が勢いを増し、容赦なく体を打ちつける。
しがみついていた腕の力が尽きて、体が崩れ落ちていく。けれどもその前に鳥の翼に支えられ、俯く顔を上げられて目を覗き込まれた。
近い金の目には、悲しみの色はない。強い意志を湛えて煌めき、虚ろなわたしを写している。
甘えるような鳴き声。優しく目が細められて、ひとつの言葉がわたしの鼓膜を揺する。
「――絲雨」
名前。
それがわたしの名前だと、鳥の目が告げている。
棄てられた時に名前もなくしたわたし。そんな名無しに新しく鳥が名付けたのだと、ようやく気づく。
気づいて、認識して。その瞬間に、体の内側から痛みとは違う熱さを感じた。どろどろと、何もかもが溶けてしまいそうな程の熱。耐えきれずに目を閉じると、体を支えていた翼がわたしを強く包み込んだ。
包まれ、覆われ。抱かれながら、境界が曖昧になっていくのを感じる。わたしの体と鳥の体が溶け合って、ひとつになっていく感覚に、声の出せぬ喉で叫びを上げた。
ひょう、と空気の漏れる音。それは何故だか、鳥の鳴き声のように聞こえたのを最後に。
何もかもが、真っ暗に染まっていった。
ざあざあと、雨の降る音。
ごうごうと、水の流れる音。
鳥の鳴く声が聞こえて目を開けた。
「起きたか。ならば行こうか」
どこへ、と首を傾げ。
まだ微睡む意識で、何気なく眼下を見下ろした。
「――ぁ」
一瞬で意識が覚醒する。
思わず下りようとした体は、鳥の翼に押し留められた。
「無駄だ。今から向かったとて、間に合わない」
「でもっ。でも、皆」
冷たい声に言い返して。声が出た事に驚き、喉に手を触れた。
触れようとした。
「つ、ばさ……?」
目に映るものを見て、呆然と呟く。
人の手はなく、代わりに真白の翼がそこにはあった。
戸惑い鳥を見上げる。静かにわたしを見下ろす金はひとつ。そしてわたしを何度も包んでくれたはずの翼もひとつだけになっていた。
どうして、と小さく呟けば、金は優しく細められ、甘い鳴き声が上がる。
「あなたは私の名前を呼んだ。そして私はあなたに名前を与えた……契約は正しく成され、あなたと私は同じになった」
「契約……同じ……?」
「これであなたの翼と私の翼で、どこまでも自由に飛んでいける」
意味が分からない。ゆるゆると首を振って視線を逸らす。
逸らした視線の先で、小さな村が水に沈み、土に埋まっていく。家や人が大量の水に押し流され、山からの土砂で跡形もなく埋められていく。
「なんで、こんな……こんな事、今まで……」
「今までは私が形だけでも奉られ、封じられていたから守られていただけの事。こうして自由になった今、あなた以外を守る必要はないだろう……最後に気づいた所で意味はない。結末は最初から決まっていたのだから」
当然のように鳥は告げ、わたしの体を引き寄せる。覗き込むひとつの金が、鳥とは対の金の目をしたわたしを写して擦り寄った。
「私はあなたのモノ。そしてあなたは私のもの。他の誰かはもう必要ない。名を呼ばれぬ悲しみも、寂しさも。互いがいれば感じない」
触れ合う温もりは、変わらず優しい。それなのに、地上で今も失われていく命には、無慈悲で残酷だ。
その差が哀しくて、とても苦しくて。零れ落ちた涙を、鳥は首を傾げて眺め、ひとつしかない翼を広げた。
「絲雨」
名前を呼ばれて体が跳ねる。
周りの音が消えて、鳥の声しか聞こえなくなる。眼下の惨状など気にもならず、記憶から抜け落ちていく。
鳥はわたしのモノ。そしてわたしは鳥のものなのだから、それ以外はすべてが些細な事だ。必要のないものは忘れて、捨て去ってしまえばいい。
「そろそろ行こうか」
囁く声に頷いた。鳥と同じようにひとつだけの翼を広げ、寄り添った。
風を起こし、空を飛ぶ。体を打つ雨など、気にもならない。
どこまでも高く、どこまでも遠く。
この日。鳥の名前を呼んだ日。
わたしは人ではなくなった。
ひとつの翼とひとつの目。独りでは飛ぶ事の出来ない、不完全な存在。
わたしと鳥と、番う事で初めて飛べる。
大切な半身。わたしにとっての唯一。
「私はあなたのモノ。そしてあなたは私のもの」
楽しそうに鳥は囀る。
その声に合わせて、甘えたように鳴き声を上げた。
20250526『君の名前を呼んだ日』
通り雨に降られ、近くのバス停に駆け込んだ。
大分暖かくなってきたとはいえ、雨に濡れたままでは風邪を引く。早く上がらないものかと、溜息を吐きながらハンカチで体を拭いていれば、不意に誰かが駆け込んでくる音がした。
同じように通り雨に降られてしまったのだろう。知り合いだろうかと顔を上げれば、雨に濡れながらも楽しげに笑う青年と目が合った。
「よっ。災難だったな」
「あぁ。まあ」
友人ではない、知らない誰か。妙に馴れ馴れしい態度に一瞬だけ不快に眉を潜めるが、それはすぐに訝しげなものへと変わる。
子供のように晴れやかな笑顔を、昔見た事があった気がした。
「なぁ、あんた名前は?」
「さて、誰でしょう?」
意地悪に笑いながらはぐらかされる。だが不思議と不快には感じない。代わりに奇妙な懐かしさが胸を締め付け、濡れた髪を拭く振りをして俯いた。
雨が屋根を叩く。久しぶりに意識して聞いた心地の良い音に、青年の柔らかな声が混じっていく。
「そういやさ、知ってっか?隣町の学校でさ……」
楽しげに青年は話し出す。
懐かしい笑顔で、懐かしい声音で。
いつどこで出会ったのか。名前は。どこに住んでいるのか。
何一つ分からない。分からないのに、懐かしさだけが心を満たす。
満たされた心は、沸き上がる疑問を軽視して、ただ純粋に青年との会話を楽しんだ。
とある学校で起きた怪談話。
どこかの山奥で暮らす狸と狐の争いの話。
近所の田んぼで起きた幽霊騒動。
怖い話から笑える話まで。下らない話をしては、馬鹿みたいに大笑いをした。
雨の音がする。笑いながらもその優しい音に、目を細めて聞き入った。
「――おっと。そろそろ時間切れだ」
「何が?」
「雨が上がったって事」
そう言って青年は空を指差した。
いつの間にか雨が上がり、見上げる雲間から一筋の光が差し込んでいた。
ふと、この光景を誰かと見た記憶が脳裏を過ぎていく。
隣の青年に視線を向ける。笑いながらもどこか寂しげな表情が、いつかの少年の姿に重なった。
「――ぁ」
「ようやく気づいたか」
にやり、と青年は笑う。その姿が、じわりと滲んでいく。
「相変わらず、泣き虫なのな」
「うっせ。最近出てこなかったくせに、何言ってんだ」
俯きながら、悪態をつく。それに吹き出して笑いながらも、優しく頭を撫でてくれる所は、幼い頃から何一つ変わらない。
「なんで、来なくなったんだよ」
幼い頃。雨の日だけ遊んでくれる特別な友人がいた。
名前は知らない。尋ねた事もない。
雨が降るといつの間にか現れて、一緒に遊んでくれた友人。何でも知っていて、些細な事で大笑いして。
ひねくれた可愛げのない自分に寄り添ってくれた、大切な友人だった。
いつの頃からか、雨の日に現れなくなり。
日常の忙しさに、いつしか友人の事は記憶の片隅に追いやってしまっていた。
「ずっと、待ってたのに」
雨が降る度に、友人の姿を探した。
忘れたと嘯きながらも、一人の夜を泣いて過ごした。
恨み言のように呟けば、頭を撫でる手がいっそう優しくなった。
「心に余裕がなかったからな」
「なんだよ。それ」
「あの頃、いろいろあっただろ?」
そう言えば、と思い出す。
友人が訪れなくなった頃は、生きる事に必死だった。
仕事で滅多に帰ってこない父。
自分を置いて出て行った母。
誰かに相談する事など頭にはなく、ただ必死に生きていた。父方の祖父母に連絡が行ったのは、一月以上が経った後の事だ。
「あの頃はよく頑張ったよ。偉かったな」
頭を撫でていた片手が両手になる。涙越しに見える青年――友人の姿が先ほどよりも薄くなっているのは、きっと気のせいではないのだろう。
雨は上がってしまったのだから。
「見てきたように言うな」
「ずっと見てきたさ。これでもすっごく悩んだんだぜ?もういっそ隠しちゃおうかなって、そう考えるくらいには悩んだんだ」
そうならなくてよかったよ、と友人は言う。それをどこか残念に思う気持ちを見ない振りして、馬鹿とだけ返した。
「まあなんだ。まだいろいろあるだろうけどさ。たまには、こうして雨宿りするように、無為な時間を過ごしてみろよ。ちょっとくらい嫌な事全部忘れてさ。くだらない話をして、馬鹿みたいに笑おうぜ」
「うっせ。馬鹿」
消えていく友人をこれ以上見ていられずに、目を閉じる。
頭を撫でる手の温もりが感じられなくなっていくのに、泣き叫んで縋ってしまいたいのを、必死の思いで耐えた。
「今まで見てきたから知ってる。じいちゃんやばあちゃん。何だったら親父も皆、お前に叔父さんを重ねて見てるって事。次の雨の日には全部聞いてやるから」
囁く声に、思わず肩が震えた。
どうして、と声を上げる代わりに、耐えきれなかった嗚咽が漏れる。
「ちゃんと見てるから。どうしても耐えきれなくなったら、今度こそ隠してやる。だからもう少し頑張ろうな」
熱のない友人の指が涙を拭う。
恐る恐る目を開けて、僅かに輪郭が残るのみとなった友人に手を伸ばした。
「約束、だぞ」
「あぁ、約束だ……心配すんな。もうちょっとしたら梅雨だろ?毎日のように会えるさ」
伸ばした手に――小指に小指を絡め、指切りをする。
それを最後に友人の姿は消えて、後には小さな水たまりが残るのみ。
「約束、だからな」
見えなくなった友人に呟いて、乱暴に涙を拭う。
見上げる空には大きな虹。見えなくなっただけで側にいるらしい友人も同じものを見ているのだろうか。
歩き出す。家へを向かい、ゆっくりと。
自分を見つめる祖父母の目には慣れない。何かと干渉してくる事に、息苦しさしか感じられない。
それでも、約束をしたから。約束がある限りは、きっと頑張れるはずだ。
立ち止まらずに歩いていく。
優しい雨音を思い描きながら。
20250525 『やさしい雨音』
どこからか聞こえる子供達の歌声に、男は微睡む意識を浮かばせた。
緩慢な動作で、窓へと視線を向ける。目を細め、遠い過去の記憶を手繰り、だが求めるものは欠片も見つからなかったのだろう。ゆるゆると目を伏せて窓から視線を逸らし、そのまま目を閉じた。
外ではまだ、歌声が響いている。来月に行われる、祭の練習をしているのだろう。
身体健全を願い、社の前で歌われる歌。形だけをなぞった、中身のない祭事。
唯一残ったものを失わないため、留めて置くために始めた事を覚えている者は、過ぎゆく時が皆連れて行ってしまった。おそらく、男が最後なのだろう。
かつて、この村には神子がいた。誰の記憶からも忘れられ、認識されなくなった、祈りの歌を紡ぐ子が。
確かに、この村にいたはずだった。
男の記憶からも失われた誰か。失った痛みと歌だけを残して、それ以外はすべてが消えてしまった。
その痛みを抱き、歌を拠り所として男は生きてきた。泣きながらも生きて大人になり、結婚し、子をもうけた。その子らも大人になり、今では男は祖父となった。
男は生きた。声も姿も思い出せない誰かと、再び出会える事を夢見て、生き続けた。
だがそれも、終わりが近いのだろう。
微睡み始めた男の唇が、ひとつの言葉を求めて震えた。見つける事は出来ぬと知りながら、それでも求めずにはいられない、ただ一人の名前。
大切で、愛おしい。誰よりも優しかった、あの子の。
やがて諦めてしまったのか、男は静かに口を閉ざし。代わりに紡がれたのは、一つの旋律。
男に残された、ただ一つの繋がり。
次第にそれも、男の意識が深く沈んでいくにつれてか細くなり、ついには途絶えていく。
男の夢が叶う事はないのだろう。
一筋零れ落ちた涙が、窓の外から降り注ぐ陽の光を反射して、鈍く煌めいた。
当てもなく歩きながら、影は一人歌を歌う。
今では誰にも届かない、誰かのための歌。祝福の歌であり、呪われた歌。
笑いながら、泣きながら歌う影には、人であった頃の記憶はない。己の名前も姿も、何もかもをなくしてしまった。
残されたのは、誰かのために祈り、歌う事だけだ。
昔、影は小さな子供だった。歌う事が好きな、どこにでもいるような子供。
それがいつしか変わり始め、ただの子供は神子へと成ってしまった。
その始まりは、純粋な思いだった。
重い病に伏せた、大切な友人の回復を願い歌った歌。旋律はそよ風のように友人を包み込み、内側から滲み出した黒いものを絡め取って去って行く。その後目覚めた友人を、大人達は奇跡だと涙を流し喜んだ。
その時はまだ、影は子供のままでいられた。それが狂いだしたのは、家族が怪我を負ってからだ。
酷い怪我だった。このまま目覚めないと医者から告げられ、影は家族と共にとても悲しんだ。悲しくて、友人のような奇跡が欲しくて、回復を願い歌った。
その旋律はやはり涼風のように家族を包み、怪我のひとつひとつを癒やしていった。すべてを癒やした旋律が去った後、目覚めた家族を大人達は奇跡と呼び、影の歌を祝福の歌と呼んだ。
噂は村中を駆け巡り、奇跡を求める村人が家へと押しかけた。
求められる度に、影は歌った。奇跡の代償など誰一人、影自身すらも気づかずに歌い続けた。求められる事が、喜ばれる事が嬉しいと、無邪気に影は笑っていた。
気づいた時には、すでに手遅れ。名前を失って、影は子供から影になった。
残された僅かを掬い上げ、失ったものを取り戻そうと足掻いたが、結局は何一つ戻らない。悲嘆に暮れる家族や村人達の横で、影だけは無邪気に歌っていた。
不意に、風が遠くの歌声を影へと運ぶ。
家族や村人が、影を取り戻すために作り上げた祭が始まったのだろう。
影の足が、自然と歌声の方へと向かう。同じように歌いながら。
影には、歌以外に残るものは何もない。過ごした村の思い出も、家族や友人の顔も、すべてが零れ落ちてしまった。
ただ一つ残された歌を歌う。歌いながら、聞こえる同じ歌を求めて歩き出す。
その姿は、どこか親の声を求めて彷徨う、飛べない雛鳥のようにも見えた。
「オブリガーダ ペロ ミラグレ、オブリガーダ ペロ マール……」
子供達の歌声が響く。言葉の意味も知らず、楽しげに。
それを男は、静かに見つめていた。
誰も男を気に留める事はない。男もまた子供達を見つめながらも、心は遠い過去を彷徨っていた。
「ノイテ プロフンダ、レバ メウ……」
歌声が響く。昔、海の向こうからこの村に辿り着いた異国の者が歌った歌が、音の響きだけを残して村に広がっていく。
「Guia a alma perdida, E nunca deixa voltar.」
旋律に合わせて、男の唇からも歌が零れ落ちる。
紡がれた音の響きに、はっとする。震える指で唇に触れ、泣くように顔を歪めた。
男の時が止まり、終を迎えた後になって、ようやく気づけた事。
この歌は祝福の歌ではない。
これは鎮魂の曲だ。本来ならば、死者を送るための歌なのだ。
「迷い子の魂を導き……二度と還らせない」
気づいて、男は笑った。笑いながら泣いて、失った誰かを想い叫ぶように歌う。
「Obrigada pelo milagre,」
「obrigada pelo mar,」
男の歌に続くように誰かの歌が聞こえた。
音だけをなぞった歌ではない。それはどこか懐かしく、愛おしく。男の内へと染みこんでいく。
歌のした方へと視線を向けれど、そこには誰もいない。ただ誰かが置き忘れてしまったかのような、小さな影があるのみだ。
「Obrigada pelo milagre,……」
影が歌う。無邪気に、言葉の意味とは正反対の願いを込めて。
「――っ、もういい」
「obrigada pelo mar,」
「もう止めてくれ。お願いだ」
ふらつきながらも影に駆け寄る。膝をつき、祈るようにその手を取った。
「この歌は違うんだ。祝福なんかじゃない。送りの歌なんだ。だから」
「奇跡をありがとう。海に感謝」
歌の合間に、影が囁く。意味を知って歌っていると言いたげに。
それに男は首を振る。最初の意味だけを覚えて、続く言葉の意味を覚えず歌ってきたのだろう。
首を傾げて、それでも影は歌い続ける。
「Noite profunda, leva meu amor ao mar,」
「夜の深みよ、我が愛を海へ連れてゆけ」
影の歌に被せるように、男はその言葉の意味を紡いでいく。
歌が止まる。
戸惑うように、影は男を見上げ。それに男は悲しく笑い、続きを紡いでいく。
「Onde o sol não nasce mais, Guia a alma perdida, E nunca deixa voltar.……太陽が昇らぬ遠い場所へ、迷い子の魂を導き、二度と還らせない、だ」
それは異国の者が、嵐の海から生還した事への感謝と、海に沈んでいった仲間達への鎮魂の歌。
正しく意味を理解して、影が僅かに輪郭を取り戻す。
「還ろうか、一緒に」
男の願う言葉に影は暫し沈黙し、だがはっきりと頷いた。
「いっしょに……かえる」
小さな声に男は泣きながらも微笑んで、その体を強く抱きしめた。
男の時が反転していく。老人から青年に、青年から少年へと、時計の針を巻き戻す。
そうしてあの日の、病に伏して終を待っていたはずの少年は、死の淵から引き戻した影の手を引き歩き出す。
行く先で二人を待つのは、穏やかに微笑みを浮かべる男女と、泣き腫らして赤くなった目をした少女。その頭を撫でる青年は、笑いながら二人を手招いた。
近づく二人に少女は抱きつき、青年もまた少女ごと二人を抱きしめる。そして見守る男女に促され、全員で歩き出した。
向かう先は海に浮かぶ大きな船。かつて異国の者が流れ着き、歌を捧げ続けた青い海に向かい歩き続ける。
浜辺では、多くの人々が待っていた。誰もがかつて影に祝福を受けた村人だった。
彼らに頭を撫でられ、抱きしめられ。そして促されて、影は皆と共に船に乗り込んだ。不安からなのか、少年と繋いだ手に僅かに力が込められて、少年は安心させるように微笑んで見せた。
「大丈夫。皆で還ろう」
全員が乗り込んだ船は、静かに沖へと進んでいく。
遠く村から響く歌声を聞きながら、誰もが穏やかに微笑んで。
船は進む。
常世《とこよ》を目指し、戻る事はなく。
船は海の底へ、音もなく進んでいく。
20250524 『歌』
胎児のように、体を丸めて眠る小さな子の頭を撫でる。
ある日突然、空から降ってきた子。
体は傷だらけで、歩く事すら覚束ない。
姉はこの子を、翼を奪われた天使と呼んだ。
背中の傷。一番大きな焼け爛れたようにも見える傷が、まるで翼を捥がれた痕のようだと言っていた。
眠る子の背を見る。確かにそうは見えていたが、痕は一つだけだ。
捥がれたのだとしたら、片側だけ。もう片方は元よりなかった事になる。
それを伝えると、姉は楽しそうに片翼の天使だと笑っていた。
――きっとこの子には、私たちのように二人でひとつの存在がいるのよ。
姉の言葉を思い出す。
ならばこの子は、いずれ自分達の元を離れて旅に出るのだろうか。傷だらけの小さな体で、たった一人きりで。
――天使が旅立てるようになるまで、私たちがしっかりと守ってあげないとね。
優しく笑う姉に、頷きながらも感じたあの心の重さは、その責任感からくるものからだったのだろうか。
小さな呻き声に、はっとして子供に視線を向けた。
僅かに顰められた眉。傷が痛むのだろうか。
それとも悪い夢にうなされているのだろうか。
そっと額に触れる。数刻前よりも熱さを感じ、傍らに置いておいた手桶を引き寄せた。
手桶に張った水に手ぬぐいを浸し、絞る。それを子供の額に乗せれば、顰められた眉が幾分か和らいだような気がした。
「大丈夫」
頭を撫でながら、繰り返す。
半ば、自分に言い聞かせるかのように。
これからは、自分がこの子を守らなければならないのだ。姉はもういないのだから。
子供の頭を撫でながら、小さな木箱に視線を向ける。
中には、砕けてしまった茶碗が一口。姉だったもの。
この子のために食べ物を探しに出た先で、悪戯な鴉に攫われて、そのまま落とされ割れてしまった。
姉はいない。これからどうすればいいのか、何も分からない。まるで自分を使っていた男のようだと、思わず笑った。
妻に先立たれた男。無気力で明日を厭い、結局は一年と保たず、妻の後を追うように儚くなってしまった。
ならば自分もそうなるのだろうか。妻が使用していた茶碗《姉》が割れて一年せずに、自分も同じように割れるのか。
想像して馬鹿な事だと笑う。この子を置いて消える訳にはいかない。
「……まって」
小さな声に、視線を子供へと戻す。
浅い呼吸。汗ばんで赤い肌。だというのに、その体はかたかたと細かく震えている。
きっとこれからさらに熱が上がるのだろう。額に乗せた手ぬぐいを取り、汗を拭って手桶の水に浸す。
この子が苦しんでいるというのに、自分はこうして汗を拭い手ぬぐいを変える事くらいしか出来ない。
姉ならば、どうするだろうか。考えて、首を振る。
姉はいないのだ。いつまでも影を追っていては、本当に男と同じになってしまう。
自分の出来ることを、と考え、悩んで。
「大丈夫」
子供の側に寄り添い、同じように横になる。小さな体を、その傷ごとそっと包み込んで。
「大丈夫。側にいるから」
眠る子供に囁く。
いっそこの体の熱が、傷ごと自分に移ってしまえばいいと願いながら。
寄り添い言葉をかけるしか出来ない事が、悲しかった。
「泣かないで」
囁く声。いつの間にか目を覚ましていた子供が、身じろぎ寝返りを打ってこちらを見つめた。
澄んだ目はすべてを見透かしているようで、落ち着かない。けれど同時に縋ってしまいたくなる力強さがあって、視線を彷徨わせながら、腕を離す事が出来ずにいた。
「泣かないで」
繰り返して、手を伸ばした子供に頬を包まれる。暖かな温もり。目元を拭われて、泣いていたのかと他人事のように思った。
「ごめんなさい」
何故謝るのだろう。この子が謝らなければならない事は、何一つないだろうに。
謝るなと伝えるために口を開き、だが言葉はすべて嗚咽に変わる。何も言えずに、只管に首を振って、謝らないでほしいと伝えた。
「ここにいるから。ちゃんとここに」
静かな囁きが、痛む心に染み込んでいく。
触れる温もりが、冷えた感情に火を灯していく。
あぁ、そうか。声に出さずに呟いた。
姉が――ただの無機物だった頃から共にいた半身がいなくなって、自分は寂しかったのか。
ふと、男の姿が過ぎる。一人になった男の行動の意味をようやく知った。
一人になっても、自分と姉を並べて戸棚にしまっていた理由。
食事の際に、姉も出された理由。そしてそれに話しかけていた理由。
自分はどこまでも持ち主に似てしまったらしい。
なんだか可笑しくて、泣きながらも笑う。笑って、目の前の優しい天使をそっと抱きしめた。
「ありがとう」
いずれこの子は旅に出る。
その時に、自分はまた寂しさを感じるのだろう。
それでも。
――天使が旅立てるようになるまで、私たちがしっかりと守ってあげないとね。
自分には、こうしてそっと包み込む事くらいしか出来ないけれど。
「大丈夫。ぼくが守るから」
誓う言葉を口にする。
その言葉に、天使はふわりと微笑んで。
「ん。ありがと」
頬を包んでいた手を伸ばし、包み込むように頭を抱かれた。
鼓動が聞こえる。穏やかな熱に、ほぅと吐息が溢れる。
「一緒に、いよう?」
願う言葉に頷いた。
いつまで、とは聞かず。ずっと、とも返さない。
その期限は、最初から分かっている。
この果てしない空に、天使が飛び立つ日まで、だ。
20250523 『そっと包み込んで』