sairo

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「これで最後だ」

冷たく吐き捨てられた言葉に、唇を噛みしめる。
結局、最後まで敵わないのか。
けれど最後くらいはと歯を食いしばり、震える足に力を込めて立ち上がる。

「根性だけは認めてやろう」
「よく言う。思ってもないくせに」
「嘘ではない。嘘をつくのは、いつでも人間の方だろう」

だろうな、と心の内で同意しながら、自分がここにきた理由を思い返す。

――目の前の男を、本家の当主の元まで連れて行く。

ある日突然に命じられた事。
意味が分からなかった。今まで本家との関わりなど正月や盆の集まりくらいしかなかっというのに。
けれど従うしかなかった。それ以外の選択肢は、本家へと連れられた時点で奪われていた。
この男を連れて行かなければ、家族の命は保証されない。

乱れた息を整えながら、目の前の男に集中する。
男の右手に握られた赤い紐。その先に結ばれた真鍮の鈴を取れば、自分の勝ちだ。
男が提示した勝負。だが男の言うとおり、これが最後だ。
男が言葉にしなくても、自分にはもう男と張り合うだけの力は余り残されてはいない。
これで最後。
息を吸い。そして吐く。
目を閉じて。開き。

真鍮の鈴。ただそれだけを目指し。
真っ直ぐに駆け出した。





「やはり無駄だったな」

倒れ込む自分を見下ろして、男は無感情に呟いた。
目の前で揺れる鈴。手を伸ばせど、やはり届かない。

「まあ、暇つぶしにはなったか」

暇つぶし。自分のすべてで挑んだというのに、男にとっては余興の一つでしかないのか。
荒い呼吸を繰り返しながら、目だけは男を睨み付ける。悔しさに滲み出す視界を、血が滲むほど強く唇を噛む事で必死に耐えた。
泣いている時間はない。男を連れて行けぬ以上、一刻も早く戻り家族を助けなければ。

「なんだ。お前、もしかして今更戻れるとでも思っているのか?」

さも意外だと言わんばかりに、男は目を瞬き問いかける。男と対峙して、初めて聞いた感情の乗った声。だがそれよりも男の言葉の意味が気に掛かった。

「どういう、意味……?」
「お前は俺との勝負に負けたのだろう?ならば、お前は俺のものだ……まあ、もとよりここに来た時点で、お前は俺のものではあるがな」

何を言っているのか。意味を理解しかねて眉を潜めれば、首を傾げた男が何かに気づき笑う。

「ああ、何も知らされていなかったのか。可哀想にな」

無邪気に笑いながら、男は膝をつく。未だに動けない自分の頬を包み、逆さに目を合わせた。
男の炎のように揺らぐ深紅の目が、自分の内側を暴き立てていく。そんな不快な感情が込み上げ、逃れようとするも、体は縫い止められたように動かない。目を逸らす事も、閉じる事も出来ずに、次第に涙の膜を張り出した目から一筋滴が零れ落ちた。

「なるほど、家族のため……健気なもんだ。騙されているとも知らずに、なんて哀れなんだろうか」
「――っ、やだ」
「お前は帰れない。この俺に捧げられたのだから……だが、そうだな。あれらに契約の重さを知らしめる、いい機会かもしれんからな」

揺らぐ視界で男が笑う声がする。動かぬ体に必死に力をいれ、腕を伸ばして頬を包む男の手に爪を立てた。

「っと。痛いだろう。まったく、子猫じゃああるまいに……だがその頑張りに免じて、一時家に帰してやろう」
「ほ、んと、に……?」
「嘘はつかんと言っただろう」

蠱惑的な囁きに、腕の力が抜けていく。
男の顔が近づいて、深紅が意識を解かし始める。男と、自分と。境界が曖昧になっていく。

「小娘。その体、少しばかり借りるぞ」

深紅が揺れる。
男の言葉を最後に、記憶は途絶えた。





部屋一面を染める、深紅の華。
その中央で、一人の少女は老人を前に微笑んだ。

「口約束とはいえ、契約は守らなければな。でなければ道理が歪んでしまう」

がたがたと震える老人を、少女は気にかける事もせず。小首を傾げ、そもそも、と少しばかり呆れを乗せて呟いた。

「守られぬ事を前提とした約束はどうかと思うぞ。こうして予想外な事象が起きた時に、こうして契約不履行で痛い目を見るのはお前らの方なのだから」

幼い子を窘めるような口調で、だが老人へと向けられた右手は床で咲き乱れる華のように深紅に染まっている。
近づく手に、さらに老人の震えは激しくなり。意味の伴わない呻きを断続的に上げながら、腕を持ち上げその指先は一点を示した。
その先には、古い蔵。暫し蔵を見つめていた少女は、ああ、と小さく呟いて、困ったように頬を染めて笑った。

「まあ、なんだ。誰にでも間違いはある、というやつだな。それに数も足りない。両親と上に二人ほどいたはずだが、それはどうした?」

老人は何も言わない。必死で首を振りながら、命乞いを繰り返している。
それをどこか冷めた目で見つめながら。少女はそうだな、と優しい笑みを浮かべて、老人へと手を差し出した。
安堵に老人も笑みを浮かべ。

「約束した者。契約者が絶えれば、約束自体もなくなる。それに娘を捧げた際の儀を誤っていたのだから、結末は変わらない。あまり気にする事でもなかったな」

老人の笑みが凍り付く。
差し出された少女の手が、老人の顔を掴み。

またひとつ、部屋に深紅の華が咲いた。



「さて」

静寂が満ちた部屋を出て、少女は先ほど老人が示した蔵へと向かう。
蔵は堅牢な錠で閉じられていたが、少女にとっては意味のないものだ。軽く右手で触れただけで、錠は粉々に砕け地に落ちた。
蔵を開け、中へと足を踏み入れる。灯りはなくとも迷わずにその足は奥へと進み。
片隅に寄り添うように倒れる、二つの小さな影の前で足を止めた。

「ちょうどよかった。全員であったなら、流石に諦めていた所だった」

安堵したように笑い、少女は躊躇せずにその二つの影――二人の子供を抱え上げる。
小さな呻く声と共に、一人の子供の目が虚ろに開く。

「おねえ、ちゃん……?」
「なんだ。起きたのか」

蔵の外へと向かう足を止めず、少女は無感情に呟いた。

「お前らの姉は、俺に捧げられた。だがお前らを対価にした契約を此方で結んでいたようであったからな。たった今終わらせた所だ」
「けい、やく」
「故にお前らも連れて行く。恨むならば、ここの当主を恨む事だ」

呟く声はどこまでも冷たい。
姉の姿をしていても、姉ではないと気づいたのだろう。虚ろな視線がゆるりと閉じられ、消え入りそうな声が誰、とだけ呟いた。

「誰と尋ねておきながら、気を失ったか……まあ、聞こえていないだろうが、折角だ。答えてやろう」

呆れたように息を吐きながら、少女は笑う。

「俺は、お前達が奉っているモノだ。この屋敷の裏の山にある奥宮で奉られている古より存在する、お前らの祖先に術を授けたモノ。その時の契約で、定期的に一族を捧げる代わりに力と守護を与える、いわば神というやつだ」

くすくすと笑い声を上げながら、少女は蔵を出て山奥へと歩いていく。
その足取りは軽く。迷いもなく。

「まあ、今宵で血の濃い者らは絶えてしまったが。仕方がない事だ。約束とは契約と同意。それを違えてしまったのだから」

だからお前らも気をつける事だ。と少女は歌うように囁く。
その声はどこまでも優しく。どこまでも残酷に。
夜の静寂に解けていった。





誰かに揺り起こされている感覚に、沈んでいた意識が浮上する。

「あ、起きた」
「おはよう、お姉ちゃん」

どこか重苦しい頭を抑えながらも、弟妹におはようを返す。意識がはっきりしない。何かを忘れてしまったかのように。
「ご飯、出来てるからね」

きゃあ、と笑いながら駆けていく二人をぼんやり見送りながら、小さく息を吐いて布団から抜け出した。
布団をたたみ、押し入れにしまう。
その動作にどこか違和感を感じて、内心で首を傾げる。
部屋を見渡す。
何も変わらない。いつもの自分の部屋だ。
六畳一間の、自分の部屋。だというのに、畳の部屋という違和感が拭えない。
頭が痛い。何かが違う。何かを忘れているはずなのに、それがどうしても思い出せない。
耐えきれず、膝をつき頭を抑えて目を閉じた。

「どうした?」

聞こえた声に、はっとして目を開ける。
部屋の扉の前で、兄が首を傾げながらこちらを見つめていた。

「――違う」

違和感。首を振り、否定する。
あれは兄などではない。兄は、兄達はあんな男ではなかったはずだ。

「ああ、やはりお前のような気の強い娘には、名付けでもしない限り認識は変えられないか」

肩を竦めながらも、目の前の男は酷く楽しげだ。ゆっくりと歩み寄る姿に恐怖を覚えて、後退る。
だが然程広くない部屋。すぐに背が壁に触れ、逃げる事も出来ずに距離を詰められる。

「こないでっ」
「俺と対峙していた時の威勢の良さは、すっかりなくなってしまったな……うん、そうだな。やはりしばらくは名付けずに、お前の踠く様を楽しもうか」

そう言って、男は膝をつき腕を伸ばす。頬を包まれて、揺れる炎のような深紅の目に、覗き込まれる。
目の中の怯える自分が、男の目の中で解けていく。違和感も恐怖も、何もかもが解けて、境界が曖昧になっていく。

「――ぃや、なんで……」
「たまには意向を変えてみるのも楽しいだろう?なあに、次が捧げられるまでの間だけだ。たったの五十年ほど……ああ、だが。傍流の者らが同じように、俺との契約を望み捧げるとは限らないか。その時は、永遠にこのままごとを楽しもうか」

深紅が揺れる。思い出ごと記憶が書き換えられて、何もかもが変わっていく。
伏せた目から零れ落ちた滴を男に拭われ、違うと呟く声は低い笑い声に掻き消される。
助けて、と声なく願い。けれども何もかもを諦めて、解けた境界に身を委ねた。



「お姉ちゃん、遅いよ」
「もうお腹空いた」

先に食事を取るでもなく、おとなしく待ってくれていた弟妹にごめんね、と笑ってみせる。

「もしかして、泣いていたの?」

席に着けば、隣に座った弟に目が赤い事を指摘される。
やはり目を冷やしておくべきだったかと、笑って誤魔化しながら思う。大丈夫だと伝えても、納得はしてもらえないのだろう。

「少しな、寂しくなってしまったそうだ」

少し遅れて居間に入ってきた兄が、弟の頭を撫でながら教えてしまう。
内緒にしてほしいと頼んだのは、無駄だったようだ。恨めしげに見つめても、兄は笑うだけで堪えた様子はない。
兄の手から抜け出して、弟は側まで来ると小さな腕を広げて抱きついた。同じように近づいてきた妹にも抱きつかれ、ありがとう、と二人の頭を撫でる。
優しい子達だ。姉である自分がしっかりしないといけないのに、これではどちらが年上か分からないではないか。
苦笑しながら二人を撫でていれば、頭に感じる手の感触。視線を向ければ、兄が優しい顔をして頭を撫でていた。

「嘘つき」
「嘘はついていない。俺は了承してはいなかったからな……それに偽りであっても、それが正しいと認識すれば、それが真実になる」
「なにそれ?」
「ここにいる誰もが、その身を脅かされる事も、孤独を感じる事もないって事だ」
「意味が分からない」

兄は笑って首を振る。撫でていた手を離して席に着き、意地悪な顔をして二人に声をかけた。

「皆が揃ったからな。俺は食事にするが……いらないのなら、俺が二人の分ももらうぞ」
「あ、だめっ!」
「おにいちゃん、いじわるだ」

慌てて席に着く二人は、揃って手を合わせ、いただきます、と声を上げる。
今朝も随分と賑やかだ。寂しがっている暇はないだろう。
同じように手を合わせて、食事に手をつける。楽しげに笑う二人の声を聞きながら、いつもと変わらない一日の始まりに一人笑い。
穏やかな日々が、いつまでも続いていく事を願った。



20250527 『これで最後』

5/27/2025, 10:21:26 PM