声が聞こえる。音が響いている。
楽しそうに、悲しそうに。囁く波が、さんざめく風が音を奏でている。
声が聞こえた。寂しげな声。
遠くどこかで、鳴く声が。
――名前を、呼んで。
首を傾げて、声の聞こえる方を見る。
――誰か、私の名前を。
呼べば良いのか。そうしたら、寂しいのはなくなるのだろうか。
その時は、深く考えもせずに。呼ばれぬ事の意味を知りもせずに。
なら呼びに行こう、と。
軽い足取りで、声のする方へと向かっていった。
辿り着いたのは、古びた神社の裏側。
ご神木の根元に、不思議な色合いの大きな鳥が横たわっていた。
声が聞こえる。言葉ではない、目の前の鳥の思いが聞こえている。
そっと近づけば、鳥の閉じていた瞼が開き、金に煌めく目が鋭くわたしを睨み付けた。
「近づくな。去れ」
――呼んで。名前を呼んで。
冷たい声と、寂しい声。
正反対の声が、立ち尽くすわたしの鼓膜を揺する。
「あなたはだあれ?」
問いかければ、鳥はくつり、と喉を鳴らして嗤った。
「知らぬのか。私の名は禁忌だ」
「きんき?」
その意味を、まだ幼かったわたしは知らなかった。
けれど知っていたとしても、何も変わらなかったのだろう。ずっと声が聞こえていたのだから。寂しい声が、呼んでと泣いていたのだから。
――私を呼んで。私は――。
一歩足を踏み出した。鳥の目がさらにきつく鋭くなり、威嚇するように高く鳴く。けれど怖いとは不思議と感じなかった。
手を差し出す。もう寂しくはないのだと、伝えるように嗤って。
「――」
ずっと聞こえている、ひとつの名前を口にした。
ざわりと風が渦を巻く。雲を呼び、陽を覆い隠していく。
驚きに見開く鳥の金の目が、ゆらりと揺らぐ。鋭さは消えて、残るのは何故か悲しみだった。
首を傾げた。呼んでほしいと言われたから呼んだのに、嬉しくはないのだろうか。
取られる事のなかった手に滴が落ちる。見上げる空は、厚い雲に覆われて、細かな雨が降り始めていた。
見上げている間にも、雨は勢いを増していく。慌てて雨を避けようと社へ駆け出そうとした体は、けれど何かに留められ視界が塞がれた。
「愚かな子だ……可哀想に」
頭上から聞こえる声は、鳥のものだ。
そっと手を伸ばし、体を包む何かに触れる。温かな、それでいて冷たい、なめらかで柔らかな、不思議な感触。それが鳥の羽だと気づいて、目を瞬いた。
「遍く声を聴く事の出来る希有な子。神の愛し子……本当に可哀想に」
囁く声は、どこまでも悲しい。
「呼んだから、悲しくなってしまったの?」
問いかければ、息を呑む音がした。
さらに体を翼で包まれて、いいやと小さく呟かれる。
「呼んでくれて、とても嬉しい」
泣きそうな、悲しい声。
その中に、隠し切れない喜びが混じっているのが聞こえて、それだけで嬉しくなる。
「よかった」
包まれる暖かさに、段々と眠くなる。
ざあざあと聞こえる雨の音も眠気を誘い、ふふ、と笑いながら目を閉じた。
先の事など、何も考えず。禁忌を破った事の、罪の大きさも知りもせず。
優しい温もりに包まれて、最後の穏やかな日は眠りと共に消えていった。
雨の音が聞こえていた。
「起きたのか。まだ眠っているといい」
優しい声が降り注ぐ。
目を開けても変わらない暗闇。痛みのないこの場所は、鳥の翼の中だろう。
「本当に人間とは愚かな生き物だ。最初に私を呼んで縋り、奉ったのは人間だろうに。それを忘れて災厄の根源と定め、私の名を封じて。剰え私と繋がっただけの、同じ人間であるあなたを躊躇いもなく傷つけるのだから」
呆れたような、怒っているような。冷たい声が吐き捨てる。
ごめんね、と答えようとして、遠い昔に潰された喉が、ひゅうとか細く音を鳴らした。
あの日。鳥の名前を呼んだ日から、わたしの世界は一変した。
優しさはすべて失われ、代わりに与えられたのは怒りと、憎しみを含んだ、罵倒と暴力だった。
村の人も家族ですらもわたしの名前を呼ばなくなり、食事も与えられず。傷だらけで動けなくなれば、容赦なく山奥へと棄てた。鳥がいなければ、今まで生きてはいられなかっただろう。
不意に、雨音に混じり人の声が聞こえた。思わず身を竦めれば、宥めるように鳥の羽が包み込んでくれる。
「案ずる必要はない。人間が私の元まで辿り着く事は不可能だ。直に諦めるだろう」
静かな声音。
大丈夫と羽が頬に触れ、強張る体から次第に力が抜けていく。
声はまだ聞こえている。誰かの名前を呼んでいる。
けれど鳥の言うとおり、声が近くなる事はなかった。
遠ざかる声に安堵の息を吐く。力なく羽に凭れると、鳥は微かに身じろいで小さく鳴き声を上げた。
何かを考えているのだろう。ここ数日、悩んでいるようだったから。
何に悩んでいるのか。尋ねたくとも、もう声は出ない。あの日以来名前を呼ぶ事も出来ない。守られてばかりで、歯がゆさばかりが募っていく。
そっと羽に触れる。ここにいるのだと、ひとりではないのだと、せめて伝えたかった。
「――頼みがある」
どこか思い詰めたような声に顔を上げる。翼の中では何も見えないけれど、それでも目を凝らして鳥の姿を探す。
いいよ、と声なく伝えれば、ややあって鳥は一度だけ低く鳴いた。
「名前を、呼んでほしい」
びくり、と肩が震える。
それは、それだけは叶えられない事だ。声を失ったわたしには、出来るはずがない。
それを分かっているはずなのに、鳥は呼んでと繰り返す。
「おいで。私の側で、もう一度名前を呼んで」
ゆっくりと閉じていた翼が開いていく。
光が溢れだし、その代わりに忘れかけていた体の痛みが戻ってくる。
ふらつく足に力を入れながら、鳥を見上げた。金に揺らめいた、悲しい目。痛みに顔を顰めながら、手を伸ばしてその首元に縋り付いた。
鳥の喉に唇を寄せる。
届けばいいと、強く願いながら口を開き。
言葉を、紡ぐ。
「――飛雨」
ざわり、とあの日のように、風が渦を巻く。
雨が勢いを増し、容赦なく体を打ちつける。
しがみついていた腕の力が尽きて、体が崩れ落ちていく。けれどもその前に鳥の翼に支えられ、俯く顔を上げられて目を覗き込まれた。
近い金の目には、悲しみの色はない。強い意志を湛えて煌めき、虚ろなわたしを写している。
甘えるような鳴き声。優しく目が細められて、ひとつの言葉がわたしの鼓膜を揺する。
「――絲雨」
名前。
それがわたしの名前だと、鳥の目が告げている。
棄てられた時に名前もなくしたわたし。そんな名無しに新しく鳥が名付けたのだと、ようやく気づく。
気づいて、認識して。その瞬間に、体の内側から痛みとは違う熱さを感じた。どろどろと、何もかもが溶けてしまいそうな程の熱。耐えきれずに目を閉じると、体を支えていた翼がわたしを強く包み込んだ。
包まれ、覆われ。抱かれながら、境界が曖昧になっていくのを感じる。わたしの体と鳥の体が溶け合って、ひとつになっていく感覚に、声の出せぬ喉で叫びを上げた。
ひょう、と空気の漏れる音。それは何故だか、鳥の鳴き声のように聞こえたのを最後に。
何もかもが、真っ暗に染まっていった。
ざあざあと、雨の降る音。
ごうごうと、水の流れる音。
鳥の鳴く声が聞こえて目を開けた。
「起きたか。ならば行こうか」
どこへ、と首を傾げ。
まだ微睡む意識で、何気なく眼下を見下ろした。
「――ぁ」
一瞬で意識が覚醒する。
思わず下りようとした体は、鳥の翼に押し留められた。
「無駄だ。今から向かったとて、間に合わない」
「でもっ。でも、皆」
冷たい声に言い返して。声が出た事に驚き、喉に手を触れた。
触れようとした。
「つ、ばさ……?」
目に映るものを見て、呆然と呟く。
人の手はなく、代わりに真白の翼がそこにはあった。
戸惑い鳥を見上げる。静かにわたしを見下ろす金はひとつ。そしてわたしを何度も包んでくれたはずの翼もひとつだけになっていた。
どうして、と小さく呟けば、金は優しく細められ、甘い鳴き声が上がる。
「あなたは私の名前を呼んだ。そして私はあなたに名前を与えた……契約は正しく成され、あなたと私は同じになった」
「契約……同じ……?」
「これであなたの翼と私の翼で、どこまでも自由に飛んでいける」
意味が分からない。ゆるゆると首を振って視線を逸らす。
逸らした視線の先で、小さな村が水に沈み、土に埋まっていく。家や人が大量の水に押し流され、山からの土砂で跡形もなく埋められていく。
「なんで、こんな……こんな事、今まで……」
「今までは私が形だけでも奉られ、封じられていたから守られていただけの事。こうして自由になった今、あなた以外を守る必要はないだろう……最後に気づいた所で意味はない。結末は最初から決まっていたのだから」
当然のように鳥は告げ、わたしの体を引き寄せる。覗き込むひとつの金が、鳥とは対の金の目をしたわたしを写して擦り寄った。
「私はあなたのモノ。そしてあなたは私のもの。他の誰かはもう必要ない。名を呼ばれぬ悲しみも、寂しさも。互いがいれば感じない」
触れ合う温もりは、変わらず優しい。それなのに、地上で今も失われていく命には、無慈悲で残酷だ。
その差が哀しくて、とても苦しくて。零れ落ちた涙を、鳥は首を傾げて眺め、ひとつしかない翼を広げた。
「絲雨」
名前を呼ばれて体が跳ねる。
周りの音が消えて、鳥の声しか聞こえなくなる。眼下の惨状など気にもならず、記憶から抜け落ちていく。
鳥はわたしのモノ。そしてわたしは鳥のものなのだから、それ以外はすべてが些細な事だ。必要のないものは忘れて、捨て去ってしまえばいい。
「そろそろ行こうか」
囁く声に頷いた。鳥と同じようにひとつだけの翼を広げ、寄り添った。
風を起こし、空を飛ぶ。体を打つ雨など、気にもならない。
どこまでも高く、どこまでも遠く。
この日。鳥の名前を呼んだ日。
わたしは人ではなくなった。
ひとつの翼とひとつの目。独りでは飛ぶ事の出来ない、不完全な存在。
わたしと鳥と、番う事で初めて飛べる。
大切な半身。わたしにとっての唯一。
「私はあなたのモノ。そしてあなたは私のもの」
楽しそうに鳥は囀る。
その声に合わせて、甘えたように鳴き声を上げた。
20250526『君の名前を呼んだ日』
5/27/2025, 6:31:53 AM