sairo

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胎児のように、体を丸めて眠る小さな子の頭を撫でる。
ある日突然、空から降ってきた子。
体は傷だらけで、歩く事すら覚束ない。
姉はこの子を、翼を奪われた天使と呼んだ。
背中の傷。一番大きな焼け爛れたようにも見える傷が、まるで翼を捥がれた痕のようだと言っていた。
眠る子の背を見る。確かにそうは見えていたが、痕は一つだけだ。
捥がれたのだとしたら、片側だけ。もう片方は元よりなかった事になる。
それを伝えると、姉は楽しそうに片翼の天使だと笑っていた。

――きっとこの子には、私たちのように二人でひとつの存在がいるのよ。

姉の言葉を思い出す。
ならばこの子は、いずれ自分達の元を離れて旅に出るのだろうか。傷だらけの小さな体で、たった一人きりで。

――天使が旅立てるようになるまで、私たちがしっかりと守ってあげないとね。

優しく笑う姉に、頷きながらも感じたあの心の重さは、その責任感からくるものからだったのだろうか。



小さな呻き声に、はっとして子供に視線を向けた。
僅かに顰められた眉。傷が痛むのだろうか。
それとも悪い夢にうなされているのだろうか。
そっと額に触れる。数刻前よりも熱さを感じ、傍らに置いておいた手桶を引き寄せた。
手桶に張った水に手ぬぐいを浸し、絞る。それを子供の額に乗せれば、顰められた眉が幾分か和らいだような気がした。

「大丈夫」

頭を撫でながら、繰り返す。
半ば、自分に言い聞かせるかのように。
これからは、自分がこの子を守らなければならないのだ。姉はもういないのだから。
子供の頭を撫でながら、小さな木箱に視線を向ける。
中には、砕けてしまった茶碗が一口。姉だったもの。
この子のために食べ物を探しに出た先で、悪戯な鴉に攫われて、そのまま落とされ割れてしまった。
姉はいない。これからどうすればいいのか、何も分からない。まるで自分を使っていた男のようだと、思わず笑った。
妻に先立たれた男。無気力で明日を厭い、結局は一年と保たず、妻の後を追うように儚くなってしまった。
ならば自分もそうなるのだろうか。妻が使用していた茶碗《姉》が割れて一年せずに、自分も同じように割れるのか。
想像して馬鹿な事だと笑う。この子を置いて消える訳にはいかない。

「……まって」

小さな声に、視線を子供へと戻す。
浅い呼吸。汗ばんで赤い肌。だというのに、その体はかたかたと細かく震えている。
きっとこれからさらに熱が上がるのだろう。額に乗せた手ぬぐいを取り、汗を拭って手桶の水に浸す。
この子が苦しんでいるというのに、自分はこうして汗を拭い手ぬぐいを変える事くらいしか出来ない。
姉ならば、どうするだろうか。考えて、首を振る。
姉はいないのだ。いつまでも影を追っていては、本当に男と同じになってしまう。
自分の出来ることを、と考え、悩んで。

「大丈夫」

子供の側に寄り添い、同じように横になる。小さな体を、その傷ごとそっと包み込んで。

「大丈夫。側にいるから」

眠る子供に囁く。
いっそこの体の熱が、傷ごと自分に移ってしまえばいいと願いながら。
寄り添い言葉をかけるしか出来ない事が、悲しかった。


「泣かないで」

囁く声。いつの間にか目を覚ましていた子供が、身じろぎ寝返りを打ってこちらを見つめた。
澄んだ目はすべてを見透かしているようで、落ち着かない。けれど同時に縋ってしまいたくなる力強さがあって、視線を彷徨わせながら、腕を離す事が出来ずにいた。

「泣かないで」

繰り返して、手を伸ばした子供に頬を包まれる。暖かな温もり。目元を拭われて、泣いていたのかと他人事のように思った。

「ごめんなさい」

何故謝るのだろう。この子が謝らなければならない事は、何一つないだろうに。
謝るなと伝えるために口を開き、だが言葉はすべて嗚咽に変わる。何も言えずに、只管に首を振って、謝らないでほしいと伝えた。

「ここにいるから。ちゃんとここに」

静かな囁きが、痛む心に染み込んでいく。
触れる温もりが、冷えた感情に火を灯していく。
あぁ、そうか。声に出さずに呟いた。

姉が――ただの無機物だった頃から共にいた半身がいなくなって、自分は寂しかったのか。

ふと、男の姿が過ぎる。一人になった男の行動の意味をようやく知った。
一人になっても、自分と姉を並べて戸棚にしまっていた理由。
食事の際に、姉も出された理由。そしてそれに話しかけていた理由。

自分はどこまでも持ち主に似てしまったらしい。
なんだか可笑しくて、泣きながらも笑う。笑って、目の前の優しい天使をそっと抱きしめた。

「ありがとう」

いずれこの子は旅に出る。
その時に、自分はまた寂しさを感じるのだろう。
それでも。

――天使が旅立てるようになるまで、私たちがしっかりと守ってあげないとね。

自分には、こうしてそっと包み込む事くらいしか出来ないけれど。

「大丈夫。ぼくが守るから」

誓う言葉を口にする。
その言葉に、天使はふわりと微笑んで。

「ん。ありがと」

頬を包んでいた手を伸ばし、包み込むように頭を抱かれた。
鼓動が聞こえる。穏やかな熱に、ほぅと吐息が溢れる。

「一緒に、いよう?」

願う言葉に頷いた。
いつまで、とは聞かず。ずっと、とも返さない。
その期限は、最初から分かっている。

この果てしない空に、天使が飛び立つ日まで、だ。


20250523 『そっと包み込んで』

5/24/2025, 6:02:25 AM