sairo

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通り雨に降られ、近くのバス停に駆け込んだ。
大分暖かくなってきたとはいえ、雨に濡れたままでは風邪を引く。早く上がらないものかと、溜息を吐きながらハンカチで体を拭いていれば、不意に誰かが駆け込んでくる音がした。
同じように通り雨に降られてしまったのだろう。知り合いだろうかと顔を上げれば、雨に濡れながらも楽しげに笑う青年と目が合った。

「よっ。災難だったな」
「あぁ。まあ」

友人ではない、知らない誰か。妙に馴れ馴れしい態度に一瞬だけ不快に眉を潜めるが、それはすぐに訝しげなものへと変わる。
子供のように晴れやかな笑顔を、昔見た事があった気がした。

「なぁ、あんた名前は?」
「さて、誰でしょう?」

意地悪に笑いながらはぐらかされる。だが不思議と不快には感じない。代わりに奇妙な懐かしさが胸を締め付け、濡れた髪を拭く振りをして俯いた。
雨が屋根を叩く。久しぶりに意識して聞いた心地の良い音に、青年の柔らかな声が混じっていく。

「そういやさ、知ってっか?隣町の学校でさ……」

楽しげに青年は話し出す。
懐かしい笑顔で、懐かしい声音で。
いつどこで出会ったのか。名前は。どこに住んでいるのか。
何一つ分からない。分からないのに、懐かしさだけが心を満たす。
満たされた心は、沸き上がる疑問を軽視して、ただ純粋に青年との会話を楽しんだ。

とある学校で起きた怪談話。
どこかの山奥で暮らす狸と狐の争いの話。
近所の田んぼで起きた幽霊騒動。
怖い話から笑える話まで。下らない話をしては、馬鹿みたいに大笑いをした。
雨の音がする。笑いながらもその優しい音に、目を細めて聞き入った。



「――おっと。そろそろ時間切れだ」
「何が?」
「雨が上がったって事」

そう言って青年は空を指差した。
いつの間にか雨が上がり、見上げる雲間から一筋の光が差し込んでいた。

ふと、この光景を誰かと見た記憶が脳裏を過ぎていく。
隣の青年に視線を向ける。笑いながらもどこか寂しげな表情が、いつかの少年の姿に重なった。

「――ぁ」
「ようやく気づいたか」

にやり、と青年は笑う。その姿が、じわりと滲んでいく。

「相変わらず、泣き虫なのな」
「うっせ。最近出てこなかったくせに、何言ってんだ」

俯きながら、悪態をつく。それに吹き出して笑いながらも、優しく頭を撫でてくれる所は、幼い頃から何一つ変わらない。

「なんで、来なくなったんだよ」

幼い頃。雨の日だけ遊んでくれる特別な友人がいた。
名前は知らない。尋ねた事もない。
雨が降るといつの間にか現れて、一緒に遊んでくれた友人。何でも知っていて、些細な事で大笑いして。
ひねくれた可愛げのない自分に寄り添ってくれた、大切な友人だった。
いつの頃からか、雨の日に現れなくなり。
日常の忙しさに、いつしか友人の事は記憶の片隅に追いやってしまっていた。

「ずっと、待ってたのに」

雨が降る度に、友人の姿を探した。
忘れたと嘯きながらも、一人の夜を泣いて過ごした。
恨み言のように呟けば、頭を撫でる手がいっそう優しくなった。

「心に余裕がなかったからな」
「なんだよ。それ」
「あの頃、いろいろあっただろ?」

そう言えば、と思い出す。
友人が訪れなくなった頃は、生きる事に必死だった。
仕事で滅多に帰ってこない父。
自分を置いて出て行った母。
誰かに相談する事など頭にはなく、ただ必死に生きていた。父方の祖父母に連絡が行ったのは、一月以上が経った後の事だ。

「あの頃はよく頑張ったよ。偉かったな」

頭を撫でていた片手が両手になる。涙越しに見える青年――友人の姿が先ほどよりも薄くなっているのは、きっと気のせいではないのだろう。
雨は上がってしまったのだから。

「見てきたように言うな」
「ずっと見てきたさ。これでもすっごく悩んだんだぜ?もういっそ隠しちゃおうかなって、そう考えるくらいには悩んだんだ」

そうならなくてよかったよ、と友人は言う。それをどこか残念に思う気持ちを見ない振りして、馬鹿とだけ返した。

「まあなんだ。まだいろいろあるだろうけどさ。たまには、こうして雨宿りするように、無為な時間を過ごしてみろよ。ちょっとくらい嫌な事全部忘れてさ。くだらない話をして、馬鹿みたいに笑おうぜ」
「うっせ。馬鹿」

消えていく友人をこれ以上見ていられずに、目を閉じる。
頭を撫でる手の温もりが感じられなくなっていくのに、泣き叫んで縋ってしまいたいのを、必死の思いで耐えた。

「今まで見てきたから知ってる。じいちゃんやばあちゃん。何だったら親父も皆、お前に叔父さんを重ねて見てるって事。次の雨の日には全部聞いてやるから」

囁く声に、思わず肩が震えた。
どうして、と声を上げる代わりに、耐えきれなかった嗚咽が漏れる。

「ちゃんと見てるから。どうしても耐えきれなくなったら、今度こそ隠してやる。だからもう少し頑張ろうな」

熱のない友人の指が涙を拭う。
恐る恐る目を開けて、僅かに輪郭が残るのみとなった友人に手を伸ばした。

「約束、だぞ」
「あぁ、約束だ……心配すんな。もうちょっとしたら梅雨だろ?毎日のように会えるさ」

伸ばした手に――小指に小指を絡め、指切りをする。
それを最後に友人の姿は消えて、後には小さな水たまりが残るのみ。

「約束、だからな」

見えなくなった友人に呟いて、乱暴に涙を拭う。
見上げる空には大きな虹。見えなくなっただけで側にいるらしい友人も同じものを見ているのだろうか。

歩き出す。家へを向かい、ゆっくりと。
自分を見つめる祖父母の目には慣れない。何かと干渉してくる事に、息苦しさしか感じられない。
それでも、約束をしたから。約束がある限りは、きっと頑張れるはずだ。

立ち止まらずに歩いていく。
優しい雨音を思い描きながら。



20250525 『やさしい雨音』

5/25/2025, 2:06:09 PM