sairo

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どこからか聞こえる子供達の歌声に、男は微睡む意識を浮かばせた。
緩慢な動作で、窓へと視線を向ける。目を細め、遠い過去の記憶を手繰り、だが求めるものは欠片も見つからなかったのだろう。ゆるゆると目を伏せて窓から視線を逸らし、そのまま目を閉じた。

外ではまだ、歌声が響いている。来月に行われる、祭の練習をしているのだろう。
身体健全を願い、社の前で歌われる歌。形だけをなぞった、中身のない祭事。
唯一残ったものを失わないため、留めて置くために始めた事を覚えている者は、過ぎゆく時が皆連れて行ってしまった。おそらく、男が最後なのだろう。
かつて、この村には神子がいた。誰の記憶からも忘れられ、認識されなくなった、祈りの歌を紡ぐ子が。
確かに、この村にいたはずだった。

男の記憶からも失われた誰か。失った痛みと歌だけを残して、それ以外はすべてが消えてしまった。
その痛みを抱き、歌を拠り所として男は生きてきた。泣きながらも生きて大人になり、結婚し、子をもうけた。その子らも大人になり、今では男は祖父となった。
男は生きた。声も姿も思い出せない誰かと、再び出会える事を夢見て、生き続けた。
だがそれも、終わりが近いのだろう。

微睡み始めた男の唇が、ひとつの言葉を求めて震えた。見つける事は出来ぬと知りながら、それでも求めずにはいられない、ただ一人の名前。
大切で、愛おしい。誰よりも優しかった、あの子の。
やがて諦めてしまったのか、男は静かに口を閉ざし。代わりに紡がれたのは、一つの旋律。
男に残された、ただ一つの繋がり。
次第にそれも、男の意識が深く沈んでいくにつれてか細くなり、ついには途絶えていく。
男の夢が叶う事はないのだろう。
一筋零れ落ちた涙が、窓の外から降り注ぐ陽の光を反射して、鈍く煌めいた。





当てもなく歩きながら、影は一人歌を歌う。
今では誰にも届かない、誰かのための歌。祝福の歌であり、呪われた歌。
笑いながら、泣きながら歌う影には、人であった頃の記憶はない。己の名前も姿も、何もかもをなくしてしまった。
残されたのは、誰かのために祈り、歌う事だけだ。

昔、影は小さな子供だった。歌う事が好きな、どこにでもいるような子供。
それがいつしか変わり始め、ただの子供は神子へと成ってしまった。
その始まりは、純粋な思いだった。
重い病に伏せた、大切な友人の回復を願い歌った歌。旋律はそよ風のように友人を包み込み、内側から滲み出した黒いものを絡め取って去って行く。その後目覚めた友人を、大人達は奇跡だと涙を流し喜んだ。
その時はまだ、影は子供のままでいられた。それが狂いだしたのは、家族が怪我を負ってからだ。
酷い怪我だった。このまま目覚めないと医者から告げられ、影は家族と共にとても悲しんだ。悲しくて、友人のような奇跡が欲しくて、回復を願い歌った。
その旋律はやはり涼風のように家族を包み、怪我のひとつひとつを癒やしていった。すべてを癒やした旋律が去った後、目覚めた家族を大人達は奇跡と呼び、影の歌を祝福の歌と呼んだ。
噂は村中を駆け巡り、奇跡を求める村人が家へと押しかけた。
求められる度に、影は歌った。奇跡の代償など誰一人、影自身すらも気づかずに歌い続けた。求められる事が、喜ばれる事が嬉しいと、無邪気に影は笑っていた。
気づいた時には、すでに手遅れ。名前を失って、影は子供から影になった。
残された僅かを掬い上げ、失ったものを取り戻そうと足掻いたが、結局は何一つ戻らない。悲嘆に暮れる家族や村人達の横で、影だけは無邪気に歌っていた。

不意に、風が遠くの歌声を影へと運ぶ。
家族や村人が、影を取り戻すために作り上げた祭が始まったのだろう。
影の足が、自然と歌声の方へと向かう。同じように歌いながら。
影には、歌以外に残るものは何もない。過ごした村の思い出も、家族や友人の顔も、すべてが零れ落ちてしまった。
ただ一つ残された歌を歌う。歌いながら、聞こえる同じ歌を求めて歩き出す。
その姿は、どこか親の声を求めて彷徨う、飛べない雛鳥のようにも見えた。





「オブリガーダ ペロ ミラグレ、オブリガーダ ペロ マール……」

子供達の歌声が響く。言葉の意味も知らず、楽しげに。
それを男は、静かに見つめていた。
誰も男を気に留める事はない。男もまた子供達を見つめながらも、心は遠い過去を彷徨っていた。

「ノイテ プロフンダ、レバ メウ……」

歌声が響く。昔、海の向こうからこの村に辿り着いた異国の者が歌った歌が、音の響きだけを残して村に広がっていく。

「Guia a alma perdida, E nunca deixa voltar.」

旋律に合わせて、男の唇からも歌が零れ落ちる。
紡がれた音の響きに、はっとする。震える指で唇に触れ、泣くように顔を歪めた。
男の時が止まり、終を迎えた後になって、ようやく気づけた事。
この歌は祝福の歌ではない。
これは鎮魂の曲だ。本来ならば、死者を送るための歌なのだ。

「迷い子の魂を導き……二度と還らせない」

気づいて、男は笑った。笑いながら泣いて、失った誰かを想い叫ぶように歌う。

「Obrigada pelo milagre,」
「obrigada pelo mar,」

男の歌に続くように誰かの歌が聞こえた。
音だけをなぞった歌ではない。それはどこか懐かしく、愛おしく。男の内へと染みこんでいく。
歌のした方へと視線を向けれど、そこには誰もいない。ただ誰かが置き忘れてしまったかのような、小さな影があるのみだ。

「Obrigada pelo milagre,……」

影が歌う。無邪気に、言葉の意味とは正反対の願いを込めて。

「――っ、もういい」
「obrigada pelo mar,」
「もう止めてくれ。お願いだ」

ふらつきながらも影に駆け寄る。膝をつき、祈るようにその手を取った。

「この歌は違うんだ。祝福なんかじゃない。送りの歌なんだ。だから」
「奇跡をありがとう。海に感謝」

歌の合間に、影が囁く。意味を知って歌っていると言いたげに。
それに男は首を振る。最初の意味だけを覚えて、続く言葉の意味を覚えず歌ってきたのだろう。
首を傾げて、それでも影は歌い続ける。

「Noite profunda, leva meu amor ao mar,」
「夜の深みよ、我が愛を海へ連れてゆけ」

影の歌に被せるように、男はその言葉の意味を紡いでいく。
歌が止まる。
戸惑うように、影は男を見上げ。それに男は悲しく笑い、続きを紡いでいく。

「Onde o sol não nasce mais, Guia a alma perdida, E nunca deixa voltar.……太陽が昇らぬ遠い場所へ、迷い子の魂を導き、二度と還らせない、だ」

それは異国の者が、嵐の海から生還した事への感謝と、海に沈んでいった仲間達への鎮魂の歌。
正しく意味を理解して、影が僅かに輪郭を取り戻す。

「還ろうか、一緒に」

男の願う言葉に影は暫し沈黙し、だがはっきりと頷いた。

「いっしょに……かえる」

小さな声に男は泣きながらも微笑んで、その体を強く抱きしめた。
男の時が反転していく。老人から青年に、青年から少年へと、時計の針を巻き戻す。
そうしてあの日の、病に伏して終を待っていたはずの少年は、死の淵から引き戻した影の手を引き歩き出す。

行く先で二人を待つのは、穏やかに微笑みを浮かべる男女と、泣き腫らして赤くなった目をした少女。その頭を撫でる青年は、笑いながら二人を手招いた。
近づく二人に少女は抱きつき、青年もまた少女ごと二人を抱きしめる。そして見守る男女に促され、全員で歩き出した。
向かう先は海に浮かぶ大きな船。かつて異国の者が流れ着き、歌を捧げ続けた青い海に向かい歩き続ける。
浜辺では、多くの人々が待っていた。誰もがかつて影に祝福を受けた村人だった。
彼らに頭を撫でられ、抱きしめられ。そして促されて、影は皆と共に船に乗り込んだ。不安からなのか、少年と繋いだ手に僅かに力が込められて、少年は安心させるように微笑んで見せた。

「大丈夫。皆で還ろう」

全員が乗り込んだ船は、静かに沖へと進んでいく。
遠く村から響く歌声を聞きながら、誰もが穏やかに微笑んで。


船は進む。
常世《とこよ》を目指し、戻る事はなく。

船は海の底へ、音もなく進んでいく。



20250524 『歌』

5/25/2025, 7:56:56 AM