前触れもなく現れた男は、腕にかつて己が求められ作った人形を抱えていた。
少年の人形。数年前に、とある少女が依代として買い求めたものだった。
己の作る人形は、依代として求められる事も多い。命ある人形を求めて作り上げているのだ。人と寸分変わりない人形は、とても扱いやすいのだろう。
「これの使用者を探している」
男はそう言って、買い手の居所を求めた。
確かに作り手である己は、人形を通して様々なものを視る事が出来る。痕跡から、使用者の位置を特定する事すら出来るが、この人形からは何もみえない。
その原因を探り、人形に触れる。随分と丁寧に扱われていたようで、目立つ傷は見られない。良き相手に貰われたと密かに喜んでいれば、探る指先が人形の左薬指に嵌まる、銀製の指輪に触れた。
見慣れぬ指輪。僅かに術の痕跡を認め、目を凝らす。
「その指輪は、人形と共にここで作られたのか」
「いいえ。違います。異国のもののようですので、この子を依代としていた方に近しい者が与えたのではないでしょうか」
詳しくは見えてこないが、どうやら守護の術のようだ。
人形を守っているようで、その実、依代の本体を守っている。
おそらくは、この目の前にいる男から。
「この子を依代としていた者の現在の位置の特定は困難です。残念ですが、お引き取りを」
「ならば、これの中に使用者を入れる事は可能か」
何を言っているのだろう。この男は。
僅かに眉を寄せながら、男を見る。
感情の浮かばない眼や表情からは、男が何を考えているかは分からない。見えない意図に困惑しながらも、静かに首を振り、男の問いを否定した。
「痕跡が見受けられませんので、それも出来ません」
「そうか。邪魔をした」
そう言って、男は人形を抱き上げる。
そうして去って行く男の背に、思わず疑問を投げつけた。
「何故、その子の買い手を求める?」
男は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
相変わらず感情の読めない眼をして、静かに口を開いた。
「兄とは、妹を守るべきだからだ」
当然だと言わんばかりの、迷いのない声音だった。
目を瞬く。少し遅れてその意味を理解し、その不快さに内心で舌打ちする。
思い浮かぶのは、買い求めた時の少女の様子だ。
小さな背。痩せて骨と皮ばかりの体。色素を失った髪は白く、肩辺りでざんばらに切られている。
まともに栄養が取れていないのだろう。何も知らずに守ると言う男の傲慢さに、怒りを通り越し呆れすら浮かぶ。
あぁ、と納得した。
決して安くはない、しかも自身の性別とは真逆の少年の人形を、依代として買い求めた理由。指輪が守るもの。
少女は、男の歪な執着から逃げているのだ。
「あんたの言う、妹を守るとはどういう意味だ?」
問いかける。守ろうとして逃げられるなど、滑稽でしかない。
しかし、男はその問いの意味を理解しきれないのか、暫し沈黙し人形に視線を落とした。
その眼に初めて、微かではあるが感情が浮かぶ。困惑と不安だろうか。まるで迷子になった幼い子供のような色に、おや、と疑問が込み上げる。
「何故、守ろうと思った?その切っ掛けは何だ?」
重ねて問えば、男の視線は人形からこちらへと移る。その眼には困惑はなくなったが、僅かに残る不安はそのままだ。
「……ある兄妹に出会った。その兄が言っていた。兄とは妹を守るものなのだと。一族にとっての利用価値の有無ではなく、妹という人としての存在を慈しみ、守っていた」
「それで、羨ましくなったという訳か」
嘆息し呟けば、男は目を瞬き首を傾げる。
随分と幼い仕草だ。切っ掛けの事といい、この男の精神は物事を覚え始めの子供のように思える。
事実、そうなのかもしれない。妹を利用価値として見ていたのであれば、当然男も利用価値の有無を問われているはずだ。能力の優劣は当然として、そこに一族の従順さが求められたとしたら。そして成長の過程で、いくつもの出会いを通して自身の意思が育まれていたとしたら。
はぁ、と耐えきれず溜息が零れ落ちる。
まったく、術師というのはどんな一族であっても厄介だ。
「――一つ教えておいてやる。その指輪がある限り、買い手の痕跡は隠されたままだろう。詳細までは見えないが、守護の指輪だ――そしてそれは、指輪を嵌めた者にしか外す事は出来ない代物だ」
男は何も言わない。
ただ静かに、続く言葉を待っている。
「指輪の効力を失わせたいのなら、指ごと切り落とせばいい。だが確実ではないだろうし、依代の傷は術師へと反映される。つまり、だ」
男の目を見据え、告げる。
「どうしても、妹を守るために手元に置いておきたいのなら、守るべき者の身を損ねる覚悟をするんだな。守ると言いながらも傷をつけるその矛盾を、あんたがどう捉えるかは知らないが」
「どうしても……?」
ぽつり、と小さな呟き。
人形へと視線を向け、指に嵌まる鈍い銀色の煌めきに、男は表情を崩していく。
それは帰り道を失って、途方に暮れる子供のそれによく似ていた。
「約束は……いや、それも結局は……あぁ、だがそれでも」
哀しく、泣きそうな笑みを浮かべ。
男はこちらに一礼すると、静かに工房を出て行った。
「Poor man, don't you think?可哀想な人ね。ようやく持てた意思を、こんな形で否定されるなんて」
いつの間に来ていたのか。
部屋の片隅の机で優雅にティータイムを楽しむ彼女を一瞥し、疲れたように深く息を吐く。
レイスと呼ばれる、生霊に近い存在の、異国から訪れた術師。
己の作った人形を新たな器として得たというのに、今もこうしてこの工房に留まっているのは何故なのか。
「いつの間に戻ってきたんだか……運命の人とやらはどうしたんだ?」
半眼で見つめ、そう問いかければ、途端に彼女の頬は赤く染まり、恥ずかしげに俯いた。
どうやら、今日も声をかけられなかったようだ。
「いい加減、ここを宿にするのは止めてくれ。どうしてもというから、仕方なく貸しているんだと忘れるな」
「I can't help it, you know.だって、仕方ないじゃない。どうしても声をかける勇気が出ないんですもの」
スカートを握り締め、彼女はだって、だってと言い訳を重ねる。
ここ最近の見慣れた光景に、これ以上は何を言っても無駄だと諦め、工房の片付けに取りかかる事にした。
道具をしまいながら、ふと先ほどの男の行く先を思う。
あの様子では、傷をつけてまで妹を手元に置く事はないだろう。だが人形を手放す事も、あのままの状態では出来ない。意思を持ち始めたばかりの子供が、縋るものを手放して一人で生きていけるはずはない。
「You should probably just let him go.忘れてしまいなさい。どうしても手放さなければいけない時がこない限り、彼はずっとあのままよ」
「どうしても、か」
彼女の言葉に苦笑する。
もしもそのどうしてもが来たとしたら、あの男は一体どんな選択をするのだろうか。
それまでには、子供から大人になれているのだろうか。
「考えても仕方がないな」
緩く頭を振り、止まっていた手を動かす。
どんな事情があれど、すべては男の問題だ。外部が口を出す事でも、況してや面白おかしく詮索するべきでもない。
忘れようと意識を切り替え。
だが、ひとつ気になる事があり、彼女へと視線を向けた。
「あの指輪について、あんたはどう思う?」
問われて、彼女は眼を瞬き。ついと、視線を宙に彷徨わせながら僅かに顔を顰めた。
「That was more of an obsession than a protection.あれこそ、どうしても手放したくないという象徴ね。守るよりも、誰にも渡したくない。まるで蛇のような執念深さを感じるわ。守るために作られたはずのものなのに、作り手の強い想いに染められて。結果、執着の呪物と言えるものが出来上がっているのだから、皮肉なものね」
可哀想に、と呟く彼女に、確かにな、と同意する。
誰が、ではなく、誰もが救いようがない。
頭を振る。嫌な事は忘れてしまうべきだ。
そう自身に言い聞かせ、普段よりも丁寧に工房内を片付け始めた。
20250519 『どうしても…』
「まって」
呼び止める声が聞こえた気がして、振り返る。
誰もいない。呼び止める誰かの人影は、どこにも見えなかった。
気のせいだろうか。
泣くのを必死に耐えた、幼い子供の声だった。辺りはすっかり陽が落ちて、夜の暗がりが広がっている。その暗がりを怖がって、か細い声を上げるだけで精一杯なのではないだろうか。
そう思いながら。もう一度辺りをぐるりと見渡して。やはり誰もいない事に息を吐く。
聞こえたように思えたが、気のせいだったようだ。
緩く頭を振って歩き出す。いつもより遅い時間帯。早く帰りたい一心で、只管に足を動かした。
「まって」
声が聞こえた。先ほどよりも近くから、はっきりとした声が。
はっとして振り返る。だが誰もいない。
夜の暗がりが広がっているばかりだ。
ふるりと肩を震わせる。恐怖が背筋を駆け上がる感触に、視線を戻して走り出した。
「まって」
声が追いかけてくる。だがもう振り返る事はせずに、前だけを見て走り続ける。
気のせいだ。気にしてはいけない。何度も自分に言い聞かせる。
二度振り返ったが、誰もいなかった。今更振り返っても、同じように誰もいないはずだ。
そう思い、だがその思考にさらに恐怖が込み上げて、視線と走る足は速くなる。
息が切れる。
追いかける声は聞こえない。自分の荒い呼吸で、聞こえていないだけなのかもしれない。
カンカンと、踏切の音。
目の前で遮断機がゆっくりと下りていく。けれども速度はこれ以上上がらない。絶望に似た思いで速度を落とし、踏切の前で立ち止まった。
踏切の音。
荒い呼吸の音。
声はまだ聞こえない。
背後は振り返れない。
「まって」
声が聞こえた。目の前の、踏切の向こう側から。
顔を上げる。視線の先、パジャマを来た裸足の子供が、こちらを見ていた。
小さな手が遮断機に触れる。身を屈めて遮断機を潜り抜ける。
ゆっくりと、その小さな体がこちらへ、線路を渡って近づいてくる。
踏切の音。
自分の呼吸の音。
電車が近づく。警笛が鳴る。
ライトが子供の姿を白く染め。
「まって」
電車が来る。カンカンと頭に響く音。
白い光。
子供が立つ場所を、電車が過ぎていく。
「――っ」
一瞬の出来事。目を逸らす事も出来なかった。
音が止まる。
遮断機が上がっていく。
声は聞こえない。
その先に、子供の姿はなかった。
詰めていた息を吐き出す。
気のせいだ。疲れて、夢でも見ていたのだろう。
子供はいない。聞こえた声も、きっと気のせいに違いない。
踏切に足を踏み入れる。
踏み入れようとした。
「まって」
声が聞こえた。か細く、泣きそうな。
袖が引かれる。
見たくないと思いながらも、視線は引かれた袖に向けられて。
「まって、おねえちゃん」
踏切の向こう側にいたはずの子供が。
俯いて、袖を引いていた。
「で?その子、どうなったの?」
昼休み。
食後の気怠い微睡みに身を任せ、机に伏せながら聞こえた話に耳を澄ませる。
「さあ?何か意識不明で病院にいる、とか。気が触れちゃったとかじゃない?」
「何それ?中途半端じゃん」
けらけら笑うクラスメイトの話に、確かに、と声には出さずに同意する。
良くある怪談話。追いかける声が、いつの間にか目の前にいるのも、最後にすぐ側にいるのも、定番だ。
「部活の先輩から聞いたんだもん。友達の話なんだって。そこまでは聞けないよ……それに」
かたん、と机と椅子が音を立てる。
内緒話のように声を潜めて、クラスメイトは囁いた。
「あの踏切で、起きたんだってさ。だからきっと本当にあったんだよ」
あの踏切。
何かあっただろうか。似たような怪談話が、この付近の踏切で。
「マジで?あの水じいさんの踏切なの?」
「マジ」
「呪われてるんじゃない?あたしたち、帰り道逆方向だからよかったよね」
「だよね」
くすくすと、怖がりながらもクラスメイトは笑う。
水。じいさん。踏切。声。
思い当たる記憶はない。だが一度気になってしまえば、もう微睡んでもいられない。
伏せていた体を起こす。まだ残る眠気を、頭を振って追い払う。
「あ、起きた」
「おはよ。まだ昼休み残ってるけど、どした?」
笑っていたクラスメイトが声をかける。
欠伸を噛み殺しながら、少しばかり恨みがましい目で彼女達を見つめた。
「隣で随分と楽しそうな話をしてるね。気になって眠れやしない……貴重な睡眠時間を削られたんだから、もちろん全部話してくれるんだよね?水じいさんの話も含めて」
ごめん、とまったく悪びれもせずに謝るクラスメイトに向き直り、早く話せと促した。
陽が落ちて、夜の暗がりが広がる静かな道で立ち止まる。この道を少し行った先に、踏切はある。
声は聞こえない。
子供の声も。老人の声も。
昼休みに聞いた二つの怪談は、とてもよく似ていた。
「まって」と姿の見えない子供の声がして、最後には姿を見せた子供に袖を引かれる。
「水」と遠くに見える人影と共に声がして、声と共に人影は近づく。そして最後にすぐ背後で声をかけられ、振り返ると無表情の老人に腕を掴まれる。
同じ言葉を繰り返し、最後に姿を現す子供と老人。今もここにいるのだろうか。
ゆっくりと歩き出す。声は聞こえない。
とても静かだ。まだ遅い時間ではないというのに、誰一人見当たらない。
「まって」
声がした。小さな、寂しそうな声。
立ち止まり、振り返る。だが姿は見えない。
辺りを見渡しながら、声をかけた。
「誰だ?」
「アラヤ」
思わず溜息を吐く。
声の聞こえた暗がりに視線を向ける。暗がりが揺らぎ、次第に小さな子供の姿を取って近づいてくる。
パジャマ姿の裸足の子供。こちらを見る目はどこか虚ろで、焦点が定まっていない。
「どこの子?」
「カワイ」
意味不明な答え。
覚束ない足取りで近づく子供は、虚ろな目をしながら笑う。縋るものを求めて彷徨う腕に、もう一度溜息が漏れた。
足早に子供に近づきながら、バッグの中からミネラルウォーターのボトルを取り出す。蓋を開くと、躊躇なく子供の頭に水をかけた。
「――ぁ、お水」
「何してんの。こんな街中で」
子供の目が焦点を結んでいく。顔を上げて水を受け止め、嬉しそうに声を上げて笑った。
背を丸めて全身に水を浴びようとするも、ボトルの水ではその一部しか濡らせない。四つ這いで水の当たる位置を調整するも物足りないのだろう。顔を上げてこちらを見上げ、そこで何かに気づき自身の手を見つめた。
「あ。そっか」
一人頷いて、目を閉じる。揺らぐ子供の姿が次第に小さく、四つ足の獣の姿に変わっていく。
獺《かわうそ》。水辺のないこの辺りでは、いないはずの生き物。
「ありがと、おねえちゃん」
「お礼はいいから、何でここにいるか説明して。盛大な迷子になった訳じゃないんでしょ?」
二本目のボトルを開けながら、獺に問いかける。
顔を上げて追加の水を待つ獺は、その問いに首を傾げてこちらに視線を向けた。
「おねえちゃんに会いにきたの。おねえちゃん、ぜんぜん帰ってこないから……春には帰るって、言ってたのに」
無垢な、それでいてどこか泣きそうな目で見られ、思わず目を逸らす。獺の頭に水をかけながら、小さくごめん、と謝った。
正月の帰省時に、次に帰るのは春頃だと告げてはいたものの、授業と課題が忙しく帰ってはいなかった。だがまさか、遠く離れたこの街まで来るとは。
実家に住む妖達の中で一等懐いていた獺の行動力を甘く見ていたようだ。
「でもだからって、来る事ないでしょうに。危なく獺の干物が出来上がる所だったじゃない」
「だって、会いたかったんだもん。こうして人間をおどろかしてたら、おねえちゃん、来てくれたし」
「いや、それ最後はもう、水が足りなくてふらふらしてただけのような」
最初の水と呼びかける老人の怪談も、この獺が化けたのだろう。ただ脅かすだけでなく、あわよくば水を求めて。
手のひらに水を注ぎ、獺に与えながら何度目かの溜息を吐く。
偶然耳にした怪談に興味を持たなければ、おそらく干上がっていたに違いないだろうに。何故こんなに危機感がないのだろう。
水を得て大分回復した獺を抱き上げながら、さてどうするかと途方に暮れる。
学校の長期休みは当分先だ。そして実家は電車を三本乗り継いだ先にある。
さて、どうするか。腕の中で微睡み始めた獺を見ながら考える。
何とか実家に帰ったとして、この様子ではおとなしく獺が離れていくとは思わない。最悪、そのまま実家に軟禁されて、学校を止めさせられるかもしれない。
痛み出す頭を抑えながら、何が最善かを考え。
「おねえちゃん、まって……おいてかないで」
「――まあ、なんとかなるか」
擦り寄る獺の頭を撫でて、考えるのを放棄した。
結局あれこれ考えた所で、なるようにしかならないのだ。
20250518 『まって』
夜の森。静寂を乱すように、複数の気配が駆け抜けていく。
錆びた鉄を思わせる血の匂い。体を赤く染めながら、一匹のイタチが逃げていく。
それを追うのは、無数の黒い影。獣の姿をした影が、イタチを追って音もなく過ぎていく。
端から見ても手負いであるイタチは、しかしその紫紺色をした眼に強い光を湛えている。触れれば切れる白刃の煌めきを宿した眼は、追われている身でありながらも陰る事はない。時折甲高く鳴き声を上げ、それに応えて鋭い風が影の獣を薙ぎ払う。木々に強く打ち付けられた影は、形を失い消えていき。それでも数が減らないのは、別の場所から新たな影が獣の形を取って現れるからだった。
逃げるイタチの眼が、僅かに虚ろう。駆け抜ける足が次第に遅くなり、鳴く声にも覇気が薄れている。
血を流しすぎて意識が覚束ないのだろう。ふらつく足を懸命に動かし逃げるイタチであったが、とうとう限界が来た。
足が縺れ、地面に倒れ込む。四肢を動かし、立ち上がろうとするもそれは叶わず、やがては諦めたように動かなくなった。
「ようやく、鬼ごっこが終わった」
静寂が戻る森に響く声。僅かに疲れを滲ませて、それでも強さを湛えた少女の声音に、イタチは弾かれたように身を起こす。
「おっと、怖いなぁ」
けれどもイタチの最後の反撃は、影の獣によって防がれた。影がイタチの体を押さえ、その身に牙を突き立てる。上がる甲高い鳴き声と飛び散る赤に、現れた少女は眉を潜め、腕を上げた。
それだけで影は動きを止め、イタチから離れる。けれどイタチは力なく四肢を投げ出し、動かない。まだ辛うじて意識はあるものの、動けるだけの力は残されていないのだろう。
「人が我が儘すぎてごめんね」
イタチに近づき、少女は膝をつく。
イタチは人を害する妖だった。故に少女はそれを排除しに、この森へと訪れた。
だが妖というのは人が望む事で、初めて形を成すモノだ。例え人に害をなすとはいえ、その始まりは同じ人が望んだ故の事だ。人に望まれ目覚め、他の人に疎まれ排除される。
少女は、その理不尽さが気に入らなかった。
動かないイタチを見つめ、少女は暫し考える。そして何かを思いつき、不敵な笑みを浮かべた。
「あなた、わたしの管《くだ》になりなさい」
傲慢とも取れる言葉に、イタチが視線だけを動かし少女を見る。
「わたしの管になったなら、あなたのまだ知らない世界を見せてあげる」
「……断る、と言ったら」
低くイタチは答えた。それに目を瞬いて、少女はくすくす声を上げて笑った。
「関係ないかな。もう決めたから。あなたを管にするって、わたしが決めた」
笑いながら手を差し出す。少女の影が伸びて、イタチに纏わり付く。
「紫電《しでん》」
イタチの名を定め、呼ぶ。
びくり、とイタチの体が跳ねて、紫紺の瞳が責めるように少女を見据えた。
「外の世界は楽しいよ。紫電が気に入るものも、きっとあるはず。欲しいものが出来たら遠慮なく言ってね」
イタチの視線を気にもかけず、少女は上機嫌に告げる。
そうしてイタチが少女の影に呑まれた後、周りの影を見渡し。
「じゃあ、帰ろっか」
そう言って、楽しげに微笑んだ。
「主」
人の姿を取ったイタチが告げた言葉に、大人となった少女は顔を顰めて視線を逸らす。
彼女の腕には穏やかに眠る、赤子の姿。赤子を起こさぬよう声を潜めながら、嘯いた。
「ごめん。聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」
「詞葉《ことは》が欲しい」
どうやら聞き間違いではなかったようだ。溜息を吐いて、彼女はイタチに視線を向けた。
「欲しいものが出来たら、遠慮なく言う。主が言った事だ」
「そうだけど……そもそもことちゃんは、ものじゃないんだけど」
「それは知っている」
無表情に告げ、イタチは音もなく彼女へと近づく。膝をつき、眠る赤子の頬にそっと触れた。
「詞葉にも管が必要だろう。ならば僕が管になる」
僅かに表情を緩ませ、イタチは言う。今まで表情一つ変える事のなかったイタチの変化に、彼女は複雑な気持ちで赤子を見た。
良い変化だとは思う。飯綱《いづな》使いの血筋として生まれた赤子にも、管がいた方が安全である事も理解はしている。
だが――。
「ことちゃんの意思がないのに、契約は出来ないでしょう」
契約とは、妖と術師の意思で行うものだ。赤子にはまだ早すぎると、彼女は膨れながらも告げた。
「ならば、待つ。詞葉が僕を選んでくれるまで」
「頑固ね……仕方ないか」
頑ななイタチに、彼女は諦めて笑う。
イタチの強さも性格も、主であり側にいた彼女は誰よりも知っていた。
「じゃあこうしよっか。紫電はこれからずっとことちゃんを守って。それでことちゃんが大きくなって、紫電を管にしたいってなったら、その時にちゃんと契約しよう」
「――感謝する。主」
微笑む彼女にイタチは居直り、深く礼をする。眠り続ける赤子に僅かに微笑んで、イタチは音もなく立ち上がると部屋を出て行った。
「まったく。いくらことちゃんが可愛いからって」
イタチが去った扉を暫し見つめ、彼女は嘆息する。だがその表情に不安はなく、とても穏やかだ。
「ことちゃん」
眠る赤子に語りかける。
「紫電が何かに興味を持つなんて、初めての事なんだよ。今までどんな場所に連れて行っても、何を見せても反応しなかったのにね。ことちゃんが欲しいんだって」
くすくすと彼女は笑い、赤子の頬を突く。むずかる赤子をごめんね、と優しく揺すり、扉に視線を向ける。
「これからママとことちゃんが、まだ知らない世界をたくさん見て、紫電にも教えてあげようね。きっとことちゃんから見た世界なら、興味を持つはずだから」
だからね、と赤子の頬に口付けて彼女は願う。
「もしも、ことちゃんが嫌じゃないのなら。いいよって言ってくれるなら。大きくなって最初の管を持つ時に、紫電を選んであげてね」
お願いね、と囁いて、母となったかつての少女は、幸せそうに微笑んだ。
20250517 『まだ知らない世界』
箱を開ける。
古ぼけた手紙と写真、そして割れた鏡。朝に見た時と何も変わらない。
手紙を取り出し、目を通す。読まなくても一字一句覚えているその手紙は、幼い頃に大切な友人とお互いに交換しあったものだ。
文字を目で追いかける。夏祭りに行った事、森の中で虫取りをした事、海で泳いだ事。
一緒に遊んだ思い出を、文字と共に辿っていく。
――ずっと、ともだちでいよう。
最後の一文を、頭の中で何度も繰り返す。口の中で言葉を転がして、強く唇を噛みしめた。
今日も友人は帰ってこなかった。
もう十年近くも前になる。友人は忽然と姿を消した。
今でもはっきりと思い出せる。
最低な別れ方。酷い喧嘩をして、さよならも言わずに家から追い出した。
喧嘩ですらない。自分が一方的に責め立て、八つ当たりをしたのだ。
「母ちゃん」
割れた鏡を見る。
あの日友人に頼まれ手渡した時に、誤って落として割れた母の形見。
しっかりと手渡さなかった自分も悪いというのに、一方的に責め立てた。見せて欲しいと言わなければなどと、酷い言葉を投げつけた。
友人は否定をしなかった。ただごめんなさいと謝り続けて、泣きそうに顔を歪めながらも、涙は見せなかった。
きっと自分が泣いていたからだろう。
泣いて叫んで、言い返さないのをいい事に、母のいない寂しさを怒りに変えて友人に当たった。それでも友人は謝るだけだった。
だから次第に抑えが効かず、自分を止められなくなり。
――お前が死ねばよかったのに!そうすれば母ちゃんは今も生きててくれたかもしれないのにっ!
理屈も何もない、感情にまかせた最低な言葉。
僅かに目を見張り、俯く友人をそのまま家から追い出した。
冷静になれたのは、その日の夜になってからだ。
明日必ず謝らなければと、焦りと不安を抱いて眠りについた。
けれど謝る機会など、訪れる事はなく。今もこうして手紙の文字に縋りながら、友人が帰ってくるのを待っている。
「――母ちゃん、頼む。あいつを家に帰してやってくれ。お願いだ」
あの日からずっと、寝る前に必ず母に祈る。
明日には、友人が帰って来てくれるように、願い続けている。
鏡をなぞる。鏡面は割れ、裏にも罅が入っているが、藤の蒔絵が施された玉虫塗の手鏡は、今も美しい光沢を纏ったままだ。
「どうか、帰ってきて」
呟いて、手紙を箱に戻す。写真の中の、晴れやかに笑う二人を見つめ、友人の姿を指でなぞる。
「おやすみ……明日こそ、帰ってきて。許さなくていい……なんだったら、俺が消えてもいい。だから――帰ってきて」
友人がいなくなってから、何年も経っている。もう誰も――友人の両親ですら、友人が帰って来る事を諦めてしまっている。
忘れられていく。それが怖くて哀しくて。
「また明日な」
こうして今日も、箱の中の思い出を閉じ込める。
誰かに呼ばれた気がして振り返る。
誰もいない。視界に広がるのは、鮮やかな緑だけだ。
知らない森の中。ここに迷い込んでから、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
小さく息を吐いて、近くの木の根元に腰を下ろす。ポケットの中から、折りたたまれた写真と手紙を取り出して、丁寧に開いていく。
幼い頃に友達と撮った写真と、お互いに宛てた手紙。何度も読み返してすっかり草臥れてしまった手紙は、折り目のついた端が少し破れてしまっている。
写真の中の笑う友達を指でなぞる。苦い後悔に、唇を噛みしめた。
森に迷い込む前日、友達に酷い事をした。彼の母の形見だという手鏡。その裏の蒔絵の藤が綺麗で、見せて欲しいと頼み込んだのだ。
大切なものだと知りながら、手を滑らせて落とし、割ってしまった。割れた直後の、呆然とした友達の表情を今でもはっきと覚えている。
最低な事をした。だから何を言われても否定はしなかった。責めて当然なのだ。他に換えはない、ただ一つの大切なものだったのだから。
だからこれは、きっと自分への罰なのだろう。
言葉には力が宿る。
両親にも学校の先生達にも言われた事だ。学校の規則でも、他人に悪意の言葉を吐かない事と書かれている。実際規則を破り、酷い事を言って言葉の通りになってしまったらしい上級生の話を聞いた事がある。
あの日、泣き叫ぶ友達が自分に対して言った「死ね」という言葉。幼い子供だったせいか本当に死ぬ事はなく、その代わりに知らない森の中へと迷い込んでいた。
それとも死ななかったのは、この手紙と写真があったからだろうか。友達への未練があるから、ぎりぎりの所で留まっているのかもしれない。
手紙と写真を見る。笑っている二人が羨ましい。
羨ましくて、でもそれを壊したのは自分だと思い知って、じわりと視界が滲んでいく。
泣く資格などないのに。
唇を噛みしめ、必死に涙を堪えた。
ふと、声が聞こえた気がした。それは友達の声に似ていて、そんな事はないだろうと自嘲する。
いつまでもこの手紙と写真を手放せないからだ。友達に対する未練が残っているせいで、何でも関連付けて捉えてしまうに違いない。
ならば、手放さなければ。手紙と写真を持つ手を伸ばす。
そのまま手を離したら、風が遠くに運んでくれるはずだ。
未練など持つべきではない。
長い間歩き続けていたが、森の終わりに辿り着けなかった。空腹も疲労も感じない体。夜の来ない森。
もう二度と家には帰れないのだろうから。
けれど――。
分かっていても、手放す事は怖かった。
友達との縁《えにし》がなくなる事も、その後で一人になる事も怖ろしい。
いくら風が吹けど、手は離せず。逆に伸ばした腕を戻して、手紙と写真を抱きしめる。
意気地のない自分自身を嫌悪しながらも、手を離せる勇気はまだなかった。
「お手伝い致しましょうか」
聞こえた声に、はっとして顔を上げた。
視界を染める、水色の振袖。控えめに微笑む少女が、小首を傾げて自分を見つめていた。
「暖かな思いの込められた、良き手紙。わたくしが頂きましょうか」
白く華奢な手が差し出される。優美な仕草を呆然と見つめていると、少女は微笑んだまま僅かに眉を下げる。
「手放せないのはそのふたつが貴女様にとって、とても大切なものだからではありませんか?失う事への恐怖は、確かにあるのでしょう。ですが、それ以上に大切な縁の行き着く先が分からない事を怖れているように、わたくしには見受けられます」
「行き着く先……」
目を瞬く。手紙と写真に視線を向けて、もしもを想像する。
もしも、風に飛ばされた先で、心ない人に攫われたとしたら。木の枝に突き刺さったり、水の中に落ちてしまったとしたら。
想像して、泣きたくなった。大切な友達が、踏みにじられていくようで、それだけは絶対に嫌だった。
「わたくしが頂きましょう」
少女は囁く。
会ったばかりではあるけれど、少女は手紙も写真も大切にしてくれる気がした。
それでも迷いは消えない。あと一歩を踏み出すには、自分は少女を知らなすぎた。
それを少女も感じ取ったのだろう。失礼致しました、と一礼して、恥ずかしげに頬を染めた。
「わたくし、荷葉《かよう》と申します。女性の恋文への想いに応えて形を取った妖で御座います。文に対しての扱いに心得があります故、貴女様の想いを決して無下には致しません」
美しく微笑む少女に、不安が解けて行く。ここまで丁寧に伝えてくれたのだから、きっと大丈夫だ。
あとは、自分が一歩を踏み出すだけ。最後にと、手紙の文字を追いかけ、写真の二人に触れる。
目を閉じて、深く呼吸をする。
怖がる気持ちはまだある。けれどこのまま自分が手放さずにいれば、この先、寂しさに負けて友達を引き込んでしまうかもしれないから。
目を開ける。
真っ直ぐに少女を見て、ゆっくりと手紙と写真を手渡した。
「貴女様の大切な想い。確かに受け取りました。大切に預からせて頂きますね」
ほぅ、と吐息を溢した。手放した事への寂しさはある。けれども、それよりも清々しい気持ちで満たされていた。
「ありがとう」
礼を言って立ち上がる。
体が軽い。今なら、どこへだって行けそうだ。
「貴女様が行く先を、わたくしは存じ上げません。ですが、望む場所へと辿り着く事を想っております」
「うん……手紙と写真、よろしくね」
「はい。お任せ下さい」
深く礼をする少女に、ありがとうと告げて歩き出す。
どこへ行くべきかなど分からない。常世《あのよ》か現世《このよ》か。
声が聞こえた気がした。哀しげな誰かの声。
「大丈夫だよ」
呟いて空を見る。何も持たない手を伸ばし、笑ってみせる。
「大丈夫。手放す事は、怖くないよ」
伝わるかは分からない。
けれど――。
「忘れる事は、何も悪い事じゃないんだよ」
大丈夫と繰り返す。
嘆くこの声に、少しでも伝わればいいと、願っている。
20250516 『手放す勇気』
暗闇を、一人歩き続けていた。
ここがどこなのか。いつから歩いているのか。
暗闇の中では、何も分からない。
ただ、真っ直ぐに進んでいるようで、ぐるぐると同じ場所を回り続けている。そんな感覚がしていた。
――これから、どうしよう。
心の中で息を吐き、背後の気配を探る。
暗闇。形のないそれが蠢いている。静かに、だが確実に自分を追いかけてきていた。
まだ遠く、触れられない位置にいるが、足を止めてしまえば、すぐに追いつくだろう。そして自分を跡形もなく呑み込んでしまうのだ。
不思議と恐怖はなかった。
生きなければいけないとは思う。だが生きたいとは思っていなかった。
きっと、それが理由なのだろう。
立ち止まるべきか。進み続けるべきか。
それは生きるか、死ぬかの選択だ。
――仕方がない。もう、どうしようもない。
言い訳のように、繰り返す。
背後の暗闇との力量差は明白だ。
抵抗する間もなく、気づけば自分はこの暗闇にいたのだから。
周囲を見渡す。
外の気配も、出るための綻びも、何も見えない。
――これから、どうするべきか。
終わるのは簡単だ。ただ足を止める。それだけでいい。
そうすれば、この胸の中に渦巻く暗い気持ちを、これ以上抱えずに済む。一人の寂しさと、失う怖さを抱えて生きるのは、とても苦しい。
思わず自嘲する。
仕方がないと繰り返しても、それは言い訳にすぎない。
自分はただ、逃げたいだけなのだ。
目の前で母を失った、あの幼い日。
自分の代わりに暗闇に連れて行かれた母を覚えている。
その記憶が、今も心の底に刻みつき自分を臆病にさせる。
母のように、大切な誰かがいなくなるのが、何よりも怖かった。
「――あぁ、もしかして」
ふと気づく。
背後の暗闇の気配を感じながら、浮かんだ一つの可能性に、小さく声を上げて笑った。
――今度こそ、連れて行くつもりなのか。
今は誰もいない。一人きりだ。
少しだけ、歩みを緩める。
濃くなる暗闇の気配に、目を細めた。
近づいてくる。ゆっくりと、だが確実に。
一人きり。あの時のように自分を守ってくれる誰かは、もういない。
不意に過ぎた一人の妖の事には、あえて気づかない振りをした。
暗闇が近づく。蠢く気配を背後に感じ、けれど歩みは止めないまま、その時を待った。
広がる気配。呑み込むために、暗闇が形を変えていく。
距離がなくなり、広がる暗闇に覆われる。その瞬間。
鋭い光が差し込んだ。
差し込む――そんな柔らかいものではない。
空から降りた白刃の煌めきに似た光が、自分と背後の暗闇を切り離すように、鋭く地に突き刺さる。
振り返った視線の先、暗闇の一部を貫いたその光が、一匹のイタチの姿に変わる。
金茶の毛並みは、赤く濡れていた。
ふらつきながらも、イタチは暗闇を見据え、動かない。
思わず駆け寄ろうと足を踏み出せば、鋭い鳴き声がそれを咎める。
立ち尽くす自分を、イタチは一度だけ振り返った。
笑っている。
間に合った事を安堵し、どこか誇らしげに。
――そんな気がして、胸が苦しくなった。
あの日、最後に見た母も微笑んでいた。
自分を守り切れた事を心から喜ぶように、晴れやかに。
鮮明なその笑顔が、今目の前のイタチの姿と重なる。
再び暗闇に向き直った彼の体が、暗闇に呑まれていく。
それを、ただ見ている事しか出来なかった。
否、一つだけ、自分にも出来る事がある。
それには覚悟が必要だった。
闇に呑まれたイタチ――飯綱《いづな》使いの母の管《くだ》であった妖と契約を結ぶ事。
一人にはなりたくなかった。
大切な誰かを失うのも、嫌だった。
これ以上、そんな我が儘は言えない。目を逸らし続ける事は許されない。
周りの優しさに甘えて、我が儘を言う子供の時間は終わったのだ。
「――紫電《しでん》」
名を呼ぶ。鋭い刃の煌めきのような、気高い彼の名を。
覚悟は出来た。
後は、一歩、踏み出すだけだ。
「契約を。管生詞葉《すごうことは》が命じる。闇を貫く刃として、その身を差し出せ」
暗闇から、一筋の光が漏れた。
貫く光に、手を伸ばす。
「紫電!」
名を呼ぶ。
光を見据え、声を張り上げる。
「――光輝け、暗闇に!!」
その瞬間。
光が弾け、周囲を白に染め上げた。
暖かな腕に抱かれていた。
頭を撫でられる。よくやったと、褒める撫で方に頬が緩んだ。
「詞葉」
優しい声。寝ぼけた振りをして、胸に擦り寄る。
暖かい。彼はここに、自分の側にいるのだと。そんな当たり前の事が、泣きたくなるくらいに嬉しかった。
「帰ろうか」
僅かな浮遊感を感じ、抱き上げられたのだと気づく。
寝たふりなどとっくに気づいているだろうに、あえて起こさないようにと静かに歩いていく。
ゆったりとした振動に意識が微睡み始めた。夢うつつに思い浮かぶのは、彼との記憶ばかりだ。
生まれた時から側にいた彼。母がいなくなってからは、彼が親代わりだった。
術師としての在り方。式札の打ち方。学校の勉強や、日常の生き方すら、彼が教えてくれた。
頬が緩む。親だった彼が、自分の管になる。そんな不思議な感覚が、気恥ずかしくて嬉しい。
ふふ、と隠し切れず笑みが零れ落ちた。
「すっかり懐いちゃって。守るように命じたのはわたしだけど、ちょっと焼けちゃうな」
彼ではない声がした。
少女のような声音。忘れかけていたその響き。
懐かしく、暖かい。
その声は、母の声だった。
「――っ!?」
微睡む意識が一瞬で覚醒し、目を開ける。
「あ、起きちゃった」
声のした方へと視線を向ければ、くすくすと笑う、あの日のままの母がいた。
「か、さん……?」
「しばらく見ない間に、立派になったね。ことちゃん」
微笑む母の姿が滲んでいく。呼吸が乱れてしゃくり上げる。
伸ばした手はすり抜ける事もなく、暖かい手に確かに繋がれた。
「泣き虫なのは、相変わらずなのね」
手を引かれる。そのまま母の胸へと引き寄せられて、抱きしめられた。
記憶よりも遙かに小さなその体。離れていた時間の長さを感じて、離れないようにとしがみつく。
暖かい。生きている。
聞こえる鼓動に、声を上げて泣いた。
「母さん、ごめんっ……ごめんなさい」
「もう、謝らないの。ママはちゃんと生きているんだから……いつも言ってたでしょ?ママには強い管がたくさんいてくれるんだって」
「でも、だって……」
「あの状況では、死んだと思っても不思議ではないだろう。僕ですら、助からないと思っていたのだから」
苦笑する声。ふわりと浮遊感の後、母の元から彼の腕の中へと抱き上げられる。
宥めるように背を撫でられる。次第に呼吸が落ち着いて、滲む世界が僅かに輪郭を取り戻した。
「ちょっと。まだ全然ことちゃんを堪能できてないんだけど」
「その前に、詞葉に説明してあげてほしいな。何故、貴女がこうして生きているのかを」
むぅ、と頬を膨らませる母を見る。あの日から何一つ変わらない、その姿。化生《けしょう》に連れ去られ、それでも生き残っている事の理由。
いくらか冷静になった頭に、疑問符が浮かぶ。彼の言うように、何があったのか説明がなければ、不安で母が偽物ではと疑ってしまいそうだ。
「だから、言ったじゃない。ママにはね、強い管がたくさんいて、守ってくれるんだって」
「――管?」
あぁ、そう言えば。霞む記憶を手繰り寄せる。
母には彼の他にも、たくさんの管を従えていた。
彼に視線を向け、そして母を見た。どこか寂しそうな目をして、母は微笑む。
「ほとんどが、わたしを守って消えてしまったけどね……戻ったら、増やしてあげないと」
あの子たちのためにも。
呟いて、母はこちらへ手を伸ばす。一度彼を見て、怖ず怖ずと母のそれに手を重ね、地に降りた。
自分より僅かに低い母の姿。腕を伸ばした母に、いい子と頭を撫でられて、落ち着かなさに視線を彷徨わせた。
気恥ずかしいと思うのは、自分が成長した証だ。母との距離も、今より広がっていくのだろう。その寂しさに気づかない振りをして、今だけは母の温もりを受け入れた。
「――そろそろ帰ろうか」
「そうね。帰りましょうか」
静かに彼が呟いて、母が頷く。
当然のように母に左手を繋がれて、反対の右手は彼に繋がれた。
母と彼と。三人、手を繋いで歩き出す。
「帰ったら、一緒にお風呂に入ろうね。ことちゃん」
「え。あ……えと」
「詞葉はもう、一人で湯浴みは出来るよ。もちろん好き嫌いなく食事も取れている」
「ことちゃんの親みたいな事を言うの、止めてくれる?ことちゃんのママはわたし!なんだから」
彼の静かな声に大して、母が不機嫌に言い返す。
そうでしょう、と必死な母に頷いて。
育てたのは僕だ、と微笑む彼に、否定しきれず目を逸らした。
「ああ、もう!あんなやつに捕まらなければ、ことちゃんの初めてが奪われる事もなかったのに!」
「母さん。その言い方はちょっと」
「言わせておけばいい。母親なのに詞葉の成長を見られないというのは、とても可哀想な事だからね」
「いや、そういう言い方もちょっと」
自分を挟んで、二人が言い合いを始める。
とても賑やかだ。一人の寂しさはどこにもない。
二人に気づかれないように、下を向いて小さく笑う。両手を繋ぐ二人の手を見ながら、幼い頃の記憶と重ねてみた。手を握る。握り返される事が、泣きたいくらいに嬉しい。
「ことちゃん!今日は一緒に寝ようね」
「詞葉はもう、一人で寝れるよ……心配しなくても、管である僕が詞葉の側にいる。貴女は安心して、一人で眠るといい」
「そうじゃないの!わたしが、ことちゃんと、寝たいのっ!!」
「子供のような我が儘を言わないでくれ。貴女は詞葉の母親なのだろう?」
「あの、さ。もう、それくらいで」
「ことちゃんは、ママの事が嫌いになったの?」
「いや、そうじゃなくて」
賑やかだ。いっそ煩いと、そう思える程に。
握った手を離してみる。けれど手は離れない。離してはもらえない。
突き刺さる二人の視線から逃れるように前を向く。
景色が歪んでいる。出口が近いのだろう。
「ことちゃん!」
「あ、うん。取りあえず、帰ろう。その後で、色々を考えた方がいいよ」
あれこれと急いで考える必要はない。
母は戻り、彼は自分の管になったのだから。
「これからは、ずっと一緒にいられるんだし」
小さく呟く。
熱を持つ頬を誤魔化すように俯いた。
景色が歪む。境界を抜けて、白から茜に染まる空の下へと帰ってきた。
手はどちらも繋いだまま。
「ただいま、ことちゃん」
母が笑う。優しい微笑みに、つられて笑顔になる。
「おかえり、母さん」
手を繋ぎ、三人で。
遠くで聞こえるカラスの声と共に、家路に就いた。
20250515 『光輝け、暗闇に』