夜の森。静寂を乱すように、複数の気配が駆け抜けていく。
錆びた鉄を思わせる血の匂い。体を赤く染めながら、一匹のイタチが逃げていく。
それを追うのは、無数の黒い影。獣の姿をした影が、イタチを追って音もなく過ぎていく。
端から見ても手負いであるイタチは、しかしその紫紺色をした眼に強い光を湛えている。触れれば切れる白刃の煌めきを宿した眼は、追われている身でありながらも陰る事はない。時折甲高く鳴き声を上げ、それに応えて鋭い風が影の獣を薙ぎ払う。木々に強く打ち付けられた影は、形を失い消えていき。それでも数が減らないのは、別の場所から新たな影が獣の形を取って現れるからだった。
逃げるイタチの眼が、僅かに虚ろう。駆け抜ける足が次第に遅くなり、鳴く声にも覇気が薄れている。
血を流しすぎて意識が覚束ないのだろう。ふらつく足を懸命に動かし逃げるイタチであったが、とうとう限界が来た。
足が縺れ、地面に倒れ込む。四肢を動かし、立ち上がろうとするもそれは叶わず、やがては諦めたように動かなくなった。
「ようやく、鬼ごっこが終わった」
静寂が戻る森に響く声。僅かに疲れを滲ませて、それでも強さを湛えた少女の声音に、イタチは弾かれたように身を起こす。
「おっと、怖いなぁ」
けれどもイタチの最後の反撃は、影の獣によって防がれた。影がイタチの体を押さえ、その身に牙を突き立てる。上がる甲高い鳴き声と飛び散る赤に、現れた少女は眉を潜め、腕を上げた。
それだけで影は動きを止め、イタチから離れる。けれどイタチは力なく四肢を投げ出し、動かない。まだ辛うじて意識はあるものの、動けるだけの力は残されていないのだろう。
「人が我が儘すぎてごめんね」
イタチに近づき、少女は膝をつく。
イタチは人を害する妖だった。故に少女はそれを排除しに、この森へと訪れた。
だが妖というのは人が望む事で、初めて形を成すモノだ。例え人に害をなすとはいえ、その始まりは同じ人が望んだ故の事だ。人に望まれ目覚め、他の人に疎まれ排除される。
少女は、その理不尽さが気に入らなかった。
動かないイタチを見つめ、少女は暫し考える。そして何かを思いつき、不敵な笑みを浮かべた。
「あなた、わたしの管《くだ》になりなさい」
傲慢とも取れる言葉に、イタチが視線だけを動かし少女を見る。
「わたしの管になったなら、あなたのまだ知らない世界を見せてあげる」
「……断る、と言ったら」
低くイタチは答えた。それに目を瞬いて、少女はくすくす声を上げて笑った。
「関係ないかな。もう決めたから。あなたを管にするって、わたしが決めた」
笑いながら手を差し出す。少女の影が伸びて、イタチに纏わり付く。
「紫電《しでん》」
イタチの名を定め、呼ぶ。
びくり、とイタチの体が跳ねて、紫紺の瞳が責めるように少女を見据えた。
「外の世界は楽しいよ。紫電が気に入るものも、きっとあるはず。欲しいものが出来たら遠慮なく言ってね」
イタチの視線を気にもかけず、少女は上機嫌に告げる。
そうしてイタチが少女の影に呑まれた後、周りの影を見渡し。
「じゃあ、帰ろっか」
そう言って、楽しげに微笑んだ。
「主」
人の姿を取ったイタチが告げた言葉に、大人となった少女は顔を顰めて視線を逸らす。
彼女の腕には穏やかに眠る、赤子の姿。赤子を起こさぬよう声を潜めながら、嘯いた。
「ごめん。聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」
「詞葉《ことは》が欲しい」
どうやら聞き間違いではなかったようだ。溜息を吐いて、彼女はイタチに視線を向けた。
「欲しいものが出来たら、遠慮なく言う。主が言った事だ」
「そうだけど……そもそもことちゃんは、ものじゃないんだけど」
「それは知っている」
無表情に告げ、イタチは音もなく彼女へと近づく。膝をつき、眠る赤子の頬にそっと触れた。
「詞葉にも管が必要だろう。ならば僕が管になる」
僅かに表情を緩ませ、イタチは言う。今まで表情一つ変える事のなかったイタチの変化に、彼女は複雑な気持ちで赤子を見た。
良い変化だとは思う。飯綱《いづな》使いの血筋として生まれた赤子にも、管がいた方が安全である事も理解はしている。
だが――。
「ことちゃんの意思がないのに、契約は出来ないでしょう」
契約とは、妖と術師の意思で行うものだ。赤子にはまだ早すぎると、彼女は膨れながらも告げた。
「ならば、待つ。詞葉が僕を選んでくれるまで」
「頑固ね……仕方ないか」
頑ななイタチに、彼女は諦めて笑う。
イタチの強さも性格も、主であり側にいた彼女は誰よりも知っていた。
「じゃあこうしよっか。紫電はこれからずっとことちゃんを守って。それでことちゃんが大きくなって、紫電を管にしたいってなったら、その時にちゃんと契約しよう」
「――感謝する。主」
微笑む彼女にイタチは居直り、深く礼をする。眠り続ける赤子に僅かに微笑んで、イタチは音もなく立ち上がると部屋を出て行った。
「まったく。いくらことちゃんが可愛いからって」
イタチが去った扉を暫し見つめ、彼女は嘆息する。だがその表情に不安はなく、とても穏やかだ。
「ことちゃん」
眠る赤子に語りかける。
「紫電が何かに興味を持つなんて、初めての事なんだよ。今までどんな場所に連れて行っても、何を見せても反応しなかったのにね。ことちゃんが欲しいんだって」
くすくすと彼女は笑い、赤子の頬を突く。むずかる赤子をごめんね、と優しく揺すり、扉に視線を向ける。
「これからママとことちゃんが、まだ知らない世界をたくさん見て、紫電にも教えてあげようね。きっとことちゃんから見た世界なら、興味を持つはずだから」
だからね、と赤子の頬に口付けて彼女は願う。
「もしも、ことちゃんが嫌じゃないのなら。いいよって言ってくれるなら。大きくなって最初の管を持つ時に、紫電を選んであげてね」
お願いね、と囁いて、母となったかつての少女は、幸せそうに微笑んだ。
20250517 『まだ知らない世界』
5/18/2025, 10:03:23 AM