「まって」
呼び止める声が聞こえた気がして、振り返る。
誰もいない。呼び止める誰かの人影は、どこにも見えなかった。
気のせいだろうか。
泣くのを必死に耐えた、幼い子供の声だった。辺りはすっかり陽が落ちて、夜の暗がりが広がっている。その暗がりを怖がって、か細い声を上げるだけで精一杯なのではないだろうか。
そう思いながら。もう一度辺りをぐるりと見渡して。やはり誰もいない事に息を吐く。
聞こえたように思えたが、気のせいだったようだ。
緩く頭を振って歩き出す。いつもより遅い時間帯。早く帰りたい一心で、只管に足を動かした。
「まって」
声が聞こえた。先ほどよりも近くから、はっきりとした声が。
はっとして振り返る。だが誰もいない。
夜の暗がりが広がっているばかりだ。
ふるりと肩を震わせる。恐怖が背筋を駆け上がる感触に、視線を戻して走り出した。
「まって」
声が追いかけてくる。だがもう振り返る事はせずに、前だけを見て走り続ける。
気のせいだ。気にしてはいけない。何度も自分に言い聞かせる。
二度振り返ったが、誰もいなかった。今更振り返っても、同じように誰もいないはずだ。
そう思い、だがその思考にさらに恐怖が込み上げて、視線と走る足は速くなる。
息が切れる。
追いかける声は聞こえない。自分の荒い呼吸で、聞こえていないだけなのかもしれない。
カンカンと、踏切の音。
目の前で遮断機がゆっくりと下りていく。けれども速度はこれ以上上がらない。絶望に似た思いで速度を落とし、踏切の前で立ち止まった。
踏切の音。
荒い呼吸の音。
声はまだ聞こえない。
背後は振り返れない。
「まって」
声が聞こえた。目の前の、踏切の向こう側から。
顔を上げる。視線の先、パジャマを来た裸足の子供が、こちらを見ていた。
小さな手が遮断機に触れる。身を屈めて遮断機を潜り抜ける。
ゆっくりと、その小さな体がこちらへ、線路を渡って近づいてくる。
踏切の音。
自分の呼吸の音。
電車が近づく。警笛が鳴る。
ライトが子供の姿を白く染め。
「まって」
電車が来る。カンカンと頭に響く音。
白い光。
子供が立つ場所を、電車が過ぎていく。
「――っ」
一瞬の出来事。目を逸らす事も出来なかった。
音が止まる。
遮断機が上がっていく。
声は聞こえない。
その先に、子供の姿はなかった。
詰めていた息を吐き出す。
気のせいだ。疲れて、夢でも見ていたのだろう。
子供はいない。聞こえた声も、きっと気のせいに違いない。
踏切に足を踏み入れる。
踏み入れようとした。
「まって」
声が聞こえた。か細く、泣きそうな。
袖が引かれる。
見たくないと思いながらも、視線は引かれた袖に向けられて。
「まって、おねえちゃん」
踏切の向こう側にいたはずの子供が。
俯いて、袖を引いていた。
「で?その子、どうなったの?」
昼休み。
食後の気怠い微睡みに身を任せ、机に伏せながら聞こえた話に耳を澄ませる。
「さあ?何か意識不明で病院にいる、とか。気が触れちゃったとかじゃない?」
「何それ?中途半端じゃん」
けらけら笑うクラスメイトの話に、確かに、と声には出さずに同意する。
良くある怪談話。追いかける声が、いつの間にか目の前にいるのも、最後にすぐ側にいるのも、定番だ。
「部活の先輩から聞いたんだもん。友達の話なんだって。そこまでは聞けないよ……それに」
かたん、と机と椅子が音を立てる。
内緒話のように声を潜めて、クラスメイトは囁いた。
「あの踏切で、起きたんだってさ。だからきっと本当にあったんだよ」
あの踏切。
何かあっただろうか。似たような怪談話が、この付近の踏切で。
「マジで?あの水じいさんの踏切なの?」
「マジ」
「呪われてるんじゃない?あたしたち、帰り道逆方向だからよかったよね」
「だよね」
くすくすと、怖がりながらもクラスメイトは笑う。
水。じいさん。踏切。声。
思い当たる記憶はない。だが一度気になってしまえば、もう微睡んでもいられない。
伏せていた体を起こす。まだ残る眠気を、頭を振って追い払う。
「あ、起きた」
「おはよ。まだ昼休み残ってるけど、どした?」
笑っていたクラスメイトが声をかける。
欠伸を噛み殺しながら、少しばかり恨みがましい目で彼女達を見つめた。
「隣で随分と楽しそうな話をしてるね。気になって眠れやしない……貴重な睡眠時間を削られたんだから、もちろん全部話してくれるんだよね?水じいさんの話も含めて」
ごめん、とまったく悪びれもせずに謝るクラスメイトに向き直り、早く話せと促した。
陽が落ちて、夜の暗がりが広がる静かな道で立ち止まる。この道を少し行った先に、踏切はある。
声は聞こえない。
子供の声も。老人の声も。
昼休みに聞いた二つの怪談は、とてもよく似ていた。
「まって」と姿の見えない子供の声がして、最後には姿を見せた子供に袖を引かれる。
「水」と遠くに見える人影と共に声がして、声と共に人影は近づく。そして最後にすぐ背後で声をかけられ、振り返ると無表情の老人に腕を掴まれる。
同じ言葉を繰り返し、最後に姿を現す子供と老人。今もここにいるのだろうか。
ゆっくりと歩き出す。声は聞こえない。
とても静かだ。まだ遅い時間ではないというのに、誰一人見当たらない。
「まって」
声がした。小さな、寂しそうな声。
立ち止まり、振り返る。だが姿は見えない。
辺りを見渡しながら、声をかけた。
「誰だ?」
「アラヤ」
思わず溜息を吐く。
声の聞こえた暗がりに視線を向ける。暗がりが揺らぎ、次第に小さな子供の姿を取って近づいてくる。
パジャマ姿の裸足の子供。こちらを見る目はどこか虚ろで、焦点が定まっていない。
「どこの子?」
「カワイ」
意味不明な答え。
覚束ない足取りで近づく子供は、虚ろな目をしながら笑う。縋るものを求めて彷徨う腕に、もう一度溜息が漏れた。
足早に子供に近づきながら、バッグの中からミネラルウォーターのボトルを取り出す。蓋を開くと、躊躇なく子供の頭に水をかけた。
「――ぁ、お水」
「何してんの。こんな街中で」
子供の目が焦点を結んでいく。顔を上げて水を受け止め、嬉しそうに声を上げて笑った。
背を丸めて全身に水を浴びようとするも、ボトルの水ではその一部しか濡らせない。四つ這いで水の当たる位置を調整するも物足りないのだろう。顔を上げてこちらを見上げ、そこで何かに気づき自身の手を見つめた。
「あ。そっか」
一人頷いて、目を閉じる。揺らぐ子供の姿が次第に小さく、四つ足の獣の姿に変わっていく。
獺《かわうそ》。水辺のないこの辺りでは、いないはずの生き物。
「ありがと、おねえちゃん」
「お礼はいいから、何でここにいるか説明して。盛大な迷子になった訳じゃないんでしょ?」
二本目のボトルを開けながら、獺に問いかける。
顔を上げて追加の水を待つ獺は、その問いに首を傾げてこちらに視線を向けた。
「おねえちゃんに会いにきたの。おねえちゃん、ぜんぜん帰ってこないから……春には帰るって、言ってたのに」
無垢な、それでいてどこか泣きそうな目で見られ、思わず目を逸らす。獺の頭に水をかけながら、小さくごめん、と謝った。
正月の帰省時に、次に帰るのは春頃だと告げてはいたものの、授業と課題が忙しく帰ってはいなかった。だがまさか、遠く離れたこの街まで来るとは。
実家に住む妖達の中で一等懐いていた獺の行動力を甘く見ていたようだ。
「でもだからって、来る事ないでしょうに。危なく獺の干物が出来上がる所だったじゃない」
「だって、会いたかったんだもん。こうして人間をおどろかしてたら、おねえちゃん、来てくれたし」
「いや、それ最後はもう、水が足りなくてふらふらしてただけのような」
最初の水と呼びかける老人の怪談も、この獺が化けたのだろう。ただ脅かすだけでなく、あわよくば水を求めて。
手のひらに水を注ぎ、獺に与えながら何度目かの溜息を吐く。
偶然耳にした怪談に興味を持たなければ、おそらく干上がっていたに違いないだろうに。何故こんなに危機感がないのだろう。
水を得て大分回復した獺を抱き上げながら、さてどうするかと途方に暮れる。
学校の長期休みは当分先だ。そして実家は電車を三本乗り継いだ先にある。
さて、どうするか。腕の中で微睡み始めた獺を見ながら考える。
何とか実家に帰ったとして、この様子ではおとなしく獺が離れていくとは思わない。最悪、そのまま実家に軟禁されて、学校を止めさせられるかもしれない。
痛み出す頭を抑えながら、何が最善かを考え。
「おねえちゃん、まって……おいてかないで」
「――まあ、なんとかなるか」
擦り寄る獺の頭を撫でて、考えるのを放棄した。
結局あれこれ考えた所で、なるようにしかならないのだ。
20250518 『まって』
5/19/2025, 3:02:43 AM