sairo

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5/15/2025, 10:02:40 AM

息苦しさに目が覚めた。
体が重い。頭がぼんやりとする。
閉じそうになる瞼をこじ開けて、辺りに視線を巡らせた。
暗い周囲は、夜目の利く狸の眼であっても見る事は出来そうにない。ただ頬に触れる冷たい土の感触と、僅かに香る花の匂いに、ここが外なのだと気づく。
ここはどこなのか。何故こんな所で倒れているのだろう。
霞む意識を必死に繋ぎ止めながら、記憶を辿る。
最後の記憶は自室の寝床の中。明日を楽しみに、眠ったはずだった。
どうして、と思いながら息を吸う。けれど一向に、息苦しさが消えてくれない。
なんで。どうして。
疑問が頭を過ぎていく。ずきずきと痛み出す頭が、早く息を吸えと急かす。
息を吸う。つかえたように、うまく酸素を取り込む事が出来ない。
ならばせめて息を吐き出さないと。喉を震わせながら、息を吐き出した。
苦しさは変わらない。息を吸って酸素を肺に届けていないのだから当然だ。そうは思うけれども、何度試しても息が上手に吸えなかった。
はっ、はっ、と浅い呼吸を繰り返す。四肢が細かく痙攣して、段々と意識が落ちていく。

歪む視界。踠く事も出来ない苦しさ。
諦めて、目を閉じる。

閉じようとした。

ひとつ、炎が灯る。
青白い小さな炎。ひとつのそれはふたつになって、ふたつがみっつになって。見ている前で数を増やし、燈を灯していく。
炎が燃えていられるのは、そこに酸素があるからだ。学校で習った事が頭を過ぎていく。
酸素があるならば、呼吸も出来る。そう思えば、少しだけ苦しさがなくなった。
息を吸う。やはり吸えない。何かにつかえてしまっている。
力なく目の前の炎を眺めていれば、緩やかに炎が揺らめいた。まるで道を開けるように炎は動き、その向こうから誰かがこちらへ歩いてくる。
霞む視界でその姿を見つめ、それが誰であるかに気づいて、びくりと体が震えた。

白い、狐。四本の尾を持つ、美しい神使。
遠く、届かないはずの存在。

音もなく静かに近づいて、金に煌めく眼に見下ろされる。
ゆっくりと息を吸った。やっぱり酸素は肺にまで届かない。
無言で見下ろす神使の顔が近づく。様子を伺うように匂いを嗅がれた。
顔が近づく。苦しさに、だらしなく開いた口元へ。
吸えない酸素を直接送り込むように。

神使の口が触れて、流れ込む吐息が肺を満たしていく。
息苦しさから解放されて、ほっとした気持ちで目を閉じた。




頭を撫でる手の感覚に、目を開けた。
暗闇。でも夜の闇だ。うっすらと見える景色が、ここがいつも彼女と過ごす秘密の場所だと教えている。

「起きたんだ」

静かな声。聞き馴染んだ彼女の声。

「ごめんね」

頭を撫でながら、彼女は言う。悲しいような、苦しいような、そんな気持ちを乗せて囁いた。

「ちょっと、傲慢になってた。秘密なんて全部分かると思ってたのに、全然分からなくてちょっと抑えきれなくなった……神使として永く在ったけど、こんな事初めてだ」

何を言っているんだろう。
聞きたいのに、声が出ない。体がとっても重くて怠い。

――もう息苦しくはないのに。

何故か、そう思った。

「いいよ、眠っても。もう一人でも息は吸えるでしょ?このまま寝て、起きたら苦しかった事なんて忘れられるよ」

促されて、頭を撫でていない手が目を覆う。見えない暗闇が、意識をぼんやりとさせていく。
今日の彼女は何だか変だ。大丈夫と声をかけたいのに、顔を見たいのに、体はまったく言う事を聞いてくれない。

「自分勝手だけどさ、やり直しをさせて?今日無理矢理覗き見た、君の大切な秘密。見た事すら忘れるから……ごめんなさい」

秘密。
あぁ、そうだ。一ヶ月秘密を守り通せたら、彼女の秘密を教えてもらうんだった。
でもまだ秘密は見つからない。彼女は何を見たのだろう。

「おやすみ。あと、おめでとう。君はきっといいお姉ちゃんになるよ」

意識が沈んでいく。
彼女の声が遠くなる。

「ちゃんと忘れるから……まだ、友達でいさせて」

暗闇の中。
真白い狐の耳を垂らし、四つの尾を力なく下げた彼女を見た気がした。





目を開けると、険しい顔をした父の膝の上にいた。

「――父様?」

こんなに鋭い目をした父は珍しい。
狸から人の姿になって父と向き合い、その頬を両手で包んでみる。

「どうしたの?なんでわたし、父様のお膝にいるの?」
「常盤《ときわ》」

静かに名を呼ばれて、肩が小さく震える。
背に回った父の腕に抱きしめられながら、いつもと違う空気に不安になった。
どうしたのだろう。もしかして母に、お腹の中の弟や妹たちに何かがあったのだろうか。

「父様――」
「しばらくは父様と一緒にいろ。学校にも行かなくていい」

あやすように背を叩く父に、不安だけが広がっていく。
しばらくとは、いつまでなのだろう。そのままずっと学校に行けなくなってしまったら、彼女に会える時間が減ってしまう。
それは嫌だ。絶対に。
父の腕の隙間を狙い、元の姿に戻って抜け出した。そのまま外へと駆け出そうとした体は、けれど同じように狸に戻った父の前足に押さえられてしまう。
暴れてみても、父の前足は外れない。さらに強く押さえられ、耐えきれず悲鳴のような鳴き声があがる。

「言う事を聞け。常盤」
「やだっ。だって」
「駄目だ。いくら神使だろうと、俺の可愛い娘を傷物にしようとするやつは許さない」

首の後ろを強めに噛まれる。悪い事をした時の、お仕置き。
それだけで父に怒られた昔の恐怖が浮かんで、動けなくなってしまう。

「いい子だ。常盤は父様の言う事を聞いていろ。あんな女狐といたら、いつか頭から喰われちまうぞ」

優しい声で囁いて、父は恐怖に逆立つ毛並みを舐めて整えていく。首や顔、特に口元を念入りに。
父が何を警戒しているのか。狐とは誰を言っているのか、何一つ分からない。
一瞬彼女の姿が思い浮かぶも、彼女は狐ではないはずだ。きっと別の誰かだろう。

「父様、くすぐったい」
「我慢しろ。ちゃんと匂いを消しとかないと、また連れて行かれるからな」

これは何を言っても聞いてはくれない。はぁ、と溜息を吐いて、体の力を抜いた。
本当に何があったのか。父の気の済むまで毛繕いをされながら考える。
目が覚める前に見ていた夢が関係しているのか。でももう何も思い出せない。
はぁ、と再び息を吐く。諦めて目を閉じて。


何故か無性に、彼女に会いたかった。



20250514 『酸素』

5/13/2025, 3:20:54 PM

雨上がりの午後。水たまりに向かい、彼女は決まって釣りをする。
細い木の棒と刺繍糸。そして折り紙で作った魚を餌に、水たまりに垂らして、何かが釣れるのを待っている。

「ねぇ。何でこんな所で釣りをしているの?」
「んー?だって、海があるから」

視線は水たまりに向けたまま、彼女は気のない答えを返す。
同じように視線を水たまりに向けてみる。
どんなに目を凝らして見つめても海は欠片も見えず、水たまりがあるだけだった。

「何が釣れるの?」
「いろいろ。いろいろで、たくさんで……でも外ればっかりな何か」

意味が分からない。何かとは、結局何なのか。

不意に、糸が引かれた。不規則に強く、弱く引く糸を、彼女は真剣な面持ちで見つめて。

「――よいっしょ、っと」

一瞬の鋭さを増す目とほぼ同時に、一気に釣り上げてしまった。
糸の先に、緑色の折り紙の魚はいない。代わりに色あせた布きれが、糸の端に絡まっていた。

「本当に釣れちゃった……」
「ん。でもまた外れだ」

まあ、確かに布きれである。水に濡れて色を濃くした布は、元が何であるのか最早推測する事すら不可能な程に、草臥れ擦り切れてしまっている。
がらくたではあるものの、釣れてしまった事には違いない。

「はい」

食い入るように見つめていたせいか、布に興味があると思われたらしい。器用に布を糸から離し、気のない声と共に差し出された。

「え?あ、うん」

反射的に受け取ってしまう。
内心でどうしようか悩みながら、布に視線を落として。

瞬間、音が掻き消えた。

一瞬の暗転の後、ふわりとした淡い光が、いくつも浮かび上がる。
軽快な音楽。談笑し、笑い合う声。
夜祭りだろうか。橙色の灯りに照らされた広場で、たくさんの人々が踊っていた。
格式張ってなどいない。皆それぞれに音楽に合わせて、思いのままに衣装を翻している。
色とりどりの、美しい衣装。その極彩色の渦が、目を灼いた。



「――あれ?」

目を瞬く。
今何か、視界を過ぎ去っていたような。
辺りを見渡しても、彼女がいる以外に誰もいない。不思議に思いながらも、彼女に視線を向けた。
今度は桃色の折り紙で作った魚を糸の端につけ、再び水たまりへと沈めていく。僅かに眉を寄せた彼女は、無言のまま。
彼女に聞いてみるべきだろうか。逡巡して、それでも気になる気持ちが大きく、あのね、と声をかけようとして。

また糸が引いた。

「――よっ、と」

躊躇いもせずに釣り上げる。糸の先に桃色の魚はない。
あるのは、欠けて割れた貝殻だけ。

「また外れだ」

ふぅ、と息を吐きながら、貝殻を外してはい、とまた手渡された。
やはり反射的に受け取って、どうしようかと悩む。
返すのは、失礼だろうか。だが欠けた貝殻など、がらくたでしかない。それなら返しても問題はないだろう。
そう思いながら手の中の貝殻をなぞり。視線を向けて。

風の音が、波の音へと成り代わった。

はっとして顔を上げる。視線の先で、貝殻を手にした少年が、迷うように視線を彷徨わせていた。
足下の砂を見て、貝殻を見る。ちらりと見えた貝殻の裏には、何か言葉が書き付けてあるようだった。
もう一度、足下を見て。少年は膝をつき、砂を掘り始める。
ある程度掘り進めると、手にしていた貝殻を、その穴へと落とした。
時間をかけて丁寧に砂をかけ。貝殻が見えない程に埋めると、少年は立ち上がり急いでその場を離れた。

しばらくその場で立ち尽くしていれば、今度は少女が歩いてくる。何かを探すように周囲を見ながら少女は進む。そして先ほど少年が貝殻を埋めた場所まで来ると、一度周りをぐるりと見渡して、足下へと視線を落とした。
ゆっくりと膝をつき、砂に手を差し入れる。丁寧に砂を掘り進め、露わになった貝殻を取り出した。
軽く砂を払い、裏に書き付けてある文字を読む。次第に頬が赤く染まり、読み終えたらしい少女は貝殻を胸に抱いて、嬉しそうに微笑んだ。
あぁ、あれは恋文だったのか。
どこかふわふわした気持ちで、少女につられて微笑んだ。



「今日も駄目かな。外ればっかりだ」

溜息と共に吐き出された言葉に、肩を震わせて彼女を見た。
彼女の手の中。糸の端が巻き付いたガラスの欠片が、鈍く色を落としていた。

「はい。これもいいよ」
「え。でも」

差し出されて、受け取るべきかを戸惑う。
彼女が釣り上げたものを受け取る度に、何かの記憶が過ぎていく気がする。
楽しくて、甘くて。そしてとても切ない感情が、胸を締め付けているような。
受け取るのが怖い。けれど早く受け取りたい。
正反対の気持ちに悩んでいれば、彼女は首を傾げてガラスを持っていない方の手を伸ばす。戸惑う私の手を取って、その上にガラスを乗せた。

暗転。暗闇。
閃光が、割れたガラス窓越しに突き刺さる。ひび割れた壁の隙間から、悲鳴や怒声、泣き叫ぶ声が響いてくる。
何が起こったのか分からない。
突然の事だった。いつものように一日を過ごし、そして一日の終わりに床について。
微睡む意識を覚醒させた、何かの爆発音。
衝撃で窓ガラスは割れ、閃光と音がする度に、壁のひびが広がり崩れていく。
何が起こったのだろう。一体、何が。
混乱し、部屋の片隅で蹲る。他の皆はどうしたのか。確かめに動く勇気はどこにもなかった。
今までより、一番強い閃光。ほぼ同時に轟音と衝撃が襲い。

暗転する。



とさり、と膝をついて、詰めていた息を吐き出した。
何か、怖いものを見た。優しくも甘くもない、暗く冷たい何かを。
体が震え出す。意味も分からないままに涙が溢れて、嗚咽が漏れる。

「ありゃ。もしかして、全部食べちゃったの?」

僅かに驚きを乗せた彼女の声の方へと視線を向けた。涙越しでは、滲んで彼女の表情が見えない。
食べた、と言われて手元に視線を移す。滲む視界でも、手には何もないのが見えて、手に何も触れない事に気づいて、さらに涙が込み上げる。

「よしよし。怖くないからね。なぁんにも、怖くない」

側に寄る彼女が手を伸ばし、頬を包む。優しく涙を拭われて、それでも後から後から零れ落ちる涙は、止まる事を知らずに彼女の手を濡らす。
困ったねぇと、彼女はまったく困った様子も見せずに呟いた。

「いいものを釣ってあげるから、少しだけ待っててよ」

両手を離し、頭を一撫でしてから、彼女は水たまりへと向き直った。
滲む視界で、海のような青が揺らぐ。きっと折り紙の魚なのだろう。糸に取り付けて、水たまりへと沈めていく。

「大丈夫だから、待っててね」

歌うように囁きながら、彼女は水たまりに垂らした糸を見る。糸が引いたのかすぐに釣り上げ、糸に絡んだ何かを取ると、こちらを向いて差し出した。

「外れのような、当たりのような……ま、とにかくどうぞ」

涙越しで見えないそれを、形を分からせるように握らせる。丸い形。見えない色彩は、透明だからだろうか。
目を閉じる。遠くなる彼女の声はどこか懐かしく、とても痛かった。



気づけば、砂浜を歩いていた。
空を見上げる。星も見えない暗い夜空が、ゆらりと揺らいでいた。
違和感を感じて、目を細める。揺らぎの隙間に光を探して、ようやく気づく。
僅かに降り注ぐ光は、星や月ではない。

あれは陽の光。遙か遠い、水面越しの陽の光が、この底まで届いているのだ。
足下に視線を落とす。ゆっくりと視線を上げて、周囲を見渡した。
砂と岩。少し離れた場所で灯る火と、聞こえる軽快な音楽に合わせて笑ういくつもの声。
もう一度、空を――水面を見上げ、泣くように笑う。
どうして忘れていたのだろう。

ここは、海の底だ。



「かえりたい」

小さく呟いた。切実に願っていた。

「――そっちになっちゃったか……あぁ、うん。そうだよね。記憶が定着しちゃったんだから、そう思うのは仕方ないね」

もう一度頬を包まれて、涙を拭われる。
困ったような、面白がるような声音。彼女は何を言いたいのか。
何も分からない。もう気にもならない。
今は、只管にかえりたかった。

「此方側に戻すために記憶の海を渡したのに、それすら食べて受け入れるとは思わなかった……随分と飢えていたんだねぇ」
「かえりたい」
「うん。かえりたいか。そうだよね」

うんうんと頷いて。彼女は頬を包んだまま、額を合わせ笑う。
滲む視界でも見える、彼女の眼の中に海を見て、願うようにかえりたいと繰り返した。

「そうだねぇ……釣り上げるのは、そろそろ止めてもいい頃合いかもね」

囁いて、彼女の両手が頬を滑り、首から肩、肩から腕へと降りていく。そうして手に触れると、そのまま指を絡めて手を強く繋いだ。

「かえろっか。一緒に」

手を引かれ、立ち上がる。
手を繋いだ彼女は、後ろへと下がり、繋がれた私は前へと進む。そうして水たまりの縁へと足をかけた彼女は、笑いながらごめんね、と呟いた。
何を謝っているのか。気にしないでと首を振りかけて。
ふと疑問が込み上げ、口を開く。

「何を、釣りたかったの?」

小さな呟きに、彼女は海を宿した眼を煌めかせて。

「故郷」

くすくす笑って、強く手を引く。
彼女へと倒れ込む。その勢いのままに彼女の体が後ろへと傾いでいく。
思わず閉じた瞼に、柔らかな熱が触れて、繋いだ手に力が込もる。

「痛くて怖い記憶は捨ててもいいよ。その分の隙間に、また適当な記憶を釣り上げて渡してあげるからさ……あぁ、いや。底まで降りるから、手づかみでいっか」

足が地から離れる。一瞬の浮遊感の後、感じるのは肌に纏わり付く水の感覚。
ゆっくりと落ちていく。どこまでも深く、海の底へ。

「本当にごめんね。そして――おかえり」

優しい彼女の声に目を開ける。
微笑んで彼女に擦り寄り、応えた。

「ただいま」





雨上がりの午後。
水たまりに向かい、釣りをする彼女の姿は、もうどこにもない。

水たまりは、もう海にはならず。
ただ、空の青を映している。

彼女はもういない。
故郷を地上に釣り上げる事を諦めた彼女は、傷だらけの寂しい少女を連れて――。

静かで優しい、記憶の海へと還っていった。


20250513 『記憶の海』

5/12/2025, 2:05:11 PM

潮騒が反響する海蝕洞の奥に、その祠はある。
真新しい、木で作られた祠は、ごく最近に作られた事を示していた。
その祠を、一人の少女が見つめている。閉じた扉の奥を見透かすように、静かな目がただ一点に向けられていた。

「おや。お嬢ちゃんもお参りかい?」

不意にかけられた言葉に、少女はゆっくりと振り向いた。
海蝕洞の入口から、老婆が一人歩み寄る。杖をつき、ゆったりとした足取りで祠に向かう老婆に譲るように、少女は数歩壁際に寄った。

「あぁ、ありがとうね……もしかして、お嬢ちゃんがこの祠をつくってくれたのかい?」
「違うわ。わたしじゃない」

老婆の問いかけに少女は首を振る。
そうかい、とどこか残念そうに老婆は呟いて、祠の前へ歩み寄る。持っていた袋から陶器の小皿とお猪口を祠の前へ置くと、そこへ塩を盛り、御神酒を注いだ。

「これだけで申し訳ありませんが、どうぞお上がり下さい」

深く礼をして、老婆は祈る。その様を静かに見つめながら、少女は声を出さずにありがとう、と呟いた。

「誰がつくってくれたのだろうね。もうあの村を知るのはいないと思っていたんだが……ありがたい事だ」
「誰かしら。でもきっと優しい人だわ」

老婆の呟きに、少女は僅かに微笑む。少女の言葉に、そうだねぇ、と同意して、老婆は眩しそうに祠を見つめた。

「――お嬢ちゃんは知っているかい?ここには昔村があって、海の神様をお祀りしていたんだよ」
「知っているわ」

昔を懐かしむような、哀愁を含みながらも静かな言葉。それに頷いて、少女は眉間に皺を寄せる。

「お祀りをしなくなったら神様が怒って、村を沈めてしまったのでしょう?……噂になっているわ。ここには海の祟りにあった村人の亡霊が出て、見つかったら海に引き摺り込まれてしまうんですって」

ふん、と鼻を鳴らし、少女は肩を竦める。その眼に浮かぶのは少しの怒りと、寂しさだけだ。そんな少女を見て、老婆もまた、哀しげに笑う。

「そんな事ないのにね。だって今まで誰も気づいてくれなかったじゃない。気づいてくれたのは一人だけよ。ただ一人……わたしの大切な青で、綺麗な海を描いてくれた、君だけ」

微かな呟きは、老婆には届かなかったのだろう。
何か言ったか尋ねる老婆に何もないと首を振り、不機嫌そうにしながらも、少女は真っ直ぐに老婆を見つめた。

「この祠がある限り、海は応えてくれる。でも忘れてしまったら……返してもらうために、海はまたすべてを沈めるわ」
「それは……お嬢ちゃんは、一体……?」

老婆の困惑した疑問に、少女は答えずに歩き出す。
海蝕洞の外。海へと向かって。

「もうかえるわ。わたしの大切なものは帰ってきたもの」

少女は静かに海へと還っていく。
その姿を言葉なく見送って、老婆は深く礼をした。





「この前は、本当にありがとう。あれから体調不良を訴えていた生徒達もすっかりよくなって……なんてお礼を言ったらいいか」
「大げさですよ。先生」

電話口の向こうで、嬉しそうに頭を下げているだろう恩師を思い浮かべ、燈里《あかり》は口元を綻ばせた。
あの海での儀礼から、一月が経とうとしている。
何度も感謝を述べる恩師から話を聞けば、もうすっかり学校は日常を取り戻しているようだ。
ただ二人を除いては。

ジュウを受け取り、一度はジュウとなった生徒、門廻藍留《せとあいる》。
そしてその叔父であり、儀礼を執り行うために藍留の依坐《よりまし》となった門廻丹司《あきかず》。
二人は意識こそは回復したものの、藍留は音と青の色彩を、丹司は声を失い、学校へは戻れなかったという。

「あとね。これは生徒達の噂でしかないのだけれど」

そう言って、恩師は僅かに声を潜めた。

「夕暮れ時にね、美術室に一人でいると潮騒が聞こえるそうなのよ。それに潮の匂いがすると美術室の片隅に、海を描いた油絵が現れるのですって」

あくまで噂だと言いながら、やはり気になるのだろう。恩師の声音には、困惑と不安が浮かんでいる。

「海の、油絵……」

海。そして油絵の単語に、燈里は密かに眉を寄せる。
脳裏を過ぎるのは、あの海での儀礼の際、塗り潰された青の下から現れた海の絵の事だ。
僅かに擡げた不安に、詳細を尋ねようと燈里は口を開きかけ。
だが言葉が溢れるより速く、背後から伸びた大きな手が、燈里の視界を塞いだ。
小さく肩を震わせて、燈里は静かに口を噤む。急な沈黙に恩師が声をかければ、燈里はのろのろと口を開き、大丈夫です、と答えた。

「ただの噂ですよ。美術室であんな事があったんですから、仕方がない事です。噂なんて、気にしない方がいいですよ」

どこか機械的な口調でそれだけを告げ、それでは失礼します、と恩師の返答も待たずに燈里は話を切り上げた。
後ろから伸びた手が燈里の持つスマホを奪い、電話を終了させる。奪われたままの体制から動かず、再び沈黙する燈里を抱き寄せて、冬玄《かずとら》はくつり、と喉を震わせた。

「もうあれに関わるな。他の人間らが噂話としてジュウ擬きを作り上げようが、それは自業自得だ。その結果がどうなろうと、関係ない」

燈里の耳元に唇を寄せて、冬玄は囁く。

「いいか、燈里。俺は他の人間なんてどうでもいいんだ。ただお前だけが無事であれば、それでいい。だからいい子に出来るよな?」

緩慢な動作で頷く燈里に満足そうに頷いて、冬玄は燈里のこめかみに唇を触れさせると、視界を塞ぐ手をどけた。
虚ろな瞳が、ゆるりと瞬く。次第に光を取り戻し、燈里は首を傾げて背後の冬玄を振り返った。

「――冬玄?」
「飯、出来てるぞ。立ったまま寝そうになるくらいなら、飯を食ってから布団に入れ」

にやりと笑う冬玄に、燈里の頬に朱がはしる。ばか、と小さな文句を受け流しながら、冬玄は燈里を促し居間へと向かった。



「遅いよ、お姉ちゃん」

居間に入った瞬間に聞こえた声と姿に、燈里は硬直する。
聞いた事のある声。そしてその姿。

「――何でいやがる」

背後の険しさを浮かべた冬玄の声すらも気にかける余裕はない。それほどに頬を膨らませて席に着く子供の姿に、燈里は記憶を揺さぶられていた。
面を着けていないが、間違えるはずもない。幾度となく夢の中で出会い、助言をくれていた、あの小さな妖。

「あなたは……」

どうして、と尋ねようとした声は、近づいてきた子供に手を取られた事で途切れる。

「お姉ちゃん。早くご飯食べようよ」

小首を傾げて、子供は燈里と視線を合わせる。僅かに光を失った目をして、燈里は小さく頷いた。

「っ、おい」

冬玄の声にも反応を見せず、燈里は手を引かれるままに席へと向かう。促されて席に着く燈里の姿に、子供はふふ、と微笑んだ。

「優しい子。君の中で忘れられるのを待とうと思ったけど、止めた。そこの哀れな守り神擬きに隠されるのは、流石に可哀想だ。それに君の優しさが、消えるだけだった僕を掬い上げてくれたのだから、代わりに守ってあげるよ――ただ君だけを」

そう言って、険しい顔をした冬玄に、にやりと笑ってみせる。さらに険を帯びる目をする冬玄に、きゃあ、と声を上げて燈里に抱きついた。

「お姉ちゃん。あいつが怖い顔をしているよ。きっと僕が邪魔なんだ」

大げさに怖がってみせれば、燈里の手が子供の頭を撫でる。
そんな事はないよ、と困ったように、だが優しく燈里は微笑んだ。

「だって楓《かえで》は私の大切な妹なんだから。たった二人だけの姉妹なのに、冬玄がそんな酷い事を想う訳ないでしょう?」

そう言って、背後の冬玄を振り返る。
柔らかに笑む燈里の目に絶対的な信頼を見て、冬玄は渋い顔をしながらも、そうだな、と呟いた。



柔らかな日差しの差し込む、午後の頃。
冬玄に凭れ、穏やかな寝息を立てて眠る燈里は気づかない。

「まったく……燈里の望みは人間として共に生きる事だったろうに」

はぁ、と呆れて、子供――楓は息を吐く。
言外に、燈里の意識に干渉した事を責めているのだろう。言葉こそは穏やかだが、その目は鋭く冬玄を射抜く。

「あれは仮巫《かんなぎ》の娘を引き戻した対価だ」

何も問題はないと呟きつつも、冬玄はさりげなく視線を逸らす。
言い訳でしかない事を、正しく理解しているのだ。ジュウに対してひとつを帰し、余剰分となるひとつを戻す。道理に従い引き戻した行為は、そこで完結している。その他が入り込む隙はない。

「あれが最後だ。あとは燈里が飽きるまで、人間ごっこに付き合うさ」
「だいぶ歪んでるねえ」

目を細め、楓はくすくす笑う。
まあいいか、と呟いて、部屋の外へ向かい歩き出す。

「君みたいな堕ちかけが隣にいると、逆に冷静になれていいね……どうぞご自由に。足を踏み外したら、そのまま堕ちる前には止めてあげるから」
「そりゃ、どうも」

気のない冬玄の返事を振り返りもせずに聞きながら、楓は部屋を出る。
そのまま玄関まで向かい、静かに外へ出た。
晴れ渡る空を仰ぎ、その青に海の青を重ね見て。

「おかしいな。祭の真似事をしてた妖が、祭の元の妖の世話を焼くなんて」

普通は逆じゃないかと、誰にでもなく呟いて。

「仕方ないか。燈里は優しい、いい子だからね」

仕方ない、仕方ないと繰り返して、一人笑った。

潮騒が聞こえる。海の声が響き渡る。
それは悲しみの詩《うた》であり、喜びの祈り。

音はどこまでも広がり、反響する。
広がる音は、やがて潮の香りを纏い返る。

潮騒が聞こえる。黄昏を潮の香りが満たしていく。

誰もいない美術室の隅。
キャンバスに描かれた海が、穏やかに揺らめいた。



20250512 『ただ君だけ』

5/11/2025, 2:04:24 PM

船が沖へと進んでいく。それをただ見つめていた。

風の凪いだ夜。静かな海を人影を乗せた船が、音もなく進む。大人や子供も皆、船に乗り込んで行ってしまった。
船を見送りながら、砂浜に一人座っている。何かを忘れているような気もするが、ぼんやりした意識は思考する事を望まない。
そんな事も、たまにはあるだろう。気にする事を止めて、沖を行く船を見る。船はしばらく進んだ後、ゆらり、と揺らめいた。
その場を旋回し、やがて止まる。
そして帰る場所を見つけたように、静かに海へと沈んでいった。

「あの船は常世《とこよ》に行くんだよ」

いつの間にか隣にいた、面をつけた子供が言う。

「新しい目覚めのために、眠りにつくんだ……これで、送り出しが終わったね」
「あれは、ジュウ?」

気になって尋ねる。海から来たものが海へと還る。不思議な光景が、目に焼き付いて離れない。

「ジュウかもね。燈里《あかり》がジュウを命だと認識したから、海に溶けていたいくつもの命が形を持って沈んでいくんだよ。これは燈里の夢なんだから」
「――夢」

そうか。夢なのか。
沖へと沈む船に見た、人影を懐かしいと思うのは、ここが夢であり、記憶の底にいるからなのか。
隣を見る。面を着けた子供。けれどその面は以前見たふくよかな笑みを湛えた男のそれではない。
翁面。懐かしくも怖ろしい、あの悪夢の祭を象徴する面だった。

「あなたも夢?忘れたはずなのに」

その問いに、子供――妖は肩を竦めてみせる。

「忘れてなんかないよ。忘れなければいけない、と思う事と、忘れたいでは大きく違うでしょう」

首を傾げる。言葉の違いだけで、意味はさほど変わらないだろう。ふたつに何の違いがあるのか分からない。

「忘れたいと望むのではなく、忘れると断定するでもない。忘れなければいけないと義務感だけでは、そこに隙間が生じるんだよ」

妖は手を伸ばし、頭を撫でる。幼い子供にするかのような優しい手つきが、どこか落ち着かない。

「優しい子。彼のため、そして他でもない僕のために忘れようとしてくれたんだね。でも本心では忘れたくなかった……そうでしょう?」

小さく頷いた。
頷いて、思い出す。祭の事。選ばれた子供の事。彼の事。
忘れたくはなかった。震えるほどの恐怖を味わった。逃げたいと、終わらせたいと思っていた。
それでも忘れたくなかったのは、選ばれた子供の事を、導いてくれていた先生《彼》の事を忘れたくなかったからだ。
夢だからだろうか。今ははっきりと思い出せる。
選ばれたのだと最後まで信じて、面に呑まれてしまった子。あの子はどこへ行ったのだろうか。

「忘れたくなかった。忘れられない気持ちが一欠片でもあれば、それが隙間を作る。その隙間がある限り、燈里の記憶の片隅に僕は存在し続ける」
「――ごめんなさい」

あの日。祭を終わらせた後、妖は忘れろと言った。忘れない優しさは、妖にとっては毒なのだと。
結局忘れられずに妖を苦しめている事に、自分の不甲斐なさを感じて俯いた。

「本当に優しい子だね。大丈夫だよ。待つのは嫌いじゃない。待っててあげるから」

さらに頭を撫でられて、怖ず怖ずと顔を上げる。面越しの柔らかい目に見つめられ、だがそれは次の瞬間には鋭さを増した。

「それよりも、問題は彼の事だよ」

彼。冬玄《かずとら》の事だろう。
自分の婚約者。いや、違う。彼は婚約者ではなく。

「家族が皆いなくなった時、一度だけ彼に望んだね?」

問いかけの形を取りながらも断定する妖の言葉に、力なく頷く。
そうだ。あの葬儀のすべてが終わった一人の夜に、寂しさに耐えきれなくて、彼に望んだのだ。

――一人は寂しい。一緒にいて。

だから彼は――“トウゲン様”は“冬玄”として、側にいてくれるようになった。自分が望んだからそれに応えて、守り神でありながら、婚約者の真似事をしてくれていたのだ。

「いつまでもこのままという訳にもいかないよ。彼は宮代《みやしろ》という血筋を守るのではなく、燈里を守る事に執着しだしているから。それが続けば、次に燈里になにかあった時……彼は完全に堕ちてしまうだろう」

息を呑む。何かを言いかけ開いた口からは、掠れた吐息しか漏れずに、諦めて口を噤んだ。

「大丈夫だよ」

妖は言う。頭から手を離して、代わりに手を取られる。促されて立ち上がった。

「目が覚めたら、改めて望むんだ。神として祀り直すか、人として側にいるか。中途半端だから、彼も欲張るんだよ。守りたいし、誰にも渡したくない。だから望んで、彼をどちらかに定めてあげないと……決められるでしょう?」

最初から答えは知っている、という口ぶりだった。
頷く。その二つであるならば、自分にも決められる。

「さあ、行っておいで。後悔のないようにね」

背中を押されて歩き出す。
海ではなく、陸へ。

目覚めるために。





「起きたのか」

暖かな温もりと、鼻腔を擽る蝋梅の香り。
愛しい腕に抱かれ、眠っていた事に燈里は気づく。
辺りはまだ暗い。朝はまだ遠いのだろう。

「ねえ――」

冬玄、と言いかけて、止める。瞳を覗き込む冬玄に燈里は微笑んで、懐かしい言葉を口にした。

「先生」

それは燈里にとっての北の星。導きの星の名だった。

「思い出したのか」

静かな声だった。諦めのような、何も感じていないような、静謐の声音。
それに頷いて、燈里は腕を伸ばす。冬玄の首に抱きついて、甘えるように擦り寄った。

「燈里」
「ねえ、先生。お願いがあるの」

小さく囁いた。まるで内緒話でもするかのように、燈里は冬玄と目を合わせた。

「何でも言っていいぞ。望めば応えてやるから」

燈里の髪を撫ぜ、冬玄は微笑む。どこか嬉しそうに、寂しそうに。続く燈里の言葉を待った。

「先生。この先、私がおばあちゃんになっても、そして終を迎えたとしても……ずっと側にいて下さい。もしも海で終わるなら一緒の船に乗って。陸で終わるなら手を繋いで歩いて……最期まで、私と生きてほしい」

燈里の望みに、冬玄は息を呑む。ゆっくりと目を瞬き、泣くように目を細めて、燈里の額に唇を触れさせた。
それが冬玄の応えだ。

「先生……冬玄、大好き」

さらに強く冬玄に抱きついた。頬に触れ、燈里は自分の手越しに口付ける。

「――まったく。そこで恥ずかしがるな」

呆れたような、それでも楽しそうな冬玄の目から燈里は視線を逸らす。
頬が赤い。恥ずかしいのか、離れていこうとする燈里の体を、許さないとばかりに冬玄は引き寄せて。

「俺も、好きだ」

燈里が口付けた手を取り、見せつけるように唇を触れさせた。



20250511 『未来への船』

5/11/2025, 2:42:17 AM

木漏れ日の下。美しく咲き誇る藤の花をスケッチブックに描いていた。
静かだ。何の音も聞こえない。風が葉を揺らす音も、鉛筆を走らせる音も。
不意に顔を上げる。変わらず音は聞こえない。辺りを見渡しても、何もない。
僅かな違和感に首を傾げる。スケッチブックに視線を落として、さらに困惑した。
スケッチブックの中の、藤の花。繊細なその線は、はたして自分のものだっただろうか。
そもそも森の景色より、海を描く事の方が好きではなかったか。大切なあの人のために、海を。
もう一度顔を上げる。やはり音は聞こえない。視線を巡らせて、後ろを振り返った。

「――っ」

彼がいた。少し困ったように眉を下げている。
何かあっただろうか。込み上げる不安に無言でいれば、彼は徐に口を開いた。
何も聞こえない。唇が言葉を形作っているのが見えているはずであるのに、声が聞こえない。
哀しげに微笑み、聞こえない言葉を紡ぐ事を止めた彼が背を向けた。
歩き出す。音もなく、去ってしまう。
胸の痛みと苦しさに眉が寄る。急ぎ立ち上がり、駆け出して。
追いすがるように手を伸ばした。



木漏れ日の下。スケッチブックに無心で絵を描く彼女を見つけ、笑みが浮かぶ。
今度は何を描いているのだろう。自由で力強い彼女の絵を思い、足音を立てぬよう静かに彼女に近づいていく。
不意に足を止めた。どこか違和感を感じて、周りを見渡した。
何も可笑しな所はない。木と草花と、土と風。けれど何かが違う。
絵を描く彼女に声をかけるのではなく、絵を描いている時に彼女に声をかけられるのが、正しいのではないか。その方が、何故かしっくりくる。しっくりくるのに、今のこの立ち位置では、彼女に声をかけるのが正しい。
不思議な違和感を感じながら、とりあえずは声をかけてみようと歩き出す。彼女ならば、何か知っているのかもしれない。
一度顔を上げた彼女は、またスケッチブックを見ている。こちらに気づく様子はない。
気づいてもらうために、彼女の名前を呼んだ。
はずだった。

「――っ」

呼んだはずの声は、音にはならない。掠れた息だけが溢れて落ちていく。
喉をさする。もう一度彼女の名前を呼んでも、やはり声は出なかった。
何かに気づいたのか、彼女がゆっくりとこちらに振り向いた。
驚いたように目を見開いて、不安そうな表情をする彼女に、何かを言わなければと口を開いた。
声は出ない。でも何故か、とても伝えたい気持ちがあった。

――ありがとう。

声が出ないのだから、聞こえないのは当然だ。けれどそれを知らない彼女は、益々不安そうだ。伝える事を諦めて、小さく笑う。
そろそろ戻らないといけない。何故かそう思い、彼女に背を向けて歩き出す。
スケッチブックの落ちる音。慌てて立ち上がって、こちらに走り寄ってくる足音。
待って、と近くで声が聞こえて。

視界が一瞬で、暗い群青に染まった。



気がつけば、海の中。
懐かしい夢を見ていた気がする。昔の、まだ絵を描く前の夢。
不思議な夢だった。彼が私だった夢。とても可笑しな、優しい森の中の思い出。
流れに身を任せながら、遠い水面を見上げた。届かなく成ってしまったあの森を、彼は覚えているだろうか。
静かだ。いつもの責める声も、時々響く深みからの鳴く声も、何も聞こえない。
流れが変わる。ほんの小さな、何かが近くにきた時の流れ。いつもは気にしないその流れの変化が気になって、視線を向けた。



海の中を、流れのままに揺蕩っている。
恐怖はない。どこへ向かうのか不安も、何もない。凪いだ感情が、すべてを受け入れている。
逆らわず身を任せながら、進む先に視線を向ける。ただの気まぐれ。何かを期待した訳ではなかった。
目を瞬く。視線の先、同じように海を漂う彼女がいた。
彼女もこちらに気づいたらしい。驚き目を見張る彼女に、その名を呼ぼうと口を開いた。
声は出ない。海の中にいるのだから当然か。それでもと、唇が彼女の名を形作る。

――藍留《あいる》。

彼女が手を伸ばす。それに応えるために同じように手を伸ばし。

手が触れ合い、離れぬようにと強く繋いだ。



「先生」

声が聞こえた。それとも呼んだのは自分だったのか。

「藍留」

応える声は、どちらのものか。
目の前にいるのは自分か、相手なのか。

触れ合う手から溶け合うように、思考が混じり合う。自分の視点が相手の視点で、相手の声は自分の声だった。
ねえ、と彼/彼女が囁く。なに、と彼/彼女が応え。

「かえろうか」

願うように言葉を紡ぎ、どちらともなく目を閉じた。

海の中。揺蕩い、微睡み。意識を沈め。
自分達はひとつなのだと。
閉じた瞼の裏。
確かに、そう思った。





目が覚めた。
一つ息を吐き、藍留はゆっくりと体を起こす。
カーテン越しの外は暗い。ベッドサイドのデジタル時計を確認すれば、丁度日付が変わる時間帯であった。

「先生」

小さく呟いて、少し迷う素振りを見せた後。藍留は音を立てぬよう、慎重にベッドから抜け出した。
素足で触れる床の冷たさが、意識を鮮明にさせる。軽く頭を振って僅かに残る眠気を振り払うと、隣のベッドへと近づいた。

「先生」

昏々と眠り続ける丹司《あきかず》を見下ろして、藍留は項垂れるようにベッド脇の丸椅子へと腰掛けた。
とても静かだ。耳を澄ませど物音一つ、眠る丹司の寝息や彼の命を繋ぐ機械の音すらも聞こえない。藍留の世界からは、完全に音が失われている。

藍留の記憶は曖昧だ。
目覚めてから、藍留の中でいくつもの記憶が流れ過ぎていく。流れ漂う記憶が折り重なり、複雑に絡み合ってどれが自身の記憶であるのか、藍留にはもう分からない。
明確に覚えているのは、海の記憶。絵を描くために海を求めていた。
まだ描いた事のない海に向かい電車に揺られ、辿り着いた無人駅。導かれるように海を目指し、気づけば砂浜に降り立っていた。
いつもと同じ。ただ、いつもと異なるのは、そこで拾い物をした事だ。
青い、海のそれと同じ色をした石。常ならば決して持ち帰る事はしない。特に石は。記憶を宿す器だと、幼い頃に聞いた怪談が、藍留の記憶の底に染みついて、何年も経った今でも忘れた事はなかった。
だというのに石を持ち帰り、砕いて顔料とした。その顔料を用いて海を描いた。

石は大切なものだった。遠い異国で働く父からもらった、綺麗な青い石。巾着に入れて常に持ち歩いていた。
あの日もそうだ。父に会いに行くため、母と船に乗り込んだ。はっきりとは思い出せないが、父と共に暮らすためだったようにも思う。
嵐の夜だった。昼間は穏やかだった海が激しく船を揺らし、母にしがみついて嵐が過ぎ去るのを待っていた。

海は怖ろしいものだ。深く底の見えない恐怖が、海を視界に入れる度に、自身を苛み苦しめる。
幼い頃に何かがあったという訳でないはずだ。一度両親に聞いた際に、この恐れは物心がつく前からだと知らされた。
しかし、同時にこうも教えられた。
曰く、自身には祝部《はふりべ》の血が流れており、最後の祝部として生きた高祖父は、海に呑まれたのだ、と。
一夜にして村は海となり、それを曾祖母が見ていた。その記憶が血を介して、恐怖として刻まれているのだろう。そう言って、哀しく微笑い頭を撫でてくれたのは、兄だっただろうか。
兄は常に優しかった。一回りも年が離れているせいだろうか。喧嘩などほとんど記憶にはない。あったとしても、幼い自分の我が儘を兄が宥め、時に叱る。それだけだ。
兄は大人になり、医者となった。結婚し、子供も生まれ、小さいながらに病院を持つようになった。
常に忙しい兄らに代わり兄の子の面倒を見るようになったのは、兄に憧れていたという理由が大きい。幾分か年の近い兄の子。妹が出来たようで、兄のようになれた気がして嬉しかったのだ。
だから妹のために――。

頬を撫でる風に、はっとして顔を上げた。
どうやらまた記憶に呑まれていたらしい。目覚めてから、藍留はこうして込み上げる記憶に呑まれる事が多々あった。
両親の病院で目覚めた日。藍留はいくつかを失っていた。
聴覚。そして青の色彩。目に映る青は、どれも色を宿してはいない。壁に掛けられた絵画や窓から見える景色。どれだけ探しても、青だけは見つける事が出来なかった。
丹司もそうだ。眠ったまま、目覚めない。
藍留のために危険な事をしたのだと、音を失った藍留に筆談で父は教えてくれた。海に攫われた藍留を助けて、そのまま意識が戻らないらしい。
藍留が目覚めたのは、助け出されてから七日後の事。それから十日が経つが、丹司はまだ目覚めない。

「あきにぃ」

幼い頃の呼び名で、丹司を呼ぶ。
僅かに開いた窓から、吹き抜ける風がカーテンを揺らし、眠る丹司の伸びた髪を揺らした。
徐に手を伸ばす。僅かに乱れた髪を直そうと、藍留の指先が丹司の頬に触れた。

かちこち、と時計の音。
風がそっと窓を叩く。
規則的な機械の音。

肩を震わせ、手を離す。
一つ息を吐いて、耳を澄ませた。
何も聞こえない。けれど確かに、音が聞こえていた。
胸元に寄せた手を見つめる。握り開いて、突然の事に呆然としながら、もう一度、丹司へと視線を移して。

――目が、あった。

「あきにぃ?」

呼びかければ、丹司は目を細め、淡く微笑んだ。じわりと滲み出す藍留の視界に映る丹司が微かに唇を動かしていく。
声は聞こえない。
驚くように口を閉ざす丹司の様子から、藍留が聞こえていないのではなく、丹司の声が出ないのだと気づいた。

「あきにぃ。声が、出ないの?」

頷く丹司に、藍留は目を伏せて、零れ落ちる涙を隠す。目覚めたばかりなのだから、それは一時的なものだろう。そう思い込もうとするが、思考はこのまま丹司は声をなくして生きていくのだろうと囁いている。
込み上げる哀しさと苦しさに、いっそ泣き叫びたい気持ちに藍留は必死で耐える。未来への不安に、俯いたままでいれば、視界の隅に動く何かを見て、藍留は視線を向けた。
布団の端から、丹司の手が出ていた。痩せた指が、緩慢に布団から外へと出て、藍留へと伸ばされる。
そして動けないでいる藍留の、固く握り締めた手に、そっと触れた。

「――あ」

音が溢れる。
その瞬間に、藍留は理解した。

「あきにぃ。私ね、夢を見たの。静かな森の中で、藤の花を描いてしているの。あきにぃじゃなくて、私が」

夢の光景を思い出しながら、藍留は丹司の手を両手包み込む。

「あきにぃが私で、私があきにぃだった。あの森で藤を描いていたのは、あきにぃだったはずで。その姿を見ていたのは私で……私は何も聞こえなくて。きっとあきにぃは声が出なかった」
「あ、いる」

掠れた丹司の声が、藍留を呼ぶ。声が出た事に目を見張る丹司に微笑んで、藍留はさらに続ける。

「それから海の中にいた。そこではたくさんがひとつで、ひとつがたくさんだった。やっぱり何も聞こえなくて、あきにぃは声が出なかった」
「――知って、る。私も、見ていた……私達も、二人だけどひとつだった」

そう言って、丹司は体を起こす。ふらつく体に藍留は片手を離して支え、寄り添う。
体制が変わり、流れ落ちなくなったのだろう。点滴のアラームが鳴る。

「あきにぃ。私たち、きっと一人じゃ今までのように生きていけない。私はもう音が聞こえないし、青も見えないの。やりたい事も、夢も何もかも。たくさん諦めなきゃいけなくなる」
「そうだな。きっと、元には戻れない」
「でも、二人で一緒に生きていく事は出来る……ひとつだけ、あきにぃとずっと一緒にいたいって、その夢は叶えられるから」

外が騒がしい。アラームを聞きつけて、看護師達が集まってきている。

「私が、藍留をおろしたせいだ……すまない」

悲しみに顔を歪めて謝罪する丹司に、藍留は首を振って否定する。
丹司が藍留をその身におろさなければ、藍留は海を漂ったままだった。海から呼び戻され、還る間際にひとつの奇跡が起きて、藍留はここにいる。
まだ人として、生きていけるのだ。

部屋に入ってきた看護師が、寄り添う二人を見て慌てて医師を呼びに行く。後から入ってきた看護師の母が電気をつけて、その眩しさに藍留は目を細める。
点滴の確認と、丹司への体調の確認と。
母の邪魔にならぬように藍留は丸椅子に座り直すが、丹司と繋いだ手はそのままだ。
賑やかになった病室内の音が、逆に心地好い。訪れる睡魔に頭が揺れる。
ベッドに戻らなければと思いはすれど、藍留は繋いだ手を離す事が出来なかった。
微睡む意識で、ふと誰かの言葉を思い出す。

――ささやかな夢でも見続けていろ。

確かに、と藍留は声に出さずに笑う。ひとつだけ許されたのは、ささやかな夢だ。二人で共に生きる事。ささやかでありながら何よりも尊い夢に、藍留はありがとう、と誰かに呟いた。
父が入ってくる。一瞬だけ、泣くように顔を歪め、すぐに戻るのは医師としての誇りからだろうか。
久しぶりに聞く父と母の声、それに答える丹司の声を聞きながら、藍留はぼんやりと丹司を見つめる。
視線に気づいた丹司が、藍留を見つめ。

その眼の中に、藍留は深い海の青――一人では見る事が叶わない群青を見つけた。



20250510 『静かなる森へ』

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