息苦しさに目が覚めた。
体が重い。頭がぼんやりとする。
閉じそうになる瞼をこじ開けて、辺りに視線を巡らせた。
暗い周囲は、夜目の利く狸の眼であっても見る事は出来そうにない。ただ頬に触れる冷たい土の感触と、僅かに香る花の匂いに、ここが外なのだと気づく。
ここはどこなのか。何故こんな所で倒れているのだろう。
霞む意識を必死に繋ぎ止めながら、記憶を辿る。
最後の記憶は自室の寝床の中。明日を楽しみに、眠ったはずだった。
どうして、と思いながら息を吸う。けれど一向に、息苦しさが消えてくれない。
なんで。どうして。
疑問が頭を過ぎていく。ずきずきと痛み出す頭が、早く息を吸えと急かす。
息を吸う。つかえたように、うまく酸素を取り込む事が出来ない。
ならばせめて息を吐き出さないと。喉を震わせながら、息を吐き出した。
苦しさは変わらない。息を吸って酸素を肺に届けていないのだから当然だ。そうは思うけれども、何度試しても息が上手に吸えなかった。
はっ、はっ、と浅い呼吸を繰り返す。四肢が細かく痙攣して、段々と意識が落ちていく。
歪む視界。踠く事も出来ない苦しさ。
諦めて、目を閉じる。
閉じようとした。
ひとつ、炎が灯る。
青白い小さな炎。ひとつのそれはふたつになって、ふたつがみっつになって。見ている前で数を増やし、燈を灯していく。
炎が燃えていられるのは、そこに酸素があるからだ。学校で習った事が頭を過ぎていく。
酸素があるならば、呼吸も出来る。そう思えば、少しだけ苦しさがなくなった。
息を吸う。やはり吸えない。何かにつかえてしまっている。
力なく目の前の炎を眺めていれば、緩やかに炎が揺らめいた。まるで道を開けるように炎は動き、その向こうから誰かがこちらへ歩いてくる。
霞む視界でその姿を見つめ、それが誰であるかに気づいて、びくりと体が震えた。
白い、狐。四本の尾を持つ、美しい神使。
遠く、届かないはずの存在。
音もなく静かに近づいて、金に煌めく眼に見下ろされる。
ゆっくりと息を吸った。やっぱり酸素は肺にまで届かない。
無言で見下ろす神使の顔が近づく。様子を伺うように匂いを嗅がれた。
顔が近づく。苦しさに、だらしなく開いた口元へ。
吸えない酸素を直接送り込むように。
神使の口が触れて、流れ込む吐息が肺を満たしていく。
息苦しさから解放されて、ほっとした気持ちで目を閉じた。
頭を撫でる手の感覚に、目を開けた。
暗闇。でも夜の闇だ。うっすらと見える景色が、ここがいつも彼女と過ごす秘密の場所だと教えている。
「起きたんだ」
静かな声。聞き馴染んだ彼女の声。
「ごめんね」
頭を撫でながら、彼女は言う。悲しいような、苦しいような、そんな気持ちを乗せて囁いた。
「ちょっと、傲慢になってた。秘密なんて全部分かると思ってたのに、全然分からなくてちょっと抑えきれなくなった……神使として永く在ったけど、こんな事初めてだ」
何を言っているんだろう。
聞きたいのに、声が出ない。体がとっても重くて怠い。
――もう息苦しくはないのに。
何故か、そう思った。
「いいよ、眠っても。もう一人でも息は吸えるでしょ?このまま寝て、起きたら苦しかった事なんて忘れられるよ」
促されて、頭を撫でていない手が目を覆う。見えない暗闇が、意識をぼんやりとさせていく。
今日の彼女は何だか変だ。大丈夫と声をかけたいのに、顔を見たいのに、体はまったく言う事を聞いてくれない。
「自分勝手だけどさ、やり直しをさせて?今日無理矢理覗き見た、君の大切な秘密。見た事すら忘れるから……ごめんなさい」
秘密。
あぁ、そうだ。一ヶ月秘密を守り通せたら、彼女の秘密を教えてもらうんだった。
でもまだ秘密は見つからない。彼女は何を見たのだろう。
「おやすみ。あと、おめでとう。君はきっといいお姉ちゃんになるよ」
意識が沈んでいく。
彼女の声が遠くなる。
「ちゃんと忘れるから……まだ、友達でいさせて」
暗闇の中。
真白い狐の耳を垂らし、四つの尾を力なく下げた彼女を見た気がした。
目を開けると、険しい顔をした父の膝の上にいた。
「――父様?」
こんなに鋭い目をした父は珍しい。
狸から人の姿になって父と向き合い、その頬を両手で包んでみる。
「どうしたの?なんでわたし、父様のお膝にいるの?」
「常盤《ときわ》」
静かに名を呼ばれて、肩が小さく震える。
背に回った父の腕に抱きしめられながら、いつもと違う空気に不安になった。
どうしたのだろう。もしかして母に、お腹の中の弟や妹たちに何かがあったのだろうか。
「父様――」
「しばらくは父様と一緒にいろ。学校にも行かなくていい」
あやすように背を叩く父に、不安だけが広がっていく。
しばらくとは、いつまでなのだろう。そのままずっと学校に行けなくなってしまったら、彼女に会える時間が減ってしまう。
それは嫌だ。絶対に。
父の腕の隙間を狙い、元の姿に戻って抜け出した。そのまま外へと駆け出そうとした体は、けれど同じように狸に戻った父の前足に押さえられてしまう。
暴れてみても、父の前足は外れない。さらに強く押さえられ、耐えきれず悲鳴のような鳴き声があがる。
「言う事を聞け。常盤」
「やだっ。だって」
「駄目だ。いくら神使だろうと、俺の可愛い娘を傷物にしようとするやつは許さない」
首の後ろを強めに噛まれる。悪い事をした時の、お仕置き。
それだけで父に怒られた昔の恐怖が浮かんで、動けなくなってしまう。
「いい子だ。常盤は父様の言う事を聞いていろ。あんな女狐といたら、いつか頭から喰われちまうぞ」
優しい声で囁いて、父は恐怖に逆立つ毛並みを舐めて整えていく。首や顔、特に口元を念入りに。
父が何を警戒しているのか。狐とは誰を言っているのか、何一つ分からない。
一瞬彼女の姿が思い浮かぶも、彼女は狐ではないはずだ。きっと別の誰かだろう。
「父様、くすぐったい」
「我慢しろ。ちゃんと匂いを消しとかないと、また連れて行かれるからな」
これは何を言っても聞いてはくれない。はぁ、と溜息を吐いて、体の力を抜いた。
本当に何があったのか。父の気の済むまで毛繕いをされながら考える。
目が覚める前に見ていた夢が関係しているのか。でももう何も思い出せない。
はぁ、と再び息を吐く。諦めて目を閉じて。
何故か無性に、彼女に会いたかった。
20250514 『酸素』
5/15/2025, 10:02:40 AM