sairo

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船が沖へと進んでいく。それをただ見つめていた。

風の凪いだ夜。静かな海を人影を乗せた船が、音もなく進む。大人や子供も皆、船に乗り込んで行ってしまった。
船を見送りながら、砂浜に一人座っている。何かを忘れているような気もするが、ぼんやりした意識は思考する事を望まない。
そんな事も、たまにはあるだろう。気にする事を止めて、沖を行く船を見る。船はしばらく進んだ後、ゆらり、と揺らめいた。
その場を旋回し、やがて止まる。
そして帰る場所を見つけたように、静かに海へと沈んでいった。

「あの船は常世《とこよ》に行くんだよ」

いつの間にか隣にいた、面をつけた子供が言う。

「新しい目覚めのために、眠りにつくんだ……これで、送り出しが終わったね」
「あれは、ジュウ?」

気になって尋ねる。海から来たものが海へと還る。不思議な光景が、目に焼き付いて離れない。

「ジュウかもね。燈里《あかり》がジュウを命だと認識したから、海に溶けていたいくつもの命が形を持って沈んでいくんだよ。これは燈里の夢なんだから」
「――夢」

そうか。夢なのか。
沖へと沈む船に見た、人影を懐かしいと思うのは、ここが夢であり、記憶の底にいるからなのか。
隣を見る。面を着けた子供。けれどその面は以前見たふくよかな笑みを湛えた男のそれではない。
翁面。懐かしくも怖ろしい、あの悪夢の祭を象徴する面だった。

「あなたも夢?忘れたはずなのに」

その問いに、子供――妖は肩を竦めてみせる。

「忘れてなんかないよ。忘れなければいけない、と思う事と、忘れたいでは大きく違うでしょう」

首を傾げる。言葉の違いだけで、意味はさほど変わらないだろう。ふたつに何の違いがあるのか分からない。

「忘れたいと望むのではなく、忘れると断定するでもない。忘れなければいけないと義務感だけでは、そこに隙間が生じるんだよ」

妖は手を伸ばし、頭を撫でる。幼い子供にするかのような優しい手つきが、どこか落ち着かない。

「優しい子。彼のため、そして他でもない僕のために忘れようとしてくれたんだね。でも本心では忘れたくなかった……そうでしょう?」

小さく頷いた。
頷いて、思い出す。祭の事。選ばれた子供の事。彼の事。
忘れたくはなかった。震えるほどの恐怖を味わった。逃げたいと、終わらせたいと思っていた。
それでも忘れたくなかったのは、選ばれた子供の事を、導いてくれていた先生《彼》の事を忘れたくなかったからだ。
夢だからだろうか。今ははっきりと思い出せる。
選ばれたのだと最後まで信じて、面に呑まれてしまった子。あの子はどこへ行ったのだろうか。

「忘れたくなかった。忘れられない気持ちが一欠片でもあれば、それが隙間を作る。その隙間がある限り、燈里の記憶の片隅に僕は存在し続ける」
「――ごめんなさい」

あの日。祭を終わらせた後、妖は忘れろと言った。忘れない優しさは、妖にとっては毒なのだと。
結局忘れられずに妖を苦しめている事に、自分の不甲斐なさを感じて俯いた。

「本当に優しい子だね。大丈夫だよ。待つのは嫌いじゃない。待っててあげるから」

さらに頭を撫でられて、怖ず怖ずと顔を上げる。面越しの柔らかい目に見つめられ、だがそれは次の瞬間には鋭さを増した。

「それよりも、問題は彼の事だよ」

彼。冬玄《かずとら》の事だろう。
自分の婚約者。いや、違う。彼は婚約者ではなく。

「家族が皆いなくなった時、一度だけ彼に望んだね?」

問いかけの形を取りながらも断定する妖の言葉に、力なく頷く。
そうだ。あの葬儀のすべてが終わった一人の夜に、寂しさに耐えきれなくて、彼に望んだのだ。

――一人は寂しい。一緒にいて。

だから彼は――“トウゲン様”は“冬玄”として、側にいてくれるようになった。自分が望んだからそれに応えて、守り神でありながら、婚約者の真似事をしてくれていたのだ。

「いつまでもこのままという訳にもいかないよ。彼は宮代《みやしろ》という血筋を守るのではなく、燈里を守る事に執着しだしているから。それが続けば、次に燈里になにかあった時……彼は完全に堕ちてしまうだろう」

息を呑む。何かを言いかけ開いた口からは、掠れた吐息しか漏れずに、諦めて口を噤んだ。

「大丈夫だよ」

妖は言う。頭から手を離して、代わりに手を取られる。促されて立ち上がった。

「目が覚めたら、改めて望むんだ。神として祀り直すか、人として側にいるか。中途半端だから、彼も欲張るんだよ。守りたいし、誰にも渡したくない。だから望んで、彼をどちらかに定めてあげないと……決められるでしょう?」

最初から答えは知っている、という口ぶりだった。
頷く。その二つであるならば、自分にも決められる。

「さあ、行っておいで。後悔のないようにね」

背中を押されて歩き出す。
海ではなく、陸へ。

目覚めるために。





「起きたのか」

暖かな温もりと、鼻腔を擽る蝋梅の香り。
愛しい腕に抱かれ、眠っていた事に燈里は気づく。
辺りはまだ暗い。朝はまだ遠いのだろう。

「ねえ――」

冬玄、と言いかけて、止める。瞳を覗き込む冬玄に燈里は微笑んで、懐かしい言葉を口にした。

「先生」

それは燈里にとっての北の星。導きの星の名だった。

「思い出したのか」

静かな声だった。諦めのような、何も感じていないような、静謐の声音。
それに頷いて、燈里は腕を伸ばす。冬玄の首に抱きついて、甘えるように擦り寄った。

「燈里」
「ねえ、先生。お願いがあるの」

小さく囁いた。まるで内緒話でもするかのように、燈里は冬玄と目を合わせた。

「何でも言っていいぞ。望めば応えてやるから」

燈里の髪を撫ぜ、冬玄は微笑む。どこか嬉しそうに、寂しそうに。続く燈里の言葉を待った。

「先生。この先、私がおばあちゃんになっても、そして終を迎えたとしても……ずっと側にいて下さい。もしも海で終わるなら一緒の船に乗って。陸で終わるなら手を繋いで歩いて……最期まで、私と生きてほしい」

燈里の望みに、冬玄は息を呑む。ゆっくりと目を瞬き、泣くように目を細めて、燈里の額に唇を触れさせた。
それが冬玄の応えだ。

「先生……冬玄、大好き」

さらに強く冬玄に抱きついた。頬に触れ、燈里は自分の手越しに口付ける。

「――まったく。そこで恥ずかしがるな」

呆れたような、それでも楽しそうな冬玄の目から燈里は視線を逸らす。
頬が赤い。恥ずかしいのか、離れていこうとする燈里の体を、許さないとばかりに冬玄は引き寄せて。

「俺も、好きだ」

燈里が口付けた手を取り、見せつけるように唇を触れさせた。



20250511 『未来への船』

5/11/2025, 2:04:24 PM