sairo

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雨上がりの午後。水たまりに向かい、彼女は決まって釣りをする。
細い木の棒と刺繍糸。そして折り紙で作った魚を餌に、水たまりに垂らして、何かが釣れるのを待っている。

「ねぇ。何でこんな所で釣りをしているの?」
「んー?だって、海があるから」

視線は水たまりに向けたまま、彼女は気のない答えを返す。
同じように視線を水たまりに向けてみる。
どんなに目を凝らして見つめても海は欠片も見えず、水たまりがあるだけだった。

「何が釣れるの?」
「いろいろ。いろいろで、たくさんで……でも外ればっかりな何か」

意味が分からない。何かとは、結局何なのか。

不意に、糸が引かれた。不規則に強く、弱く引く糸を、彼女は真剣な面持ちで見つめて。

「――よいっしょ、っと」

一瞬の鋭さを増す目とほぼ同時に、一気に釣り上げてしまった。
糸の先に、緑色の折り紙の魚はいない。代わりに色あせた布きれが、糸の端に絡まっていた。

「本当に釣れちゃった……」
「ん。でもまた外れだ」

まあ、確かに布きれである。水に濡れて色を濃くした布は、元が何であるのか最早推測する事すら不可能な程に、草臥れ擦り切れてしまっている。
がらくたではあるものの、釣れてしまった事には違いない。

「はい」

食い入るように見つめていたせいか、布に興味があると思われたらしい。器用に布を糸から離し、気のない声と共に差し出された。

「え?あ、うん」

反射的に受け取ってしまう。
内心でどうしようか悩みながら、布に視線を落として。

瞬間、音が掻き消えた。

一瞬の暗転の後、ふわりとした淡い光が、いくつも浮かび上がる。
軽快な音楽。談笑し、笑い合う声。
夜祭りだろうか。橙色の灯りに照らされた広場で、たくさんの人々が踊っていた。
格式張ってなどいない。皆それぞれに音楽に合わせて、思いのままに衣装を翻している。
色とりどりの、美しい衣装。その極彩色の渦が、目を灼いた。



「――あれ?」

目を瞬く。
今何か、視界を過ぎ去っていたような。
辺りを見渡しても、彼女がいる以外に誰もいない。不思議に思いながらも、彼女に視線を向けた。
今度は桃色の折り紙で作った魚を糸の端につけ、再び水たまりへと沈めていく。僅かに眉を寄せた彼女は、無言のまま。
彼女に聞いてみるべきだろうか。逡巡して、それでも気になる気持ちが大きく、あのね、と声をかけようとして。

また糸が引いた。

「――よっ、と」

躊躇いもせずに釣り上げる。糸の先に桃色の魚はない。
あるのは、欠けて割れた貝殻だけ。

「また外れだ」

ふぅ、と息を吐きながら、貝殻を外してはい、とまた手渡された。
やはり反射的に受け取って、どうしようかと悩む。
返すのは、失礼だろうか。だが欠けた貝殻など、がらくたでしかない。それなら返しても問題はないだろう。
そう思いながら手の中の貝殻をなぞり。視線を向けて。

風の音が、波の音へと成り代わった。

はっとして顔を上げる。視線の先で、貝殻を手にした少年が、迷うように視線を彷徨わせていた。
足下の砂を見て、貝殻を見る。ちらりと見えた貝殻の裏には、何か言葉が書き付けてあるようだった。
もう一度、足下を見て。少年は膝をつき、砂を掘り始める。
ある程度掘り進めると、手にしていた貝殻を、その穴へと落とした。
時間をかけて丁寧に砂をかけ。貝殻が見えない程に埋めると、少年は立ち上がり急いでその場を離れた。

しばらくその場で立ち尽くしていれば、今度は少女が歩いてくる。何かを探すように周囲を見ながら少女は進む。そして先ほど少年が貝殻を埋めた場所まで来ると、一度周りをぐるりと見渡して、足下へと視線を落とした。
ゆっくりと膝をつき、砂に手を差し入れる。丁寧に砂を掘り進め、露わになった貝殻を取り出した。
軽く砂を払い、裏に書き付けてある文字を読む。次第に頬が赤く染まり、読み終えたらしい少女は貝殻を胸に抱いて、嬉しそうに微笑んだ。
あぁ、あれは恋文だったのか。
どこかふわふわした気持ちで、少女につられて微笑んだ。



「今日も駄目かな。外ればっかりだ」

溜息と共に吐き出された言葉に、肩を震わせて彼女を見た。
彼女の手の中。糸の端が巻き付いたガラスの欠片が、鈍く色を落としていた。

「はい。これもいいよ」
「え。でも」

差し出されて、受け取るべきかを戸惑う。
彼女が釣り上げたものを受け取る度に、何かの記憶が過ぎていく気がする。
楽しくて、甘くて。そしてとても切ない感情が、胸を締め付けているような。
受け取るのが怖い。けれど早く受け取りたい。
正反対の気持ちに悩んでいれば、彼女は首を傾げてガラスを持っていない方の手を伸ばす。戸惑う私の手を取って、その上にガラスを乗せた。

暗転。暗闇。
閃光が、割れたガラス窓越しに突き刺さる。ひび割れた壁の隙間から、悲鳴や怒声、泣き叫ぶ声が響いてくる。
何が起こったのか分からない。
突然の事だった。いつものように一日を過ごし、そして一日の終わりに床について。
微睡む意識を覚醒させた、何かの爆発音。
衝撃で窓ガラスは割れ、閃光と音がする度に、壁のひびが広がり崩れていく。
何が起こったのだろう。一体、何が。
混乱し、部屋の片隅で蹲る。他の皆はどうしたのか。確かめに動く勇気はどこにもなかった。
今までより、一番強い閃光。ほぼ同時に轟音と衝撃が襲い。

暗転する。



とさり、と膝をついて、詰めていた息を吐き出した。
何か、怖いものを見た。優しくも甘くもない、暗く冷たい何かを。
体が震え出す。意味も分からないままに涙が溢れて、嗚咽が漏れる。

「ありゃ。もしかして、全部食べちゃったの?」

僅かに驚きを乗せた彼女の声の方へと視線を向けた。涙越しでは、滲んで彼女の表情が見えない。
食べた、と言われて手元に視線を移す。滲む視界でも、手には何もないのが見えて、手に何も触れない事に気づいて、さらに涙が込み上げる。

「よしよし。怖くないからね。なぁんにも、怖くない」

側に寄る彼女が手を伸ばし、頬を包む。優しく涙を拭われて、それでも後から後から零れ落ちる涙は、止まる事を知らずに彼女の手を濡らす。
困ったねぇと、彼女はまったく困った様子も見せずに呟いた。

「いいものを釣ってあげるから、少しだけ待っててよ」

両手を離し、頭を一撫でしてから、彼女は水たまりへと向き直った。
滲む視界で、海のような青が揺らぐ。きっと折り紙の魚なのだろう。糸に取り付けて、水たまりへと沈めていく。

「大丈夫だから、待っててね」

歌うように囁きながら、彼女は水たまりに垂らした糸を見る。糸が引いたのかすぐに釣り上げ、糸に絡んだ何かを取ると、こちらを向いて差し出した。

「外れのような、当たりのような……ま、とにかくどうぞ」

涙越しで見えないそれを、形を分からせるように握らせる。丸い形。見えない色彩は、透明だからだろうか。
目を閉じる。遠くなる彼女の声はどこか懐かしく、とても痛かった。



気づけば、砂浜を歩いていた。
空を見上げる。星も見えない暗い夜空が、ゆらりと揺らいでいた。
違和感を感じて、目を細める。揺らぎの隙間に光を探して、ようやく気づく。
僅かに降り注ぐ光は、星や月ではない。

あれは陽の光。遙か遠い、水面越しの陽の光が、この底まで届いているのだ。
足下に視線を落とす。ゆっくりと視線を上げて、周囲を見渡した。
砂と岩。少し離れた場所で灯る火と、聞こえる軽快な音楽に合わせて笑ういくつもの声。
もう一度、空を――水面を見上げ、泣くように笑う。
どうして忘れていたのだろう。

ここは、海の底だ。



「かえりたい」

小さく呟いた。切実に願っていた。

「――そっちになっちゃったか……あぁ、うん。そうだよね。記憶が定着しちゃったんだから、そう思うのは仕方ないね」

もう一度頬を包まれて、涙を拭われる。
困ったような、面白がるような声音。彼女は何を言いたいのか。
何も分からない。もう気にもならない。
今は、只管にかえりたかった。

「此方側に戻すために記憶の海を渡したのに、それすら食べて受け入れるとは思わなかった……随分と飢えていたんだねぇ」
「かえりたい」
「うん。かえりたいか。そうだよね」

うんうんと頷いて。彼女は頬を包んだまま、額を合わせ笑う。
滲む視界でも見える、彼女の眼の中に海を見て、願うようにかえりたいと繰り返した。

「そうだねぇ……釣り上げるのは、そろそろ止めてもいい頃合いかもね」

囁いて、彼女の両手が頬を滑り、首から肩、肩から腕へと降りていく。そうして手に触れると、そのまま指を絡めて手を強く繋いだ。

「かえろっか。一緒に」

手を引かれ、立ち上がる。
手を繋いだ彼女は、後ろへと下がり、繋がれた私は前へと進む。そうして水たまりの縁へと足をかけた彼女は、笑いながらごめんね、と呟いた。
何を謝っているのか。気にしないでと首を振りかけて・
ふと疑問が込み上げ、口を開く。

「何を、釣りたかったの?」

小さな呟きに、彼女は海を宿した眼を煌めかせて。

「故郷」

くすくす笑って、強く手を引く。
彼女へと倒れ込む。その勢いのままに彼女の体が後ろへと傾いでいく。
思わず閉じた瞼に、柔らかな熱が触れて、繋いだ手に力が込もる。

「痛くて怖い記憶は捨ててもいいよ。その分の隙間に、また適当な記憶を釣り上げて渡してあげるからさ……あぁ、いや。底まで降りるから、手づかみでいっか」

足が地から離れる。一瞬の浮遊感の後、感じるのは肌に纏わり付く水の感覚。
ゆっくりと落ちていく。どこまでも深く、海の底へ。

「本当にごめんね。そして――おかえり」

優しい彼女の声に目を開ける。
微笑んで彼女に擦り寄り、応えた。

「ただいま」





雨上がりの午後。
水たまりに向かい、釣りをする彼女の姿は、もうどこにもない。

水たまりは、もう海にはならず。
ただ、空の青を映している。

彼女はもういない。
故郷を地上に釣り上げる事を諦めた彼女は、傷だらけの寂しい少女を連れて――。

静かで優しい、記憶の海へと還っていった。


20250513 『記憶の海』

5/13/2025, 3:20:54 PM